喫茶店でコーヒーを飲んで、まだ明るい頃に劇場に入り、約2時間映画の世界を旅する。
「旅」を見終わって、劇場の暗い通路を抜けると、すっかり日が沈んでしまっていて、辺り一面暗闇に包まれているなんて体験をすることがしばしばある。
そんなときには、ふとこんな考えが頭をよぎってしまうものだ。
もしかして、自分はタイムスリップしてしまったんじゃないだろうか?と。
暗く閉じた空間で映画に没頭していると、ふと時間が経つのを忘れてしまう。映画を見ている時間は一瞬のように感じられるものだ。
だからこそ、劇場を出たとき、様変わりした街の風景を見て、突然、時間の流れを痛感させられるのである。
映画『夏へのトンネル、さよならの出口』は、まさしくこんな映画館体験にリンクする作品であると言える。
本作のタイトルはロバート・A・ハインラインの名著『夏への扉』に着想を得たものであろう。どちらも「時間」をキーワードにした浦島太郎的な物語であり、共通点は多い。
また、「扉」ではなく「トンネル」にしたのは、「トンネル」が日本人になじみの深いモチーフだからだろう。
川端康成の『雪国』の書き出しの一節である「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」は言うまでもなく有名だ。
他にも宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』でも異世界への入口はトンネルであるし、Jホラーでもトンネルが日常と非日常の境界として扱われることは珍しくない。
このように日常から異世界へと足を踏み入れる体験、そしてそれに伴う浦島太郎的な時間のギミックを掛け合わせたのが、『夏へのトンネル、さよならの出口』であるとタイトルからも推察できる。
本作の物語を一言で表すならば「恋が導く転回の物語」であると言えるだろうか。
恋は私たち自身を作り変えてしまう。あるいは世界の見え方を変えてしまう。そして時間の流れすらも変えてしまうのかもしれない。
物語の中にも、そして映像の中にもたくさんの「転回」が散りばめられている。
今回の記事では、そんな『夏へのトンネル、さよならの出口』を「恋が導く転回」の物語として紐解きながら、本作が「転回」を通じて、何に目を向けさせようとしたのかを考えてみたいと思う。
目次
映画『夏へのトンネル、さよならの出口』感想・解説(ネタバレあり)
過去を求めるカオル、未来を求めるあんず
本作の中心となる舞台は「ウラシマトンネル」と呼ばれる不思議なトンネルである。
このトンネル内は、外界とは異なるスピードで時間が流れており、トンネル内で過ごす10秒が外の世界の数時間に匹敵するといった具合になっている。
そんな「ウラシマトンネル」には、ある不思議な力があり、トンネルの奥に進むと、その人の望むものが手に入るのだという。
主人公のカオルは、幼いころに妹を亡くし、それがきっかけで家族が壊れてしまったことで、心に深い葛藤を抱えている。
一方で、ヒロインのあんずは、祖父の夢を継いでマンガ家になるというビジョンを実現することに強い執着を持っている。
そんな2人が、出会い、共同戦線を組んで、この「ウラシマトンネル」を攻略し、自分たちの望むものを手に入れようと試みるのが、本作の大筋である。
しかし、この2人は同じ場所で、同じ目的のために戦っているように見えて、実は真逆の方向を向いている。
カオルは、妹の死に伴って家族が壊れてしまってから、現在あるいは未来に執着がなくなり「過去」に生きる人間になってしまった。
(印象的な花火のシーン:2人は花火を見ているが、切り取るアングルによって2人が別々の方向に向かっていることを暗示している。)
Ⓒ2022 八目迷・小学館/映画『夏へのトンネル、さよならの出口』製作委員会
彼の父が別の女性と再婚しようとしていることが分かったとき、彼はその光景に激しい嫌悪感を覚え、思わず嘔吐してしまう。
父は、家族が壊れたことを受け入れて、前に進もうとしているが、カオルは違う。
「過去」に生きる彼が望むのは、幸せだった「過去」を取り戻すことであり、かろうじて残された幸せの欠片を踏みにじるような父の行動が許せないのだ。
また、あんずと夏祭りに出かけ、海岸で花火を見ているときも、彼はあんずと過ごす今(現在)というよりは、その先に妹と過ごした「過去」を見ている。
このように、劇中で描かれるカオルは、現在に執着がなく、未来にも希望を見出せない一方で、過去だけをじっと見つめていることが分かる。
では、あんずはどうだろうかというと、彼女もまた現在にあまり執着を持っていない。この点はカオルとの共通点だろう。
(印象的な花火のシーン②:先ほどのカオルのカットに呼応している。カオルと逆の方向を向いているように見える。)
Ⓒ2022 八目迷・小学館/映画『夏へのトンネル、さよならの出口』製作委員会
しかし、彼女はマンガ家として大成するという夢を持っており、それを実現するための力が手に入るのであれば、今の自分を犠牲にすることも厭わない姿勢なのである。
あんずは過去や現在に執着はなく、ただ自分の夢を実現する力を手に入れること、つまり未来の方だけを見つめている。
そんな2人が「ウラシマトンネル」に投影するもの、望むものは当然真逆のものだ。
カオルが望むのは幸せな「過去」を取り戻すことであり、あんずが望むのは幸せな「未来」を掴む力を手に入れることである。
2人の望みのベクトルは決して交わらない。そして平行線のままだ。
この事実は、あんずが自分のマンガを出版社の編集者に認められ、彼女が現在に一抹の未練を感じ始めてから決定的になる。
そんな状況を変えるのが、まさしく「恋が導く転回」であった。
恋がもたらす世界と時間の転回
「ウラシマトンネル」で手に入れられるのは、自分が捨てたもの、失ったものだけだ。
それを象徴するように、「ウラシマトンネル」には落葉樹がずらりと並んでいる。
水面に漂うもみじは木から落ちたもみじの葉は、枯れ葉になることなく、最も美しい瞬間の朱色を保ち続けている。
木から落ちてもなお朱色を保ち続けるもみじは、手放した、あるいは失った瞬間の色と温度、質感を保ったまま存在している過去の遺物たちに重なると言えるだろう。
カオルが「ウラシマトンネル」に入ってから、2人が歩んだ道のりは対照的な方角に向かっていった。
あんずはマンガ家として大成したとまでは行かないまでも、マンガ家になるという自分の夢を叶え、それなりに充実した生活を送っている。彼女は未来へと前進していったのだ。
一方で、カオルは「ウラシマトンネル」の中で過去に向かって歩き続け、8年もの年月を費やして、望んでいたカレン(妹)との温かな時間を取り戻す。
2人は共に過ごした「現在」から、「未来」へあるいは「過去」へと旅立ち、それぞれの目的地に辿り着いたわけだ。
しかし、望むものを手に入れたのに、2人の世界には何か決定的なものが欠けている。夢を叶えた先の時間は空しさを孕んでいた。
足りないものは、明白である。2人で過ごした、過ごすはずだった時間だ。
今作の中盤に非常に印象的な演出がある。
無人駅のホームのベンチに座るあんずとその傍らに立つカオル。2人は自分たちが出会ったときのことを回想し、そのときのやり取りを繰り返していた。
出会った日は雨で、彼らの背後に植えられたひまわりたちはだらりとうなだれていた。
一方で、彼らがそのやり取りを繰り返したその日は快晴で、カオルがあんずに手渡すのは、安物のビニール傘ではなく、一輪のひまわりである。
そして、2人が笑いあったその刹那、突然カメラが反転し、2人の背後にあるひまわりをフレームいっぱいに捉えるのだ。
(海を望むカットから一瞬でこのひまわりに満たされたカットへと切り替えている。青から黄色へ。色相環で見ても真逆の色に突然ジャンプするこの演出は、映画の空気感をガラリと変える役割を果たしている。)
Ⓒ2022 八目迷・小学館/映画『夏へのトンネル、さよならの出口』製作委員会
まさしく視覚的にも、物語的にも映画のターニングポイントとなる瞬間である。
この「転回」は、陰鬱だった世界を明るくし、希望に満たす、あるいは世界の見え方を根本から変えてしまった。
辿り着いた幸せで、だけど空しい時間の中で、2人は思い出す。
夏の香り。咲き誇るひまわり。出店が並ぶお祭りの風景。夜空を彩る花火。そして、それらを共に経験した大切な人のことを。
恋は世界の見え方を変えてしまう。そして、時間の流れさえも変えてしまう。
真逆の方向へ歩き続けた2人は、その先で自分の世界に欠けているものを悟り、それを手に入れるために「転回」する。
過去、現在、未来。そうした既存の時間の概念はもはや彼らを縛ることはできない。
ただ「彼のいる時間」へ、あるいは「彼女のいる時間」へ向けて2人は走り出す。
平行線だった飛行機雲は、方角を変え、もうすぐ交わろうとしている。
おわりに:本作の「転回」が私たちに見せたもの
今回は映画『夏へのトンネル、さよならの出口』について話してきた。
CLAPが作り出す美しくも儚い夏の風景は、私たち日本人の記憶の片隅にある心象風景を呼び起こし、無性に懐かしさを感じさせる。
その中で、私たち観客もまた自分の過去を思い出し、失くしたもの、捨てたもの、選ばなかったものたちと直面する。
それらを手に入れられるのだとしたら、自分は今という時間を犠牲にすることができるのだろうか。考えてみると、カオルの行動にも共感できるところも多い。
しかし、それらを手に入れることを介して、自分はまた失くしたもの、捨てたもの、選ばなかったものを新たに作り出してしまうのだということを覚えておかなければならない。
何かを手に入れるということは、同時に何かを手放すということであり、過去に手を伸ばすことは、現在や未来を手放すことでもある。すべてを手に入れることはできないのだ。
私たちは何かを手に入れようと試みるとき、ついその対象にばかり集中してしまい、周囲が見えなくなってしまう。
その過程で、自分が選ばなかったもの、あるいは失くしたものの存在には、後になって気がつくことの方がずっと多い。
だからこそ、何を手に入れるのか、何を選ぶのかも重要だが、それと同じくらい何を失くすのか、何を選ばないのかに目を向ける必要があるのだと思う。
『夏へのトンネル、さよならの出口』は失くしたもの、選ばなかったものへのまなざしを通じて、その大切さに気づかせてくれる作品だ。
そして、何より私はこの映画を映画館で見ることを推奨したい。
映画において、作品そのものは全てではない。
誰と見たか、何を飲みながら見たか、どんな環境で見たか、どんな気分で見たか。
それらを全て含んだ1つの「体験」の上に映画は存在しているはずだ。
スクリーンへと続く暗い〈トンネル〉を抜けて、あなたもまたこの不思議な体験の当事者となる。映画館は、そんな物語とのシンクロを実現してくれる空間である。
また、真夏の匂いが充満したこの映像作品の公開日を、盛夏を過ぎ、秋の気配を感じるようになったこの季節に選んだことを称賛したい。
なぜなら、本作は夏真っ盛りに見たい夏の映画ではなく、夏が得難いものになったときに見るべき夏の映画だからだ。
時間と空間。その全ての条件が、今、最適な状態にある。
ぜひ、今すぐにでも映画館へと走り出していただきたい。