【ネタバレ】『浅田家!』感想・解説:写真を撮る行為そのものに宿る家族のつながりを描く

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『浅田家!』についてお話していこうと思います。

ナガ
2020年の10月に1番楽しみにしていた映画の1つです!

監督やキャストの面でも大いに引きがある作品ですが、やはりとにかく題材に心惹かれましたね。

実際に写真家として活動されている浅田政志さんの半生をベースにした作品となっているわけですが、そのキャリアの中心にあるのは「家族写真」です。

彼は、この映画のタイトルにもなっている『浅田家』という自分の家族を被写体としてフィクション設定で撮影するコンセプトの写真集で第34回木村伊兵衛写真賞を受賞し、注目を集めました。

そして、2011年に東日本大震災が起き、彼は被災地での写真洗浄作業に取り組むこととなったのです。

そんな被災地での活動をまとめた『アルバムのチカラ』を2015年に発売しており、こちらも非常に注目されましたね。

今回の映画では、こうした写真集、著書の背景に彼のどんな思いがあったのか、どんな人との出会いがあったのかにスポットを当てながら、1つの物語として語られるようです。

本作の監督を務めるのは、『湯を沸かすほどの熱い愛』『長いお別れ』中野量太監督ですね。

個人的に中野監督の映画は好きなのですが、完全オリジナル脚本だと少し癖が強すぎる印象を受けるので、これくらいの原案・原作ありきの作品の方が上手くいく印象です。

ただ基本的に映画の構成や展開、演出の面でぶっ飛んでいるところがあって、そこが今回の『浅田家!』のような題材とは相性が良いのではないかという期待感もありますね。

そして主人公の浅田政志役には、二宮和也さんが抜擢されました。

最近は1年に1本ペースで出演映画を見ているような気がしますね。

ナガ
『母と暮らせば』『暗殺教室 卒業編』『ラストレシピ』『検察側の罪人』…。

やはりジャニーズの中では、演技力はずば抜けていて、彼にしか出せない味のある俳優だなと思います。

『母と暮らせば』の頃くらいまでは、好青年役が似合うという印象でしたが、近年少しダーティーな役どころでも存在感を発揮していて、『検察側の罪人』での尋問シーンは圧巻でした。

今回の浅田政志役は、近年彼が演じたキャラクターの中では最も個性的ではありますが、巧く演じてくれるのではないでしょうか。

さて、ここからは映画本編を見て、個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『浅田家!』

あらすじ

浅田家の次男である政志は、幼少期からとにかく写真を撮ることが大好きだった。

成長し、自分の夢を叶えるべく写真専門学校に進学した政志は、卒業制作の被写体に自分の家族を選ぶ。

彼は普通に家族を撮るのではなく、浅田家の思い出のシーンを本人たちがコスプレして再現する写真を撮影することにする。

その作品が学校長賞を受賞し、彼は将来を嘱望されるが、卒業後、地元でパチスロ三昧の3年間を送る。

その後、再び写真と向き合うことを決意した政志が被写体に選んだのは、やはり家族だった。

彼は、「未来志向の家族」をテーマに、様々なシチュエーションを設定して家族でコスプレして撮影した写真で個展を開催する。

それを見て、気に入った出版社の社長がの一声で写真集を出版し、この『浅田家!』と題された写真集が賞を受賞。そうして彼はプロの写真家として活動を始める。

彼は、全国の家族写真の撮影を引き受けるようになり、その家族ならではの写真を模索・撮影するうちに、戸惑いを感じ始める。

そんなある日、東日本大震災が起こる…。

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:中野量太
  • 原案:浅田政志
  • 脚本:中野量太 菅野友恵
  • 撮影:山崎裕典
  • 照明:谷本幸治
  • 編集:上野聡一
  • 音楽:渡邊崇
ナガ
映画ファンの間でも評価が真っ二つの中野量太監督最新作はいかに?

中野量太監督の『湯を沸かすほどの熱い愛』は日本アカデミー賞などで注目されましたが、そのプロットがあまりにもぶっ飛んでいて、教育的・倫理的観点から見て「ヤバい」ということもあり、映画ファンの間でも評価が割れていました。

ちなみに当ブログ管理人は、「いじめ」関連のシーンがどうしても好きになれず、あまり好きな作品ではありません。

ただ、その次に彼が監督を務めた、『長いお別れ』は原作ありながら、非常に巧く脚本に落とし込んであり、その描写や演出に感動しました。

中野量太さんもそして、今作の題材となった浅田政志さんもどちらも「家族」に焦点を当ててきたクリエイターですので、その点で非常に親和性が高く、期待できます。

また、脚本には『陽だまりの彼女』『影踏み』の菅野友恵さんが共同脚本として名を連ねています。

ここまでもお話したように中野量太さんは結構「ぶっ飛んだ」プロットや展開を作りがちな気はするので、その点で上手く彼女がコントロールできれば、良い脚本になるのではないかと思いますね。

撮影には『榎田貿易堂』『笑う招き猫』山崎裕典さん、照明には中野監督作品ではお馴染みの谷本幸治さんが起用されました。

そして、編集には『記憶にございません!』『ザ・マジックアワー』などの三谷幸喜作品を支えてきた上野聡一さんが起用されていますね。ここが個人的には注目しているところです。

劇伴音楽には、『長いお別れ』『his』などでキャラクターたちのエモーションに優しく寄り添うような優しい音楽を提供してくれた渡邊崇さんがクレジットされています。

キャスト
  • 浅田政志:二宮和也
  • 浅田幸宏:妻夫木聡
  • 川上若奈:黒木華
  • 小野陽介:菅田将暉
  • 浅田順子:風吹ジュン
  • 浅田章:平田満
ナガ
実はこの映画キャストが非常に豪華なんですよね!

主演は記事の冒頭でも紹介した通りで二宮和也さんです。

その一方で、主人公の兄、浅田幸宏役には妻夫木聡さんが、父の浅田章役には平田満さんが起用されるなど、演技派な面々が顔を揃えます。

家族の外を見てみましても、黒木華さんや菅田将暉さんなどの他作品で主演を張れるほどの実力者が脇を固めており、これだけでも見に行きたくなる程です。

ナガ
当ブログ管理人は、黒木華さんの大ファンですので、こんなことを考えておりましたが…(笑)

映画com作品ページ
ナガ
ぜひぜひNetflixでご覧ください!



『浅田家!』感想・解説(ネタバレあり)

中野監督の「職人芸」とも呼ぶべき作劇について

『浅田家!』はまさしく中野監督の「職人芸」的な芸当が炸裂した映画と言えます。

『浅田家!』という作品は、ご覧いただけるとすぐに分かるのですが、非常にドキュメンタリーテイストが強い作品です。

特に作品の前半部分では、主人公の浅田政志とその周囲の人たちの人生を「点」で負っていくという印象が強く、淡々とタイムラインを追っているという印象も強かったように思います。

そういった作品で観客にエモーションをもたらすために、どういった工夫が求められるのかという点を丁寧に突き詰めて作られているのです。

今回は「動機」「壁とその超越」という2つの観点から、今作の「巧さ」を紐解いていこうと思います。

 

主人公の動機を物語の推進力として機能させる

(C)2020「浅田家!」製作委員会

先ほども言及しましたが、本作『浅田家!』はドキュメンタリータッチで展開される映画でした。

しかし、そういったストーリーテーリングをしていくときに難しいのは、主人公が人との出会いや関係の中で抱くようになる動機や感情の演出です。

事実を追うということと、その中で主人公にもたらされる「感情」の部分を「ドラマ」として演出するということは、実は両立させるのが難しいんですよね。

というのも、とにかく「点」で主人公の人生を追っていくという視点と、「線」で見せなければならない感情の部分は、描くアプローチが微妙に異なって来るからです。

例えば、「点」で主人公の行動の変化に繋がった事象を拾って、何とか「線」に見せようとすることはできるでしょう。

しかし、それだとどうしても作り手の「作為性」というものが作品から透けて見えてしまうんですよね。

この主人公のこの選択を、この行動、この感情を描くために、事実の羅列の中から単純に必要な情報をピックアップしてくるというのは、あくまでも「作り手」の意志です。

そのため、こうした作劇や演出によって登場人物を動かそうとすると、どうしても物語に従属する主体性を持たない記号的な人物になってしまいます。

ただ、中野量太監督はそうした「感情」の部分をドキュメンタリー的なストーリーテーリングの中で描くという点において、まさに職人芸とも言える腕前を披露してくださっています。

さて、少し話が逸れるかもしれませんが、良い映画脚本というものは、どんなものだと思いますか。

リンダ・シーガー氏の『アカデミー賞を獲る脚本術』という書籍では、以下の11の項目が優れた脚本において求められるとされています。

  • 映画の構成
  • 物語の推進力
  • シーンの使い方
  • ひねりと転換
  • 主題性
  • 映像によるテーリング
  • 登場人物の魅力
  • 登場人物の変化
  • 効果的なセリフ
  • スタイルの確立
  • 観客を変化させる

この中でも当ブログ管理人が非常に重要だと感じるものの1つが「物語の推進力」です。

つまり、登場人物の行動や物語の進行が、登場人物の主体的な「動機づけ」によって為されているかという観点ですね。

あまり出来の良くない脚本から生まれた映画は、物語が前に進んでいく必然性に乏しいことが多々あります。

作り手の都合で物語が進められ、それに巻き込まれる形で登場人物が動かされているという作品は数多く存在しますが、こういった作品は基本的には良い脚本だとは言われません。

一方で、今回お話している『浅田家!』に関して言うならば、この「物語の推進力」としての動機の描き方が抜群に上手いんですよ。

とりわけ本作の主人公である浅田政志は、なかなか写真に対するモチベーションや熱が湧いてこない人物として描かれていました。

ナガ
というよりは、なかなか撮りたいものが見つからないという感じでしたね…。

そんな彼を最初に突き動かしたのは、「家族を喜ばせたい」という子どもの頃から脈々と続いてきた純粋な気持ちなんですよ。

そうして、家族のなりたかったものややりたかったことを写真撮影を通じて再現していく中で、徐々に主人公のカメラマンとしてのアイデンティティや自信が蓄積されていき、これが次の展開である東京行きに自然と繋がっていきます。

ナガ
主人公の動機が物語の推進力として機能しているわけだ!

この点を脚本の部分できちんと構築できていたのが、本作が上手くいった1つの大きな要因でしょう。

 

主人公がいかにしてブレイクスルーを起こすか

物語全体を通して見た時に、主人公にもたらされる「変化」についてお話していきます。

先ほどの脚本の話の中でも「登場人物の変化」が作品における重要項目として挙がっていたかと思います。

さて、物語を全体で俯瞰して見た時に、浅田政志という主人公は周囲の人物に支えられながら、カメラマンとして成長していったのだという点が明確に描かれているのが印象的です。

終盤に被災地で出会った少女の家族写真を撮る描写がありますが、ここに繋げるための描写の積み重ねがすごくきっちりしていて、嘘っぽくないんですよね。

こういった登場人物のブレイクスルーを起こす上で重要なのは、「超えるべき壁」「超えることへの動機や根拠」を明確に設定した上で、その論理が破綻しない程度の演出や作劇で描き切ることです

まず、「超えるべき壁」についてですが、今作『浅田家!』では、写真集が売れ始めた頃の家族写真撮影ツアーの中でさりげなく映し出されています。

主人公が白血病で苦しむ少年の家族の写真を撮りに行った時に、シャッターを切ろうとして思わず涙する描写がありましたよね。

感動的なシーンの1つではありますが、それ以上にこのシーンは、政志の写真家としての未熟さや課題感を表出させるという意味で重要です。

つまり、これまでは「一緒に楽しんで良い写真を撮る」という軽いスタンスで写真と向きあって来た彼が、ここで明確にそのスタンスを改めることを求められているわけですよね。

写真というものが、避けられない「死」の予感と対峙したときに何ができるのか。失われゆくものを前にして何ができるのか。

(C)2020「浅田家!」製作委員会

このシーンで彼が流した涙というのは、そうした大きな壁を前にしたことで表出した彼の未熟さの表象です。

そして、この時に感じさせた一抹の未熟さが明確に言語化されるのが、被災地で少女の津波で流されてしまった家を前にしたあのシーンということになります。

少女から「家族写真を撮って欲しい」と言われた政志は、思わず「撮れやんよ…。」とこぼしてしまうのです。

ここで、主人公が「超えるべき壁」というものが明確に設定されました。

そして次に、この「壁」を超えるための「根拠」を作品の中で提示する必要が出てきますね。

では、その根拠として描かれたことは何だったのかと考えてみますと、それが子供の頃の原初の写真体験だったわけです。

毎年、父親がカメラマンを担当し、年賀状のための写真を撮っていた頃の体験が、蘇り、それが政志にとっての「失われたものに対して写真ができることは何か?」という問いに対するアンサーへと繋がります。

このように、『浅田家!』においては主人公の壁への直面とそれを超克するプロセスと根拠が丁寧に描かれているのです。

そして中野監督が巧いなぁと思ったのは、この「根拠」の部分の演出の仕方なんですよ。

というのも、本編を通しで見ていただくと、政志の撮影の描写ではセルフタイマーを使うことが非常に多いんですよね。

ナガ
カメラマンになってからの撮影シーンの大半がセルフタイマーだったね!

その一方で、彼が子供の頃に写真を撮っていた頃の描写を思い出して見ると、「撮り手」の存在が際立つように描写されているんです。

例えば、海で政志が若菜の写真を撮っていた時に、彼女がカメラに向けた表情というのは、カメラマンが彼だったからこそのものでしたよね。あの写真には、若菜しか映っていませんが、彼女はそこに政志の存在を感じているでしょう。

このように、「撮り手」の存在と不在が映画全体と通して対比されていることによって、カメラマンとしての彼のブレイクスルーが起きる際に、原初の写真体験への回顧を「根拠」として確立させてくれています。

『浅田家!』は脚本も素晴らしいのですが、それを映像化して描写で積み重ねる中野監督の手腕がいかんなく発揮された作品とも言えるでしょう。



不在と空白に向き合う写真

(C)2020「浅田家!」製作委員会

本作『浅田家!』における1つの重要なテーマが、失われゆくものに対して写真は何ができるのかというものです。

浅田政志さんは実際に被災地を訪れ、写真の洗浄活動に尽力されました。この行為は、写真というものの「残る」という特性を強調したものでもあります。

人間が死したとしても、写真があればその姿を見ることができ、いつでもその人のことを思い出すことができますよね。

これは写真の言わば基本的な役割ないし意義ということになるでしょう。

しかし、『浅田家!』はもう1歩踏み込んで、その先に言及しようとしたわけです。

それは「写真を撮る」という行為そのものをメタ的に描くことによって、不在や空白を写真に収めるというアプローチなんですよ。

つまり、そこに存在しているものを「残す」のではなくて、もうそこには存在しないものを「存在させる」という領域に踏み込んでいるんですね。

被写体と撮影者の関係性については牛腸茂雄『SELF AND OTHER』が面白い例でしょうか。

『SELF AND OTHER』という写真は直訳すると『自己と他者』という意味になります。

牛腸茂雄は幼少の頃に患った胸椎カリエスの後遺症により背中が曲がっているという異質な外見の持ち主でした。

彼はそういう他人とは違う特徴的な外見を持っていたが故に、他人が自分に向ける「視線」というものに人一倍敏感になりました。

そうした自分自身の経験から、他の人に向けられているものとは明らかに違う「視線」が自分には注がれていると常に感じ取り、彼はその「視線」にこそ人と人との関係性が現れるのではないかという考えに至ったのです。

そして彼は『SELF AND OTHER』の中で、自分自身と被写体を正対させることで、被写体とカメラ(牛腸自身)の関係性を、その「視線」を通じて描こうとしたんですね。

写真においては写っているものが当然すべてではあるわけですが、そこには確かに撮り手の存在があります。

撮り手と被写体の関係性は、その表情や視線の細部に確かに影響を与えるわけです。

浅田政志さんはこうした写真を撮るという行為そのものの特性に気がついたわけですが、これを「家族写真」というジャンルの中で再現しようとする試みが非常に面白かったですよね。

写真は「見る」たびにその人のことを思い出すアイテムと言えるでしょう。

一方で、今作が言及したのは、写真を撮るという行為そのものが、家族のつながりを保ち続けてくれるのではないかという可能性です。

劇中で、主人公の父親が「次に『浅田家』を撮影するのはいつだ」としきりに気にしている素振りを見せていました。

何気ないセリフですが、これも実はすごく重要です。

これは、単に彼が家族で一緒に写っている写真が欲しいという意味で言っているのではありません。

これは「写真を撮るという行為」そのものを通じて、家族の絆や繋がりを感じたいという父の思いの表出なんですよ。

政志に家族写真を撮って欲しいと頼んだ被災地の少女もまた、写真そのものではなく、写真を撮る行為を通じて、父との繋がりを再確認することができました。

撮影というものは、写真を撮るためのプロセスに過ぎないと思われがちですが、実はそうではないんですよね。

撮影するというプロセスにも意義があり、人と人との関係や繋がりが宿っています。そしてその副産物として生まれる写真は、そのプロセスを想起させてくれるシグナルです。

本作『浅田家!』は写真というアイテムではなく、写真を撮る行為、つまり撮影が家族という場において、どんな意味を持つのかを探ろうとした作品と言えると思います。



中野監督の作家性と「異常」と「普通」の方程式

さて、ここからは少し本作の中野量太監督の過去作についても言及しながら、彼の作家性についても考えてみようと思います。

映画本編上映前の舞台挨拶で、中野監督が「今作を見終わって、浅田家は異常だ、異質だと思われる方がいたら僕の負けです。でも浅田家もまた自分たちと同じ“普通”の家族なんだと思っていただけたら、この映画は上手くいったと言える。」と話していました。

この言葉を聞いた時に、ふと『湯を沸かすほどの熱い愛』を思い出しました。

記事の冒頭にも書きましたが、個人的にはあの作品があまり好きではありません。なぜなら倫理的・教育的に自分は「異常」だと感じさせられる部分が多かったからです。

しかし、この言葉を踏まえて考えると、中野監督がやろうとしているのは、「異常」の中に「普通」を見出そうとする行為なのだと考えさせられました。

もちろん「普通」が何なのか、どういうスタンダードなのかは人によっても違いますから、一概に決めつけることができるものではありません。

ですので、言い換えるならば「普遍」という言葉になるでしょうか。

つまり、1つの「異常」な家族を作品の中で取り上げ、そこにフォーカスすることを通じて、普遍的な家族の在り方を脱構築的に導き出そうとするのが、中野監督の作家性だと思うのです。

『湯を沸かすほどの熱い愛』における主人公の家族は、まさしくぶっ飛んでいて、私たちには理解しがたい行動や発言も多々あります。

しかし、そうした奇抜で派手な外装とは裏腹に、その本質は私たち自身の家族にも通じる普遍的なものなんですよね。

前作である『長いお別れ』では、認知症の父とそれを支える家族の関わりを描きました。

これも「認知症の父」という少し特殊なシチュエーションを持ち込み、コミュニケーションを取ることも難しくなった状況で、それでも家族は「繋がれる」のかという問いに向き合っていました。

中野監督は、『長いお別れ』の際のインタビューで次のように語っています。

「『家族とは何か』という問いがずっとあって、それは母子家庭だったことも一因がある。自分の中にあるもので映画を撮りたいんです」

映画「長いお別れ」の中野量太監督 「『家族とは何か』に答えはない」

監督自身もまたどこか自分は「普通」とは少し違う家族で育ったという思いがあるのでしょう。

だからこそ、中野監督は「普通」とは違う家族にスポットを当てることによって、その中で家族を通底する「普遍」とは何なのかを探ろうとしているのかもしれません。

個人的に『浅田家!』の中で印象的だったのは、母親が病気の父を差し置いて、撮影のために被災地へと向かおうとする政志を送り出すシーンです。

(C)2020「浅田家!」製作委員会

病気の父よりも被災地での撮影を優先する息子を認めるという母親の行動と選択が「普通じゃない」と感じる方は多いと思います。

ただそうした表面的な部分とは裏腹に、このシーンでは母親の感じる「痛み」が描かれていました。

ナガ
これがまさしく中野監督の描きたかった「異常」の中の「普通」なのでしょう。

息子のやりたいことのために背中を押してやりたい、でもまずは自分の家族を大切に思っていて欲しい。

そういう相反する感情が生み出す「痛み」を、息子にビンタした手に残るジーンとする感触によって見事に描き切っているのです。

私は、この映画を見終わって、「浅田家」の家族に、すごく「普遍」を感じることができました。自分の家族にも通底する部分があると思わされました。

そういった監督のスタンスを知った上で、『湯を沸かすほどの熱い愛』を見返すと、もう少し違った見方ができるのかも?なんて思ったりもしています。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『浅田家!』についてお話してきました。

ナガ
ここまでは褒めてきましたが、最後に不満点も少しだけ挙げておきます…。

当ブログ管理人個人としては、エンドロールの最後に実際の浅田家の写真をインサートするのは、止めて欲しかったなと思いました。

なぜなら、あの写真があまりにも強烈で、本物味がありすぎるからなんですよ。

そのインパクトが強すぎるがあまり、劇中に登場したキャストたちの再現写真が急に弱々しい偽物に思えてしまって、急に映画を「作り物」として意識させられる感じがどうも苦手でした。

事実をベースにした作品では、エンドロールにて実際の写真や映像を掲載するのがある種の「お約束」ではあるのですが、今作に関しては、それが裏目に出た印象を受けました。

本編に関してはおおむね好評でございます。

『湯を沸かすほどの熱い愛』を見た時に、強烈な嫌悪感を抱いて以来、自分の中で中野監督への評価がこれほど変化するとは思いませんでした。

どういった視点で家族というものを捉えているのかが何となく見えてきたことで、作品の中で「異常」を扱おうすることへの理解ができるようになりました。

舞台挨拶の中で監督が「カンヌ国際映画祭」の話を挙げていましたが、もしかすると、今後こういった映画祭の賞レースに絡んでくる監督になっていくのかもしれません。

今後の作品も楽しみにしております。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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