【ネタバレあり】『ララランド』解説・考察:ディミアン・チャゼルが贈る夜の讃歌

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はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね当ブログのTwitterアカウント発の新企画「リクエスト考察」の第1弾記事になります。皆さんから考察してほしい作品を募集しまして、それについての記事を書いていくというものです。

記念すべき第1回には『ララランド』を採用しました。

公開当時大きな話題になり、インターネット上にも既にたくさんの考察が存在しているので、今更新しい視点で記事を書ける自信が無くて敬遠していたんですが、思い切って書いてみることにしました。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。

良かったら最後までお付き合いください。

ノヴァーリスと「青」と「夜」

さて今回私が書いていく考察の前提条件となる事項をここでお話していこうと思います。

その中心に据えるのがドイツロマン主義文学を代表するノヴァーリスという作家です。彼の代表作として挙げられるのが、やはり『青い花』であり『夜の讃歌』ということになるでしょう。

タイトルに「青」というカラーが入っている『青い花』という作品はノヴァーリスの代表作であり、それでいて未完の大作です。この作品は、主人公の青年ハインリヒは幼少期の頃に見た美しい青い花に心を奪われ、その姿を追い求めて旅をするという物語です。

この作品において、青い花とは夢の中の、幻想の産物であり、現実世界でいくら追い求めたところでそれを手に入れることは叶わないという「誰にも見られ得ない事物」として扱われています。

「青い花」のもつ「青」というのは否応なしに人を惹きつける根源的な魅力を孕んだ色でありながら、誰にも見出すことが出来ないのです。

またノヴァーリスが活躍していた頃のロマン主義絵画の中では、青という色は「夜の闇」を表す色だと言われていました。エクリヲの「『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)」にて後藤氏が次のように指摘されています。

 『ラ・ラ・ランド』のナイト・シーンが「青」を基調としたことと、ロマン派が「青」を常に闇と背中合わせの色と見なしたことは、思想的に相似形である。ゲーテはニュートン光学に対して、古代ギリシアのアギロニウスの色彩論を受けて、「青」の向こう側には暗黒が広がると考えた。それを引き継ぐ形で神秘思想家ルドルフ・シュタイナーは「光が暗黒を覆うとそこには青が現れる」とした。

『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)

そしてロマン主義文学を代表する詩とも言われるノヴァーリス『夜の讃歌』はまさしく、彼が最愛の女性ゾフィーの死に際して「青い夜」に救済を求めた讃歌であり、そして自分の存在や自我を世界全体を通底する歴史や大自我と同一化させることで、自らが世界を変容させていくという壮大な世界観で描かれています。

この歌では、まず最愛の女性ゾフィーを亡くしたノヴァーリスが彼女の墓標に佇むところから始まります。

彼が悲嘆に暮れていると、「夜」が彼を包み込み、そしてその「夜」の「青」はその内側に数え切れないほどの光を内包していることを悟ります。

さらにノヴァーリスはその「夜」を照らす太陽として最愛の女性ゾフィーが君臨していることにも気がつきます。

ノヴァーリスは「夜」になるとゾフィーと再会できることを知り、次第に「昼」を疎ましく思うようになります。すると次第に「夜」の世界が昼の世界を飲み込んでいき、世界は「夜」とゾフィーの愛で包まれようとしています。

そうして墓標の脇に佇んていたことが遠い過去のように思われるようになり、ノヴァーリスは夜と宇宙と一体になります。

そんな死したゾフィーが復活することで構築された「夜」の世界で生きるノヴァーリス。しかし、彼は最終的に昼の世界を捨てることはしなかったんです。

私は昼を

信仰と勇気に満ちて生き

そして夜ごと

聖なる灼熱につつまれて死ぬ

(『夜の讃歌』ノヴァーリスより引用)

この一節が『夜の讃歌』の中に登場するのですが、これは「昼」はゾフィーのことを忘れ、この世界の規範となる「信仰」(キリスト教か?)に従って生き、そして「夜」になるとゾフィーという夜の太陽と一体化し、その愛の灼熱に焼かれて死ぬということを表現しています。

ゾフィーは死した存在であり、「夜」にのみノヴァーリスが感じることのできる存在です。一方で、ノヴァーリスは依然生きた存在であり、彼には「昼」という時間が存在しています。

「昼」は有限、「夜」は無限という対比で見ることもできますが、まさしく「昼」は生、「夜」は死を表すモチーフでもあります。

今回はここまでお話してきたようなロマン派的、ノヴァーリス的な「青」と「夜」を念頭に置きながら映画『ララランド』についてお話していこうと思います。

「青」に関しての記述は一部、後藤護さんの「『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)」を参考にさせていただいております。出典元の記事のリンクも以下に合わせて掲載させていただきます。

『ララランド』解説:考察:ディミアン・チャゼルが贈る「夜の讃歌」

映画『ララランド』を語る上で私が一番注目したいのは「青」と「夜」という2つのモチーフです。数多くの視点が存在する中で私はこの2つにフォーカスして作品を考察していこうと思います。

まずこの映画が「朝への賛歌」とともに幕を開ける点は興味深いポイントです。

「Another Day of Sun」という楽曲は新しい1日の始まりを讃えるものであり、それが通勤ラッシュでごった返すハイウェイにてミュージカル仕立てに演奏されます。

しかし、そんな群衆とは対照的なのがセブとミアであります。

2人はハイウェイでいがみ合うようにして出会い、互いに中指を立て合うのです。

冒頭のミュージカルシーンで群衆が「朝の喜び」を歌っていたシーンと対比して見ると、このシーンで2人が憎んでいるのは「朝」であるようにも見えます。2人は朝に中指を立て、切に夜を願うのです。

ミアの物語のはじまり

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さて、まずは冒頭のミアに関する描写を1つ1つ紐解いていきましょう。

冒頭のミアはカフェでオーディションに出かける際に、コーヒーを服にかけられ、青いジャケットを着てオーディションに臨みます。しかし、彼女は思うような結果を出すことが出来ず、意気消沈して家へと戻ります。

その夜、ミアは青いドレスを着てパーティーへ向かいますが、そこでもどこか居心地が悪く、会場を飛び出してしまいます。

そんな彼女が夜道を歩く道すがらのシーンにて後藤氏が大変面白い発見をされているのですが、突如現れるハリウッドスターたちが描かれた壁画の中でミアがチャールズ・チャップリンにだけ一瞥をくれているというのです。

確認をしてみると確かにミアはチャップリンを瞬き程の瞬間ではありますが、ちらりと見ているんです。

映画『ララランド』を見ていて、チャップリンの映画と重なるのはもちろん『街の灯』しかありません。これは既に多くの人が指摘していることですし、ディミアン・チャゼル監督も『街の灯』のタイトルを挙げておられました。

この作品はチャーリーと花売りの女性が「夜」に出会い、そして「朝」にそのもはや交わることはないであろう運命の悲哀を漂わせる映画であります。

ミアが名だたるスターたちが描かれている中でチャップリンだけを一瞥したのは、セブとの出会いとその後の物語の全てを予感させるようでもありますし、それでいて哀しい「朝」の訪れを拒み。「夜」が永遠に続くことを望んでいるようでもあります。

加えて、本作の冒頭のミア、そしてセブのシーンに通底するのは「ブルー」です。

このブルーがには実に多くの含意が成されています。冒頭の章でもお話しましたが、ロマン派の画家たちは青色に夜の闇を見出し、また青色とはその内に光を隠している色であるとしました。

絵画の世界において「ブルー」と言えばバロック期を代表するフェルメールの「フェルメールブルー」ということになるでしょう。

フェルメールは当時高価だったウルトラマリンブルーという染料を自身の作品に多用したがあまり、借金まみれになっていたという逸話まであるほど、強く「青」にこだわった人物です。

フェルメールが生きた17世紀のオランダというのはちょうど英蘭戦争の最盛期であり、まさしく動乱の時代でした。そんな時代だからこそフェルメールは「ブルー」に静けさを求め、それを自分の作品に込めていたんですね。

同じくオランダの画家でゴッホもまたそんなフェルメールへの憧れが強く感じられるような「青い夜」の絵がいくつも存在しています。

ここに冒頭の章で紹介したノヴァーリスの「青い花」の「ブルー」も加わり、「青」という色が「否応なく人を惹きつける魅力」を有していることが分かり、その「青」が「夜」と結びつきます。

そこで冒頭のミアのパートを見返していきますと、彼女の身につけている服は決まって青いのです。オーディションの時に来ていたジャケットもパーティーで着ていたドレスもきまって青色なんですよ。ここに「夜」を求めるミアの思いが表現されています。

ミアが求めたのは、ノヴァーリスがゾフィーとの逢瀬を重ねられる唯一の場所と捉えた「夜」であり、彼女は自分という存在の内に秘められた光を見出してくれる人物を探し求めています。だからこそ彼女は青い色の衣服を身にまとっているのです。

パーティーの最中にミアが鏡に映る自分の姿を見つめるシーンがありますが、これはこの時点でミアを見てくれてる、ミアの「青」の内側に秘められた光を見出してくれる人物が自分の他にいないことを表しており、何とも切ないシーンであります。

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セブの物語のはじまり

さて次にセブの冒頭の物語へと焦点を当てていきます。

セブの物語はジャズミュージシャンとして上手くいかないところから始まります。夢を実現できず苦悩する男は、昼間から部屋でレコードを聴き漁り、演奏を続けます。

そして夜になるとジャズバーへと出かけていき、演奏をすることとなります。そこで彼が演奏を要求されるのはジャズというよりもクリスマス音楽でした。

ところでクリスマスというと日本では本来の意味が忘れられがちですが、本来はキリストの降誕を祝う祝日です。つまりクリスマスソングというのは、イエスキリストを讃える讃歌の役割を果たしていると言っても過言ではありません。

しかし、セブはそんなイエスを讃えるクリスマスソングを演奏することを放棄し、自らが作曲した楽曲を演奏し始めます。それはフリージャズであり、「ミアとセバスチャンのテーマ」と題される楽曲です。

ジャズの名手チェットベイカーの名曲に「ブルーに生まれついて」という一曲がありますが、これは「ブルー」という色がこの上なくジャズを体現する色であることに起因します。

つまりセブのこの演奏シーンにはブルーへの憧れがあり、その先に「青い夜」への強い思いが隠されています。この点に関しては先ほどご紹介した記事の中で後藤氏も指摘されています。

それでいてセブは彼自身のジャズの音色が有する「ブルー」の内側に秘められた光に気がついてくれる人を探しています。この時のセブが青い色のジャケットを着ているのも、また彼自身の内面にある光を見出してくれる人を探しているということを表しています。

またこの時、彼が演奏した「ミアとセバスチャンのテーマ」という楽曲がグリフィス天文台のシーンで使われた劇伴音楽のメロディラインと重なる点も重要です。

誰も自分の音楽を聞いていない中で、少しでも自分の秘めた思いを聞いて欲しいという彼の心の叫びこそがあの楽曲だったのであり、彼が求めていたものの全てはあの楽曲に込められていたのです。

だからこそ天文台のシーンで同じメロディがあしらわれた楽曲が使われることで、その時、彼の求めていた「夜」が到来したことが告げられているわけです。

グリフィス天文台のシーンに至るまでのプロセス

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やはり本作の1つの大きなターニングポイントになるのが間違いなく、グリフィス天文台のシーンであります。ですので、そこに至るまでのプロセスを解説しながら、あのシーンに込められた本作の重要な物語のシフトを読み解いていこうと思います。

まず触れないわけにはいかないのが、ミアとセブのキャリアについてです。ミアとセブは互いに役者とジャズミュージシャン(自分の店を持つこと)を目指しているわけです。

しかし、その実情はと言いますと、ミアはオーディションに落ち続け、セブは店を追い出されたりと全くものになる気配もありません。

なぜこの2人が報われないのでしょうかと考えてみますと、セブとミアは自分たちを他人の物語の中に押し込めようとしているからです。

それが映画であり、ジャズバーであり、バンドでもあります。自分以外の誰かが「神」として主権を握っている世界の中に自分を当てはめようとしているわけです。

誰かが書いた脚本のセリフを読まされるオーディション、誰かに指定された楽曲を演奏せざるを得ないジャズバー、誰かの指示通りに行動することが求められるバンド。これらのどこにもミアとセブの物語は存在していないのです。

「A Lovely Night」を2人で踊るシーンも非常に印象的で、ミアは自分のバッグの中からタップシューズを取り出すんですよね。

後藤氏がこのシーンをメタミュージカルであると指摘されていました。

確かにこれは、ミアがミュージカルの定型に強く縛られていることを想起させる行為です。加えて言うなれば、彼らがまだ他人の世界の中で過ごしている人間に過ぎないことを仄めかす描写でもあります。

そんな彼らが映画館へと向かい「理由なき反抗」を鑑賞するのですが、そこで2人がキスをしようとした時に、映画の映写トラブルが起こります。そのシーンがグリフィス天文台だったということで2人は車で天文台へと向かいます。

プラネタリウムの上映が始まると2人は先ほども挙げた「ミアとセバスチャンのテーマ」のメロディが散りばめられた劇伴音楽と共に踊りながら宙へと浮いていき、2人だけの世界へと没入していきます。

そして2人はキスをするのですが、その後の演出には要注目です。なぜなら一旦映画が終わったかのような映像のフェードアウトをしているんですよ。ここがこの『ララランド』という映画の肝だと思っています。

先ほどのシーンで「理由なき反抗」が映写トラブルで止まってしまいました。

これはつまり「映画」という他者が「神」となり作り上げた世界からミアとセブが解放されたことを視覚的に明示したシーンであると言えます。他人の中から出てきた言語を代弁するための存在としての自分から脱したというわけですね。

その後彼らは自分たちの物語を語り始めるためにグリフィス天文台へと向かいます。そしてプラネタリウムのシーンで自分たちの世界を創造し、ここまで続いてきた物語を一旦終わらせるんです。そしてそこから新しく自分たちのための物語を自分たちの言語で語ろうという方向へとシフトしていくわけですね。

参考:【ネタバレ考察】映画『寝ても覚めても』は『ララランド』と物語構造が似ている?

さらに解説していきますと、このプラネタリウムのシーンにおけるダンスシーンというのはまさに2人が求めてきた「夜」だったわけです。

それは先ほども述べた通りで2人が「何かを求めて出会った」あの瞬間を演出した「ミアとセバスチャンのテーマ」と同じメロディがあしらわれた劇伴音楽が用いられるからです。

セブとミアはようやく探し求めていた「夜」へと辿りつき、そしてその中に1つ輝く星を掴み取ったのです。さらに言うなれば、自分の包む「ブルー」の内側に秘められた光を見つめてくれる相手に出会ったということになります。

2人は「夜」と「宇宙」と一体化し、自分たちの世界を作り上げていきます。

彼らは自分たちの世界に欠けていた「意味」を運命の相手に出会うという行為を通じて手に入れることができました。

それはまさしくノヴァーリスが「夜」の世界の中で失ったゾフィーを取り戻したが如くです。

他人の言語で語られていた映画がここで幕切れ、2人が自分たちの言葉で語る物語の第2章へとここからシフトしていきます。そこはミアとセブが辿りついた「夜」の世界でもあります。

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そして物語の第2部へ

第2部のはじまりはここまでの物語とは対照的です。

ミアは1人劇の脚本を書き始め、その実現に向けて動き始めます。

セブはバンド仲間にお金のために一緒にバンドを組まないかと持ち掛けられますが、それをきっぱりと断ります。そして自分の店をオープンするために動き始めるんですね。

と思いきや、現実はそう甘くはありません。

セブはミアと生活を続けていくためにも、自分の店をオープンするためにもお金が必要であるという現実に直面します。

そんな些細な崩壊のはじまりを2人が暮らす部屋の天井の片隅にできたシミが表現しているのが巧いですね。セブは自分の夢のために再び旧知の知り合いのバンドに加入することとなります。

そして2人が部屋の中で静かに奏でるのが「City of Stars」ということになるわけですが、この「星々の街」とはまさしく2人が探し求めてきた「夜」のことであり、2人だけの宇宙のことでもあります。

しかしそれを手に入れたにもかかわらず、どこか哀しさを漂わせるこの曲は既に2人の物語がすれ違うことを予見しているかのようでもあります。

さらに畳みかけるように印象的な部屋のシーンが続きます。

2人はお互いの夢に対する価値観を巡って口論になります。2人が食事をしている部屋には「ブルー」を象徴するジャズが流れていますが、口論の途中に気がつくとその音楽は止まっていて、音のならないレコードが空しく回転を続けています。

ジャズ音楽が「ブルー」を象徴する楽曲であり、「夜」の臭いを有する音楽であることを鑑みると、2人の部屋から「ブルー」が消えたことは重大な問題です。

2人の世界、2人にとって居心地の良かった世界が音を失いながら壊れていく様子が見て取れます。

そしてミアの1人芝居の日の当日に2人は決別し、「家」を失うんですよね。ミアの「もうここは家じゃない。」というセリフは印象的で、ここで2人の「夜」は終わり、再び朝と昼の世界へと作品は戻っていきます。

田舎へと戻る道を車で疾走するミア、誰かの結婚式で「Another Day of Sun」を演奏するセブ。彼らは自分の物語を語ることを止め、自分の内に秘められていた光を見出してくれた最愛の相手を失い、再び「夜」を待ちわびる日々へと逆戻りします。

対照的なオーディションのシーンから終盤へ

さて物語後半の印象的なオーディションのシーンですが、ここから映画は第3幕へと突入していくと言っても過言ではないでしょう。

一度は失った夢に向かってミアは走り始めるんですね。

セーヌ川に飛び込む祖母の話、川でさざ波を立てる小石の話。さざ波とは小さな波のことです。

つまりセーヌ川というのは「神」という壮大な存在が作り出した運命の流れのことであり、その流れの中でわずかでもその流れを変える小石という存在を「反逆者」であり「夢追い人」であると捉えているのです。

これはまさに自分自身についてミアが語っている歌なんですよね。

冒頭のオーディションでは他人の書いた脚本の言語を読んで落選していましたが、この時は自分の言語で自分の物語を語り合格します。

物語の第3部では、2人の求める「夜」の在り方は変化していきます。

セブとミアが昼間のグリフィス天文台を訪れているシーンは、前半の夜の天文台とは対比的で、これはつまり2人の「夜」が終わりを告げていることを仄めかしているわけです。

しかし、セブが2人の関係について様子を見ようと発言したことでその明確な「夜明け」が描かれていないのが興味深いポイントです。2人にとっての「夜」はまだ終わっていないのかもしれない、そう思わせてくれるのです。

2人はお互いを探し求めていた星のように捉えていたわけですが、ここで2人はそれぞれの夢という名の星へと進路を切り替え、互いに別々の道を歩む決断をします。

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夜の讃歌、究極のフィナーレへと

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この映画において「夜」というのがセブとミアの時間であり、それとは対照的に「昼」という時間が描かれていたわけですが、ここで物語の世界は大きく変化していきます。

ノヴァーリスは「夜の讃歌」にて自己の悲哀をどう収拾させたかというと、それは冒頭の章で述べた通りで、昼の世界では信仰と勇気に生き、夜の世界では聖なる灼熱に焼かれるということでしたね。

本作の結末ではまさしくノヴァーリスが『夜の讃歌』にて描いたような「昼」と「夜」の世界観が投影されているように思えます。

セブとミアは「SEB’S」にて5年ぶりに再会を果たすわけですが、ミアには既に家族がおり、2人の恋愛物語が現実世界においては終幕を迎えていることが明確になります。

しかし、そこで突如として回想シーンが始まり、その中で2人は映画という形式をとりながら自分たちの物語を再構築していきます。

そこでは、初めて出会ったジャズバーのシーンから始まり2人は現実世界での経験を追体験するかの如く、時にそれを理想化しつつフィクションと現実の境界を超越した新しい世界を構築していくのです。

その回想シーンを見ていくと、まさにロマン派絵画のようなブルーが印象的にあしらわれています。ジャズバーでの出会いのシーンで2人を包む青い衣服から始まり、2人の回想シーンには「夜」を想起させる「ブルー」が印象的に散りばめられています。

ブルーに包まれるハリウッドのセット、パリの夜景。

特にパリの夜景の映像は絵画の1枚を切り取ってきたかのように美しい風景でした。

そして回想シーンで最も美しい2人のダンスシーンへと突入していきます。

ブルーの宇宙の中で2人が自分たちの「夜」の世界を再構築していくかのような観念的な映像に思わず息を飲みますね。

その後2人の結婚後を描く16ミリフィルムが登場しているんですが、ここでは一転してシーンが昼になっています。

これまでのシーンが2人が共に過ごした現実を反映したものでありながら、ここからのシーンがミアが自分の夫と過ごしたであろう時間のパイロット版になっているのがまた面白いです。

なぜなら回想の「昼」の世界で描かれた物語というのは、『ララランド』の中では選ばれなかった物語であり、2人の共通認識として存在し得ない世界なのです。

2人の物語はあくまでも明けることのない「夜」に閉じ込められているのであり、共にあの「結婚後の回想で描かれたような幸せな」夜明けを迎えることはもはやあり得ないのです。

「夜」を探し求めて出会った2人。そして共に過ごした短い「夜」。そこから5年もの間どこかで夜明けを待ち続けた2人の物語。

ディミアン・チャゼル監督は、朝を迎え、一本道をミアが車で疾走していくというラストシーンを用意していたと言いますが、それを採用することはありませんでした。

つまり、この『ララランド』という作品において2人の夜明けは訪れていません。「夜」に始まった物語は朝を迎えることなく幕切れるのです。

ここに私がディミアン・チャゼル監督はロマンチストであると感じる理由がありますし、この作品が彼なりの『夜の讃歌』であると感じる理由があります。

我々は生きる中でたくさんの選択をし、そのたびに「選ばなかった人生」という「死」の時間を生み出しているんですよ。しかし、それは選ばなかったというだけで確かに存在している時間なんだと思いますし、ディミアン・チャゼル監督はノヴァーリス同様にそれを恋愛に当てはめているんです。

生涯添い遂げることになる相手を「生」として、それまでに出会い別れた相手を「死」としましょう。

自分が選択した先にはその「生」の相手との人生があったわけですが、それと同時に選ばなかった相手との「死」の時間は確かにどこかに存在しているんです。

しかしその「死」の時間はもはや「夜」の世界にしか残されておらず、ノヴァーリス的な「ブルー」に彩られた時間や可能性は存在こそしていても、絶対に手に入れることはできません。

ただノヴァーリスが『夜の讃歌』で綴ったように、「夜」の世界に自分を一体化させることでその奥に隠された聖なる愛を感じることができるのです。

ディミアン・チャゼル監督はその無限の可能性を秘め、時間という概念から超越した「夜」の世界を『ララランド』という作品に詰め込んだんだと思います。

それこそが『ララランド』のラストで夜明けが描かれない最大の理由なのです。

『ララランド』とはミアとセブの物語であり、2人にとっての永遠の「夜」です。

だからこそ「昼」の世界で2人が再び会うことはもはや叶いませんが、「夜」になれば回想シーンで作り上げられたブルーの世界で再会することができます。

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「夜明け」が描かれないことで『ララランド』は永遠の物語へと昇華されたのです。

エクリヲの記事の中で後藤氏が「青」という色に関して次のように言及されています。

皮肉(イロニー)として、詩人マラルメが見上げたあの呪われた《靑空》は、ひとたびパースペクティヴが宇宙にまで浮上すれば、人類共通の感情を呼び起こす「普遍青(ユニバーサル・ブルー)」として、宇宙(ユニバース)より見下ろされる大いなる色彩となる。

『ラ・ラ・ランド』と青の神話学 ――あるいは夢みる道化のような芸術家の肖像 (フール・ロマン派篇)より)

世界の色と青。ミアとセブが現実を超越したところに作り上げた2人だけの青い世界。

ディミアン・チャゼル監督は自分が人生で成してきた数々の選択の中で自分が失ってきた「光」が「青い夜」の闇の向こうに隠されていると捉え、『ララランド』という「夜の讃歌」を作り上げたのではないかというのが私の本作に対する考察の締めくくりになります。

おわりに

ロマンチストですみません(笑)

自分でも重々承知でございます。でも私自身もこういう感傷的な世界に浸っているのがすごく心地よいタイプの人間でありまして、だからこそディミアン・チャゼル監督のロマンチストさに惹かれる部分は大いにありますね。

ということで映画『ララランド』を私の大好きなノヴァーリスの『青い花』や『夜の讃歌』に絡めて考察して見た次第です。

自分の考察力の乏しさを嘆くばかりですが、これからも書いて書いて精進していきます。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

関連記事

・『ファーストマン』はディミアン・チャゼルによる「続・ブルーの物語」か?

参考:【ネタバレあり】『ファーストマン』感想・解説:ラストシーンに込められたブルーと愛

2件のコメント

自分にはない考察とても楽しく読ませて頂きましたとくに『生涯添い遂げることになる相手を「生」として、それまでに出会い別れた相手を「死」』の下り素敵でした。
チャゼル監督の若さでこの映画を作れることに嫉妬しますが(笑)
これからもチャゼル監督の映画とナガさんの考察楽しみです。

sayさんコメントありがとうございます!
改めて見返してみるととんでもない映画だなぁと感じることの連続でした。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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