【ネタバレ】『騙し絵の牙』感想・解説:吉田大八らしさ全開のエンタメを支えた編集の重要性

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『騙し絵の牙』についてお話していこうと思います。

ナガ
いや~やっぱり吉田監督の映画は面白いです!

ポスターをご覧いただけると一目瞭然ですが、とにかく今回の『騙し絵の牙』は登場人物が多く、その派閥争いや人間関係も入り組んでいるので、観客が1度見てスッと理解できるように見せるのは簡単なようで、意外と難しいのです。

だからこそ、今作のレビューを読んでいて、「よく分からなかった。」といった類の声が上がっているのをほとんど見かけない時点で、今作の脚本や編集は成功していると言えます。

ただ、ポスターや予告編が煽っている、内田けんじ作品や『ユージュアルサスぺクツ』のような作品全体がひっくり返るような「どんでん返し」を期待しすぎると肩透かしを食らうかもしれません。

まあこれに関しては、宣伝する側の戦略のせいでもあるのですが、基本的に『騙し絵の牙』という作品は、老舗出版社の派閥闘争を描いた作品です。

薫風社という有名出版社の社長が死去し、その後継を巡って巻き起こる権力闘争と、そこにジョーカー的な立ち位置で利害もよく分からないままに関わっている大泉洋演じる速水というのが作品の構造でした。

そして、この速水の行動や利害関係が謎に包まれており、それが後半になって明らかになっていくことを宣伝は「どんでん返し」的に打ち出しているわけですが、これは別に「どんでん返し」ではありません。

元々そういう作品だということをここでは改めて強調しておきたいですし、だからこそ、今作を評して「全然騙されなかったや。」みたいなことを言うつもりもないです。

だって、出版業界を描いたエンタメとして最高に面白いんですから。

ということで、今回はそんな『騙し絵の牙』について個人的に感じたことや考えたことをお話しさせていただきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『騙し絵の牙』

あらすじ

日本の文学業界を支えてきた老舗出版社の「薫風社」に突然の訃報が舞い込んでくる。

その剛腕でもって、社の一時代を築き上げてきた社長の伊庭氏が亡くなったのだ。

これにより、伊庭氏の後継を巡って社内で権力闘争がスタートする。

文藝誌「薫風」を社の軸としながら従来通りのやり方を維持しようとする常務の宮藤は、伊庭氏の子息である惟高に取り入り、権力を握ろうと画策していた。

一方で、叩き上げで専務にまで上り詰めた東松は編集者の速水を使って、社内の急進的な改革を進めようと画策していた。

そんな権力闘争が渦巻く中で、速水は廃刊の危機に直面しているカルチャー誌「TRINITY」の編集長に就任する。

同じような企画をルーティン的に作り出しているだけの現状に危機感を覚えた速水は、文藝誌部門から引き抜いた若手編集者の高野と彼女の人脈を使って、大胆な企画を打ち出す。

裏切りや陰謀が渦巻く中、起死回生のために打って出た速水の大胆な奇策は成功するのか…?

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:吉田大八
  • 原作:塩田武士
  • 脚本:楠野一郎 吉田大八
  • 撮影:町田博
  • 照明:渡邊孝一
  • 録音:鶴巻仁
  • 編集:小池義幸
ナガ
やっぱり吉田監督の手腕はキャラ数が多い作品で際立つね!

『騙し絵の牙』の原作を著したのは、『罪の声』などでもお馴染みの塩田武士さんですね。

原作がもともと大泉洋をイメージして主人公を「あてがき」した小説だったということで、彼を主演に据えて映画化に至ったのが何とも嬉しいです。

そして、監督・脚本を担当したのは、『羊の木』『桐島、部活やめるってよ』などで高く評価されてきた吉田大八監督です。

彼のこれまでの作品は、キャラクター数が多く、しかもその全員を掘り下げないと深みが出ないようなタイプの作品が多かったです。

今回の『騙し絵の牙』ももれなくそのタイプの作品なのですが、本当にバランスよく作られていましたね。こればっかりは流石の一言でした。

撮影監督には『FOUJITA』町田博さん、照明には『母と暮らせば』『家族はつらいよ』などで知られる渡邊孝一さんが起用されています。

また、本作『騙し絵の牙』の面白さを形作る上で重要な役割を果たした「編集」には、『告白』『来る』などの中島哲也監督作品には欠かせないピースである小池義幸さんが参加しました。

正直、今回の映画がここまでエンタメとして見やすく、そしてテンポが良く、それでいて面白い作品になったのかを考えてみると、やはり小池さんの尽力はかなり大きいと思います。

キャスト
  • 速水輝也:大泉洋
  • 高野恵:松岡茉優
  • 矢代聖:宮沢氷魚
  • 城島咲:池田エライザ
  • 郡司一:斎藤工
  • 伊庭惟高:中村倫也
  • 宮藤和生:佐野史郎
  • 神座:リリー・フランキー
  • 高野民生:塚本晋也
  • 二階堂大作:國村隼
  • 江波百合子:木村佳乃
  • 久谷ありさ:小林聡美
  • 東松:佐藤浩市
ナガ
とにかくキャストが豪華ですよね…。

まず、主人公は先ほどもお話ししましたが、原作であて書きされていた通り大泉洋さんが演じました。飄々としている感じが似合いますね。

そして、『桐島』以来の吉田監督作品への出演となったのが、松岡茉優さんです。

今や、人気女優の地位を確立しつつありますが、『桐島』の頃は本当に無名も無名で、モブに近い役ばっかり演じていました。

しかし、その頃から彼女の才能に目をつけていた吉田監督の作品に、こうして戻って来て、そして出色の演技を見せてくれたというのが何とも感慨深いものがあります。

宮沢氷魚さんや池田エライザさんらの若いキャスト陣の存在感もありつつ、要所要所で佐野史郎さんや佐藤浩市さんらベテランが締めるという非常に全体としてバランスの良いキャスティングになっており、物語に入り込みやすかったです。

個人的には、國村さんがこういうポップな役をやっているのが、最近の出演作から考えると新鮮で、面白かったです。



『騙し絵の牙』感想・解説(ネタバレあり)

大人数のキャラクターを適切に処理する吉田大八の手腕

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

さて、スタッフの紹介欄のところでも書きましたが、吉田大八監督のこれまでの作品の特徴は、とにかく多くのキャラクターの物語やバッグラウンドを同時多発的に処理していく必要がある物語が多いという点です。

彼が注目されるきっかけとなった『桐島、部活やめるってよ』もそうですし、その後手掛けた『紙の月』『羊の木』にしてもそうですよね。

こうした作品は、どうしてもキャラクターが増えすぎて、1人1人の物語が薄く感じられたり、扱いに差が出て掘り下げに過不足が出たり、キャラクターが多すぎて全体として散漫になったりと、すごくまとめ上げるのが難しい傾向があります。

上記のような理由で、映画として失敗しているなと感じる作品は多々ありますが、吉田大八監督の作品に関して言うなれば、「ハズレ」がないという印象です。

もちろん今回の『騙し絵の牙』においても、主人公的な位置づけにいるのは、速水と高野の2人ですから、この2人にスポットが当たる機会は必然的に多くなります。

しかし、吉田監督の作劇には、決してこの2人が「主人公」だとは、明確に区別しないようなところがあると思うんです。

つまり、登場人物全員にバックグラウンドと目的や理念があって、それに基づいて行動しているという大枠がきちんと示されているので、全員が「主人公」のように作品の中で躍動的に機能するように計算されているんですね。

例えば、高野の文藝誌部門での先輩にあたる江波百合子も高野と速水の物語を描きたいだけであれば、悪役に徹させても良かったわけです。

しかし、映画では、彼女がどんな思いで文藝誌を作っていて、どんな思いで高野と関わっていてといった部分がきちんと描かれ、さらには最終的に彼女が選択する道までもが示されています。

つまり、この映画の中に、きちんと江波という人物が「主人公」足り得るだけの情報がきちんと入っているわけです。

そして、彼女に限らず、他の多くのキャラクターについても、こうした情報が丁寧に描かれています。

吉田監督の映画の凄みないし強度は、登場人物が優劣なく、全員が「主人公」足り得るだけの物語を持っていることに起因しているのです。

誰にスポットを当てても、全員にきちんと物語があり、ちゃんと血が通っています。

だからこそ、彼の作品では、いつも登場人物が生き生きとしていて、不思議と「物語を見ている」「フィクションを見ている」という感覚から私たちを解き放ってくれるのかもしれません。

 

小池義幸が実現させた見やすさとハイテンポの両立

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

そして、『騙し絵の牙』において、何と言っても傑出していたのが、その「編集」です。

中島哲也監督作品に携わり、独特の緻密ながらもエキセントリックな編集を追求してきた小池義幸さんが今回の『騙し絵の牙』の編集を担当しました。

ナガ
改めて思うんですが、本当に巧いですね…。

劇中でリリー・フランキーさんが「結局、この人の仕掛けにハマった。」というセリフを口にする一幕がありましたが、観客はまさしくこの小池さんの仕掛けにハマってます。

まず、多くの人が指摘しているように、エンタメ対策として大量の情報を「見やすく」配置する手腕が卓越しています。

本作はかなり編集による繋ぎやカットのテンポが速く、それが観客を心地の良いリズムに乗せてくれるわけですが、それを追求しすぎると、今度は観客が物語に置いていかれてしまいますよね。

小池さんは、そうはならない絶妙なラインを突くのが巧いんですよ。つまりバランスが良いんです。

シーンやカットをかなり速いテンポで小気味よく繋いでいきながらも、重要な情報を提示する時はじっくりと見せてくれますし、登場人物の会話以外の視覚的な情報をインサートしながら展開してくれるので、非常に「見やすい」んですね。

そして、個人的に素晴らしいなと思ったのは、あれだけ高速でシーンとカットを繋いでいくのに、ちゃんと「間」や「タメ」を作って、観客の興味や疑問を掻き立てるような作りにしてあることです。

例えば、居酒屋を出た速水に非通知の着信がかかってきて、その後背後から何者かが忍び寄って来て彼に声をかけるシーンがありました。

このシーンには、2つの巧さがあります。

まず、映画の中盤に池田エライザさんが演じている城島咲が襲われるパートを同じような編集で演出していたため、その構図と重ねることで、観客に速水の身に何か危険が迫っていると邪推させることができる点です。

全く異なる2つの出来事を同じような見せ方と繋ぎ方で展開することで、観客の脳内で2つの事象が無意識のうちに結びつくように計算されています。

そしてもう1つが、あえてこのシーンでは声をかけてきた人間を明かさないという「タメ」ですね。

こうした「空白」を意図的に作り出すことで、観客はその先の物語において、この「空白」を埋めてくれることを期待しますし、何より自分の思考を働かせてその「空白」を与えられた情報から埋めてみようという心理が働きます。

つまり、映画の展開を観客が受動的に受け止めるだけでなく、観客が主体的に次の展開を追い求めてくれる興味と疑問を引き出すための「タメ」なんですよね。

こうした「間」や「タメ」は映画の至るところに散りばめられており、この仕掛けによって観客は無意識のうちの思考をこの映画に奪われてしまいます。

だからこそ、先ほども言ったように「結局、小池さんの仕掛けにハマった。」という具合に、私たち観客はこの編集の巧さに完全に乗せられてしまっているわけです。



原作からの脚色があまりにも巧い!

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

ナガ
何と言っても『騙し絵の牙』は原作からの脚色が優れてるんだよね!

まあ、吉田監督の映画って基本的に原作を大幅に改変してきますが、それにしても映画版は良くまとまっています。

原作の高野は、映画版とは全然違っていて、そもそも速水の不倫相手という設定まで付与されているキャラクターです。

さらに、原作では速水のパーソナルな部分にまでもっとフォーカスされていて、彼の家族の問題にまで言及されていたりしますが、映画版では丸ごとカットされています。

また、原作では薫風社から独立して、編集者時代の人脈をフル活用して自分のビジネスを立ち上げるという役回りを務めて居たのは高野ではなく、速水の方だったんですよね。

つまり、映画版は原作で速水というキャラクターが持っていた要素を半分高野に割り振って、この2人を似て非なる人物として位置付けることで、全く新しいドラマに仕上げているのです。

この2人が、互いに編集者として野心があるのに、そのアプローチやベクトルが異なっているためにぶつかり合うという構造を作り上げたのが、もう巧いとしか言いようがないですね。

速水と高野は、互いに編集者として新しいものを作りたい、今求められるものを届けたいという熱意があります。

しかし、速水は周囲の人間を平気で自分の目的のために利用し、使い捨てますし、Amazonとの契約もそうですが、大きなプロジェクトを動かしていくという志向が強い人間です。

一方の、高野はまず目の前の人やものを大切にするという志向が強く、だからこそ彼女は、自分に冷たく当たってきた先輩編集者を独立後に自分の経営する書店で従業員として雇っています。

ナガ
こういうところに2人のキャラクター性の違いが出てるのが面白いんだよね!

映画の冒頭に松岡茉優さん演じる高野が、原稿にコーヒーを溢して、誰も見ていないのに「ごめんなさい。」と原稿に謝罪をしている一幕がありました。

あのシーンで「ごめんなさい。」と発言するのは、松岡さんのアドリブだそうですが、目の前の作家、目の前の原稿、目の前のものを1つ1つ大切にしていくという彼女の人間性がすごく出たシーンだと思います。

このように、2人を対照的な人物として描いていき、その結末でも明確な対比を描きました。

Amazonという巨大なシステムに迎合し、時代に即した出版の新しい在り方を追求した速水。

そして、町の書店という旧時代の産物に新しい価値を付与し、そこでしか買えない、出来ない体験を売るというある種の時代に逆行する取り組みを実現した高野。

ナガ
もちろん、これは原作には存在しない帰結です!

原作が、速水というキャラクターにフォーカスし、徹底的な革新主義と旧時代の産物からの脱却というメッセージ性を打ち出していたのに対し、映画版は、町の書店に新しい「価値」を付与するという描写によって、様々な「正解」を提示しているんです。

この「答え」の多様性を提示できているところが、『騙し絵の牙』の映画版の脚色の最大の巧さだと個人的には思っています。

ぜひ映画版を見た人は原作を、原作を読んだ人は映画版を鑑賞して、比較しながら楽しんでいただきたいです。

 

『騙し絵の牙』というタイトルに込められた意味とは?

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

最後に本作の物語的、主題的な面白さにフォーカスしていきます。

そもそも今作の謎めいたタイトルは、「大泉洋が繰り出す明るい笑顔が、読後に異なる意味を含んだ笑顔に映るようにみせたい」という意図でつけられたと言われています。

つまり、大泉洋さんがピエロ的な風貌の裏で、実は野心に満ち溢れ、今にも誰かにかみつこうとしているという「牙」をはやしているという状況を表現したタイトルだというわけです。

ただ、このタイトルは本作における「新しいことをやろう!」「おもしろいことをやろう!」というメッセージ性にも強くリンクするものだと私は個人的に思っています。

騙し絵と聞いて、パッと頭に浮かぶのはエッシャーの絵画ですが、目の錯覚や人間の心理を利用し、1つの絵の中に多様な見え方をもたらすのが騙し絵というジャンルです。

劇中で、文藝誌「薫風」の編集会議をしている一幕がありましたが、彼らは「薫風」の伝統はこうだからという一点張りで、新しい価値観を受け入れようとしません。

つまり、彼らは例え6人で会議をしていても、結局は凝り固まった1つの「見え方」にしか帰結せず、新しい「見え方」に到達することがないのです。

一方で、速水が「TRINITY」で実施した改革においては、編集者たちが自分の面白いモノ、自分の「見え方」を1つの雑誌の中に組み込んでいくことになります。

そうすることで、「TRINITY」は1つのカルチャー誌でありながら、実に多様な「見え方」を有した雑誌へと変貌しました。

特に近年のSNS文化においては、個人が自分なりの「見え方」や「解釈」を自由に発信できる時代になりました。

だからこそ、誰が見ても同じに見える「格式の高い絵画」よりも、人によって見え方が変わる「騙し絵」の方が、価値があるというのは、確かに理にかなっているんです。

その上で、「牙」という言葉に込められた意味を考えてみると、これは作り手の野心や目的、揺るがないコンセプトや戦略の部分なのだと思います。

「騙し絵」を社会に提供するという話題性の部分だけを追い続けると、結局は自分たちの作りたかったものやコンセプトから乖離していき、何も得られないということももちろんあるでしょう。

だからこそ、「騙し絵」の中には、1本芯の通った「牙」がないといけません。

高野も速水もそれぞれのやり方で、「騙し絵」を世間にいかにして提供するかを追求しているわけですが、レイヤーは違えど、そこにはちゃんと自分なりの「牙」があります。

今作は近年停滞傾向にある出版業界にスポットを当てていましたが、きっと今作の訴えかけていたメッセージはどんな業界にも通じることなのだと思いました。

これまでの解釈や見方、固定観念に縛られないものを、ちゃんと自分なりの芯をもって打ち出していくことこそが、今の時代にまさしく求められていることなのでしょう。

そういったある種の業界におけるポストモダン性、スクラップアンドビルトの方向性を指し示す言葉として「騙し絵の牙」というタイトルはすごく深い意味があるように感じましたね。

 

速水はなぜコーヒーを投げ捨てたのか?

(C)2020「騙し絵の牙」製作委員会

今回の映画『騙し絵の牙』にて多くの人が疑問を抱いたのは、終盤の大泉洋さん演じる速水が手に持っていたコーヒーを投げ捨てる一幕ではないでしょうか。

確かに速水であれば、高野に出し抜かれたという事実をむしろ楽しむような気もしますし、だからこそ彼があそこまで悔しがる描写には困惑する人も多いのだと思います。

ただ、私は、あのコーヒーの投げ捨ては感情表現というよりは、速水という人間の性質を表現するために描いたのではないかと考えています。

というのも、コーヒーカップに纏わる描写は、実は映画のファーストシークエンスで登場していますよね。

先ほどもお話した高野が原稿を読んでいる時にコーヒーをこぼしてしまうシーンなのですが、この描写には彼女の人間性が透けて見えます。

コーヒーをこぼしてしまい、誰も見ていないにもかかわらず「ごめんなさい」と口走る様には、彼女の自分に関わってくれた人を大切にするという内面がすごく出ているのです。

映画のラストで、自分に対してひどい物言いをしてきた先輩の江波百合子を自分の立ち上げた書店で雇用していましたが、彼女はとにかく人のつながりを大切にしています。

一方の速水というキャラクターは自分の野望のために他人を使い捨てることを何とも思っていません。

城島咲が顕著でしたが、かなり過激な手を使ってでも自分の望むものを実現しようとするのが、速水という人物なんですね。

そう考えると、コーヒーを投げ捨てるという行為が、自分に関わってくれた人間を平気で使い捨てる速水という人間の特性を、高野の冒頭のシーンと対比させることで巧く表現していると思うのです。

この映画の中で、高野と速水は似ているところもありつつ、対照的な人物として描いてきましたが、その最たる例が「コーヒー」というモチーフを巡って描写されているのは非常に面白いですね。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『騙し絵の牙』についてお話してきました。

ナガ
邦画大作がこれくらいの水準の作品はなかなか見られないので、これはぜひ見ていただきたい1本です!

吉田監督の群像劇的なプロットの魅せ方が巧いことは、今回改めて確認できましたが、何よりも驚かされたのが、小池義幸さんの編集の「幅」ですよね。

中島哲也監督の作品では、いつも観客の理解を超えたテンポで物語を展開し、多種多様なインサートと高速編集で観客を圧倒するというイメージが強かったです。

そのためか、今作のようにテンポやリズムはきちんと生み出しつつ、観客の興味や疑問を引き出しながら進めていくようなスタイルを完ぺきにこなせてしまう器用さに、「そんなんもできるのか…。」と衝撃を受けました。

ぜひ、そうした編集の巧さという作品の枠組みそのものの良さにも注目しながら、味わっていただきたい作品です。

あと、個人的に疑問に感じたんですが、速水って池田エライザさんが演じていた城島咲にスキャンダルを作るために、ストーカー手配してたりします…?

ナガ
流石にそれはないか…。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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