『プリズナーズ』ネタバレ解説・考察:聖書や神話のモチーフが織りなす信仰とその歪みの物語

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『プリズナーズ』についてお話していこうと思います。

ナガ
ドゥニ・ヴィルヌーブ作品の中でも特に脚本の力が傑出した1本だよね!

2時間30分を超える長尺ではありますが、終始緊迫感と居心地の悪さが持続するサスペンスないしヒューマンドラマの傑作たる作品です。

ドゥニ・ヴィルヌーブ監督の作品は、正直に申し上げてハズレが全くなくて、どれもハイレベルな作品となっております。

個人的には『ボーダーライン』が映像的な衝撃も相まって1番好きなのですが、『灼熱の魂』『メッセージ』を初めとする他の作品も言うまでもなく優れています。

今作の素晴らしい脚本を手掛けたのは、アーロン・グジコウスキで、彼は今作のスクリプトを2007年から書き始め、そして映画が公開されたのが2013年ですから、かなり熱を込めて仕上げた作品であることが分かります。

そして、撮影には、ドゥニ・ヴィルヌーブ監督作品では、いまやお馴染みのロジャー・ディーキンスが起用されています。

また、キャスト陣も名優が集結していて、特にメインキャラクターの2人を演じたヒュー・ジャックマンジェイク・ギレンホールの演技は傑出していたように思います。

ナガ
とりわけヒュー・ジャックマンという役者はこの映画には欠かせなかったよね!

というのも、彼は『X-MEN』シリーズでウルヴァリンの役を長きにわたって演じてきた人物であり、『レミゼラブル』などでもそうですが基本的に「善人」ないし「正義のヒーロー」のイメージが強い役者なのです。

この役者そのものが内包するイメージが、今作の物語の中で、どんどんと覆されていくように設計されていて、そこが大きな見どころにもなっています。

そういう意味でも、本作の主人公は彼でなくてはならなかったと、そう思いますね。

そして、今作を読み解いていく上では、キリスト教や聖書的な世界観、ギリシア神話、北欧神話といった様々な観点が必要となります。

この記事では、その辺りの点も踏まえて解説を加えつつ、一体『プリズナーズ』という作品が何を描こうとしたのかに迫って行きたいと考えております。

今回の記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。

ナガ
さて、今回の記事はいきなり本論から入りますよ!




『プリズナーズ』解説・考察(ネタバレあり)

本作に登場する聖書的・神話的モチーフの数々

さて、『プリズナーズ』という作品には、さりげなく聖書や神話からの引用たるモチーフやシンボルが登場します。

これらの1つ1つには、一見すると大きな意味はないように思えるかもしれませんが、物語を読み解いていく上では実は重要な意味合いを持っているのです。

ここからは、全てのモチーフに言及できるわけではないのですが、当ブログ管理人が気がついた範囲でお話していければと思います。

 

鹿

涸れた谷に鹿が水を求めるように神よ、わたしの魂はあなたを求める。 神に、命の神に、わたしの魂は渇く。 いつ御前に出て神の御顔を仰ぐことができるのか。

(旧約聖書「詩篇」42章より)

聖書に「鹿」という生き物は何度か登場しますが、やはり最も有名なのは、これでしょうね。

この一節における「鹿」は自分の前にどんなに願っても、なかなか現れてくれない神の存在を探し求める生き物として描かれていると言えます。

そう考えると、『プリズナーズ』における主人公のケラー・ドーヴァーに重なる部分も感じますよね。

なぜなら、彼は熱心なキリスト教信者であり、聖書の教えを心から信じており、自分の娘が誘拐されるという事件に直面しても当初は神に救いを求めていたような人物だからですよ。

しかし、彼は自分の息子と共に森の中で1匹の鹿を射殺しています。

これは、ケラー・ドーヴァーが神の救いの到来にすがることを諦め、暴力行使で何とか自分の力で娘を助けようとするようになるという展開を暗示しているような象徴的なシーンです。

「神を追い求める生き物=鹿」を殺害するという構図は、実に示唆的であることが分かります。

ナガ
そして、宗教的な意味に限定せずとも、このシーンは実に見事なんだよ!

まず、ドーヴァー親子が鹿を撃つときには、こういったショットが使われています。

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そして、見事に息子が鹿をしとめるわけですが、仕留めたその直後にショットが急に切り返されて、森の抜こう側からドーヴァー親子を伺うようなアングルへと転じるのです。

これは、先ほどまで「狩る側」にいた彼らが、後に「狩られる側」に転じることをも予見させるショットの使い方なんですよ。

さらに言うと、このアングルは、後の重要なシーンと連動していることが分かります。

それは、ドーヴァーらの子どもたちが最初にキャンピングカーと邂逅するこのシーンですね。

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上記で引用した画像を見ると、子どもたちの存在が手前に大きく映し出されており、その中央に小窓がありますよね。

そして、映画をご覧になられた方は、もうお気づきだと思いますが、この直後のシーンで、ショットが切り替わり、突如としてキャンピングカーの小窓から子どもたちを伺うショットに転じるのです。

この2つの全く異なるシーンをアングルでもって対比させることで、実は『プリズナーズ』という作品が今から何を描こうとしているのかを明示しているんですね。

狩る側、狩られる側、捕える側、捕えられる側が目まぐるしく入れ替わっていく物語構造が、カメラワークやショットの切り返しで表現されているのはお見事でしょう。

 

キリスト教ないし聖書の世界観において、「蛇」と聞けば、当然『創世記』のアダムとイヴの物語が浮かぶと思います。

蛇は彼らに善悪の知識の木の実を食べるように唆した邪悪な生き物であると言われていますよね。

さて、今作『プリズナーズ』において「蛇」が登場するのは、物語中盤に真犯人として、捜査線上に浮上したボブという青年の自宅でした。

奥の部屋に大量に置かれていたのは、トランクケースで、その中には蛇とそして豚の血が付着した状態の誘拐された子供たちの衣類が大量に詰め込まれていました。

私たちは、主人公のケラー・ドーヴァーや刑事のロキ側の視点で、物語を見ていますので、どうしても気がつきにくく、「蛇=悪」だからボブは悪人だと単純に決めつけてしまいそうになります。

しかし、重要なのは、むしろ彼が蛇をトランクケースの中に閉じ込めようとしていたという事実です。

物語を見進めていくと、ボブもまた真犯人であるホリー・ジョーンズの被害者であったことが明らかになりました。

では、彼は一体何をしていたのかと言いますと、それはある種の「呪術的儀式」なのではないでしょうか。

「蛇をトランクケースの中に閉じ込める」という行為は、キリスト教ないし聖書的な世界観における邪悪を封印しようとする意味合いを孕んでいます。

ちなみに「蛇」とほとんど同じタイミングで、豚の頭や豚の血が登場していたかと思いますが、聖書における「豚」は汚れた動物として扱われており、「蛇」に通じる部分があります。

そう考えると、ボブという青年にとって、かつてホリー・ジョーンズとその夫に誘拐された経験は、精神が崩壊するほどに恐ろしいものであり、それ故に彼は、必死にその邪悪な記憶を閉じ込めようとしているように思えてきませんか。

彼に庭には、子どものマネキンが埋められていましたが、この描写も、物語の真相を知ってから見ると、事件の本質を突いていたことが分かりますよね。

つまり、一見すると、ボブは邪悪な存在に見えるのですが、実は邪悪な存在を閉じ込め、祈り、そして事件の真相を誰かに伝えんとするが如く庭にマネキンを埋め込んでいる「聖人」なのだということが分かります。

ナガ
だからこそ、彼は自殺を選ぶことになるのか…。

彼の行いは、聖書ないしキリスト教の教えに基づいている様でもあり、そう考えるとイエスが十字架に架けられたが如く、自らを十字架に架けて、子どもたちに降りかかる悪を退けようとしたのではないかと推測できます。

この映画では、善と悪が見事に反転するような作劇が為されており、そこが非常に優れた点でもありますね。



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本作『プリズナーズ』は意識していないと、何となく見進めてしまいそうですが、やたらと「木」が印象的に登場する映画であることが分かります。

木ないし森は、様々な信仰・宗教において生命や神が宿ると言われますが、聖書的な視点から言うなれば、やはり旧約聖書『創世記』の生命の樹は有名ですよね。

旧約聖書の世界観においては、「命の木」と「善悪を知る木」が登場し、後者の木になる果実が「禁断の果実」であるということになるわけです。

木というモチーフは神聖であり、しばしばイエスの十字架とも結びつけられる物質であり、さらに「生命の樹」は宇宙や世界の中心にあるとされることもあります。

さて、では本作においてたくさん登場する「木」に纏わるシーンからいくつかピックアップして考えてみましょう。

まず、感謝祭を祝っているドーヴァーと隣家のフランクリン・バーチの一家がトランペットを吹いているシーンで、庭に生えている木の幹をクローズアップした意味深なシーンがありましたよね。

この時に映し出された立派な木の幹は、彼らが敬虔なキリスト教徒であり、その教えを守って生きる者たちであることを象徴しているようでした。

一方で、その後キャンピングカーで逃亡を図ろうとしたアレックスが森に突っ込み、木の枝が豪快に折れるシーンがありますよね。

ここでは折れた木(ないし木の枝)が印象的に映し出されますが、先ほどのシーンと対比されて、アレックスという男がキリスト教や聖書の教えに反抗する者であるというミスリードを誘うようになっていました。

しかし、面白いのは、「木」というモチーフを木材として扱う者たちがこの映画には、2名登場する点です。

1人目は、アレックスを浴室に閉じ込めるための木の扉を作成したケラー・ドーヴァーですよね。

そしてもう1人が多くの子どもたちや最終的にはケラーまでもを地中に木の扉で蓋をして、閉じ込めていたホリー・ジョーンズでした。

冒頭のシーンでは、ケラーの信仰心を体現する形で、太く立派な木の幹が映し出されましたが、それを自らの力で捻じ曲げ、都合の良い形に仕立て上げたのが、木材ということになるでしょうか。

一方で後者が、木材というアイテムを使っていたのは、キリスト教や聖書の教えに対する抵抗心の表出に思えました。

そう考えると、キリスト教や聖書の教えに背いた者と「木材」というモチーフが連動しているのは偶然とは思えません。

また、映画における善と悪の反転という観点で読み解いていくと、冒頭にケラーの車に吊り下げられていた木製の十字架が重要な役割を果たすこととなります。

というのも、彼にとってあの十字架は自分の信仰の表れであり、あの中には彼の信じる神がいると考えられますよね。

しかし、彼は自分の娘が誘拐されたことで取り乱し、アレックスという罪なき者を拷問にかけるという暴挙に及ぶわけですが、彼はアレックスを木製の牢獄に閉じ込めるんですよね。

そして、当初は高圧的な態度を取っていたにもかかわらず、徐々に彼を拷問するでもなく、もはや彼にすがり、許しを請うように語りかけ始めるのが何とも印象的ではないでしょうか。

ここに彼の「信じるもの」の変遷が見事に宿っているようにも感じられました。

元々は敬虔なキリスト教徒で、聖書の教えに忠実であった彼が、その教えから逸脱し、信じるようになったのは自分自身が作り上げた「アレックスが犯人である」という仮説です。

彼は、車の中にぶら下がった木製の十字架が象徴するキリスト教の教えを放棄し、自らが木材で作り上げた木の牢獄の中にいるアレックスを信じるしかなくなってしまったんですよね…。

本作における「木」というモチーフは、多くのシーンに登場し、そして非常に重要な役割を果たしていることが伺えます。

 

ロキ

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冒頭のシーンで東洋の世界観である干支の話をダイナーの店員にしていたり、様々な宗教のモチーフのタトゥーが体に刻み込まれたりしているのが、本作に登場する警官のロキですね。

ロキ『マイティ・ソー』シリーズを見ている人にはお馴染みかもしれませんが、北欧神話に登場する悪戯好きの神で、「終わらせる者」としても知られています。

そこから考えても、このキャラクターがキリスト教の教えに忠実なケラー・ドーヴァーとは、一線を隔す存在であり、それでいて事件を終わらせるキャラクターであることも仄めかされているのです。

冒頭の占いのシーンでも、彼が大して「神からの啓示」のようなものを信じていないことが伺えますよね。

そういう意味でも、キリスト教に忠実なケラー・ドーヴァー、キリスト教に抵抗するホリー・ジョーンズ、そして信仰に囚われないロキという関係性は興味深いものだと言えます。

彼は、警官ではありますが、基本的に暴力に訴えることを惜しまない側面があり、それがきっかけで容疑者のボブを自殺させてしまうという失態を犯します。

それでも、自分の能力と勘と、集めてきた捜査資料を信じ続け、自らの力で事件の真相へと到達し、見事にケラーの娘を救出しました。

 

隻眼とオーディン

今作『プリズナーズ』において妙に意味深に扱われるのが「隻眼」というモチーフです。

劇中で「隻眼」ないしそれに近い状況になっていた人物は、実は2人いました。

1人目はケラー・ドーヴァーに拷問をされていたアレックスですね。彼は、拷問時に殴られ続けた影響で片目が腫れてふさがっていました。

加えて、木の牢獄の中に閉じ込められてからは、覗き穴からしか光が入り込まないために、片目だけしか映し出されないという状態になっていたのも極めて意図的だったように感じます。

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そしてもう1人が、終盤に事件の真相に辿り着いた際にホリー・ジョーンズの銃撃を目の上に受けて、血で片目がふさがったような状態になったロキですね。

ナガ
では、この2人に一体どんな共通点があるのかを考えてみましょう!

これについて考えていく上で、ロキと関連させて北欧神話におけるオーディンが「隻眼」であることに思い至りませんか。

彼がなぜ「隻眼」なのかと言いますと、それは知恵を得るために片目をミーミルの泉に捧げたからです。

知恵と引き換えにして、片目を差し出したのがオーディンであるという神話の設定を踏まえて、ロキとアレックスについて考えてみましょう。

彼らの共通点は、ズバリ「事件の真相を知っている(知った)」ということだと思います。

事件の真相というのは、ホリー・ジョーンズが犯人であるということよりは、むしろ「ケラーの娘の居場所」ということになるでしょう。

そのため、彼女が犯人であることには辿り着いたものの、娘の居場所にまでは辿り着くことができなかったケラーは目ではなく足を撃たれています。

アレックスは、彼の娘の居場所について「迷路の中にいる」と語っており、それを聞いたものにはよく分からない説明ではありますが、彼自身は「ケラーの娘の居場所」を知っていることが伺えますね。

加えて、ロキもまた「ケラーの娘の居場所」を突き止めることになるわけで、そして突き止めた瞬間に「隻眼」状態になりました。



信仰の歪み、信じるものに「囚われた者たち」の物語

さて、ここまではモチーフに注目して、「点」で本作を読み解いてきましたが、ここからは映画の全体を通じて何を描こうとしていたのかを読み解いていきます。

哲学者のフランシス・ベーコンは、こんな言葉を残しています。

人間の知性は、いったんある意見を採用すると(一般に受け入れられている意見であれ、自分が賛同できる意見であれ)、ほかのあらゆるものを引っ張り出して、その意見を擁護するようになる。それを否定する重要な事例がいくつも見つかったとしても、それを無視・嫌悪するか、何らかの違いを持ち出して除外・拒絶する。こうした巧妙かつ悪質な態度により、先に採用した意見の権威が損なわれないようにしているのである。

さて、本作におけるケラー・ドーヴァーという主人公は、聖書やキリスト教を熱心に信仰する者として描かれています。

ハリウッド映画の根底には、常にキリスト教や聖書の考え方があり、それが「正義」や「善」として描かれるのも日常茶飯事と言えるでしょうか。

しかし、1つの教義や信仰に強く帰依しすぎるのは、非常に恐ろしいものでもあります。

なぜなら先ほどのフランシス・ベーコンの言葉にもあるように、自分の信仰に疑わしい部分などないと思い込んでしまい、それを正当化するためであれば、他の信仰や宗教を排除・迫害しても良いという考え方に繋がるからです。

劇中に、ホリー・ジョーンズの夫を殺害したキリスト教司祭が登場しましたよね。

彼は、司祭としてホリー・ジョーンズの夫から「告白」を受けたわけですが、彼のあまりにも残酷な行いの数々や以後もまだ子どもたちに手を出す危険性があることを鑑みて、殺人に手を染めてしまいました。

ナガ
信仰に最も近い人間が、殺人を犯して教えに背いているというのが何とも皮肉的だね…。

一方で、ケラー・ドーヴァー「アレックスこそが犯人であり、娘の居場所を知っている」という考え方を絶対に疑おうとはしません。

例え、他に真犯人が出てきたとしても、彼が犯人であると証明する根拠は何もなかったとしても、彼は自分が最初に信じた考え方を絶対に曲げるようなことはしないのです。

彼はその考え方を正当化するために、アレックスを拷問にかけるという非人道的な行動に出るわけですが、この行動はある種の「テロリズム」ですよね。

イスラム教徒の過激派たちは、「ジハード」の解釈に固執し、テロ行為により暴力を他者に向けることが、教義的に「正しい」と思って行動しているわけですよ。

そういう意味でも、『プリズナーズ』という作品は、何かを強く信じれば信じるほどに、自分と違う考えの人間に対して非寛容でかつ排他的になるという人間の性質を見事に描いていると思います。

 

ラストシーンは何を意味していたのだろうか?

さて、本作のラストは観客に解釈を委ねるいわゆる「オープンエンド」だったように思います。

とりわけ印象的だったのは、「笛」の音でしょうか。これは地下に閉じ込められたケラー・ドーヴァーが娘の持っていたホイッスルを必死に吹いていることを仄めかしていましたね。

ナガ
旧約聖書にはしばしば、「笛」という言葉が登場します。

ラッパと角笛の音をもって王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。(旧約聖書:詩篇:98章:6節)

鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。緒琴ととをもって主をほめたたえよ。(旧約聖書:詩篇:150章:4節)

民はみな彼に従って上り、を吹いて大いに喜び祝った。地は彼らの声で裂けるばかりであった。(旧約聖書:列王紀上:1章:40節)

これらを見ていくと、どうやら「笛」は神を祝福するためのツールなのだということが何となく理解できます。

そう考えると、ケラー・ドーヴァーが自分のキリスト教や聖書に対する信仰を見失いながらも、最後にはその教えに戻って来られたということを笛の音が示唆しているようにも感じられました。

ケラーという名前はドイツ語にすると「Keller」であり、この単語には「地下室」という意味があります。

つまり、ケラー・ドーヴァーホリー・ジョーンズによって「地下室=ケラー」に閉じ込められるという状況は、彼が自分のあるべき場所に戻ってきたことを表現している様でもあるんですよね。

ナガ
見失っていた自己を取り戻したとでも言えるのでしょうか…?

今作には、やたらと迷路のモチーフが登場しました。

迷宮ないしラビリンスと言えば、ギリシア神話では、ミーノータウロスが閉じこめられたとされるクノッソスの迷宮が有名です。

(クノッソスの迷宮)

迷宮に閉じ込められたミーノータウロスを王子テセウスが対峙しに行き、討伐した後にアリアドネーの糸を辿って脱出するというエピソードがあるのです。

基本的に、神話的モチーフとしての迷宮では、中心部に何らかの目的とするものが置かれている、存在していることが多いと言われています。

スカンディナビア半島に伝わる象徴的な迷路では、女性がその中心に閉じ込められており、入り口と出口は1つとなっています。

(John Kraft 『The Goddess in the Labyrinth』より)

ナガ
これは、本作に登場する迷路のイメージに凄く近い気がするね!

さて、『プリズナーズ』に話を戻しますが、本作には物理的・視覚的に迷宮そのものが登場することは決してありません。

ナガ
映画『シャイニング』の庭園のラビリンスのようなものが登場したりということはないんだね!

本作における迷宮はむしろ「人間の脳」を投影したようでもあり、とりわけ心理的なものに思えますね。

そしてそんな迷宮の中心に、ケラー・ドーヴァーは自分の娘を配置したわけですが、追えば追うほどに迷い込んでしまい、次第にアレックスに暴力的な振る舞いをするようになったわけです。

一方で、事件の捜査をしているロキも、捜査が混線し、迷路の中に放り込まれたような気分になっていたのは事実でしょう。

しかし、ボブの自殺で思わず道を踏み外しかけたものの、彼は決して迷うことはなく、最終的には己の信念でその迷路からの脱出を選択します。

彼の信じる者は目の前の人をどうにかして助けたいという信念であり、その強い思いが、片目がつぶれ、ぼやける視界の中で「Emergency」と書かれたゴールへと辿り着かせました。

(C)2014 Alcon Entertainment, LLC. All rights reserved.

では、ケラー・ドーヴァーはというと、彼は迷路の中に迷い込み、そしてホリー・ジョーンズによって幽閉されたことで、誰かの助けなしでは、そこから出られない身となってしまいました。

ただ、彼には娘の持ち物だったホイッスルが残されていましたよね。これはテセウスにとってのアリアドネーの糸に近いアイテムだと思います。

信じるものを失いながらも、聖書的な生き方に背きながらも、それでも家族に会いたい、家族が大切なんだという彼の強い思いが「音」となって、「救い=ロキによる発見」を引き寄せようとしています。

誰もが、信仰や思想、価値観といった柵に囚われていて、それを壊さないために、他者を攻撃し、自らを守ろうとする傾向を持っています。

そう考えると、信仰や思想、価値観といったものは私たちを「プリズナーズ」に仕立て上げていると言えます。

しかし、『プリズナーズ』は私たち人間が「迷路」に囚われ、そこからは出ることができないのだという絶望を描いたわけではないと思っています。

むしろそこからの脱出を示唆するような仄かな希望を描いているのではないでしょうか。

ナガ
先ほど紹介した神話的モチーフにおける迷路も入り口と出口は同じ場所だったんだよね!

ロキが刑事としての信念に立ち返ることで、事件を終わらせることができたように、ケラー・ドーヴァーが家族という存在の本当の大切さを噛み締め、救いが示唆されたように、きっと私たちは原点に立ち返って見た時に、大切なものに気がつくことができるのでしょう。

そして、ロキのように自分の力でそこに辿り着くことができる者もいれば、ケラーのように誰かの力を借りなければならない者もいます。

正しいや間違い、善や悪、そういった二元論で物事を捉えるのではなく、自分が本当に大切なものは何かという原点に立ち返ったときに、救いの象徴である「アリアドネーの糸」は確かに私たちのところに届くのではないでしょうか。

そんな予感を漂わせながら、仄かな希望と共に幕を閉じるこの映画のラストは、非常に印象的、深い余韻を残してくれました。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は『プリズナーズ』についてお話してきました。

ハリウッド映画では、基本的に聖書的な生き方や考え方が「善」とされる傾向が強く、だからこそこういった聖書やキリスト教的な正義や善に懐疑的な視線を向ける映画は重要だと思います。

1つのことを強く信じるということは、言い換えると、それ以外のものを強く拒絶するということでもありますよね。

それは、非常に危険なことであり、こういった信仰の在り方が今のテロリズムを生んでいるという見方もできると思います。

私たちは「絶対的に思えるものほど、案外脆いのだ」という考えをきちんと持っていかなければなりません。

絶対的に思えたものがボロボロと瓦解していき、その瓦礫の中で、ケラー・ドーヴァーが本当に大切なものに気がつくことができたように…。

きっと、自分にとっての「絶対性」が崩壊し、脱構築された時に、本当に大切なものは見えてくるのだと、そう言われているような気がしました。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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