生の根底には、連続から不連続への変化と、不連続から連続への変化とがある。私たちは不連続な存在であって、理解しがたい出来事のなかで孤独に死んでゆく個体なのだ。だが他方で私たちは、失われた連続性へのノスタルジーを持っている。私たちは偶然的で滅びゆく個体なのだが、しかし自分がこの個体性に釘づけにされているという状況が耐えられずにいるのである。
(ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』より)
映画『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』では、主人公のデイヴィスが交通事故による妻の突然の死に直面するところから物語が始まる。
それは、これまで当たり前のように続いていた妻との日常の連続からの唐突な逸脱であり、「死」によってもたらされる彼女の「生」の断絶だ。
妻の死というシチュエーションは、デイヴィスに「最愛の人の死に悲しむやもめ」としてふるまうことを強く要求する。
職場では、腫れ物に触れるような扱いをされ、義父からは仕事中にも関わらず飲みの誘いを受ける。
しかし、そうした周囲が求める像<イメージ>とは裏腹に、彼の心は穏やかであり、未だ妻の死を適切に実感することができていない。
周囲が自分に投影する像と自分自身の実像との間に生じた大きなズレに、彼は苦しみ、徐々に心に変調をきたしていく。
「掟」と「禁止」、その侵犯
彼が演じるよう求められる像<イメージ>とは、ジョルジュ・バタイユの言葉を借りるなれば「掟」や「禁止」に似たものではないだろうか。
私たちの社会には、法律や規則、倫理、道徳、常識といった様々な「掟」や「禁止」が存在しているが、これらは人間に理性的でかつ合理的なふるまいを要求する。
ジュリアの「死」によってデイヴィスは、義父や職場の人間を初めとする彼を取り巻く全ての人から、「最愛の人の死に悲しむやもめ」としてのかくあるべきふるまいを求められており、これは彼にとって束縛めいたものである。
そうした「掟」や「禁止」に対して、彼は従うのではなく、「侵犯」するという選択をする。
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』では、こうしたデイヴィスの一連の「侵犯」をカレンの息子であるクリスに重ねて描写している。
その点でも、本作における「侵犯」は、バタイユの言うところの「少年時の-無垢で素朴な心から発するさまざまの動きにみちた-王国」への回帰とも言い換えられるだろう。
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デイヴィスは自宅の冷蔵庫を解体し、オフィスのPC端末やトイレを解体し、住宅の解体工事に参加し、激しい音楽に身を委ねて電車や通りで踊るなどの奇行を繰り返す。
これらは倫理、道徳そして常識の側面から逸脱したふるまいであり、周囲の人たちは彼を人間として危うい存在として認識するようになる。
それにとどまらず、彼は同じく娘をなくして悲嘆にくれる義父を愚弄するような行動を取るようになり、挙句の果てには亡き妻のために作られた基金の祝賀パーティーに別の女性を伴って現れる始末だ。
これは言うまでもなく「最愛の人の死に悲しむやもめ」としてあるまじき行為であり、義父からも強く非難されることとなる。
侵犯あるいは破壊に伴う「贖罪」
しかし、なぜデイヴィスはこんな行動を取ったのだろうか。
ジョルジュ・バタイユの『悪と文学』に収録されたエミリ・ブロンテ(『嵐が丘』の著者)についての批評の中にこんな一節がある。
ギリシア悲劇と『嵐が丘』とのいずれの場合にも、背反にはすでに贖罪ということがふくまれている。ヒースクリッフは死ぬまえに、死に直面しながら、奇妙な法悦におちいる。
(中略)
キャサリンは、ヒースクリッフを愛していながら、操を立てるという掟を、肉の上でではなく、心のなかで犯したために死ぬことになる。しかしこのキャサリンの死は、自分の暴力のつぐないとして、ヒースクリッフがたえしのばなければならない「永劫の苦しみ」ともなるのである。
(ジョルジュ・バタイユ『悪と文学』より)
この一節では、掟への背反には「贖罪」が伴うという内容が綴られている。
キャサリンが掟を破ったことに対する贖罪として「死」を迎え、さらには彼女が命を落とすように仕向けた「暴力」に対する贖罪としてヒースクリッフは苦しみを背負ったと言っているわけだ。
『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』におけるデイヴィスの背反あるいは侵犯にも同種の「贖罪」の側面が垣間見える。
デイヴィスは、妻を愛していたが、その気持ちに向き合うことはつまり妻の死に向き合うことを意味しており、彼はそれに耐えられないだろうと自覚している。
自分自身の心を保つために、彼は妻との思い出が付着した事物や彼女の象徴となるものを次々に破壊していくわけだが、一連の「暴力」は彼に「苦しみ」として降りかかり、「贖罪」を要求する。
また、彼は自分が「最愛の人の死に悲しむやもめ」としてふるまえないことに無意識のうちに罪悪感を感じているようにも見える。
本作では「暴力」が義父の言うところの「解体」というカタチで表現されており、デイヴィスは最終的に自宅の「解体」へと向かっていく。
彼は破壊によって、心のうちに巣食った妻の存在を消し去ろうとする一方で、本心ではむしろ自分が妻を愛していたことの揺るぎない証拠を見つけることが、自分にできる唯一の「贖罪」であると考えているのではないだろうか。
「暴力」と「侵犯」が開く連続性への道
では『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』という作品は、そうした「贖罪」としてのデイヴィスの「暴力」の先に何を描こうとしたのか。
バタイユは『エロティシズム』の中で、「この連続性への開けこそエロティシズムの奥義であり、またエロティシズムだけがこの開けの深い意義をもたらす」あるいは「本質的にエロティシズムの領域は暴力の領域であり、侵犯の領域である」とも述べている。
これらをリンクさせて考えると、「暴力や侵犯は連続性への開け」であるということになる。
本作の物語はそもそもジュリアの「死」によって、彼女の生命の連続性が断絶するところから始まった。
だからこそ、彼女の「死」に際して、登場人物はそれぞれのカタチで彼女の「死」を乗り越え、「死」を「生」と結ぶ連続性を取り戻そうと試みているのではないだろうか。
義父は、未来の子どもたちのための基金を立ち上げ、その名称にジュリアの名前を残すことで、「連続性」を手に入れようとしたのであり、それは彼の「娘の才能は生き続けます」という言葉にも表れている。
しかし、デイヴィスは、自分にとっての妻ジュリアの「連続性」の奪還は、基金の立ち上げというカタチでは実現されないと考えたのだ。
だからこそ、彼は義父の再三にわたり要求された基金の立ち上げへの同意を示す書類へのサインを先延ばしにしている。
そして、彼にとっての「連続性」に到達するための手段は「暴力」ないし「侵犯」だったのではないだろうか。
暴力が存在の上にその影を拡げ、存在が「真向から」死と対決するようになるにつれ、生は純粋な恩恵となるからである。なにものもそれを破壊することはできない。つまり死とは生の更新の条件なのである。
(ジョルジュ・バタイユ『悪と文学』より)
彼は「暴力」や「侵犯」を介して、初めて妻のジュリアの「死」と向き合うことができたのであり、バタイユの言葉を借りると、それらと向き合うことこそがジュリアの「生の更新」だったのである。
「死」と「生」という相反するものがつながっているからこそ、「暴力」や「侵犯」といった人を「死」に近づける行為こそが次の「生」への道を開くわけだ。
生殖と死があるからこそ、生の不滅の復活があり、つねにあらたな瞬間があることになる。つまり、わたしたちは、生の歓喜を悲劇的な姿においてしか味わうことができず、また悲劇は歓喜のしるしでもあるということになるのである。
(ジョルジュ・バタイユ『悪と文学』より)
雨の日と晴れの日は繰り返す
本作の終盤に邦題でも引用された妻のメモとして「If it’s rainy, you won’t see me. If it’s sunny, you’ll think of me.(雨の日は会えない、晴れた日は君を想う)」という言葉が登場する。
この言葉は、まさしくバタイユの「死」と「生」の考えにリンクすると言えるのではないだろうか。
「雨の日」と「晴れた日」は1つの円環の中でつながっており、そこに「会える」ことと「君を想う」ことが重なり、半永久的に繰り返されていく。
そして、悲劇が歓喜のシグナルであるように、「死」は「生」のシグナルである。
それは「雨の日」が「晴れた日」を連想させ、同様に「晴れた日」が「雨の日」を連想させることと言い換えられる。
つまり「会えない」ことと「君を想う」ことも密接につながっており、彼女の「死」と向き合うことが彼女の「生」を想わせてくれるということではないだろうか。
物語のクライマックスにデイヴィスが亡き妻の生きた証として、この世界に残そうと考えたのは、在りし日に彼女と乗った回転木馬であった。
回転木馬はまさしく「円環」と「連続性」を象徴するモチーフであり、妻の「生」がこの先も続くことへのデイヴィスのささやかな願いの表出でもある。
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『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』が目指したのは、生と死と、愛と愛の不在と、晴れた日と雨の日とが、矛盾として認められなくなる、そんな地点ではなかっただろうか。
本作はファーストシークエンスでジュリアが事故で命を落とす様を映し出し、ラストシークエンスでは、崩壊するビルと走り出す子どもたち(とデイヴィス)を映し出している。
子どもの存在は亡きジュリアが中絶を経験していたというコンテクストも相まって、強烈に「生」あるいは「生の更新」を印象づける。
物語の始まりが「死」や「終わり」を強く感じさせる一方で、物語の終わりは「生」と「始まり」を強く感じさせるものになっているという点で、矛盾するものの同居とそれらの円環が作品の構造にも内包されているのだ。
「死」は終わりではない。そして「愛」に終わりはない。
雨の日と晴れの日が繰り返すように、「死」と「生」は繰り返され、「愛の不在」と「愛」もまた繰り返される。
そして、その連続性の中に、デイヴィスはジュリアの面影を見続けることができる。