みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』について軽くお話していこうと思います。
コミックスを読まない自分にとっては、以前はヴェノムという存在のイメージがサム・ライミ版の『スパイダーマン3』だけでした。
なので、ヴェノムないしシンビオートは「悪」なんだという何となくのイメージを持っていたのですが、それを一変させたのが前作にあたる映画『ヴェノム』でしたね。
コミックスの方では、ヴェノムは「スパイダーマンのライバル」的な位置づけのようで、今回の映画の中でもエディとヴェノムは自分たちのことを「Lethal Protector」であるとしています。
つまり、世界を壊す側ではなくて、むしろ守る側なんですよね。
そして、今回の『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』のメインヴィランであるカーネイジはまさしく「悪のシンビオート」ということになります。
シンビオートは宿主の人間性に強い影響を受けるとも言われており、とりわけ今作に登場するクレタス・キャサディは、シリアルキラーであり、そのパーソナリティに影響される形で「カーネイジ」という凶悪なシンビオートが誕生しました。
そんなスパイダーマンやヴェノムにとっての「天敵」が登場するということもあって、アクション面に多大な期待が持たれていた本作ですが、蓋を開けてみると、まさかの別ジャンルの映画でした(笑)
というのも、これアクション映画でも、ヒーロー映画でもありながら正真正銘のロマンス映画なんですよね。
しかも、その異なるジャンルが独立して作品に内包されているというよりは、アクションやりながらラブストーリーもやっているというような有様で、これが非常に面白いのです。
そんなエディとヴェノムのロマンス映画とも言える『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』が1人でも多くの人に届けば…という思いで今回は自分なりの感想を書いていきます。
本記事は若干ネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』感想・解説(ネタバレ)
燃え上がった恋は、倦怠期を迎え、そして別離へ
(C)2021 CTMG. (C) & TM 2021 MARVEL. All Rights Reserved.
映画『ヴェノム』シリーズをラブストーリーとして紐解くのであれば、前作が描いたのはエディとヴェノムの出会いから交際開始までの時期と言えるでしょうか。
それに続く今作は、いきなりエディとヴェノムの「倦怠期」的なシチュエーションからスタートします。
24時間一心同体で過ごしていることもあり、エディはヴェノムから次々に繰り出される「わがまま」の数々に嫌気がさしており、平凡な暮らしを取り戻したいと願い始めていました。
前作において強大な敵を前にして結ばれた「2人」でしたが、「共生」つまり「共に生活をする」というフェーズに入ると、やはりすれ違いは生じるものですよね。
とりわけ『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』では、エディがジャーナリストとしての仕事にも復帰し、徐々にぽっかりと開いていた心の穴を自己修復しようとしています。
その穴を埋める形で彼と一心同体になったのが、ヴェノムだったわけですが、彼の置かれている状況や心境の変化に伴い、エディの中に徐々に居場所を失っていくのです。
こうした「2人」の関係性の描き方は、コメディメイドでありながら、かなりリアルなラブストーリーでした。
そして、「2人」についに別離の瞬間がもたらされます。
部屋に置かれたインテリアや家具や家電を投げ散らかし、取っ組み合いの喧嘩をして、「2人」が出した結論は決別だったのです。
この別れ方がまたかなりグッとくるポイントでして、2人はお互いに「相手がいなくても大丈夫だ!」と意地を張って、独立の選択をするわけですよ。
ヴェノムは適正な寄生先がないと生きながらえることができませんし、エディもまたヴェノムがいなければ、シリアルキラーを前にしてもただの人間です。
お互いが必要なはずなのに、意地を張ってお互いを突き放し、距離を取ってしまう。
ヒーロー映画ないしアクション映画を見ているはずなのに、エディとヴェノムの「むずきゅん」とも言えるもどかしい距離感に胸が締めつけられるのを感じました。
独り身生活の謳歌から謝罪を経て、復縁へ
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別離を選んだ「2人」は束の間の独り身生活を謳歌するわけですが、そうした平穏もまた長くは続きません。
ヴェノムはエディと別れてから次々に寄生先を乗り換えるのですが、なかなか適合する宿主に出会うことはできず、徐々に衰弱していきます。
個人的にこのヴェノムパートにグッと来たのは、彼がエディの言いつけを守って頑なに人間を食べようとはしないことなんですよ。
ヴェノムは食料にありつけず、さらには寄生先を見つけることもできずに、徐々に衰弱していくのですが、人間には手を出しません。
もう、エディから解放されているわけですから、彼に課されたルールを守る義理なんてないのに、そのルールだけはかたくなに守り続けるヴェノムは、やはりまだ彼のことを思い続けているのでしょう。
付き合っていた相手に「タバコやめて!」と言われて、タバコを吸うのをやめて、その相手とは分かれてしまったけれど、寄りを戻せないことは分かりつつも、心のどこかで淡い期待を捨てられず、タバコを吸えずにいるみたいな感じでしょうか。
一方のエディも、壊れていた自分がこうして立ち直ることができたのは、そして強くいられたのは他でもないヴェノムのおかげだったのだと気づき始めます。
とりわけクレタス・キャサディ(カーネイジ)が刑務所から脱走したというニュースを見ると、彼はヴェノム不在の不安から緊張し、手が震え始めるのです。
ヴェノムがいたことでこれまで直面することのなかった自分の弱さを痛感し、世界を危機に陥れる存在に対して何もできない自分の無力感に打ちひしがれます。
そうしてお互いの存在の重要性を改めて確認し合ったエディとヴェノムはカーネイジに対峙するために、再び「共生」関係を結ぶわけですが、この「復縁」のシーンがまたウィットに富んでいましたね。
というのも、エディは自分の元カノであるアンに宿ったヴェノムに対して過去の行動を謝罪し、ある種の「愛の告白」をするわけです。
エディがアンに復縁を求めているという典型的なラブストーリーの絵面に乗せて、人間とシンビオートの「復縁」を描くという二重構造が実に面白いですよね。
不在性の中で相手の重要性を感じ、新しく相手との関係性を結びなおすというラブストーリーの王道ともいえる展開を、人間とシンビオートの関係性に投影し、見事に成立させている独特の構図には非常に楽しませてもらいました。
宿敵との対峙あるいは他人の結婚式の強奪
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こうして物語はクライマックスの大聖堂のシーンへと向かっていくわけですが、シチュエーションが「結婚式」になっているのがまた笑わせてくれます。
というのも、本作のメインヴィランであるクレタス・キャサディ(カーネイジ)は、フランシス・バリソンという女性と恋人同士なのです。
そんな2人の結婚式にエディが招待されるという形で、ヴェノムとカーネイジの宿敵同士の対峙が演出されるわけですが、これがまた面白い。
まず、あくまでもエディにとっては他人の結婚式であり、しかもエディは思い人であるアンを彼に人質にとられているというシチュエーションなんですよ。
こういう場合の典型的なプロットは、マリオがクッパからピーチ姫を救出しに行くのと同様で、エディがアンを救出し、2人は結ばれるというものですよね。
ただ、今作『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』においては、エディがヴェノムという「花嫁」持参で結婚式場に殴り込みをかけてくるという、オモシロシチュエーションが成立しています。
しかも、次の章で詳しく言及しますが、ヴェノムとカーネイジの戦いは「どっちの愛が強いか!」みたいな基準で勝敗をつけようとしていました。
つまり、エディとヴェノム、クレタス・キャサディとカーネイジのどちらのカップルの方が、より良い「共生」関係を築けているのかにスポットが当てられていたわけです。
こうして本来なら「花嫁」奪還の場面なるはずのシチュエーションが、「ここで結婚式を挙げるのは俺たちだ!」的な鍔迫り合いに発展していくのはかなり笑えるポイントではないでしょうか。
また、一連の戦いの中で、個人的に良かったなと思ったのが、お互いの「弱さ」を見せる描写を入れていたことですね。
大聖堂に殴り込みをかけてきたエディとヴェノムでしたが、当初はカーネイジの殺気に押され、エディは震えあがり、ヴェノムに「頼むから出てきてくれよ…」と懇願していました。
しかし、戦いの中でヴェノムは人間を食べていないこともあってか、力を発揮できず、カーネイジに対して防戦一方になってしまいます。
そんな不利な状況の中で「勝てる気がしない」と弱音を吐くヴェノムを励ますのは、エディの役割でした。
『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』は作品そのもののの上映時間が短いこともあり、クライマックスのバトルも時間としてはかなり短いのですが、その中にちゃんと「2人」のドラマが織り込まれているんですよね。
自分の「弱さ」を見せ合って、それを受け入れて、励ましあって、何とか乗り越えていこうとする「2人」だからこその「共生」関係に感動しました。
こうして結婚式を乗っ取った2人は、警察に追われているからと、やむを得ず雲隠れすることになるわけですが、これがまた「新婚旅行」でしかないのも笑ってしまいます。
ヴェノムと宿敵カーネイジの対峙という見せ場がありながら、それ以上にエディとヴェノムのロマンス映画としての側面が異常に際立っているという少し不思議な映画ではありましたが、個人的にはすごく好きでした。
ヴェノムVSカーネイジの勝敗を分けたもの
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先ほど、言及を先延ばしにした、ヴェノムとカーネイジの勝敗をつけたのは何だったのかという話を最後にしてみようと思います。
重要なのは、作品の中盤に描かれたヴェノムが仮装した人たちが集うナイトクラブを訪れるシーンです。
このシーンは、海外でもクィア的なコンテクストの「カミングアウト」に準えて語られているのですが、言わばヴェノムが本当の自己を開示する描写なんですよね。
ナイトクラブにいた人たちは、普段の生活の中では、自分をさらけ出すことができないため、あの場所に集い、そこで自分が本当に望む姿を実現しています。
そんな場所でヴェノムは自分がもはやエディに「隠される」存在ではなく、自由な存在であることを宣言し、集まっていた人からの熱狂的な支持を獲得していました。
ヴェノムはエディに寄生していたわけですが、基本的にカレによって、その存在が「隠されて」いましたよね。「ヴェノムである」ということを彼は心のどこかで負い目のように感じています。
つまり、ヴェノムはエディと一緒にいる限りにおいて、本当の自分をさらけ出し、自由を謳歌することはできなかったわけです。
しかし、エディはヴェノムという存在を受け入れ、新たに「共生」関係を結び直します。
彼らが到達したのは、自分の弱い部分や欠点も含めて、お互いを認め、尊重するという「2人」ならではの関係性です。
これは「2人」は「俺たち」と呼称していることにもつながりますが、「2人」が別々の存在でありながら1つの身体に共存し、お互いを開示できることが彼らの「強み」になったわけですよ。
ただ、この観点で見たときに、対照的だったのがクレタス・キャサディとカーネイジの関係であり、カーネイジとフランシス・バリソンの関係でした。
まず、カーネイジはクレタス・キャサディを宿主にしてはいますが、彼の意志を組んで行動しているというよりは、単に肉体を利用しているだけに思えます。
カーネイジには、クレタス・キャサディという存在を侵食し、「隠してしまおう」としている側面があるわけです。
加えて、カーネイジはクレタスの恋人であるフランシス・バリソンに対してしきりに「声を出すな!」と彼女の能力をけん制するような発言を繰り返しています。
これはシンビオートが音に敏感であるという都合によるものですが、見方によってはカーネイジ(ないしクレタス)がフランシスの自由を奪い、本当の彼女を「隠そうとしている」ようにも見えるのです。
よって、お互いをさらけ出して受け入れ合おうとするエディ&ヴェノムと、クレタスやフランシスを一方的に飲み込み、「隠し」てしまおうとするカーネイジという構図が図らずも作り上げられているのが分かります。
つまり、「隠す」「さらけ出す」という軸が、今作『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』におけるクライマックスの戦いの勝敗を分けるものになっていたんですね。
もちろんエディにとっての自由、ヴェノムにとっての自由は異なるものでしょう。
エディにとっては部屋で2000ドルのテレビでスナックをつまみながらアメフトを見るのが自由なのでしょうし、ヴェノムにとっては人間の脳を食べるのが自由であるはずです。
しかし、エディとヴェノムが一心同体となった「2人」で生きるからこその、「自由」はまた別に存在しているのです。
そして、これは私たちの世界や社会においても言えることなんですよね。
例えば、男性が「自由」を謳歌するために、女性が虐げられる歪な社会構造が許されて良いのか、はたまた白人が「自由」を謳歌するために、黒人が制限されるような世界が許されて良いのかという話にも繋がってきます。
つまり、誰かが排除されたり、隠されたり、自由を奪われたりする社会は歪なんです。
「共生」というのは、お互いの自由のために相手の自由を奪ったり、相手を排除したり、隠そうとしたりするのではなく、それを超えたところにある「自由」を模索していくことに他ならないのだと思います。
そして、『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』はそんなメッセージ性をエディとヴェノムの関係性の中で描いた、実は志の高い作品なのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ヴェノム2 レットゼアビーカーネイジ』についてお話してきました。
近年のアメコミ映画は上映時間もかなり長くなってきましたし、作品の構造もかなり複雑になってきました。
そんな中で、物語も作品の設定や構造もシンプルで、テーマ性も明快で、コメディに振り切った『ヴェノム』シリーズは稀有な存在だと思います。
でも、こういう良い意味で「毒にも薬にもならぬ映画」は必要だと思っていて、MCUのような完成度の高いシリーズに気疲れした時には、本作のようなコメディメイドで、キャラクターの掛け合いに全振りした映画が欲しくなるんですよ。
要は、これもある種のヒーロー映画における「共生」関係ですよね。
MCUのような緻密なストーリー性にこだわるシリーズがあるこそ『ヴェノム』のようなキャラクターを前面に押し出したオフビートな作品が映えるのであり、その逆も然りです。
こうしたヒーロー映画の多様性を担保するためにも、『ヴェノム』シリーズは今後も続いていって欲しいですね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。