みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』についてお話していこうと思います。
というのも『若草物語』そのものの映画化は初めてではなくて、これまでにも何度か上映されており、それらは英題『Little Women』、邦題『若草物語』で統一されています。
今回も英題そのものは『Little Women』で変わりないのですが、日本で展開していく際に、同じタイトルだとライト層を困惑させてしまう可能性もあり、あまり良いとは言えません。
そういう意味で、今回の邦題は、サブタイトルに「若草物語」という文言を残しつつも、『ストーリーオブマイライフ』という言葉をメインタイトルに据えました。
タイトルが発表された当時、映画ファンからは余計なものを足しすぎだのと微妙に批判を浴びていた邦題ではあるのですが、これが意外と悪くありません。
それどころか、むしろ、今回の映画版が、原作に対してどんな意図で脚色したのかを見事に汲んだタイトルになっていて、非常に好感が持てました。
今回の『ストーリーオブマイライフ』は、脚色という観点において非の打ち所がないほどに素晴らしいのですが、残念ながらアカデミー賞レースでは、『ジョジョラビット』に敗れてしまいました。
一方で、衣装やロケーション、舞台演出も含めた映像面での評価も格段に高く、アカデミー賞では衣装賞を獲得しています。
個人的には、2020年のアカデミー賞作品賞ノミネートの中でも『マリッジストーリー』と並んで、大好きな作品になったので、賞レースではあまり主役に躍り出ることができなかったのは、悲しいですね。
それでも、本作が素晴らしいことに変わりはなく、1人でも多くの方に本作が如何に素晴らしいのかということを届けたいと思い、今回記事を書かせていただきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となります。
作品を未鑑賞の方はお気をつけくださいませ。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』
あらすじ
南北戦争時代のアメリカで、父が黒人奴隷解放のため北軍の従軍牧師として出征したことにより、マーチ家は母と四人姉妹での暮らしを強いられる。
暮らしは決して裕福ではなかったが、四人姉妹のメグ、ジョー、ベス、エイミーは毎日を楽しく過ごしていた。
彼女たちの隣にある豪邸は、ローレンス家のもので、そこの1人息子であるローリーは4人姉妹と仲が良く、いつも一緒に遊んだり、映画館やパーティーに出かける仲だった。
裕福なセレブの生活に強く憧れるメグ。小説家として大成したいと願うジョー。ピアノの演奏に秀でているが病弱なベス。画家としての才能に恵まれたエイミー。
それぞれに自分のなりたいイメージを持ち、成長していく4人は、どこかそんな毎日が永遠に続くと思っていた。
しかし、時は流れ、徐々に彼らの人生には転機が訪れていくこととなる。
メグはジョン・ブルックというローリーの家庭教師を務める男性に心惹かれるも、彼は貧しい身であり、結婚しても裕福な生活は望めません。
ジョーは、自分になかなか自信が持てず、友人の作品だと偽って出版社に持ち込んだり、編集者の大幅な校正をあっさりと受け入れてしまったりしています。
ベスは近所の人たちにも優しく接していたが、それが引き金となり、猩紅熱をもらってしまい、それ以来衰弱してしまう。
エイミーは画家としての才能を見出され、マーチおばの寵愛を受け、更には裕福な男性からプロポーズされるのだが、そんな人生を受け入れるかどうかで葛藤する。
そんな「Little Women」たちが、どう生き、そしてどんな人生を選び取るのかが、2つの時間軸を交錯させながら繊細に描かれていく…。
スタッフ・キャスト
- 監督:グレタ・ガーウィグ
- 原作:ルイザ・メイ・オルコット
- 脚本:グレタ・ガーウィグ
- 撮影:ヨリック・ル・ソー
- 美術:ジェス・ゴンコール
- 衣装:ジャクリーン・デュラン
- 編集:ニック・ヒューイ
- 音楽:アレクサンドル・デスプラ
原作を著したのは、もちろんルイザ・メイ・オルコットで、この『若草物語』という作品は、彼女の自伝的作品であるとも言われています。
とりわけ、主人公的位置づけであるジョーの姿は彼女に重なりますし、彼女自身の妹が病弱であり、早くに他界してしまったという状況がベスというキャラクターに反映されていますね。
そして、監督を務めたのはグレタ・ガーウィグです。
前作である『レディバード』は、北米の大手批評家レビューサイトRotten Tomatoesで長らく100%の支持を維持するという快挙を成し遂げ、話題になりました。
初監督作品にして、既にディレクションに自信がみなぎっており、「女性の物語」を描く視座もオリジナリティがありました。
2作続けての高評価ですし、ハリウッド映画界において彼女の監督としての評価はある程度ゆるぎないものになったと言えます。
撮影には『胸騒ぎのシチリア』や『パーソナルショッパー』のヨリック・ル・ソーが、編集には『レディバード』のニック・ヒューイがクレジットされていますね。
そしてアカデミー賞衣装賞を獲得するなど、高く評価されたのが、ジャクリーン・デュランの仕事ぶりですね。
時代考証や原作へのリスペクトが際立っていることはもちろんとして、本作の映像のトーンや温度感を邪魔せず、それでいて登場人物のキャラクター性も殺さない絶妙な「淡さ」を孕んだ衣装を50種類以上も今作のために作成しています。
また、劇伴音楽には『グランドブタペストホテル』や『シェイプオブウォーター』など、何度もアカデミー賞レースを賑わせてきたアレクサンドル・デスプラが加わり、作品を彩りました。
- ジョー:シアーシャ・ローナン
- メグ:エマ・ワトソン
- エイミー:フローレンス・ピュー
- ベス:エリザ・スカンレン
- ミセス・マーチ:ローラ・ダーン
- ローリー:ティモシー・シャラメ
- マーチ叔母:メリル・ストリープ
ベテランで言えば、言わずも知れたメリル・ストリープの存在感は圧倒的ですし、2020年のアカデミー賞助演女優賞を『マリッジストーリー』にて受賞したローラ・ダーンの演技も際立っています。
一方で、若いキャスト陣も実力派が揃っていて、主演には『レディバード』でも主演を務めたシアーシャ・ローナンが起用されました。
そして他の姉妹には、『ハリーポッター』シリーズや『美女と野獣』のエマ・ワトソン、期待の若手女優エリザ・スカンレン、『ミッドサマー』で一気に注目されたフローレンス・ピューなどが顔を連ねます。
また、四姉妹とは切っても切り離せない関係であるローリーを『君の名前で僕を呼んで』のティモシー・シャラメが演じました。
原作の方にこんな一節があります。
エイミーは、ローリーが帽子もかぶらず日光をあびている姿を見て、ほんとうのイタリア人みたいだと思った。「そうしていると、まるでお墓の上でねむっている騎士の像みたいだわ。」
(ルイザ・メイ・オルコット『続若草物語』より)
この風貌を再現出来てかつ永遠の少年感を持った俳優ってティモシー・シャラメしかいないんじゃないだろうかとすら思ってしまいます…。
(映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』より引用)
だからこそ、今作における彼は、もうドハマりしていて原作のローリーがイメージそのままに具現化したような印象すら受けました。
『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』解説・考察(ネタバレあり)
脚色や原作の違いに見る現代性とリスペクト
今作『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』を見ていて感じるのは、この作品が、非常に脚色という観点において優れていることです。
もちろん何でもかんでも原作から変えてしまっているというわけではなくて、重要な部分はそのままにしつつ、グレタ・ガーウィグ自身の作家性や現代性が宿るように丁寧なアレンジが為されています。
今回はいくつかの観点に分けて、ジョーは自分にとってヒーローのような存在だったとコメンタリーの中で語っていた彼女がルイザ・メイ・オルコットの原作をどう残し、読み替えたのかを分析していきます。
全体の展開についてはそのままに
基本的に物語そのものを見ていて、大きく原作から変えてある部分があるとは感じませんでした。
原作に登場した細かいエピソードを、多少のカットはありつつも丁寧に拾い上げて、1本の映画にしているという印象を受けます。
しかし、独特だったのは現在軸と過去軸の物語の構成の仕方ですね。
原作は、『若草物語』→『続若草物語』という順番になっていて、基本的には四姉妹が10代半ば付近だった頃のエピソードが先に描かれたうえで、成長した後の物語が語られるという構成になっていました。
一方で、『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』では、現在軸と過去軸をクロスさせて描く、独特な物語の展開方法を選択しています。
つまり、内容的には『若草物語』→『続若草物語』→『若草物語』→『続若草物語』の流れが繰り返されるようなものになっているわけです。
この構成にする上で、1つ乗り越えなければならない壁は、間違いなく役者の存在でしょう。
なぜなら、今作は過去軸と現在軸で同じ女優を起用しています。とりわけフローレンス・ピューなんて物語の過去軸では12歳の役で、現在軸では19歳になりますから、それを1人で演じているという点で、如何に難しいタスクであるかが伺えます。
しかし、本作のメイクや衣装、そして何より役者自身の見事な演じ分けによって、その壁の乗り越えたことで、独特な物語構成が成立しました。
とりわけ個人的にこの構成が一番機能していたと感じたのは、ベスの死を巡る対比です。
過去軸でベスが猩紅熱を患い、生死の境界を彷徨いながらも何とか一命をとりとめるシーンで、ジョーが階段を下りていくと、そこにはミセス・マーチとハンナとベスの3人がお茶を飲んでいるという描写がありました。
このシーンでは、暖色系の照明が用いられており、非常に温かな家族の風景という印象を強く与えてくれます。
しかし、その直後にインサートされた現在軸のシーンでは、同じように眠りから覚めたジョーが階段を下りていくと、そこにはミセス・マーチがただ1人いるだけです。
照明も喪失感を強く感じさせるような、冷たい白色光に切り替わっており、直前の過去軸のシーンと対比させることで、「ベスの死」を言語化することなく、観客に伝えることに成功しているのです。
また、基本的には現在軸を生きている四姉妹が7年前~の過去の出来事を回想するような形で描かれています。
そのため、現在軸の物語が動いたタイミングでそれに紐づく過去の記憶が描かれるという構成になっていて、彼女たちのナラタージュを覗いているようなそんな印象を受けました。
例えば、メグは現在軸において裕福な経済事情ではないのに、友人に嫉妬して50ドルもするドレス用の生地を購入してしまい、夫に強い失望を与えました。
この時に、思い出された過去軸の出来事は、彼女が社交会に招待された際に、自分のドレスがみすぼらしいと感じ、裕福な女性からドレスやアクセサリーを貸してもらい見栄を張ってしまったことをローリーに指摘された一件です。
この出来事が根底にあったからこそ、メグは現在軸において自分の虚栄心のために、夫や家族に迷惑をかけてしまったことを反省し、次の選択をすることができました。
『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』は、現在軸で何かに行きづまった四姉妹が過去の出来事を思い出し、そしてそれが現在軸での選択や前進に繋がるように構成されているんですね。
ですので、一見すると原作をほとんど踏襲した映画版に見えるのですが、決してそうではなくて物語の構成の面で、非常に趣向が凝らされています。
原作のセリフへのリスペクト
これは、Blu-rayのコメンタリーの中で、監督がこだわったと語っている部分でもあります。
『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』では、原作の『若草物語』の言葉やセリフに敬意を払い、できるだけ変えることなく脚本に持ち込んだと言います。
それはルイザ・メイ・オルコットという人物に、グレタ・ガーウィグ自身が強い敬意を持っており、彼女の語る言葉にこそ意味があると考えていたからでしょう。
しかし、原作のセリフをそのまま持ち込んでいる部分が多い一方で、セリフの発話のさせ方にひと工夫を加えたのが、微妙な脚色になっています。
メイキング映像の中では、まるでオーケストラの指揮者のように、指示を出すグレタ・ガーウィグの姿が捉えられていました。キャスト陣はミュージカルのようだったと語っていましたね。
(映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』より引用)
例えば、ジョーの抱える感情の吐露である終盤のシーンのセリフを抽出してみましょう。
They have minds and they have souls, as well as just hearts.
And they’ve got ambition and they’ve got talent, as well as just beauty.
And I’m so sick of people saying that love is just all a woman is fit for.
I’m so sick of it.
(ワンテンポ置いて)
But I’m… I’m so lonely.
(映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』より引用)
この一連のセリフなのですが、上記に色分けしたように、実に英語として美しい響きになるように計算されたセリフです。
例えば「They have 」「they’ve got」「I’m so sick of」という表現を繰り返し登場させることで、韻を踏んでいるような形になっていますよね。
また「(as well as) just」も繰り返し登場していて、これらの語がセリフにリズム感を生み出しているのが分かるでしょうか。
加えて、同じような表現を流れるようなセリフ回しで発生させつつも、一番重要な「But I’m… I’m so lonely.」の部分では、言葉にする前にシアーシャ・ローナンが絶妙な「ため」を作っています。
その上で「But」という強調かつ逆説の言葉を入れて、ここがセリフの力点なのだということを明確にしているわけです。
こういうセリフ回しって、本当に素晴らしくて、英語として非常に美しく、聞いていてスッと心に刺さります。
そうなんですよ。この言葉は『Rose in Bloom』というルイザ・メイ・オルコットの他の作品からの引用になっております。
Neither should it be for a woman, for we’ve got minds and souls as well as hearts; ambition and talents as well as beauty and accomplishments; and we want to live and learn as well as love and be loved. I’m sick of being told that is all a woman is fit for!
(『Rose in Bloom』より)
似たような表現が多く登場していますし、これは紛れもないルイザ・メイ・オルコットの言葉です。
これをグレタ・ガーウィグがリズムが生まれるようにアレンジしたものが、映画版でのセリフになっているわけで、このアレンジが如何に素晴らしいかを物語っています。
微妙な改変に伴う現代性の付与
そして、『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』が素晴らしいのは、何と言ってもオリジナル版に忠実でありつつも、きちんと現在性を有して、アップデートされた内容になっている点です。
今作は、南北戦争時代のアメリカを舞台にした作品なので、時代的には1860年代~であることが分かります。
この時代性を考えてみた時に、アメリカでは、1833年にオベリン・カレッジ(オーバリン大学)が男女共学を採用したのが、女子教育の先駆事例でしたが、まだまだ一般的ではなかったという背景が見えてきます。
そこから1865年頃までにかけて、徐々に女子教育が一般的になっていったというのが、歴史的な流れになるでしょう。
実はそれを踏まえて、原作と映画版を比較してみると、微細な違いがあることに気がつきます。
終盤にジョーが子どもたちのために学校を作ると宣言するシーンがありますよね。ここのセリフを比較してみましょう。
まず映画版の『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』では次のようになっています。
I’d like to open school. We never had a proper school, and now there are women’s colleges opening. There should be a school. For Daisy.
I’ll open a school for boys and girls both.
(『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』より引用)
一方で、原作の方のジョーのセリフは微妙に違います。
Boys. I want to open a school for little lads – a good, happy, homelike school, with me to take care of them and Fritz to teach them.
(ルイザ・メイ・オルコット『Little Women』より引用)
原作では、「girls」という言葉が実は用いられていないのです。
このように、原作における「学校を作りたい」というジョーの思いそのものは全く改変されていないのですが、微妙なところに、現代に生きる私たちにも受け入れられ得るような価値観のアップデートを施しているわけです。
そして、何と言っても「女性の物語」ということで、グレタ・ガーウィグの卓越した視座がしっかりと発揮された内容になっている点は事実でしょう。
本作が、現代にも通じる「女性の物語」の物語としてどう優れていたのかについては、最後にお話させてください。
コピーライトを手放さないという選択
(映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』より引用)
今作のクライマックスにあたるジョーの出版社の編集長とのやり取りは、脚色として非常に素晴らしいと言えるでしょう。
そもそも、こういった脚色ができたのは、この『若草物語』という作品そのものがルイザ・メイ・オルコットの自伝的小説であり、また彼女自身を投影したキャラクターがジョーであるというコンテクストがあったからです。
冒頭のシーンで、ジョーは自分の作品に対して大量の朱書きを入れられてしまいながらも、僅かなお金のために作品を編集者に売り渡し、その権利をあっさりと放棄してしまいました。
この描写は、彼女が友人の代理を名乗っていることも相まって、自分自身の物語に自信が持てていない、ないし自分という存在が価値のあるものに思えないという印象を与えます。
では、これと対比的に描かれた終盤のシーンではどうなっているかと言うと、ジョーは自分が著した『Little Women』という作品のコピーライトを自分自身で持ち続けるという決断をします。
当然、著作権を手に入れられないわけですから、出版社としては印税のみを彼女に支払うこととなるわけです。
この場合、本がたくさん売れればジョーの実入りは多くなりますが、ほとんど売れなかった場合は結果的に著作権を売っていた方が良かったということになりますね。
そんな状況下でも、彼女がコピーライトを手放さずに、自分の物語は自分で「own」するのだという決断を下したシーンが、本作の力点になっていることは明白でしょう。
『Little Women』という作品は、そもそもルイザ・メイ・オルコットが自分の経験談を投影しながら著した日常の連続のような内容でした。
ですので、当時アメリカで流行していたような刺激的な作品とは明らかに一線を画しており、フィクションを編集する立場から言えば、あまり価値がない作品と言わざるを得なかったのではないでしょうか。
それでも、今作の中で大人ではなく、子どもが純粋な目で見て楽しめたということがトリガーとなり、出版する運びになっていきました。
『ハリーポッター』も出版社に勤める人たちの子どもに受けたことがきっかけで、出版の運びになったと言われています。
さて、そんなあまり価値の内容に感じられた作品が小説となり、出版社に持ち込まれて書籍として世に送り出され、後にベストセラーとなるわけですよね。
そう考えると、この作品が伝えようとしたメッセージというのは、誰のどんな人生にだって「価値」は確かにあるのだということではないでしょうか。
誰だって、自分の人生はつまらないとどこかで思っていて、他人の人生や物語に憧れるものです。
それでも、あなたのその些細で何気ない日常の連続にも人を惹きつける何かがあって、そこには確かに「価値」があるのだと『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』は訴えているように感じられます。
だからこそ、簡単に自分の人生の主導権を他人に渡してはいけませんし、他人に従属するだけの人間にはなってはなりません。
大切なのは、自分自身の人生を自分で「own」することなのですから。
こういうメッセージを直接的に表現するのではなく、ジョーが自分の著書のコピーライトを手放さないという描写を通じて、さりげなく伝えているのもグレタ・ガーウィグの手腕が光ったポイントだと思いますね。
「自立した女性」という像に押しつぶされないように生きて欲しい
(映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』より引用)
さて、最後に本作が「女性の物語」として、何を訴えかけようとしていたのかについて言及してみようと思います。
近年、ディズニー映画をはじめとしたハリウッド映画が、旧来的な女性像からの脱却を訴え、「自立した女性像」を打ち出した作品を次々に製作していますよね。
もちろん、従来的な「女性像」に対するカウンターとしては、そういったアプローチは有効でしょう。
ただ、個人的に懸念しているのは、こういった状況が「自立した女性像」だけが正しいのだというある種の強迫観念のように聞こえてしまうことです。
つまり、従来のビジョンへのカウンターへと傾倒しすぎるがあまり、かえって多様性を否定するという状況に陥りかねないのではないかという懸念を抱いているんですね。
だからこそ、次なる「女性の物語」は、より多様性を担保する内容になっていくのではないかと、個人的には考えております。
従来的な女性の在り方を「悪」とし、「自立した女性像」だけを「正」とするのではなく、個人の選択によってどんな生き方もが「価値」を持つという視座を示していくわけです。
それを巧く体現しているのが、グレタ・ガーウィグの手掛けた『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』だったのではないでしょうか。
とりわけ主人公であるジョーは、「自立した女性にならなければ」「結婚して良い妻になることだけが女性の在り方」という考え方に押しつぶされそうになっています。
それが正しいことなのだと信じていますが、その生き方を貫こうとするたびに追い詰められ、孤独に苛まれていきました。
そうして、最終的にはジョーもフリッツ・ベア教授と「Under the Umbrella」の章で劇的に結ばれるわけですが、ここの描写の仕方が本当に巧いんですよ。
まず、出版社の編集長の男性が、ジョーに対して「フィクションにおける女性の登場人物が迎える結末は結婚か、死か。」というある種の旧来的な価値観に基づく、発言をしていましたよね。
本作の結末の描写を一見すると、彼女がその価値観に迎合したように感じる方もいるのではないでしょうか?
確かに彼女は、「フィクションにおける女性の登場人物が迎える結末は結婚に」という編集長の言葉を受け入れたという「結果」だけを見れば、迎合しているようにも見えます。
ただ、その決断に至った「プロセス」は自分自身の感情や人生ありきですよね。
つまり、自分なりに人生において最も望む決断をした結果が、たまたま出版社の編集長の旧来的な価値観に基づく発言の意図に重なっただけなんです。
彼女は、編集長の言葉に象徴されるような、旧来的な女性の生き方を拒んでいました。しかし、自分の人生の中でその決断が苦に感じられるようになってきたわけです。
そういうプロセスを経て、自分の意志で下した「結婚」という決断は、「フィクションにおける女性の登場人物が迎える結末は結婚に」という発言への迎合では断じてないわけですよ。
こういう構図にしてあるのが、グレタ・ガーウィグの「女性の物語」への視座の傑出した点だと思いました。
例え、「自立した女性」という新しい女性像に迎合しなくとも、自分自身の選択や決断によって導き出される自分の在り方は、どんなものであれ「価値」があるんだという彼女なりの思いが強く感じられる「脚色」だったと言えるのではないでしょうか。
ただ、面白いのが、オリジナルのスクリプトを見ると、ジョーもフリッツ・ベア教授と「Under the Umbrella」の章で劇的に結ばれる描写や彼女が学校を設立し、子どもたちに囲まれて幸せに暮らす様子については「THE PRESENT IS NOW THE PAST, OR MAYBE FICTION」や「FICTION(?)」と書かれています。
つまり、ジョーが選択した道かもしれないし、これから選ぶ道なのかもしれない一方で、映画版の彼女が選ばなかった道かもしれないという描写の仕方をしているんですね。
この点の解釈が揺れるように今回のグレタ・ガーウィグの「若草物語」は作られています。
原作者のオルコットはジョーと異なり、生涯結婚しなかったと言われています。そのため、今作のジョーがより原作者に近いのだとすれば、結婚するという価値観を「選択の1つ」として価値づけしつつも、選ばなかったという可能性も仄めかされているわけです。
この点で、私は『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』を「女性の物語」としても高く評価していますし、オープンエンドとしても見事だったと思います。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『ストーリーオブマイライフ わたしの若草物語』についてお話してきました。
衣装や照明も含め、映像が圧倒的に素晴らしいのは、本作の特徴です。
ただ、それ以上に、グレタ・ガーウィグのディレクションや脚色が圧巻で、『若草物語』をなぜ現代に蘇らせる必要があるのかという点で、非常に意義のある内容だった感じました。
既にハリウッド映画界を代表する女性監督だと思いますが、今後もっと注目度が上がっていくと思いますし、近いうちにアカデミー賞監督賞や作品賞といった主要部門をかっさらう人になると思います。
ぜひ、本作をきっかけに知った人がいれば注目していただきたいですし、前作の『レディバード』も素晴らしいので、こちらもチェックしてみてください。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。