『パンク侍、斬られて候』解説と考察(ネタバレあり):町田康が描く文学パンクとアナーキズム

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『パンク侍、斬られて候』についてお話していこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。その点を踏まえた上で読み進めていただけたらと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

正直映画としては0点です

(C)エイベックス通信放送

とりあえず略感程度でお話してみようかなと思います。はっきり申し上げますと、この映画の良いところの大部分はただ単に町田康の原作が面白いというだけなんですよね。

個人的には、あの原作をというよりは町田ワールドを一体どんなアプローチで映像してくるんだろうかという楽しみが大きかったんです。普通の神経なら実写化しようとは思わない世界観ですからね。だからこそ実写化に踏み切ったからには何か策があるんだろうと期待しましたし、『孤狼の血』で東映に対する期待値も上がっていました。

ただまさかここまで無策の状態で映画化に踏み切ったとは・・・。これが映画なんですか?映像に対して工夫があるわけでもなく、肝心なところは町田節のナレーションで誤魔化し誤魔化し。あまりにもお粗末すぎる出来栄えに、開始から10分ほどで劇場から飛び出したくなりました。

こんなビジュアルノベルみたいな作品を映画館で見るくらいなら、素直に町田さんが著した原作を読む方が何倍も有意義です。なぜこんな無難な手法で映画化に踏み切ってしまったんでしょうか?

『パンク侍、斬られて候』というタイトルに反体制的なパンクの文字が入っているにもかかわらず、この映画そのものが全く持ってパンクな作りになっていないという致命的な欠陥に思わず空虚な笑いがこぼれます。

町田康が描く文学パンクとアナーキズム

この作品を読み解く上で重要なのが、やはり原作を著した町田さんの文学的な方向性と思想ですね。これを知らないと、ただのぶっ飛んだ映画、で終わってしまう可能性があります。

今回は町田さんの他の作品にも少し言及しながら、『パンク侍、斬られて候』という作品が一体何を描いた作品なのかということについて解説と考察を加えていけたらと思います。

なぜ、本作には「猿」が登場したのか?

(C)エイベックス通信放送

まずこのトピックからお話していきましょうか。『パンク侍、斬られて候』という作品において印象的なのが「猿」という動物の存在です。これに関して、何の根拠もなく「猿」という動物が選ばれているわけではないことは何となく察しがつくでしょうか。

そもそも猿と人間はDNA的にはかなり近しい存在であることが判明していますよね。では人間とサルを隔てるものは何かと言いますと、それは大人数での協力行動が可能であることや言語の使用が可能であることが挙げられます。ただそれよりももっと大きな違いがあります。それが「想像力」ということになります。

人間は「想像力」のおかげで、大人数での協力行動を可能にし、言語を生み出し、そして社会を作り上げていきました。その中で人間特有のものとして生まれてきたのが「芸術」です。つまり映画や文学といったものです。これは「猿」には生み出せないものであり、人間特有のものであるというのが一般的な見方です。

ただ『パンク侍、斬られて候』に登場する猿のボスは人間の言葉を話し、大個体の集団の猿を統率し、そして芸術を嗜むんですよね。つまりさながら人間ということです。そして人間に加担し、人間のように社会を変動させようとしています。

しかし、猿たちはそんな不毛な人間たちの争いに失望して、人間の言葉を話すことを止め、天上へと去っていってしまいます。この猿たちの行動って、人間たちに対するパンクであり、そしてニヒリズム的な思想に裏打ちされているんですよね。「信じられるものは何もない」というスタンスです。

では、猿たちは一体何に対してパンクしているんだ?という話になりますが、これが人間が作り上げた芸術、とりわけ文学ということになるわけです。一見人間や人間社会を風刺している作品のようですが、この作品に関して言うならばむしろ文学パンクなんです。

猿たちは人間の作り上げる不毛な文学闘争に対して、言葉を話すことを止め、芸術を嗜むことを放棄するという形で反抗したわけです。

町田康とパンク

『くっすん大黒』という衝撃的なデビュー作で文学界に彗星のごとく現れた町田康ですが、彼はそもそも町田町蔵という名前でパンクバンドのボーカルを務めていた人なんですね。これが彼が後に手掛けることとなる「文学パンク」思想の源流にあるわけです。

パンク音楽というのは、そもそも反体制的で、アナーキズムを内包した音楽ジャンルと言われています。昨年公開された『パーティーで女の子に話しかけるには』という作品でもパンクロックが重要な役割を果たしましたが、既存の権力や支配に対して反旗を翻していくというスタンスが特徴的なわけです。

町田さんも当時そういった音楽に傾倒していたわけですが、彼はまず既存のロックに疑問を投げかけます。それがパンクロックですよね。ただその後に彼は既存のパンクロックにも疑問を感じるようになります。すると次に至るのはパンクパンクロックの次元です。そんな脱構築的な音楽性の転換を彼は繰り返していました。

その後『くっすん大黒』で作家デビューを果たすと、『きれぎれ』で芥川賞を受賞し、その地位を確固たるものとしました。

この『きれぎれ』という作品は、ほとんどストーリーが成立しているとも思えない何とも不思議な作品なんですよ。現実かと思っていたことが夢だったり、夢だと思っていたことが現実だったり、自分の身に起こったと思っていたことが他人に起きた出来事だったり、世界のレイヤーが二転三転して掴みどころがないんです。

それでも歌の歌詞の様な独特のテンポ感に支配された文体のリズム感と、ウィットに富んだ表現でサラリと読ませてくれます。そして、デビュー作の『くっすん大黒』と芥川賞受賞の『きれぎれ』はとりわけ社会の中流層に対する嫌悪の吐露となっています。

「やはりこの王国の現実の民草というものは大多数が愚民で、口当たりの良い言説はなんでもこれを食らい、紋切り型のロマン、月並みのファンタジーに酔いしれるバカ豚が多く・・・ (『きれぎれ』より引用)

この1節だけをとってみても、町田康の中流層に対する嫌悪感が浮き彫りになっているんですが、その対象の中心に文学やフィクションがあることも読み取れます。

『きれぎれ』の主人公は自分よりも数段劣っていると思っていたかつての同級生が凡庸な絵画で何となく社会の中流層の心を掴み、何となく人気になっていく様に強い嫌悪感を覚えています。そしてそんな芸術を盲目的に信奉する中産階級を衆愚であると一蹴しているわけです。

ただ面白いのが、この映画の主人公は中産階級を見下ろす立場というよりも、見上げる立場なんですよね。自分の生活は困窮しきっていて、だからこそ自分にはそんな斜に構えた批判をしている暇もないのです。町田さんは現代の文学の在り方に「パンク文学」でもって疑問を呈しながらも、自らもその後にその文学という枠組みに取り込まれ、「パンクパンク文学」の対象にされる日が来るだろうことも自嘲的に予見しているわけです。

だからこそ町田さんの文学的思想というのは、パンクロックの象徴であるアナーキズムですとかニヒリズム(虚無主義)というよりも、「何も信じられるものはないことを信じている」という点でポストモダニズム的とも言えます。

『パンク侍、斬られて候』に込められた文学パンク

さてここから詳しく『パンク侍、斬られて候』の内容に踏み込んでいきましょうか。いくつかの要素に言及しながら、本作が一体何を描いた作品なのかということを徐々に浮き彫りにしていきます。

まず、「腹ふり党」という謎の宗教組織が本作には登場します。この宗教組織の信条は、この世は巨大な条虫の胎内であり、この世にいることは無意味であり、腹をふることで、胎内から解脱し、真の世界に辿りつくというものです。

冷静に考えてみると、すごく阿呆な思想なんですが、多くの人々が何となく心惹かれて、何となく周囲に合わせて、何となく腹をふるんです。これって話題になっている文学作品に揚げ物の衣のようにへばりついてくる衆愚的な中流層、浮動層を表しているように思います。

(C)エイベックス通信放送

さらに言うならば、近年の文学が、如何に中身の素晴らしい作品を書くかということ以上に、中身が「腹ふり党」の思想のようにスカスカでも「愚かな」大衆を味方につけられたなら、成功してしまうというアイロニーも込められているように思います。

他にもこの映画の言葉って非常に面白いですよね。極めてステレオタイプな侍の世の中を舞台にしているにもかかわらず、そこに登場するキャラクターって極めて現代的な言葉遣いをしています。

これは我々が真実であると信じている歴史の妥当性すら確かでないにもかかわらず、時代劇の歴史考証の正確性が求められる時代劇というジャンルに対して、そんなことはどうでもいいと言わんばかりです。時代劇に不釣り合いな現代語の使用はこれまでの時代劇に対するまさにパンクです。

他にも文学に対するパンク要素がこの作品には隠されていますが、そもそも『パンク侍、斬られて候』という作品は『きれぎれ』何かと同様で主人公の十之進がその懐疑的視線を向ける役割を果たしています。

彼が『パンク侍』を自ら名乗り、内藤や大浦を手にかけることで、既存の時代劇の枠組みに反旗を翻し、さらには腹ふり党の信者たちを切り裂くことで衆愚たちを一掃しました。つまり彼はこれによって既存の権益に反抗する「パンク侍」という地位を確立したわけです。

ただ最後の最後で、「パンク侍」もまた斬られてしまうんですよね。「パンク侍」は「パンクパンク侍」に斬られるだけです。そして、「パンクパンク侍」は再び衆愚を先導するようなわざとらしいフィクションを(最後の青い空)構築していきます。

結局、何かに反抗して、新たな地位を確立しても、それに反抗する勢力が現れてそれを繰り返すだけなんですよね。何事もそういう風にして循環しているわけです。

町田さんの作品の面白さってただパンクであるだけではなくて、自分がパンクの対象にされることもまた念頭に置いた上で、作品を書いています。ここが彼の面白さです。

おわりに

皆さんはこの映画版の『パンク侍、斬られて候』についてどんな風に感じましたでしょうか。この映画が面白いと思った方は、ぜひぜひ町田康が著した本を読んでみて欲しいと思います。

日本にこんなに面白い文章を書ける人がいるんだと思わず感激してしまうと思います。少なくとも今作のような映画なのか小説なのかよくわからない中途半端な仕上がりで「町田節」を味わうなら、小説を読んで本物を味わってみてください。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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