みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね『水曜日が消えた』についてお話していこうと思います。
その洋画というのが『セブンシスターズ』という作品です。
(映画『セブンシスターズ』より引用)
この作品は、近未来SFでして、地球上に人口が増えすぎたために、一人っ子政策のようなシステムが整えられ、2人目以降の子どもは、国のシステムに登録できず、さらには発見され次第、逮捕されるというディストピアを舞台にしています。
『セブンシスターズ』の主人公は、7つ子であるため、自宅に閉じこもり、曜日ごとに外出する1人が決められていて、1つの名前とパスを共有して外出しているという状態で生きています。
つまり、外で暮らす人から見れば、主人公は曜日ごとに同じ容姿でありながら、微妙に人格が変わり、更には記憶が日をまたぐと曖昧になるという特性を持っているのです。
この部分の設定が『水曜日が消えた』に非常に似ておりますが、今作は別人が7人存在するというよりは、1人の人間に人格が7つ存在する多重人格モノとなっております。
物語の内容も、『セブンシスターズ』がSFサスペンスである一方で、『水曜日が消えた』はサスペンス要素がありつつもヒューマンドラマ色が強い作品になっていたように感じました。
まあ確かにジャンル的には見飽きたものだとは思いますが、現代の社会にも通じる共生や寛容を説く物語にもなっており、今作る意義もあったのではないかと思っております。
今回はそんな『水曜日が消えた』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『水曜日が消えた』
あらすじ
幼い頃の交通事故の後遺症のため、「僕」は曜日ごとに性格も個性も異なる7人の人格が入れ替わる特殊な状況に陥っていた。
彼は投薬を受けながら、人格の入れ替わりのタイミングを調節し、睡眠中でかつ日付が変わる瞬間に次の人格に入れ変わるようにしているのだ。
そのため、人格にはそれぞれの曜日の名称が付与され、彼らは付箋にメッセージを記載して、お互いにコミュニケーションを取っていた。
そんな状況下で、「火曜日」は、憂鬱な毎日を過ごしていた。
というのも、火曜日は様々な店が定休日なのであり、彼が一度は行ってみたいと願っていた図書館も休館日なのである。
日付が変わるタイミングで人格が変わるために旅行に行くこともできず、「火曜日」は悶々としていた。
ある日、「火曜日」が目覚めると世界がいつもと少しだけ違うことに気がつく。
そして、テレビのニュースを聞いていると、その日は何と訪れるはずのない水曜日だと判明する。
当初は、すぐに当直医の安藤先生に連絡しなければと思い至る「火曜日」だったが、初めての水曜日を謳歌しても良いんじゃないだろうかと思い至り、図書館に行くなど新鮮な1日を満喫するのだった。
しかし、彼のことをずっと見てきた医療ジャーナリストの一ノ瀬は、彼の異変に気がついており、時を同じくして彼の身体に異常が起き始めて…。
スタッフ・キャスト
- 監督:吉野耕平
- 脚本:吉野耕平
- 撮影:沖村志宏
- 照明:岡田佳樹
- 編集:佐藤崇
- 音楽:林祐介
- 主題歌:須田景凪
- VFX:吉野耕平 金子哲
2016年に公開された『君の名は。』にCGアーティストとして参加していたことでも知られ、短編やCM、MVの制作にも多数携わっておられます。
そんな彼が今回オリジナル脚本でかつ、自身が監督とVFXを担当する形で作品を作り上げました。
ノベライズを読んだ段階だと、この作品にいかほどVFXが必要なんだろうかというラインがイマイチ見えないのですが、映像面にはかなり期待が持てますね。
撮影・照明には『残穢 住んではいけない部屋』のようなホラー映画も手掛ける一方で、時代劇やヒューマンドラマまで幅広く手掛けてきた沖村志宏さんと岡田佳樹さんが起用されました。
一方で、編集には『愛がなんだ』や『さよならくちびる』などの気鋭の邦画に数多く参加してきた佐藤崇さんが起用されています。
劇伴音楽を、黒沢清監督作品などでも知られる林祐介さんが手掛け、主題歌には須田景凪さんの新曲「Alba」が使われていますね。
- 7人の「僕」:中村倫也
- 一ノ瀬:石橋菜津美
- 新木:中島歩
- 高橋:休日課長
- 瑞野:深川麻衣
- 安藤:きたろう
まず特筆すべきなのは、主人公を1人7役の形で演じた中村倫也さんですね。
コメディかシリアスまで何でもこなせるカメレオン俳優的なイメージも強い彼ですが、その真価が発揮される役と言えるでしょうね。
本作のヒロイン的立ち位置の女性一ノ瀬役には石橋菜津美さんが起用され、物語の中で「火曜日」が好意を寄せるようになる図書館スタッフの瑞野役には、深川麻衣さんが起用されていますね。
あとは、映画本編で確かめて欲しいのですが高橋役の休日課長さんが個人的にはツボですね。適役だと思います。
『水曜日が消えた』感想・解説(ネタバレあり)
隣の芝生は青いがそれでも…
(C)2020「水曜日が消えた」製作委員会
本作の物語を進行するうえで視点となるのが、「火曜日」の人格です。
彼は、基本的に退屈で憂鬱な日々を過ごしています。
それは自分の行ってみたい店や図書館がいつも閉まっているからであり、彼だけが週に1回の通院義務を課せられているからであり、大した趣味もないからですね。
また、彼の前日の「月曜日」の人格がいつも破天荒で酒に酔ったまま寝てしまうこともしばしばで、翌日の自分に二日酔いや部屋の片づけのしわ寄せがくるというのも大きな問題でした。
彼は「火曜日」という人生を生きながら、他の人格が生きている人生に強く憧れており、何とかして今の生活から脱却したいと考えていますが、それは叶うことはありません。
今作『水曜日が消えた』では、多重人格モノという設定が為されているために、少し特殊な状況に見えるとは思います。
しかし、私たちが普通に生きていても、他人の人生が羨ましく見えたり、自分の人生が酷くつまらなく単調なものに思えたりすることがありますよね。
自分は誰かに憧れられ、羨ましいと思われる人生を生きているのだと。
この作品ではあくまでも、物語の軸を「火曜日」の人格に定めているため、他の曜日の人格がどんな思いで生きているのかは分かりません。
ただ、きっと他の人格たちもお互いに、自分には手に入れ難い生活を手に入れている他の人格に眺望めいた感情を抱いているのではないかと思うのです。
つまり、「火曜日」がつまらなく憂鬱だと思っている1日だって、他の曜日の人格からすれば羨ましいものなんですよね。
私たちはつい1つの物差しで、他人と自分を比較して、劣等感を感じてしまう傾向があります。
例えば、あの人の身に着けている時計はブランド物で高級なのに、自分の身に着けているものはボロボロで安物だから、自分はあの人よりも劣っているというような具合です。
でも、それって1つの物差しでしかなくて、それ自体が人間の価値に優劣をつけるものでは決してありません。
『水曜日が消えた』は、物語展開の中で、人格同士が強者生存の戦いに巻き込まれていくかのような様相を呈していきますが、これも多様性を鑑みず、単純に優れた者だけが、強い者だけが正義だと言わんばかりです。
しかし、これからの時代はもっと他人と優れていることに価値が生じるようになっていくと思います。
他人と同じことをより速く、正確に、効率よくできることがこれまでの社会における優劣のつき方だったわけですが、他人といかに「異なれるか」という尺度は近年ますます重視されるようになってきました。
あなたの何気ない日々だって、きっと他の誰にも送ることができない毎日の連続であり、そこには価値が生じるのです。
『水曜日が消えた』は、多重人格モノのサスペンスではありますが、それぞれの曜日の人格を1人の人間に見立てて考えると、そんな人生の教訓のようなものが感じられる作品でもあったのではないでしょうか。
異なるものを排除しない寛容さと共生
(C)2020「水曜日が消えた」製作委員会
もう1つ本作が多重人格モノでありつつも描こうとしたのは、現代に通じる「他者への寛容さ」や「共生」のメッセージだと感じました。
今まさに、アメリカでは黒人と白人が分断され、一部のデモ参加者が暴徒化するなど緊迫した状況が続いています。
トランプ大統領の就任以降、分断の溝が深まっていましたが、警察官による絞殺事件で一気にその火種が炎上したというような印象を受けましたね。
日本でも、新型コロナウイルスによる影響が拡大していく中で、他者への不寛容さがすごく目立ちました。
インターネット上のコメントや書き込みを見ていると、解雇されたり、給料がストップしてしまったりした雇用者たちに、そんなのは自己責任だと切り捨てるような発言が散見されました。
親の収入のストップや自身のバイト収入が途絶えたことにより、大学を辞めざるを得ない状況に追い込まれた学生に対しても、「いくらでも稼げる方法はあるでしょ。」ですとか「そんなの自己責任じゃないか。」という想像力と寛容さに欠ける意見が目立ちました。
このように、他者と共生していくということは非常に難しいことですし、寛容さが必要とされます。
ただ、自分が困っていない状況にいることにある種の優越感を覚え、困窮している人を「あなたが劣っているからだ」と平気で排除しようとするような論調が出てくるのは、非常に恐ろしいことではないでしょうか。
さて、『水曜日が消えた』の物語に話を戻していきましょう。
今作では「僕」の中にある7つの人格が、1つの人生を共有しているということになります。
お互いにコミュニケーションを取ってはいるのですが、彼らはあくまでも自分の過ごす1日のことしか考えていないわけで。それ故に「月曜日」の破天荒な人生のしわ寄せを「火曜日」がいつも受けることとなるのです。
彼らの生き方って、すごくお互いに対して無関心であり、不寛容であると個人的には感じました。
ゴミ捨てや通院など、利他的に行動していた「火曜日」でさえも自分が水曜日を謳歌できると分かると、「水曜日」の人格のことなど何も考えないようになり、自分が有する2日間を謳歌するようになりました。
しかし、彼は他の曜日の人格たちがそれぞれにかけがえのない1日を過ごしていることを知り、それが決して奪われてはならないものだと気がつきます。
自分だけが良ければ良いのではなく、同じ空間に、社会に共生している他者と共に幸せになろうと「火曜日」は動き始めるんですね。
一方で、彼の前に立ちはだかるのが「月曜日」の人格であり、彼は対照的に自分の人格で全ての曜日を塗りつぶしてしまえば良いと考えています。
それは、共生を放棄して、自分だけが幸福な人生を送れれば良いという考え方でもありますね。
物語のクライマックスでは、そんな2つの人格が相まみえ、そして「火曜日」が最終的には勝利することとなります。
「火曜日」の提案通り、記憶のフィルターを自分たちが自由に操れるようになった彼らは、7つの人格で矯正することに成功しました。
そうして、彼らは自分の人格の時だけ良い時間を過ごせれば良いという考え方ではなくて、「僕」という1人の人間を構成する7つの人格がお互いに全員が幸せになれるように生き始めたのです。
環境問題だってそうですよね。自分が良ければ良いんだという考えの人たちが集まった社会では、この問題に立ち向かうことはできません。
「持続可能」というのがこれからの世界の大きな潮流になるわけですが、そんな社会を作っていく上では、自分という枠組みを超えて、自分が地球という惑星を構成する一人格、一個人であるという自覚が求められるでしょう。
『水曜日が消えた』において7つの人格を構成していたように、私たちはこの社会をそして地球という惑星を70億人を超える人間で構成しているんですよ。
自分の人格だけが恩恵を得るのではなく、7つの人格が構成するたった1人の「僕」として幸せな人生を送れるように、彼らが手を取り合う本作の着地点は、極めて重要なメッセージを有していたのではないかと個人的には感じました。
中村倫也という俳優の愛嬌
(C)2020「水曜日が消えた」製作委員会
映画版はノベライズ版と比較すると、かなり演出も凝っていて、それでいて作劇が淡々としているので、非常に見やすいと感じました。
ただ、やはり映画で見て良かったと思えるのは、中村倫也さんの芸の多彩さに圧倒されたからなのかなと思います。
当ブログ管理人が一番ヤバかったのは、「火曜日」が図書館スタッフの瑞野から取り置きの確認の電話がかかってきて、それを切った後の「お待ちしていてください♡」ですね。
あまりの「キュートさ」に思わず惚れましたがな…。
そういったある種の「あざとさ」を嫌味なく、ストレートに出せてしまうのが、中村倫也という俳優の恐ろしさなのかもしれません。
ただ、「火曜日」を演じている時は、そういったキュートさや母性本能をくすぐるような情けなさを全面に出しているのですが、「月曜日」を演じている時は別人のようにその演じっぷりが変わります。
チャラ男と言えばチャラ男なのですが、パッと見ただけで悪意を内包しているような、でも本当は良い奴そうな、そんな「月曜日」の人格をこれまた見事に表現しています。
実は、ノベライズ版の方には、映画版の終盤にあった「月曜日」が「火曜日」のふりをして、一ノ瀬から過去の事故について話すという描写はなかったんです。
ノベライズ版の方のクライマックスは、映画版でもあった夜の図書館からの帰り道のシーンでして、2つの人格がスマホを使って対話をしつつ、主導権争いを繰り広げ、最終的には「月曜日」が手術に同意し、「火曜日」が病院を訪れるという内容でした。
一方の映画版では、最終的には改心した「月曜日」が病院で手術に同意して、7つの人格を蘇らせるというものに改変されていました。
この改変は、おそらく「月曜日」が「火曜日」のふりをするというシチュエーションを取り入れることで、中村倫也さんの演技を活かしたかったのだと思います。
こういうギャップを「くっきりと」出せるのは、素直に素晴らしいと思いますし、これって単に「火曜日」と「月曜日」の人格の演じ分けをしただけではありません。
というよりも「火曜日」のふりをした「月曜日」を演じているわけで、ここに難しさがあると思うんですよね。
「火曜日」っぽく振舞いながらも、その実は「月曜日」であるという設定にリアリティを持たせるには、並外れた演技力が必要になります。
そういう意味でも、この設定と展開を違和感なくこなし切った中村倫也さんの才能に圧倒されました。
加えて、ラストの7つの人格の演じ分けも見事ですよね。
同じ顔、同じ身体で7つの人格に差異をつけるって、これまた難しいことだと思います。
この7人の日常を次々に映し出していくという描写もノベライズ版では、特に明記されていなかった内容なので、中村倫也さんありきの演出ではあると思います。
そういう意味でも中村倫也という役者の真髄を味わうことができる映画だと感じました。
この映画は「木曜日」を主人公にすると面白いかも?
今作はサスペンス的な紹介をされていますが、基本的には中村倫也さんの演技を堪能するための作品であり、ヒューマンドラマ的な側面が強い内容となっています。
そういった作風になっている最大の要因は主人公が「火曜日」の人格だからなのではないでしょうか。
この作品は、基本的に「月曜日」VS「火曜日」の構図を作り上げる方向に物語を展開していくのですが、「火曜日」はどちらかと言うと自発的に「正義」の側へと目覚めていくように作られています。
つまり、自分自身の体験から毎日を自分が支配出来たら幸せだろうという想像も働きつつ、それぞれの曜日に人格があり、そして大切な人がいることを自覚し、7つの人格の共生を目指しました。
こういう展開にすれば、当然ヒューマンドラマ的になっていくことは明白でしたね。
一方で、SFサスペンスとしてもっと劇的な展開と言いますか、謎多き展開にしていくのであれば、「木曜日」あたりの人格を主人公にするのも面白かったのではないかと思います。
「木曜日」というのは、全人格を抹消して自分だけが生き残ろうとする「月曜日」と、それに対抗する「火曜日」のちょうど境目に立ち位置を持つ人格です。
そのため、この人格を主人公に据えれば、かなりサスペンスフルな展開に持って行けると思いませんか。
まず、「火曜日」が侵食をし始めることによって、水曜日の行動パターンが変化しますから、前日の様子が微妙に変化し始めたことから、自分自身には変化は起きていないけれども、何かが起きているという状況には気がつくことになります。
そして、「月曜日」が日、土、金と侵食してい来ることによって、自分よりも後の曜日の行動パターンが変化していく事にも気がつくことになりますね。
そんな状況が生じることによって、「木曜日」の人格は自分自身には何も起きていないのに、他の曜日の人格で何かが起き始めていることに気がついていくわけです。
そして、いよいよ「月曜日」や「火曜日」がじわじわと「木曜日」を侵食し始めますよね。
この時に、ようやくここまでに起きていた異変の正体に気がつくことになり、更には「月曜日」と「火曜日」のどちらに自分がつくのかという大きな問いが現前します。
そこから、「木曜日」が「月曜日」と「火曜日」のどちらの側についたのかを、鑑賞している我々をも欺くような形で、「木曜日」がを演じている?はたまた「木曜日」が「火曜日」を演じている?の境界をぼやかして、展開していくと、よりSFチックでサスペンス色の強い内容になったかもしれません。
今回の『水曜日が消えた』はあくまでもヒューマンドラマ的でしたので、「火曜日」という自分自身が身をもって他の曜日の浸食の主体にいる側の人格を主人公に据えました。
ただ、ミステリやサスペンス、SFのセオリーで言うと、むしろ浸食される側の曜日でかつ、「月曜日」と「火曜日」の中間に位置する「木曜日」がメインに据えられていた方が面白いのではないかと感じます。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『水曜日が消えた』についてお話してきました。
まずは、ノベライズ版を読んで感じたことや考えたことを綴らせていただきました。映画版についてはおそらく公開日に鑑賞できると思いますので、その後に追記したいと思います。
多重人格モノというありきたりな設定と、『セブンシスターズ』からの設定の大幅な踏襲こそありますが、描こうとしたものにはすごく意義がありますし、この作劇の仕方は新しかったのではないでしょうか。
映画版の見どころは、何と言っても中村倫也さんの1人7役でしょうね。
7つの人格は、どれも個性的でとりわけ月曜日の破天荒っぷりは際立っているので、そういった演じ分けを彼がどのようにこなしてくるのかにも注目です。
ミステリやサスペンスとしてみると、正直物足りない部分はありますので、あくまでもヒューマンドラマとして見ていただくのが良いのかなと個人的には思っている次第です。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。