「悪い」「酷い」「最悪」あたりの言葉であれば、当たり前のように使っているのではないかと思います。
「景気が悪い!」「あいつは酷い!」「今日も仕事じゃん!サイアク!」といった具合の言葉はみなさんの日常会話の中にごく自然に溶け込んでいることでしょう。
しかし、改めて考えてみると、何かをディスるときに「邪悪」って言葉はあんまり使わないですよね。
私も「邪悪」なんて言葉を耳にしたのは、ここ最近だと『ジョジョの奇妙な冒険』第5部のブチャラティの口からくらいかもしれません。使い方のヒントになるかもしれませんので、引用してみましょう。
吐き気を催す邪悪とはッ! なにも知らぬ無知なる者を利用する事だ……!!
自分の利益だけのために利用する事だ…
父親がなにも知らぬ『娘』を!! てめーだけの都合でッ! ゆるさねえッ!
あんたは今 再び オレの心を『裏切った』ッ!(『ジョジョの奇妙な冒険』より)
このセリフはジョジョ好きの方なら誰でも知っている名台詞ですが、やっぱり日常会話で「吐き気を催す邪悪」なんてキラーフレーズが飛び出す機会はなさそうです。
「邪悪」という言葉の意味を調べてみると「心がねじ曲がって悪いこと。また、そのさまやそのもの。」と書かれています。
ここでふと疑問が浮かびます。「悪」とは何が違うのか?と。
「邪(よこしま)」という字には、牙という文字が含まれており、これは「他人に害を及ぼす」というニュアンスを含んでいることを示しています。
つまり「悪」が単に「正しくないこと」を表すのであれば、「邪悪」は「意図的でかつ他人に害を及ぼすわるいこと」なのです。
少し前段が長くなりましたが、『この子は邪悪』に話を移していきましょう。
間違いなく、この映画を見たおまえの次のセリフは「邪悪だ!」という!
本作を見たみなさんの口からは、間違いなく「邪悪」という聞きなじみのない言葉が飛び出すはずです。この映画は、あるいはこの物語は「邪悪」としか形容できません。
「悪」ではありません。「邪悪」なのです。
そして、本作のタイトルである「この子は邪悪」のタイトルがスクリーンに浮かび上がる瞬間。これもまた身の毛がよだつほどの「邪悪」としか言いようがありません。
今作は全国で100館程度の映画館でしか上映していない、いわゆる「中規模上映」に該当する作品なのですが、少しでも多くの人の口から「邪悪」という言葉が飛び出して欲しいと思い、今回はおすすめする記事を書いてみようと思います。
本記事では作品の根幹に関わる部分への言及は避けますが、一部ネタバレになる可能性のある内容を含みますので、先入観なしで鑑賞したい方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『この子は邪悪』感想・解説(微ネタバレあり)
10年後に「カルト映画」として語り継がれているであろう作品だ
©2022「この子は邪悪」製作委員会
最初に言っておきますが、『この子は邪悪』は映像面でも、物語面でもいわゆる「品質が高い」タイプの作品ではありません。
カメラワークも固定的な画が多く、編集のテンポが緩いので、間延びしている印象があります。
それに拍車をかけているのが、引きの固定的な画が多いにも関わらず、その中でセリフを発している人間にしか動きがなく、他のキャラクターが概して静止している点です。
例えるなら、予算のあまりかかっておらず、作画にリソースを割いていないアニメ作品でしょうか。
作画が省エネなアニメでは、セリフを話していないキャラクターは基本止め画のままにしてあり、これにより作画のカロリーが抑えられています。
引きの画はシチュエーションの説明や登場人物の関係性の明示には適していますが、感情表現にはあまり適していません。
ですので、登場人物に動きがないのであれば、引きの画でキープし続けるのではなく、そこに登場人物の表情のインサートや事物のクローズアップなどを加えて、編集のテンポを上げるべきだと思います。
また、脚本(あるいはプロット)という観点で見ても「そうはならんやろ」展開の連続で、ツッコミどころなんて言っていたら、途中でキリがなくなるレベルです。
ここまでの内容を読んで、「おすすめする記事を書く」と言っておきながら、全然おすすめするような論調じゃないじゃん!と思った方もいるかもしれません。
しかし、本作にとって重要なのは、こうしたいわゆる「評価」の目にさらされたときに、「上質ではない」という判断をされてしまう可能性が高いことだと思います。
なぜなら、これは「カルト映画」と呼ばれる作品群に通底する定義でもあるからです。
「カルト映画」は元々70年代のアメリカで使われるようになった言葉で、従来の評価基準からは外れていると見なされるが、その一方で都市部の若者たちが独自の価値を見出し、熱狂的に称賛したいわゆるB級映画のことを指します。
今作『この子は邪悪』は、この前提条件に該当しており、そうした「カルト映画」としての地位を、劇場公開、のちのサブスクリプションサービスへの展開の中で確立していく可能性があると考えています。
なぜなら、一般的な映画の評価基準でみると「低評価」になりかねない一方で、そのプロットがあまりにもぶっ飛んでいて面白いからです。
過酷な状況や悲惨な状況をしばしば「地獄」と形容することがあり、こうした地獄を描いた映画作品は多数存在しています。
『この子は邪悪』も言わば、観客に地獄を見せる映画ではあるのですが、もっと言うなれば「地獄の底が抜けていく映画」だと思っています。
観客は映画の中で描かれていることを整理し、無意識に先の展開を予測し、何かを期待しながら映画を見進めます。
同様に私たちは『この子は邪悪』という作品を見ながら、そこに示された手がかりをヒントにある程度「自分たちが落とされるであろう地獄」を想定しているはずです。
現に、私もある程度「地獄」がどんなものかについて当たりをつけていたはずでした。
そして『この子は邪悪』は確かに観客の多くが想定していたであろう地獄に私たちを叩き落とします。
しかし、今作が恐ろしいのは、そこが地獄の「底」ではないということなのです。
物語のクライマックス、次々に地獄の「底」が抜けていき、私たちは「そうはならんやろ」展開の連続の中で、「邪悪」の深みを見せつけられます。
『神曲』を書いたダンテは地獄を9つの層に分けました。
『この子は邪悪』の地獄は、9つの層で終わってくれるほど生易しいものではありません。一体何層あるんだ?という程に底がなく、どんどんと深みにハマっていきます。
ダンテの構想した地獄では、その先に天国への橋渡しの役割も果たす「煉獄」が待ち受けていますが、この映画にはそんなものはありません。
例え映画本編が終わったとしても、地獄が終わることはないのです。
この底のしれないジェットコースターのような地獄巡りの圧倒的なエンタメ性は、映像作品としての不出来やプロットの粗を忘れさせるには十分なものだと思います。
映画としてお世辞にも「質が高い」とは言えない点、そこに狂気あるいは邪悪としか形容できないぶっ飛んだプロットが担保するエンタメ性が掛け合わさった『この子は邪悪』には「カルト映画」として一部のファンの熱狂的な称賛の「器」になる素養が確かにあるのです。
メリーゴーラウンドの「画」が意味したものから紐解く
©2022「この子は邪悪」製作委員会
では、ここからは少しだけ作品を少し違った視点で楽しめる情報をできればと思います。
『この子は邪悪』の中で、繰り返しインサートされる映像の1つに窪家の家族がメリーゴーラウンドに乗っている描写があります。
最初は幸せな家族の風景にしか思えない、この映像ですが、徐々にこのメリーゴーラウンドを俯瞰で捉えるような視点の映像がインサートされていき、その不気味さが露になっていくのです。
もちろん物語が進むにつれて、窪家の歪さが浮かび上がり、そうしたコンテクストを踏まえてみるために、同じ映像、同じシチュエーションの見え方が変化しているという側面はあるでしょう。
しかし、この映像にはもっと本能的に人間が不気味さや違和感を感じさせるようなギミックが隠されています。
それが明らかになるのは、物語の中盤に訪れるこのメリーゴーラウンドを引きのショットで捉えた瞬間です。
©2022「この子は邪悪」製作委員会
メリーゴーラウンドそのものはキラキラと輝いており、何の違和感もなく稼働しているのですが、それが置かれている場所がどう考えてもおかしいのです。
置かれている場所が遊園地で、メリーゴーラウンドが稼働しているのであれば、当然遊園地そのものは営業中で他のアトラクションや施設の明かりもあるはずですよね。
ただ、この映像では、遊園地の他のアトラクションや施設の明かりは一切なく真っ暗で、メリーゴーラウンドだけが光り輝きながら稼働し続けているのです。
この背景とモチーフの矛盾、あるいはズレが私たちに言いも知れぬ違和感を与えるんですね。
こうしたギミックが用いられたある有名な絵画があります。
それがルネ・マグリットの『光の帝国』と呼ばれるシリーズです。
実は、この絵画の下半分に描かれている通りや湖は夜で、上半分に描かれている青空は昼になっているんですよ。
ルネ・マグリット自身はこの『光の帝国』と呼ばれるシリーズに対して次のようなコメントを残したとされています。
光の帝国の中に、私は相違するイメージを再現した。つまり夜の風景と白昼の空だ。風景は夜を起想させ、空は昼を起想させる。昼と夜の共存が、私たちを驚かせ魅惑する力をもつのだと思われる。この力を、私は詩と呼ぶのだ。私はいつも夜と昼へ関心をもっていたが、決してどちらか一方を好むということはなかったからである。
(「Artpedia」参照)
この絵画の演出は、まさしく『この子は邪悪』における真っ暗闇の遊園地と光り輝くメリーゴーラウンドの共存に非常に似ていますよね。
こうしたルネ・マグリットの絵画の表現技法は、しばしば「デペイズマン」と呼ばれます。
デペイズマンは、「あるモチーフを本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移し置くことで、画面に異和感を生じさせるシュルレアリスムの表現手法」です。
『光の帝国』であれば、昼の青空の下に、切り取られた夜の風景が配置されたことで、違和感と不思議な魅力が生み出されました。
そして、この「デペイズマン」という表現技法こそが、『この子は邪悪』を紐解く上で重要なものになるのだと思います。
光り輝くメリーゴーラウンドは、不気味さと歪さを抱えながらも、その形を取り繕い続ける窪一家のメタファーなのだと読み解くことは難しくありません。
しかし、このメリーゴーラウンドの画が有する違和感に「デペイズマン」的な表現技法が関わっているということを知っておくと、もう少し深く読み解くことができます。
「本来あるべき環境や文脈から切り離して別の場所へ移し置く」こと。
これが何を意味していて、本作にどうつながっているのかは、『この子は邪悪』の本編をみなさん自身の目で見て、考えていただければと思っています。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『この子は邪悪』についてお話してきました。
ホラー映画においては「カメラワーク」と「編集」が要だと思っていて、その要の部分が『この子は邪悪』はあまり良くないんです。
それにも関わらず、これだけ怖いということは、それだけプロットのポテンシャルが高いのだと思います。
100館程度の中規模上映なので、まだまだ話題になっていない感はありますが、今作はもっと大きな話題になってもおかしくない作品です。
のちにサブスクリプションサービス等での配信が始まったら、一気に人気に火がつきそうな気もしています。
ぜひ、お早めにこの圧倒的な「狂気」と「邪悪」を目の当たりにしていただきたいですね…。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。