映画『バブル』解説・考察(ネタバレ):虚淵玄は「悲劇のマザータイプ」をなぜ再構築したのか?

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね4月28日よりNetflixにて配信がスタートしましたアニメ映画『バブル』についてお話していこうと思います。

ナガ
アニメファンとしてはいろいろと注目すべきところの多い作品ですが、何と言っても見所はそのアクション描写でしょう!

監督を務めたのは、荒木哲郎さんです。

彼は『進撃の巨人』のテレビアニメシリーズや『甲鉄城のカバネリ』などでも監督を務めたことで知られるアニメクリエイターですね。

端的に言うと、彼はアクション描写に定評のあるクリエイターです。

今作『バブル』に関して言うのであれば、『進撃の巨人』のようなマンガのコマ割りを生かした構図やシーンの切れ目で魅せるスタイルとはまた異なるアクション演出を披露してくれました。

シーンを切らずにアクションカメラで登場人物を追いかけていくような実写的な撮影をアニメの世界に持ち込んだわけです。

彼は過去にアニメでアクションシーンを表現することの難しさをインタビューの中で語っていました。

たとえば、女型の巨人が調査兵団のメンバーを叩き落とす大ゴマは、映像では1秒に満たないアクションにしかならないため、単にアニメ化しただけでは原作を読んだときのインパクトを伝えることはできない。

またコマの大きさを自由に変えられるマンガと、画面サイズがつねに一定のアニメとでは文法もまるで異なってくる。

https://www.animeanime.biz/archives/47165

アニメの絵を動かしていく特性と画面サイズが一定という映像メディアの特性が掛け合わさり、アクションの持ち味であるタメや躍動感を演出するのが難しくなるわけですね。

そんな中で今回の映画『バブル』はかなり挑戦的な映像表現を選択しています。

シーンや構図を切り替えるのではなく、1カットの中に一瞬のタメを生み出し、躍動感を作り出しました。

さらに、アクションカメラで登場人物たちを追いかけていくような没入感。

自宅のテレビで見てもこの迫力なのに、映画館で見たらどうなるのだろうか…という期待に胸を膨らませずにはいられません。

ただ、そんなアクションに注目が集まる一方で、もう1つ重要になってくるのが、本作の脚本を担当した虚淵玄さんらの存在ですね。

今回の映画『バブル』には虚淵玄さんをはじめとして3人のライターがクレジットされています。

佐藤直子さんは、ゲーム「GRAVITY DAZE」シリーズのシナリオにも携わっていることで知られていて、同作と『バブル』のアクション性が非常に似ていることからも、アクションと物語の親和という部分で重要な役割を果たしたのではないかと推察されますね。

そして、大樹連司さんですが、彼は虚淵玄さんが携わったアニメ『GODZILLA』シリーズのノベライズ版である『GODZILLA 怪獣黙示録』『GODZILLA プロジェクト・メカゴジラ』などを執筆したことでも知られます。

他にも虚淵玄さんが手がけたオリジナルアニメ『楽園追放』のノベライズ版も担当しており、2人の関係性が長く続いているものであることが分かりますね。

ただ、やはり注目すべきは『魔法少女まどかマギカ』『Fate / Zero』などでも有名な虚淵玄さんの新作であるという点でしょう。

ここから、彼のこれまでの作品を振り返りながら、本記事のメイントピック「虚淵玄は「悲劇のマザータイプ」をなぜ再構築したのか?」について語っていこうと思います。




『バブル』解説・考察(ネタバレあり)

悲劇のマザータイプとしての「人魚姫」

(C)2022「バブル」製作委員会

今作『バブル』は、劇中でも登場し、メインヒロインのウタの行動に多大な影響を与えているという点からも分かるように『人魚姫』という古典に着想を得ています。

『人魚姫』から派生した作品としては、ディズニーの『リトルマーメイド』が最も有名かもしれませんが、原作はある種の「悲劇のマザータイプ」として位置づけられていますよね。

おそらくタイトルを聞いただけで、物語を思い浮かべることができる人がほとんどだと思いますし、感想を尋ねられたら、劇中のマコトのように「かわいそう」と、その悲劇性に言及することになるでしょう。

ナガ
ただそう思っている人にこそ、アンデルセンの創作童話『人魚姫』を今一度読み直してみて欲しいのです。

この童話はこれだけ「悲劇」の代名詞として知られながら、その実態は極めてキリスト教的な救済の物語になっています。

確かに、物語の結末において、王子が他の女性と結ばれ、王子を傷つけることでしか人魚にも戻れないことが分かった人魚姫が自ら泡と化す選択をし、消えてしまうのは事実です。

これを額面通りに受け取れば、悲劇的かもしれません。

その一方で、『人魚姫』というのは、「魂のない怪物が魂を獲得し、祝福される物語」という側面を内包しています。

キリスト教の世界観では、人間だけが魂を持ち、それ以外の生物は魂を持たないというのが基本的な考え方であり、これは日本のアニミズムとは一線を画します。

つまり、人魚というのは魂を持たない存在であり、そんな人魚が人間という魂を持った存在になろうとするところから物語が始まり、人間にはなれなかったが、最後に神から祝福され、魂を与えられるというのが、『人魚姫』の物語の本質なのです。

しかし、こうした祝福と救済の部分にあまりスポットが当たらず、彼女が死を選ぶに至ったシチュエーションや自己犠牲の精神が独り歩きをし、「悲劇のマザータイプ」のようなポジションに収まってしまったんですね。

 

『バブル』が「人魚姫」から取り込んだエッセンス

(C)2022「バブル」製作委員会

今作『バブル』をじっくりと見進めていくと、作品の至るところに『人魚姫』のエッセンスが盛り込まれているのを感じます。

ヒロインのウタが主人公のヒビキに触れれば触れるほど泡になってしまうという悲恋の模様は、まさしく『人魚姫』そのものなのですが、もう少し細かいポイントに目を向けていきますね。

まず、本作の後半にかけて登場する「赤い泡」についてですね。

これも、実は原作に登場するモチーフの1つになっています。

しかし、その瞬間、お姫さまは、それを遠くの波間に投げすてました。すると、ナイフの落ちたところが、まっかに光って、まるで血のしたたりが、水の中からふき出たように見えました。お姫さまは、なかばかすんできた目を開いて、もう一度王子を見つめました。と、船から身をおどらせて、海の中へ飛びこみました。自分のからだがとけて、あわになっていくのがわかりました。

(ハンス・クリスチャン・アンデルセン 『人魚姫』より引用)

赤い泡は血を連想させるモチーフなんですよね。

人魚姫は王子の心臓にナイフを突き立てて人魚に戻るか、自らが泡となって命を落とすかどうかの2択を迫られます。

その時に、選択したのが後者であり、ナイフが投げ込まれた海から赤い泡が吹き出したのは、彼女自身の「血」を表象したものと言えるでしょう。

では、『バブル』における赤い泡は何を表しているのでしょうか。

ここで、シンとウタの姉の存在を考えなければなりません。

シンはかつてタワーの頂上を目指した経験があり、その際に片足に怪我を負い、義足で生活することになりました。

このエピソードとウタの姉の存在を掛け算することで、導き出せるのは、シンとウタの姉がかつて『人魚姫』の物語を演じた存在なのではないかという視点です。

ただ、ウタの姉は泡たちの世界に戻れており、逆にシンが怪我を負って血を流したことを鑑みると、2人が描いた『人魚姫』の物語は原典と真逆のものだったのかもしれません。

ウタの姉は世界の秩序を壊すことを望まず、人間とバブルのそれぞれがあるべき場所にあり続けることが重要だと考えていたのだと思います。

シンは犠牲を払い、そしてウタの姉も人のカタチを留めることを諦めるという犠牲を払い、彼らはかつてこの世界の秩序を守るための選択をしたのです。

そう考えていくと、今作におけるヒビキとウタの戦いは、「悲劇のマザータイプ」そのものとの戦いであり、かつてシンとウタの姉が自己犠牲と共に守り抜いた「秩序」との戦いと見ることができるのではないでしょうか。

ここに、本作『バブル』虚淵玄らしさを感じずにはいられないのです。



秩序を個人の欲望が打倒する構造に見る虚淵玄らしさ

(C)2022「バブル」製作委員会

虚淵玄さんを有名にしたのは、やはり『魔法少女まどか☆マギカ』シリーズでしょう。

同シリーズは主にテレビシリーズと前後編から成る総集編劇場版、そして続編となる『叛逆の物語』さらに公開予定の『ワルプルギスの廻天』で構成されています。

『魔法少女まどか☆マギカ』の面白さの1つが、テレビシリーズと『叛逆の物語』の関係性です。

テレビシリーズで主人公が自己犠牲を払ってもたらした救済と新しい秩序、そしてそれを超越し、崩壊させる個人のエゴと愛、欲望を描いた『叛逆の物語』という構図は非常に興味深いものです。

『叛逆の物語』については監督である新房さんのアドバイスもあり、物語が今の在り方に落ち着いたという話もあるので、一概にこれが虚淵玄さんの作家性であると言い切ることは難しいでしょう。

しかし、彼は『Fate / Zero』においても、「愉悦」を媒介として自身の魂の在り方を見出していく言峰綺礼のオリジンを描いています。

つまり、虚淵玄さんの作り出す物語内世界では、世界の理や秩序と、それに抗おうとする個人の何かを求める心、とりわけ「愉悦」を求める欲望が対立するような構造がしばしば取り上げられるわけです。

今回の『バブル』においては『人魚姫』という「悲劇のマザータイプ」を取り上げることによって、それを作品世界における理ないし秩序として機能させることに成功しました。

また、その打倒に挑みながらも、秩序を守ることを選択した者たちとして、シンやウタの姉を描いているわけです。

本作の主人公であるヒビキは人と関わることを望まず、特に欲求を持つことなく生きてきた人物として描かれています。

その背景には、耳の不調で周囲の人間、とりわけ母親に迷惑をかけてきた幼少期の経験があり、自分に深く関わる人間は不幸になってしまうのではないかという懸念を抱えているんですね。

だからこそ、彼はヘッドフォンで外界の音を遮断し、何も求めず生きてきたわけです。

一方のウタもまた、ヒビキとの関わりを望みながらも、バブルであるが故に関わることができず、自らの欲求を押しとどめて、これまでを生きてきました。

しかし、本作の冒頭で描かれたボーイミーツガール、あるいはガールミーツボーイにより、2人はお互いを求めあうようになり、自らの欲求を表に出すようになります。

『Fate / Zero』においてギルガメッシュが言峰綺礼に対してこんなことを言っていました。

愉悦というのはな、言うなれば魂の容(かたち)だ。

“有る”か“無い”かないかではなく、“識る”か“識れないか”を問うべきものだ。

綺礼、お前は未だ己の魂の在り方が見えていない。

(『Fate / Zero』より引用)

つまり、誰しもの中に、誰かをあるいは何かを求める心が存在していて、それを知ることで初めて私たちは自分の魂の在り方を認識することができるんですね。

『バブル』の終盤にウタがこんなセリフを残しました。

ヒビキに会えたから、私は私になれた。

これが人の心。

寂しいと思う心。

誰かを愛おしいと思う心。

(映画『バブル』より引用)

同様にヒビキもウタに対して「ウタが来て、初めて俺になった。ウタが来てくれたから。ありがとう。」と述べています。

つまり、2人は相手を求めあうことで、2人で共に過ごす「愉悦」を知ることで、初めて魂の在り方を識り、自分になれたのです。

だからこそ、『バブル』においては、ヒビキとウタの「愉悦」を求める欲望、あるいはエゴが、『人魚姫』という「悲劇のマザータイプ」によって作品内世界にもたらされた秩序を崩壊させます。

ウタが泡になってしまったのだから、結末の悲劇性は何も変わっていないじゃないかという人がいるかもしれません。

ナガ
しかし、『人魚姫』と『バブル』の結末は似て非なるものです。

なぜなら、『バブル』の結末は、ヒビキはウタと共にいることを選び、ウタもまたヒビキと共にいることを選んだ故のものだからなのです。

エゴや欲望を滅した崇高な自己犠牲ではなく、ちっぽけで、でも自分の中に沸き立つ愉悦を求めて2人はあの結末へ辿り着きました。

ヒビキとウタは今のカタチを留めたままで、一緒に生きることは叶いませんでした。

それでもこの世界の元素が流転し続ける限り、彼らはまた会えるはずです。

そしてそれを成し遂げるのは、誰か求める心、その引力なのだということを映画『バブル』は強く、強く訴えかけています。



おわりに

今回は映画『バブル』についてお話してきました。

本作は、今までの作品と比較されて、虚淵玄さんらしくないと評されるかもしれません。

しかし、人間が内に秘める求める心とそれを阻むセカイや秩序の対立を描いたという点で、実に彼らしい作品だと個人的には思いました。

この機会に彼の過去の作品も見返してみて、その上で改めて『バブル』を鑑賞していただくと、新しい発見があるかもしれません。

ナガ
また、本作は2022年5月13日(金)に劇場でも公開が予定されています。

パルクールの描写については、映画館で見た方が何倍も躍動感を感じられると思いますので、ぜひこちらもチェックしてみてください。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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