映画『市子』感想と考察:注がれた愛情の清算のために流す涙、噴き出す汗

本記事は一部、作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。

作品情報

市子

<スタッフ>

  • 監督:戸田彬弘
  • 原作:戸田彬弘
  • 脚本:上村奈帆 戸田彬弘
  • 撮影:春木康輔
  • 照明:大久保礼司
  • 編集:戸田彬弘
  • 音楽:茂野雅道

<キャスト>

  • 川辺市子:杉咲花
  • 長谷川義則:若葉竜也

映画『市子』感想と考察

©2023 映画「市子」製作委員会

私たちの誰もが当たり前に持っていると思い込んでいるもの。

それが奪われることが「アイデンティティの喪失」だと解釈され、批評されうるもの。

名前。あるいはそれに公的な妥当性を持たせる戸籍という仕組みである。

名前あるいは戸籍というものが、あまりにも当たり前に与えられたものであるが故に、それがないという状態に思いを馳せることが難しい。

普通の生活をしていたら思いもしないような人の存在やその生き様に触れ、追体験をすることができる。

映画メディアそのものの価値でもあり、同時に『市子』という作品の価値でもある。

映画『市子』は、主人公の川辺市子の失踪に端を発する物語であり、彼女の存在を追いかけるボーイフレンドの長谷川義則の視点で彼女の過去を探りながら、様々な登場人物の回想により、少しずつ彼女の輪郭を浮かび上がらせていくような構造になっている。

本作を見ていると、西川美和監督の『永い言い訳』という映画の終盤に出てきた「人生は他者だ。」という言葉を思い出す。

人生は他者に支えられて成立するものだという解釈もできるが、もっと言うなれば自分という存在は他者によって形作られているということなのだと思う。

では、「他者」と「名前」の間にはどんな関係があるだろうか。

これは、「水」と「器」の関係だと考える。

他者は自分という存在に「水」を注いでくれる存在だ。「花に水、人には愛」なんて言葉もあるが、「水」の一つの形は愛だろう。ただ、「水」は他にも様々な形で与えられる。

そして、「名前」は、他者から注がれる「水」を受け止めるための「器」だ。

本作の主人公である川辺市子には、戸籍に担保された自分の「名前」がない。これはつまり他者から注がれる「水」を受け止める「器」を持たないということでもある。

映画『市子』を見ていると、「水」のモチーフが登場するシーンが非常に多いことに気づく。

水槽、アイス、ビール、麦茶、雨、涙、汗、海。

「水」は様々なものに形を変えて、この映画の至るところに散りばめられていた。

思えば、本作のファーストカットは泡立つ海の水面であり、その時点で今作における「水」のモチーフの重要性は提示されていたともとれる。

さて、「水」に注目すると、登場人物の違いなんかも見えてくる。

例えば、森永悠希演じる北秀和と若葉竜也演じる長谷川義則の違いは「水槽」と「ビール」なのである。

前者は、川辺市子に対して自分が守ってあげる、自分にしか守れないといった趣旨の発言をしきりに繰り返している。

彼の市子に対する愛情というのは、水槽に彼女を閉じ込め、外界から隔絶し、そこに自分が「水」を注ぐことで、彼女を生かしてあげようというものだ。

一方で、後者は、神社へと続く長い階段に腰掛け、焼きそばと引き換えに、自分が半分飲んだビールを共有する。

一方的ではなく、分け合うあるいは共有するという形で、市子に「水」を注いでいるのが印象的である。

そして、アイス、麦茶、雨といった描写は市子の「渇き」を際立たせる役割を果たしている。

特に雨のシーンは、本作の大半が夏の晴れた日のシーンの連続により構成されていることからも、その異質さが増していた。

©2023 映画「市子」製作委員会

雨が降ったあの一瞬だけ、市子の本当の笑顔を垣間見たような、少しだけ自由を取り戻したような、この世界に居場所を得たような、そんな感覚がした。

こうした「水」にまつわるモチーフの積み重ねがあることで、クライマックスの市子の涙と汗の残酷さは際立ったものとなる。

長谷川義則は市子に対して、愛情を注いできた。彼女は市子という名前で、その愛情を受け止め、少しずつ自分の中に貯めてきたのだ。

しかし、彼女は生きるために市子という名前を手放すしかなくなってしまう。

それは、これまで貯めてきた「水」が貯まった「器」を失うということでもある。

だからこそ、彼女は義則の部屋を飛び出す直前に、涙を流す他ない。

彼との別れに伴って感傷的な気分になっているだとかそういう次元ではない。

大切な人から注がれた愛情が涙として流れ、汗として噴き出し、肉体と心が渇いていく。

そうやって自分の中に貯まったものを清算し続けなければ、生きることも許されない人間が人生が存在することを突きつけられた。

映画『市子』のラストシーンは、日の照り付ける夏の暑い日の昼下がりの道を市子が歩いていくというものであった。

夏は彼女が生きることを宿命づけられた残酷な世界を象徴しているように思える。

少しずつ歩を進める。軽快な鼻歌がこぼれる。されど、首元には汗が滲んでいる。

渇いた体躯から、わずかに残された大切な人の愛情の残滓も搾り取られていく。

そして、このラストシーンを不思議な味わいにしているのは、市子という女性を純粋な善として描いていないことだろう。

彼女のために人が死んでいることは事実であるし、北秀和の視点から見れば、市子は紛れもないファム=ファタールであるし、刑事の視点から見れば、彼女は容疑者だ。

つまり、映画『市子』はあるの視点から見れば、多数の人間を死と不幸に追いやったファム=ファタールの物語であるし、別の視点から見れば、戸籍を持たない女性の悲劇的な人生の物語でもあるということだ。

その相反する二つの面を引き受けた上で、クライマックスの展開で観客の涙を誘うというのは、杉咲花にしかできないある種の力業だと思う。

悲劇の物語というのは、ある種分かりやすいし、感情移入もしやすい。そうした物語に振った方が観客の評価が高くなることも理解できる。

しかし、今作はそれを選ばなかった。

単純な悲劇の物語にはなっていないこと。そこに「悲劇の」という言葉を危うくさせる毒が内包されていること。

それが、この映画を唯一無二の忘れられない味わいにしている。