【ネタバレ】『地球外少年少女』解説・考察:「異」あるいは「外」の内在化が拡張するわたしの世界

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですねアニメ『地球外少年少女』についてお話していきます。

ナガ
当ブログ管理人が今年最も楽しみにしていた磯光雄監督の最新作です!

当ブログ管理人はオールタイムベストアニメTOP10を作るのであれば、必ず『電脳コイル』を入れるくらいに磯光雄監督の作る世界観や物語が大好きでした。

『電脳コイル』は、少年少女を主人公に据えて、彼らが未知の世界に触れ、成長と変化を経験するという王道のプロットでありながら、そこにテクノロジーや民俗、教育的な視座が合わさった独特なまさに唯一無二のアニメ作品です。

そして、今回の『地球外少年少女』でも、プロットの軸を成す「少年少女が未知の世界に触れて成長する」という部分は継承されました。

その上で、舞台を宇宙に変え、テクノロジー、教育、宗教、環境問題など前作以上に多様な視点を持ち込み、唯一無二のSF作品に仕上がっているのです。

監督は、今作について「宇宙を舞台にしたアニメをあまり見かけなくなり、自分で作ってしまおうと思いました。宇宙はすでにSFに登場する遠いイメージではなく、実際に行ける場所になりつつある。そんな環境に投げ込まれた少年たちが体験する冒険を、実際に行ってみてきたような感覚で描いてみたい」と語っています。

私たちにとってあくまでも「未知の世界」だった宇宙というものが、近年身近なものになりつつあるのは事実です。

まだ一部の富裕層に限られてはいますが、民間人が宇宙旅行をすることも可能になり、先日は実業家の前澤友作さんが宇宙ステーションに滞在したことでも話題になりました。

宇宙旅行のコストが下がり、もっと多くの民間人が宇宙を旅する日がいつかやって来るのではないかという期待も持たせてくれる出来事でしたね。

私たちの世界は絶えず変化しているわけですが、変化というのは単に自分の世界の内にあるものが変わっていくだけではなく、自分の外の世界にあるものを取り込んで拡張していくことでもあるのだと思います。

つまり、人工知能も宇宙もいつかは私たちの「外の世界」にあるものではなく、自分たちの世界の内側にあるものとなるわけで、そうなったときに、私たち自身がどう変化するのかが問われることになるのです。

この『地球外少年少女』という作品は、私たちが遠くない未来に経験するであろうそうしたパラダイムシフトについての予言の書的な側面を持っているとも言えます。

今回の記事では、『電脳コイル』とも関連づけながら、監督がなぜ少年少女と未知の世界の関わりを描き続けるのかを自分なりに考えてみたいと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『地球外少年少女』解説・考察(ネタバレあり)

磯光雄監督は2007年に発表した『電脳コイル』で国内外から高い評価を受け、同作は今も多くのファンに愛されています。

「電脳メガネ」を用いることで、現実世界に電脳世界を重ねられるようになった時代を生きる子どもたちにスポットを当てた同作。

SFめいた設定の一方で、物語の中心にはオカルトや民俗が深く関わっており、電脳世界の中にはアップデートされていない「古い空間」があるとされ、そこから「あっちの世界」に繋がっているという世界構造が提示されます。

また、電脳世界で死んだ人間は、肉体を現実世界に残したままで、「あっちの世界」に魂が取り残されてしまうといったオカルトも劇中世界に流布していました。

子どもたちは好奇心に従って、電脳世界を旅する中で、こうしたオカルトめいた逸話や「あっちの世界」という異世界が実在していることを知ります。

「異」や「外」だと思っていたものが、突然自分たちの世界の中に、日常の中に介入してくることに伴う戸惑い。少年少女はそれにどう立ち向かい、どう成長するのか。

2022年に発表された『地球外少年少女』でも、こうした磯光雄監督の描きたいものの根幹は変わっていないような気がしました。

ここからは、磯光雄監督がなぜ少年少女の物語を通じて、「異」や「外」の内在化を描こうと試みるのかを考えていきたいと思います。

 

神話からオカルト、陰謀論へ

日本の神話とのリンク、死と「あの世」

日本には、古来より「あの世」という考え方があるわけですが、これは一般的に死後の世界を指して用いられる言葉です。

古くは『古事記』に描かれた日本の神話に登場する「黄泉の国」であり、イザナギがイザナミを取り戻そうとこの「黄泉の国」を訪れます。

しかし、「黄泉の国」にいるイザナミの姿は腐敗して変わり果てており、そんな姿に恐れおののいたイザナギは彼女から逃げて、高天原へと戻って来るのでした。

「黄泉の国」ないし「あの世」が存在するのかどうかを確認することはできませんが、古来よりこうしたある種の異世界に対する恐怖が日本人の中には宿っていたことが伺えます。

磯監督が『電脳コイル』で描いた異世界ないし今回の『地球外少年少女』におけるセブンの領域において「死」を強く紐づけてあったのは、こうした神話の影響なのでしょう。

 

オカルトと超現実的なものによる矛盾の肯定

そして、次に「オカルト」ですね。

1979年(昭和54年)に学習研究社から発表され、子どもたちの間で大きな話題となった雑誌『ムー』が日本のオカルトブームの火付け役だと言われています。

そこからバラエティー番組や映画などによりブームは広がりを見せ、1990年代後半にはノストラダムスの大予言なんてものが大いに注目されたりもしましたね。

ナガ
こうしたオカルトの類は、基本的に非科学的なものが多かったわけですが、なぜ当時こんなにも流行したのでしょうか?

これについては「現実の矛盾を受け入れ可能にする」機能と「矛盾を再生産する」構造が存在していると指摘した論文があります。

先ほど挙げた「ノストラダムスの大予言」を例にとって考えてみましょう。

日本ではバブル崩壊に伴う経済危機があり、世界では核戦争の危機があり、さらには地球規模の環境問題に対する不安に満ちていました。

こうした社会情勢は紛れもない現実であるわけですが、それに対して一部の人たちが「終末論」を提唱し始めます。

この「終末論」そのものには何の科学的根拠もないわけで、現実とは矛盾するものに他なりません。

しかし、「終末論」を信じている人は、そうした「矛盾」を突きつけられた時に、それを認めるのではなく、「矛盾」を再生産することで、それを現実のものだと思い込もうとするわけです。

ただ、現実世界における「矛盾」を現実世界に存在するもので解消することはできませんから、当然その根拠は超現実的なものに求められることになりますよね。

だからこそ、日本に満ちていた「終末論」ブームとそれを信じる人たちにとって、1973年に発売された『ノストラダムスの大予言』は自分たちの「矛盾」を肯定してくれる「超現実的な根拠」になり得たわけです。

私たちは短い生涯の中で、この世界の全てを知ることはできませんし、それ故に観測しうる範囲においては多くの空白や矛盾を抱えたまま生きることになります。

そして、それを突き詰めて解明しようとするのが「科学」であり、それらを超現実的なものの存在によって埋めたり、解消しようとするのが「オカルト」なのです。

『電脳コイル』では、有名な「トイレの花子さん」の話にインスパイアされたであろう典型的な「オカルト」が登場するわけですが、物語の冒頭時点において、それは現実世界で起きる不可解な現象についての「超現実的な根拠」に過ぎません。

しかし、主人公たちが電脳世界を探索するにつれて、その空白や矛盾が埋まっていき、「オカルト」の類だと思われていた存在が実は現実に存在するものであることが明らかになります。

これは「超現実的なもの」が他でもない「私たちの現実」の一部として矛盾なく組み込まれ、世界が拡張された瞬間を描いたと言っても過言ではないでしょう。

つまり『電脳コイル』という作品には、そうした私たちの世界の「外」にある「異」なるものを自分たちの世界に内在化していこうというベクトルがあることが伺えるのです。

そして、『地球外少年少女』では、その次の段階として「陰謀論」にスポットを当てているように見えました。

 

世界を理性の支配下に置く行為としての「陰謀論」

(C)MITSUO ISO/avex pictures・地球外少年少女製作委員会

さらに、近年は「オカルト」に次いで「陰謀論」なるものが注目されています。

「陰謀論=conspiracy theory」という言葉を初期に用いたとされるオーストリア出身のイギリスの哲学者、カール・ポパーは陰謀論について次のように考えていたとされます。

「陰謀論」とは、世俗化によって失われた神の場を「陰謀」によって埋めるものだ。何か容易に呑み込めない出来事に原因や意味を求めるとき、それを説明してくれるのは、かつては「神の意志」だった。世俗化とは、社会の近代化とともに宗教の影響力が衰退していくことをいうが、それに伴って神は世俗的事象の説明概念としては不適当となった。

 代わってその座についたのが、何か強力な人間による計画、つまり陰謀、ということである。現在も流通する、ユダヤ人、フリーメーソン、イルミナティを主役とする陰謀論は、そのような近代への移行期―フランス革命前後のヨーロッパ―で成長した。それらは近代化の過程を、宗教的・社会的秩序を崩壊させるための、邪悪な陰謀集団の計画である、と主張したのである。

読売新聞オンライン「陰謀論とは何か そのメカニズムと対処法」より)

「陰謀論」は「オカルト」と非常に似た性質があり、私たちの世界において説明できないことや矛盾していることを、何か大きなものの存在によって説明したり、埋めようとする行為だと説明されています。

そして、その大きなものの存在がかつては「神」や「宗教」であったのに対して、近年はそれらが「陰謀」にすり替わっているわけですね。

今回の『地球外少年少女』では、まさしくそうした「陰謀論」に憑りつかれた存在としてジョン・ドウという組織とそこに属する那沙という女性が描かれました。

彼らは環境問題をはじめとする地球規模の問題の勃発に際して、ルナティックを迎えた超人的なAIが提唱する「セブンポエム」という予言を信じ、それに基づいて行動を起こしています。

ジョン・ドウないし那沙にとっては「セブンポエム」こそが世界の全てを正しく説明するものであり、それが誤っている可能性、矛盾している可能性、そしてそこから外れた可能性の存在には目もくれません。

そこには「未知」のものはなく、全てのことは自分の認知している理性的な世界観の「内」側にあるものだと彼女は思い込んでいるんですね。

『地球外少年少女』では物語の後半にかけて登矢たち少年少女が、ある種の陰謀論によって決められた世界の「内」から飛び出し、その「外」にある運命に手を伸ばす様を描きました。

このように磯光雄監督は『電脳コイル』においては「オカルト」を取り上げ、『地球外少年少女』においては「陰謀論」を取り上げ、それらに立ち向かう少年少女という対立の構図を作り出しています。

また、同時に現実を無視した超現実的なものによって現象を説明しようとする「オカルト」や「陰謀論」と、それらを理論と実証によって解明しようとする「科学」の対立軸も見え隠れしています。

そして、この対立軸において争点になっているのは、未知のものつまり「外」や「異」に対する向き合い方ではないでしょうか。



「異」あるいは「外」の内在化が拡張するわたしの世界

(C)MITSUO ISO/avex pictures・地球外少年少女製作委員会

先ほど引用した記事の中でカール・ポパーの次のような言説について綴られています。

ポパーはまた、陰謀論を多くの「合理主義者」が抱く理論である、とも言う。この場合の合理主義とは、世界は理性的にできていて、理性的に解き明かせるという考えだ。これは、出来事には明確な因果関係があり、人間の理性はそれをコントロールできる、という信念でもある。しかし実際の社会は、常に意図しない結果に満ちている。私たちは目的を持って行動するが、正確に望んだ通りになることはほとんどなく、たいていは望んでいないものを手に入れてしまう。にもかかわらず、陰謀論は「誰がそれを望んだのか」と問うことで、社会における事実上のすべてを説明できると想定する点で、現実を理解する理論として誤りである、とポパーは言う。

読売新聞オンライン「陰謀論とは何か そのメカニズムと対処法」より)

これは非常に興味深い内容で、世界を理性的に理解しようとしすぎる人ほど、陰謀論の沼にハマってしまうのだと指摘しています。

私たちの世界においては、自分たちの理解を超えた出来事や説明できないような事象がしばしば起きるものです。

そうした「異」や「外」に直面した時に、その存在を直視して受け入れる、あるいはそれを研究と実証によって何とか説明しようと試みるのであれば良いでしょうし、それこそが「科学」であると言えます。

対照的に、超現実的でかつ空想的なものの存在を持ち込むことによって、そうした「異」や「外」を自分たちの理性の支配下に置いたと思い込んでしまうのが「陰謀論」的な考え方であるとポパーは指摘しているんですね。

つまり、突き詰めて考えると「異」や「外」と向き合い、それらを自分たちのフレームの内側に引き込もうと探求を続けるのが「科学」であり、それらの存在を超現実的なものの存在によって私たちのフレームの内側にあるものだと思い込もうとするのが「陰謀論」ということになります。

このように「異」や「外」に対する向き合い方が大きく異なっていることが見えてきたでしょうか。

そして、磯光雄監督はこうした「異」や「外」に触れる役割を「少年少女」に与えており、彼らは自分の目で見て、手で触れて、足で踏みしめることによって、そうした「異」や「外」の存在を確かめようと試みます。

『地球外少年少女』における相模 登矢という少年は、その象徴的なキャラクターとして描かれていました。

彼は、自分の頭の中に埋め込まれたインプラントによって、「セブン」によって決定づけられた運命を歩んでいると言えます。これは幼なじみの七瀬・Б・心葉も同様です。

しかし、心葉がそうした「セブン」によって決定づけられた運命を受け入れようとしていたのに対して、登矢は自分の力でそれを変えようとしています。

この世界が「セブンポエム」によってその運命を決定づけられていて、私たちの存在や行動は全てその中で説明されており、全てが決められていると思い込んでしまえば、世界は非常に単純で、理解可能なものになることでしょう。

それでも、この世界にはまだ「外」や「異」があると信じるのであれば、そしてそれを追求しようとするのであれば、複雑で混沌とした世界に立ち向かい、自分の手でそれらを解き明かしていかなければなりません。

登矢は、「セブンポエム」に綴られた「心葉の死」という運命を変えるべく、セブンの内部へと侵入します。

(C)MITSUO ISO/avex pictures・地球外少年少女製作委員会

ナガ
このプロセスは『古事記』におけるイザナギとイザナミの神話に準えているようにも見えますね。

彼は、自分の脳の知能のリミッターを外し、11次元構造の世界の中で「心葉の死」を回避する方法を探りますが、答えに辿り着くことはできません。

「未来は登矢くんのものだよ」という言葉は、「セブンポエム」という大いなるシナリオにおける全てを悟った心葉が自分の「死」の先に世界の救済と未来が待っているという因果律に基づくものです。

この運命が「セブンポエム」によって決められたものであると理解してしまえば、「心葉の死」の死でさえもあらかじめ決められたものだったと受け入れられるのかもしれません。

それでも、この運命の「外」に「異」なる可能性があるのであれば、それを掴み取る握力があるのであれば、私たちには何かを変えるチャンスがまだ残されているのです。

「外」や「異」に向き合うことはとても怖いことであり、私たちのこれまでの常識が崩れていくことにも繋がります。

だからこそ、それを拒んだり、あるいはそれらが予め私たちの世界の内側に存在していたものなのだと錯覚することによって、自分たちの理性の支配下に置かれた世界を守ろうとすることもまた当然の心理なのかもしれません。

『地球外少年少女』における那沙のように、全てが予定調和であり、全てが大いなる陰謀によって決定づけられたものだと考えれば、私たちは自分たちの世界の「内」を守ることができるでしょう。

しかし、「外」や「異」に正面から向き合い、それらを本当の意味で内在化しようとする姿勢こそが、私たちの世界を拡張してきたのであり、これからも拡張し続けていくための足掛かりとなるはずです。

セブンが「人間」という新しい概念を自分の持っている「人類」という概念に組み込むことで、新たな世界の地平を垣間見たように。

登矢が地球の人間との関わりの中で多くのことを学び、成長し、そして地球とそこに生きる人たちを救うために行動を起こしたように。

「生きる」ことは、与えられた世界の「内」に留まり続けることではなく、与えられた世界の「外」にある「異」なるものに絶えず手を伸ばし、それを取り込み、内在化しながら自分の世界の「内」を絶えず拡張させていくことなのです。

そして、この物語を描くにあたって「少年少女」を主人公に据えたところにも磯光雄監督なりの思いが宿っているように感じられます。



なぜ「少年少女」を主人公に据えるのか?

(C)MITSUO ISO/avex pictures・地球外少年少女製作委員会

監督が本作についてのインタビューでこんなことを話しておられます。

私はみんながまだ知らない世界に対して喜びや興味を感じるタイプの人間なので、常に未知のものを見たいと思っています。ただし未知のものに興味を持ち続けて何かに取り組んだ人のもとにしか、変化のおもしろさはやってきません。

アニメに限らず、科学技術の研究でも地道なデータ集めを続けた先に突然景色が変わるような瞬間があるはずです。未知の世界を遠ざけたり否定したりしていれば変化は起こりませんし、衰退していくだけになってしまうと思うんですよ。

「地球外少年少女」磯光雄監督「未知の先にある変化はおもしろい」宇宙を舞台にアニメを作る理由。「電脳コイル」との共通点も【インタビュー】

先ほどまでも述べてきたように、人間が自分たちの理解できる範囲、あるいは理解できていると錯覚している範囲に留まろうとすることは、人類の発展とは対極にある行動です。

そして、監督自身もまたアニメという分野において、そうした考え方をもって作品作りに向き合っているクリエイターの1人であることがこのお話からも伺えます。

こういったクリエイター自身の考え方や姿勢が『電脳コイル』『地球外少年少女』のプロットや主題に大いに反映されていることは言うまでもありません。

加えて、彼の作品の大きな特徴の1つとして挙げられるのが、主人公が「少年少女」であるという点ですよね。

今回の『地球外少年少女』では、那沙というキャラクターがやたらと「子供は嫌いだ」と発言していたのが妙に印象に残りました。

(C)MITSUO ISO/avex pictures・地球外少年少女製作委員会

そして、今回の主人公たちの行動チームにおける唯一の「大人」が那沙であり、彼女がヴィラン的な立ち位置であったことも示唆的です。

彼女は「セブンポエム」によって決定づけられた物語を遵守する存在であり、そこからの逸脱を目指す子供たちの行動を阻止しようと試みます。

そういう意味では、少し解釈の飛躍にはなってしまいますが、那沙が子供の好奇心や探求心を嫌い、否定する「大人」として描かれているようにも見えるんですね。

実は、こうした「大人」の描かれ方は『電脳コイル』にも共通しています。

『電脳コイル』においてデンスケという電脳ペットを失ったヤサコが家で母親に慰められるシーンがあったのを覚えていますか?

母 :お母さんの身体,あったかい?
ヤサコ :うん。
母:やわらかい?
ヤサコ :うん。
母:ちょっと痛い?
ヤサコ :うん。
母:分かる?ゆうちゃん。こうして触れるものが,あったかいものが,信じられるものなの。ギュッとやると,ちょっとくすぐったくて,ちょっと痛いの。…分かる?
ヤサコ :お母さん…。
母:ゆうちゃん。それが生きてるってことなの。メガネの世界は,それがないでしょ?ゆうちゃん。戻ってきなさい。生きている世界に。あったかい世界に。
ヤサコ :お母さん…。
母:だから,メガネはもうおしまい。代わりに携帯買ってあげる。退屈したら,一緒に遊んであげる。だから……だから,メガネはもうおしまい。

(『電脳コイル』より引用)

母親の娘に対する愛情を感じられる素晴らしいシーンではあるのですが、ここでの母親は「未知の世界」に踏み出そうとする子供を「現実世界」に引き戻そうとする役割をも果たしています。

手で触れられないものを信じて追いかけることよりも、手で触れられる今ここにあるものを大切にして生きなさいという言葉は素晴らしいと思いますが、それは同時にヤサコの好奇心や想像力を奪う言葉でもあるわけです。

確かに「大人」はたくさんの経験を積んで、たくさんのものに触れて、たくさんのものを見てきたわけで、それ故の失敗や後悔もたくさん持っていることでしょう。

それ故に「大人」は子供に対して、自分が歩んできた道における負の部分を避けて通ってほしいと願うものですし、それは他ならぬ愛情です。

しかし、その愛情は時に、子供なら誰しもが持っている無限の好奇心と想像力を奪ってしまう可能性があることを自覚しておかなければなりません。

『地球外少年少女』において、ネットを経由して登矢が「セブン2」に対して人間の情報をどこまで与えるのかで葛藤する一幕がありました。

この時、多くのキャラクターが「セブン2」に人間の全ての情報を与えてしまうと、その醜悪な部分まで知られてしまい、望んだ方向に成長しないのではないかと懸念を示します。

そうした流れを変えたのが、他でもない心葉の言葉でした。

子供は都合よく偏った内容だけ編集して見せれば、いい子に育つのかな。無編集のありのままの世界を見せたら悪い子に育つのかな。

(『地球外少年少女』より引用)

この言葉に、磯光雄監督の思いがすごく感じられたような気がしました。

『電脳コイル』で母親に電脳世界からの脱却を促されながらも、再び「あっちの世界」へと足を踏み入れたヤサコはデンスケとの再会を果たし、その身体に触れ、感触を確かめることに成功します。

母親に「手で触れられないもの」と決めつけられたデンスケに彼女は手で触れることができたのです。

そして、『地球外少年少女』においても「大人」に与えられた情報によって歪曲した方向に発達した「セブン2」が、人間に関するあらゆる情報を与えられ、それに基づいて思考することによって自分なりの選択をしました。

磯光雄監督は『電脳コイル』あるいは『地球外少年少女』において「少年少女」を主人公に据えることによって、子供と大人それぞれに違ったメッセージを発信しているのです。

前者に対しては、与えられたものを享受し、決められたレールの上で生きるのではなく、その外側に広がっている自分の可能性に好奇心旺盛に挑んで欲しいというメッセージを。

後者に対しては、自分たちの与えたもの、情報によって構築された世界の「内」で子供を飼育するのではなく、その「外」に彼らが可能性を見出そうとする背中を押してあげて欲しいというメッセージを。

物語の主体に「少年少女」を選ぶことにより、子供たちの姿勢だけでなく、それを見守る大人の視線にも言及することができます。

そして何よりも、子供にも、そして大人にも「未知の先にある変化はおもしろい」と思ってほしいというのが、監督の本音なのだろうと『電脳コイル』『地球外少年少女』を見て、強く感じました。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『地球外少年少女』についてお話してきました。

ナガ
もうクライマックスは号泣でしたね…。

監督の作品を見ていると、まだ世界のことを何も知らないけれど、何もかもを知りたかった「少年少女」に自分が戻ったかのように錯覚することがあります。

まだ見ぬ世界にどんなものを描いてくれるんだろうという好奇心が持続し、最後には見たこともない地平へと私たちを連れて行ってくれるのです。

個人的に『電脳コイル』を子供の頃に、そして『地球外少年少女』を大人になってから見たのもあって、2つの異なる立場で彼の作品に触れられたのも良かったなと思っています。

子供の頃に触れなければ味わえない、未知の世界へと踏み込むピュアなワクワク感はありますし、その一方で大人になってからでなければ分からない「子供への視線」もあります。

こうした自分の成長に伴って作品の見え方が広がっていくのも磯監督の作品の面白さだと思いますし、だからこそ何度見ても新しい発見があるのでしょう。

ぜひ、『地球外少年少女』をそして彼の原点である『電脳コイル』をこの機会に鑑賞していただけたらと思います。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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