【ネタバレ】『ウエストサイドストーリー』解説と考察:時代性を映す鏡、死の空しさを観客に問う

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』についてお話していこうと思います。

ナガ
ブロードウェイミュージカルに多大な影響を与えた作品だね!

ブロードウェイでは、1940年代に『オクラホマ!』『回転木馬』などの傑作が世に送り出され、大きな注目を集めていました。

そんな中で、1950年代になると、ミュージカルの作風が大きく変化していきます。

その背景については後ほど詳しくお話しますが、差別や貧困、戦争といったアメリカの現代の時代性が色濃く反映されるようになったんですね。

アメリカの労働者問題を扱った『パジャマゲーム』なども注目されましたが、それと同じ時代に圧倒的な支持を集めていたのが、今回お話する『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』です。

同作は第12回トニー賞でミュージカル作品賞を受賞し、ロバート・ワイズジェローム・ロビンスのコンビで1961年に映画化されました。

映画版についても高評価で迎えられ、同年のアカデミー賞作品賞も受賞するなど、今なお名作として語り継がれていますね。

今回の記事では、そんな『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』の背景や物語性を深堀りしていけたらと考えております。

なお、こちらは2021年2月に日本公開のリメイク版の内容には言及しない記事となっておりますので、予めご了承ください。

また、本記事は作品のネタバレになるような内容を含んでおりますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』

あらすじ

ニューヨークのダウンタウン「ウエスト・サイド」は移民の多い街だった。

そして、そんな街のある通りでは、2つのグループが自分たちの「シマ」を巡って日々構想を続けていた。

目下、対立関係にあったのは、リフをリーダーとするヨーロッパ系移民のジェット団とベルナルドが率いるプエルトリコ移民のシャーク団である。

ある日、ジェット団のリーダーであるリフは、決着をつけるべく「決闘」を実施することを決断し、元リーダーでもあるトニーにも声をかけ、シャーク団のメンバーたちも大勢揃うダンスパーティーに出向く。

一方で、シャーク団もその日、ダンスパーティーに1人の新顔を伴って現れる。

それが、シャーク団のリーダーであるベルナルドの妹、マリアだった。

ダンスパーティーでも、バチバチと火花を散らし、ダンスで競い合う2つの組織だったが、そんなフロアの中央で、マリアはトニーに心を奪われてしまう。

しかし、対立する2つの組織を超えた恋であり、許されない恋だったのだ…。

 

スタッフ

スタッフ
  • 監督:ロバート・ワイズ / ジェローム・ロビンス
  • 製作:ロバート・ワイズ / ソウル・チャップリン
  • 原作:ジェローム・ロビンス / アーサー・ローレンツ
  • 脚本:アーネスト・レーマン
  • 撮影:ダニエル・L・ファップ
  • 音楽:レナード・バーンスタイン
ナガ
レナード・バーンスタインが手がけた音楽は今もなお色褪せない魅力がありますね!

監督を務めるロバート・ワイズは、『ウエスト・サイド物語』そして『サウンドオブミュージック』とミュージカル映画史に残る傑作を次々に手がけた人物です。

この2つの作品では、アカデミー賞作品賞と共に監督賞を受賞しており、名実ともにミュージカル映画界を代表するクリエイターだと思います。

そして、もう1人振付師として高い評価を受け、ブロードウェイ版の『ウエストサイドストーリー』の立役者の1人でもあるジェローム・ロビンスが共同監督としてクレジットされていますね。

彼は、本作以外にも『王様と私』『屋根の上のバイオリン弾き』など様々なミュージカル作品を世に送り出しています。

脚本にも『麗しのサブリナ』『サウンドオブミュージック』で知られるアーネスト・レーマンが起用され、映画版製作にあたってのアレンジも効いていましたね。

また、同作を語る上で欠かせないのが「音楽」です。

名匠レナード・バーンスタインは、当初、宗教色の強い音楽を手がけていましたが、『オン・ザ・タウン』を契機にミュージック音楽に進出し、この『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』で一気にその地位を確立しました。

特に五重奏の『Tongiht』と映画版で独自のアレンジも加えられた『America』は、今もなお多くの人を惹きつけて止まない名曲でしょう。

 

キャスト

キャスト
  • マリア:ナタリー・ウッド
  • トニー:リチャード・ベイマー
  • ベルナルド:ジョージ・チャキリス
  • アニタ:リタ・モレノ
  • リフ:ラス・タンブリン
ナガ
ナタリー・ウッド演じるマリアは素晴らしいですね…。

1955年に公開された『理由なき反抗』映画『ラ・ラ・ランド』でも引用された作品)で、アカデミー賞助演女優賞にノミネートされると、そこから次々に話題作に出演しました。

ジョン・フォード『捜索者』や当ブログ管理人も大好きな『草原の輝き』などに出演し、そのたびにゴールデングローブ賞やアカデミー賞にもノミネートされていましたね。

そして、同作には欠かせないトニー役にはリチャード・ベイマーが起用されており、彼はこの『ウエストサイドストーリー』でブレイクした俳優の1人ですね。

ウッドとベイマーの間には、後に解消されたようではありますが、撮影当時は上手くいかないところがあり、「溝」があったとも言われています。

そんな中で、あれほどの演技を見せてくれ、マリアとトニーのロマンスに観客を夢中にさせてくれたことに敬意を表したいですね。



『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』解説と考察(ネタバレ)

本作を見る上で知っておきたい時代背景

プエルトリコ移民について

『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』を語る上で欠かせないのが、プエルトリコ移民という存在ですね。

プエルトリコとアメリカの間には、歴史上様々な出来事があり、本作にはそんな2つの国の関係性が色濃く反映されています。

そもそも、プエルトリコは、今も「コモンウェルス」という扱いになっているのはご存じでしょうか。

これは「米国主権下の属領もしくは保護領であり、自治政府による内政は認められるが国防や外交は米国が行う」という扱いの領土で、完全な独立国家ではないんですね。

歴史をさかのぼると、プエルトリコは元々スペインの領土でした。これは本作の劇中でシャーク団の面々がスペイン語を話していることからもお分かりいただけるでしょう。

しかし、1898年に起きた米西戦争でスペインが敗北し、その講和条約の中でプエルトリコがアメリカ領に編入されるという内容が盛り込まれました。

これに伴い、プエルトリコは知事を合衆国大統領が任命する直轄領となったわけですが、一定の自治権は与えられ、合衆国の市民権も与えられた一方で、一部の権利が制限されるなどしたようです。

そんな中で、1930年に入ると、自分たちの自治権を拡大していこうという動きが活発になり、特にムニョス・マリンが知事に選出されると、その傾向が一気に強まりました。

ただ、それに対抗する独立派の人たちが国民党指導者ペドロ・アルビス・カンポスを据えて、武力蜂起したことにより、国内での対立が激化し、凄惨な事件が次々に起こります。

その結果として、アメリカが1952年に発表したのが、プエルトリコへの「コモンウェルス」という地位の付与でした。

これに伴い、プエルトリコでは、ムニョス知事が合衆国資本を誘致し、工業化を推進しようと試みましたが、雇用が追いつかず、結果として職にありつけなかった人たちがアメリカ合衆国へと移民していったのです。

彼らはニューヨークなどの大都市に積極的に移民をし、その結果として本作『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』に見られるような街の風景が生まれたわけですね。

 

ポーランド系アメリカ人について

そして、もう1つお話しておく必要があるのが、ヨーロッパ系移民、とりわけポーランド系移民についてですね。

アメリカが「移民の国」であり「人種のるつぼ」であることは言うまでもないのですが、移民と一口に言ってもそこにはさまざまな人種や出自の人が含まれています。

そもそもアメリカ合衆国は、西ヨーロッパからの移民が中心になって形作られたわけですが、そこから時代によって流入する移民の出自がめまぐるしく変化していきました。

例えば、19世紀後半にはジャガイモ飢饉がきっかけでアイルランドから大量に移民が流入しましたし、同時期にはアヘン戦争で敗北した中国からも大量の移民がアメリカに流れました。

とりわけ、中国系の移民はクーリーとして金鉱での作業やアメリカ大陸横断鉄道の工事に従事し、アメリカの産業発展を下支えしました。

しかし、当時のアメリカで中国系移民への排斥意識が高まったことに伴い、19世紀後半に中国人労働者移民排斥法が制定され、その結果として20世紀入ると南欧・東欧からの移民に重心が移ったのです。

この中には、映画『ロッキー』の主人公のようなイタリア系も含まれていましたし、その他にもロシア系、そして今作のトニーもそうですがポーランド系などが含まれていました。

ただ、移民の急増により、白人の雇用が奪われるケースが多発し、市民の間で移民に対する反発が強まると、1924年に移民法が制定され、移民が厳格に制限されましたね。

そして第2次世界大戦を経て、再びアメリカが移民を積極的に受け入れるようになると、戦前とは少し出自の違う人たちが流入してくるようになりました。

それが、本作『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』のキーでもあるプエルトリコ系を含む、ラテンアメリカ系の移民なんですよね。

こうした移民の「階層」はアメリカの市民社会に人種や出自に紐づく階層構造を生み出す結果となりました。

つまり、最も遅くアメリカに流入した移民たちが過酷な肉体労働に従事し、先に流入していた移民はエスカレーター式に支配者側に回るという構造です。

例えば、『ロッキー』の主人公であるイタリア系の移民も当初は社会の底辺に近い役割を担わされていましたが、アジア系・ラテンアメリカ系の移民の流入により、その立場が上がっていったんですね。

この背景を踏まえて、『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』を改めて見返してみてみてください。

ニューヨークのダウンタウンに先にいたのは、ヨーロッパ系の移民でそこにはポーランド系などのかつては社会の底辺の扱いを受けていたような移民も混ざっています。

そこに後からやってきて、低賃金での労働を強いられているのが、ベルナルドたちのようなプエルトリコからの移民です。

とりわけ、警察からも気に入られており、アメリカ社会に馴染んでいるのが前者であり、それとは対照的なのが後者という形で、アメリカにおける移民の順序がもたらす階層構造が作品に反映されていることが分かりますよね。

 

東西冷戦の影響を受けて

ここまでは本作に登場するキャラクターの出自に注目して、その背景を解説してきましたが、ここからは少し視点を変えてみます。

本作がブロードウェイで初演されたのは、1957年であり、第2次世界大戦以後に始まった冷戦状態における「雪どけ」と呼ばれる時期にあたりますね。

スターリンの死去に伴い、一時的な冷戦の緩和状態がもたらされた時期ではありますが、これが本当の意味での冷戦の終わりにつながるのは、まだまだ先のことでした。

『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』におけるジェット団とシャーク団の対立関係は、お互いがお互いをけん制しつつも、どちらかが手を出した瞬間にそのバランスが崩壊するという点で、冷戦の構造に非常に似ています。

劇中の決闘に関する交渉の中で、お互いが武器を列挙していくシーンがあり、次第にナイフや銃といった強力な武器が挙げられるようになりますが、この描写はまさしく冷戦における軍拡競争を意識したものです。

相手が核を持つなら、自分たちも核を、相手が核兵器を増やすのであれば、自分たちも増やすといった「目には目を歯には歯を」的な争いが東西冷戦下では行われていました。

また、本作『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』が冷戦を投影しているように見えるのは、2つの組織の争いの結末の描き方にも見て取れます。

というのも、ジェット団とシャーク団の明確な融和や和解は描かれず、その未来を観客に委ねるような結末を演出しているからです。

これは「雪どけ」の時期を迎えながらも、本質的な和解には至っていない当時のアメリカとソ連の関係性を上手く表していますし、映画的な余韻にもつながっています。



『ロミオとジュリエット』の影響も受けた物語構造

悲劇と喜劇の融合

『ウエストサイドストーリー』はいろいろな意味で革新的なミュージカルでしたが、その中心には悲劇と喜劇の見事なまでの融合があります。

村川英氏は本作の素晴らしさについて「普遍的な悲劇性を謳いあげながら、50年代以降、東京や、ローマ、ロンドンなど世界中に広がる若者革命の時代を先取りしている時代を読み取る先見性」と評していました。

また、ジェローム・ロビンスはインタビューで今作の魅力について次のように語ったとされています。

シリアスなものとコメディを融合させて一緒にした。これは当時としては、かなりの実験でもあった。これまでのミュージカルはただニコニコ笑って面白ければいい、というのばかりだったけれど、これは「ロミオとジュリエット」を題材にした悲劇でした。ミュージカルを悲劇で表現できる、という発見を私たちはしたのでした。

当時のブロードウェイミュージカルの中心にあったのは、やはりコメディ路線の作品だったわけですが、『ウエストサイドストーリー』はその流れを変えたとも言えます。

とりわけジェローム・ロビンスが作品名を挙げているように、本作は『ロミオとジュリエット』に多大な影響を受けていることは言うまでもありません。

『ロミオとジュリエット』は悲劇的な戯曲の古典であり、それをコメディが主流だったミュージカルというジャンルと融合させ、さらに物語に現代性を宿らせてアップデートさせるという試みは革新的だったのです。

『ロミオとジュリエット』からの影響は隋書に見られますが、まず大前提として主人公とヒロインが自分たちの出自故に結ばれない悲恋を描いているという大筋が一致しています。

キャピュレット家とモンタギュー家の対立により結ばれない運命にあったロミオとジュリエットの関係性は、ヨーロッパ系移民とプエルトリコ移民の対立により結ばれないマリアとトニーの関係に投影されていますね。

また、悲劇的な物語として、終盤に主人公とヒロインの間にすれ違いが起き、それに伴って「死」がもたらされるという点も一致しています。

ただ、『ロミオとジュリエット』との関係を考える上で注目すべきは、ラストにおいてトニーの死は描かれる一方で、マリアの死は描かれないという点ではないでしょうか。

 

なぜマリアの「死」は描かれないのか?

『ロミオとジュリエット』に影響を受けているのであれば、2人のすれ違い、それに伴う意図しない「死」、そして後を追うための自死という一連の流れは必須になるはずです。

『ロミオとジュリエット』が影響を受けたとされる『ピュラモスとティスベ』もそうですし、シェイクスピアが後に手掛けた『アントニーとクレオパトラ』でもこの展開は一貫しています。

これらの作品ではこの世界で結ばれることがなかった2人が「死」を経て、死後の世界で結ばれるといったコンテクストが内包されているのです。

とりわけロミオとジュリエットのクライマックスにおけるロミオの最期の言葉は「Thus with a kiss I die.」でした。

これは「こうしてキスをして、私は死ぬんだ。」という意味になり、この言葉にも愛と死の融合めいたものが垣間見えます。

だからこそ、ロミオとジュリエットの物語において、2人にとっての「死」は愛の完結であり、愛を未来永劫不滅のものにするための通過儀礼のような役割を果たしているのです。

また、『ロミオとジュリエット』においては2人の死をきっかけにして、キャピュレット家とモンタギュー家が和解するという展開が終盤に描かれています。

両家の大切な子どもたちが悲劇的な死を遂げたことで、彼らは自分たちの過ちに気がつき、悲劇を繰り返さないために自分たちの振る舞いを改めるのです。

しかし、この展開を描く上では、両家から等しく犠牲が出ているという状況が必要になってきますよね。

なぜなら、先ほども述べたように私たちの世界の根底には「目には目を歯には歯を」的な考え方があり、一方だけが喪失を余分に経験している状態は、憎しみを生み、次の悲劇の種でしかないからです。

当然『ロミオとジュリエット』においてロミオだけが死んでいるラストであれば、モンタギュー家がキャピュレット家に強い憎悪を抱き、この対立関係が硬直したままになっていたでしょう。

そう考えたときに、『ウエストサイドストーリー』においてマリアの「死」が描かれず、ジェット団側のトニーだけが命を落とすという顛末はバランスが悪いようにも見えます。

では、悲劇におけるある種の「黄金比」を崩してでも、『ウエストサイドストーリー』がマリアを生かした理由とは何だったのでしょうか。

 

悲劇を止めるのは誰なのか?

ミュージカルないし舞台芸術というものは、映画と違って、観客と役者が劇場という1つの空間を共有します。

そのため、観客もまた劇場という場を作る1つの重要な要素であり、舞台上で上演されている作品と切っても切り離せない関係にあると言えます。

そう考えたときに、『ウエストサイドストーリー』の物語の結末は、観客に多くを委ね、その先の選択や決断を促すようなものとして形作られたのではないかと思いました。

映画版でも、物語の序盤の舞台となった公園からキャラクターが1人また1人と去っていき、静かに幕を閉じます。

トニーの亡骸をジェット団のメンバーが運ぼうとしていた時に、シャーク団が手を貸し、ジェット団のメンバーが戸惑いながらもそれを受け入れるという一幕があり、ここに彼らの将来的な和解が示唆されていることは事実です。

先ほども述べたようにトニーの「死」をジェット団側の人間が余分に背負っているというシチュエーションは変わらず、それ故に憎悪の根っこが断ち切られたとは言い難い状態なのは間違いありません。

しかし、それ故にマリアというヒロインの生存への道が開けたと言っても過言ではないのかもしれません。

『ロミオとジュリエット』において、ロミオの不幸な死を受け止めたのはだれかと言えば、それは言うまでもなくジュリエットです。そして、彼女は最愛の人の死を自分の死でもって受け止め、愛を成就させました。

一方の『ウエストサイドストーリー』では、マリアが生存するが故に、トニーの「死」をマリアだけでなく、ジェット団とシャーク団のメンバー、引いてはそれを見ている観客にまで背負わせ、受け止めさせることに成功しています。

『ウエストサイドストーリー』は2つの死によって愛が成就するという古典的な悲恋の美学を打ち破り、「死」という事実の悲劇性を際立たせました。

ジェット団とシャーク団、ヨーロッパ系移民とプエルトリコ移民、そこから「生」と「死」という究極の境界に阻まれながら愛を誓うマリア。

彼女の変わらない愛を強調した一方で、誰にも背負うことができない、そして報われることのないどこまでも悲劇的な「死」としてトニーの死が印象づけられました。

その当時もそうでしたが、アメリカには今もなお人種や出自に伴う差別が蔓延していますし、アメリカとソ連の関係も冷戦が終わったとは言え、完全には解結されていません。

黒人男性ジョージ・フロイドさんの死を契機として、全米でBLM運動が巻き起こったように、この火種は1つのきっかけで炎上し、たくさんの人の「死」を誘発する可能性があります。

「死」は不可逆であり、どこまでも悲劇的であり、だからこそ『ウエストサイドストーリー』はマリアの「死」でもってトニーの「死」を美化しません。

彼の「死」はあくまでも残酷に訪れ、そしてそれが報われることもありませんし、愛の成就にもつながりません。

『ウエストサイドストーリー』の静かな幕切れとそれがもたらす余韻は、そんな「死」の重みと空しさをこれだけ強く観客に感じさせるものでした。

悲劇は、この物語の中では止まらないし、報われることもなく、何に活かされることもありません。

しかし、それを劇場という空間で共に共有した観客が何かを感じ、現実で行動を起こしたなら、トニーの「死」は報われるのではないでしょうか。

つまり、『ウエストサイドストーリー』はトニーの「死」を無駄にしないための主導権を観客に委ね、それにより考え、行動することを促しているのです。

このメッセージ性を持った作品が、冷戦の真っただ中にあったアメリカで作られ、そしてこの作品が上演された後も30年以上冷戦が続いたことに、ジェローム・ロビンスの底知れぬ先見性を感じさせられます。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ウエストサイドストーリー(ウエストサイド物語)』についてお話してきました。

ナガ
時代性を参照したり、影響を受けた作品と比較しながら見ると、新たな発見があると思います!

冷戦、プエルトリコ移民やヨーロッパ系移民を巡るアメリカの移民の歴史など現実性をバックボーンに据えたミュージカルとして、本作は多大な支持を獲得しました。

そして、その物語の普遍性と先見性は今もなお新しいファンの獲得につながっており、だからこそ2022年公開のスティーブン・スピルバーグ監督によるリメイクにも至ったのでしょう。

当ブログ管理人は諸事情あってリメイク版の『ウエストサイドストーリー』は見ませんが、ぜひ1961年に公開されたこちらのバージョンも見た上で、鑑賞していただけたらと思います。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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