【ネタバレ考察】『呪詛』 見てはいけない映画が実在するならば、まさしくこれである

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『呪詛』についてお話させていただきます。

当ブログの記事では初めてかもしれませんが、作品をおすすめする記事ではなく、作品を見るかどうか今一度考え直してほしいという趣旨の記事になります。

今作はケヴィン・コー監督による台湾産のホラー映画で、高雄で実際に起きたショッキングな事件に触発されて制作されたと言われています。

台湾では過去に「宗教乱象」と呼ばれる宗教に関わる事件が次々に起こった時期がありましたが、本作は2005年に神に憑依されたと主張する6人家族が、自傷行為など奇怪な行動を繰り返し、死者が出るに至ったとされる事件がモデルのようですね。

既に公開されている台湾でも、ホラー映画として最高峰の恐怖であるとのレビューが飛び交い、監督自身も「今まで自分が撮った中で一番邪悪な映画」と公言するほどです。

こうした刺激的な映画は、TwitterなどのSNSで「映える」ので、どうしてもバズり目的のネタにされやすく、拡散され、多くの人の目に触れてしまいます。

その結果として、あまり映画の情報を仕入れず、興味本位でNetflixの再生ボタンを押してしまう人が増えてしまうことを私は懸念しています。

なぜなら、この映画はそんなに生半可な気持ちで見ていい代物ではないからです。

当ブログ管理人はこれまで数多くの映画作品に触れてきましたが、時間を無駄にしたとかそんな次元の話ではなく、本当の意味で「見たことを後悔した」作品は、この『呪詛』が初めてかもしれません。

もし、作品を見る前の時間に戻れるのであれば、再生ボタンを押そうとしている自分の後頭部に手刀をかまして、気絶させたいくらいの勢いです。

ということで、この記事では、映画『呪詛』を見るかどうかを少し考えてみる材料をご提供できればと思っています。

記事の都合上、若干ネタバレになるような内容を含みますので、先入観なしで作品を観たいという方はここで読むのをやめていただけますと幸いです。

良かったら最後までお付き合いください。




映画『呪詛』解説・考察(微ネタバレあり)

映画と観客の「距離」、恐怖のリアリティ

(映画『呪詛』より引用)

当ブログ管理人は、ホラー映画にはある程度耐性がある方だとは思いますが、どうしても苦手なジャンルがあります。

それはいわゆる「ジャパニーズホラー」なんですよね。

子どものころに『仄暗い水の底から』を見て、半ばトラウマになっているというのもありますが、それ以上にJホラーを苦手としている理由が映画との「距離」が近いことです。

海外のホラー映画は、舞台が日本ではないどこかなので、その異国情緒のおかげで、映画で起きていることがフィクションだと割り切れるんですよね。

そのため、恐怖を感じることがあっても、映画との「距離」が担保されているので、自分は安全だと心を落ち着かせ、冷静になれます。

しかし、Jホラーの場合は、映画の向こうに広がっている舞台がどこか自分の見たことのある風景であり、それ故に映画の向こう側で起きている出来事が私のいる場所と地続きになっていると無意識のうちに感じてしまうのです。

そのため、映画と観客である私たちとの間の「距離」が担保されておらず、恐怖が自分の世界にまで浸透してくるような厭な感覚があります。

これが私がJホラーを苦手としている理由であり、映画との「距離」がホラー映画における恐怖を考える上では重要だと感じている理由でもあります。

ナガ
さて、今回の『呪詛』に話を戻していきましょう。

『呪詛』がこの「距離」という観点で見たときに、あまりにも恐ろしいのは、本作が「邪悪なプリキュア映画」であるという点です。

プリキュア映画を劇場でご覧になった経験がある方は、ご存じかもしれませんが、同シリーズには観客の子どもたちに、映画の中のキャラクターが語りかけて、応援を促すような場面があります。

要は、映画でありながら、観客が参加できるライブ感を有したショーのようになっていて、これが子どもたちに愛される理由にもなっているわけです。

『呪詛』は、物語の冒頭にいきなり、呪詛の説明が入り、観客にとある呪文を覚えておくよう促してきます。

そして、劇中でその呪文を唱えるシーンがあり、観客にも参加が促されます。

「このままじゃプリキュアたちが負けてしまう!敵を倒すために、スクリーンの前のみんなの力を貸してね!」という類のパフォーマンスをミラクルライトを光らせるのではなく、呪文を唱えることによって行うのです。

とは言え、この映画はとある女性とその娘の身に起こった出来事を記録したホームビデオですというような体を取っているので、参加型の側面はあれど、自分事とは区別して見進めることができます。

しかし、この映画はラストにとんでもない仕掛けを施しています。

プリキュアを必死で応援していた子供たちが、スクリーンから出てきて、「プリキュア最低!私は二度と応援しない!」と泣きながら、ミラクルライトを地面にたたきつけるような仕掛けがあるのです。

私たちの善意すらも逆手に取るラストの演出により、ラストに至るまで見てきた、ある女性の悲惨な人生の顛末が、突然自分事化して、これからの自分の人生を指し示すものかのように思えてしまいます。

この映画は、あえてある女性の視点から撮った映像という風にして、観客に「他人事」として安全圏から鑑賞することを許してくれていました。

つまり、映画と私たち観客の間には一定の「距離」があったわけです。

しかし、一瞬でその「距離」を詰めてきて、映画本編が私たちの世界と地続きどころか、私たちの未来のビジョンなのではないかと思わせてしまう。

「私たちの世界のどこかで起きているかもしれない」なんて生易しいレベルではなくて、「これはいつかの私なんだ」と思わせてしまう、恐怖と説得力があるのです。

映画を見て、人生が変わったという経験をしたことがある方もいるかもしれませんが、今作もそうした方向に作用する可能性がある作品です。

ただし、あなたの人生にトラウマを残し、暗転させかねないものであると認識してください。

作中でたびたび言われていたように、この映画は「あなたの世界の見え方を変え」かねない作品なのです。

見てくださいとは絶対に言いません。おすすめですとも言いません。

ただし、鑑賞するのであれば、ある程度覚悟をして見てください。

当ブログ管理人としても、これまでに見たホラー映画の中でトップクラスに恐ろしい映画だったと断言できる内容です。



ホラー映画を見る者への警告として

(映画『呪詛』より引用)

今作は主人公が元心霊スポット調査系YouTuberであったことに、重要な意味があると思っています。

日本では近年、恐怖の村シリーズとして『犬鳴村』『樹海村』といった作品が公開されるなどし、注目を集めていますよね。

なぜ、こうした作品が人を惹きつけるのかというと、「踏み入ってはいけない領域」に自分では絶対に行きたくないけれど、映像として見ることで、そこに足を踏み入れる経験を疑似的にしてみたいという好奇心ゆえだと思うのです。

そのため、観客はホラー映画の中で、登場人物が「その場所に立ち入ってはいけない」と言われていても、内心では「ほら、お前早く行けよ!もたもたすんなよ!」という気持ちになっているはずです。

この映画にも、「足を踏み入ってはいけない領域」とそこに好奇心で立ち入ろうとする若者が登場することで、観客に疑似的な体験を提供します。

それに対して、観客は「早くその領域を見せて欲しい!」という好奇心を抱きつつも、その行動により人生がめちゃくちゃになっていく彼らを「自業自得だ」と断罪する矛盾した立場をとることになるのです。

つまり、こうした禁断のタブーに触れる系の映画において、観客は登場人物がタブーに触れることを望みながら、その結果や顛末に対して一切の責任を負わないという無責任な立場をとるんですね。

現にいくつかのレビューサイトで『呪詛』のレビューを見ていると、「あの母親の自業自得だ!」や「踏み入ってはいけない場所にあんなにズケズケと入っていくなよ!」といった声も見られます。

しかし、再生ボタンを押した時点で、あなたは「彼らがそこに踏み入ること」を望んだのであり、それを疑似的に、あるいは無責任に享受することを望んだのです。

『呪詛』という映画は、「心霊スポット調査系YouTuber」という分かりやすいアイコンを用意し、観客の邪悪な好奇心と断罪の受け皿にしています。

さらに肝心の「禁断の領域」に関するシーンを映画の最後の最後まで見せないことで、観客の「早く見せろよ!」という感情を煽りに煽ります。

そして、その矛盾を孕んだ感情を抱く観客に対して、痛烈な「しっぺ返し」をするような内容になっているんですね。

「再生ボタン」を押し、映画の向こうのキャラクターたちに、禁断の領域に足を踏み入れさせたこと、それが他ならぬ自分の意志であったことを自覚させ、その責任を背負わせるわけです。

だからこそ、私はこの映画については安易に再生ボタンを押してくださいとも言いたくありませんし、自分の責任で明確な覚悟をもって押してほしいとすら思っています。

今作は、ホラー映画を見る者への、安易にかつ無責任に「禁断の領域」を享受しようとする者への断罪の映画なのです。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『呪詛』についてお話をしてきました。

ナガ
怖いのベクトルがこれまでのホラー映画とは違いすぎるんだよね…。

視覚的な描写で言うと、皮膚病や集合体、虫系の描写がかなり多いので、それらが苦手な方はまず見ないようにしてください。

その上で、この映画はいわゆる「お化け屋敷」的なベロベロバアホラーとして怖いというわけではありません。

ですので、レビューサイトに「思っていたより怖くなかった」と書かれているのも、そうした視覚的な恐怖を追い求めていたのであれば頷けます。

『呪詛』という映画は、もっと陰惨な恐怖、観客である私たちの責任を自覚させるような恐怖を有した作品なのです。

私たちが「今日は暑いし、映画館でホラーでも見て涼もうか」と避暑地のような感覚で「禁断の領域」に足を踏み入れてきたこと、その疑似的な体験を望んだこと。

そうした行為に対する責任を問われ、自分の生きる世界の見え方が一変してしまうような感覚。

見終わった後に、泣きそうになりましたし、変な汗が止まらなくなったのが今でも忘れられません。

映画としてはよくできているので見て欲しいと言いたい一方で、この映画に安易に誰かを巻き込みたくないという気持ちが私の中でせめぎ合っています。

そのため、覚悟をして見てください、と言うに留めたいと思います。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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