みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『キングオブコメディ』についてお話していこうと思います。
以前にTwitterでリクエストいただいた作品を考察しますということで、作品名を挙げていただいていたんですが、多忙も重なり、なかなか時間が取れませんでした。
かなり前に見た作品だったので、考察を書くにあたって、見返したのですが、一言で言うと、本当に「恐ろしい映画」でした。
名作を数多く世に送り出しているマーティン・スコセッシ監督の作品で、彼のフィルモグラフィの中だとどちらかと言うと、『タクシードライバー』の方が似たようなテイストであり、ロバート・デニーロ出演ということでも共通しており、作品としても有名です。
ただ不思議な魅力がある作品でして、これから書いていく内容にも関連しているのですが、まさに「アメリカ」という国を取り巻く幻想と現実のコンテクストを正面から描き切った作品と言って間違いないと思います。
そんな作品を今回は自分なりに考察していけたらと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『キングオブコメディ』
あらすじ
コメディアンとして「売れたい」と願うルパート・パプキンはスタジオ帰りに群集に取り囲まれ身動きが取れなくなっている有名コメディアンのジェリー・ラングフォードを救出する。
そして彼の車に乗り込むと、ルパートは恩を盾にして彼に自分を売り出してほしいという話を持ち掛ける。
ジェリーは社交辞令のつもりで「頑張りなさい。良ければうちの事務所に電話でもかけてきなさい。」と軽くあしらうのだが、ルパートはそれを真に受けてしまう。
その日から、彼は何度もジェリーの事務所に電話をかけ、繋げてもらえないことが分かると、ついには事務所に足を運ぶようになる。
しかし、本人に会いたいという願いを叶えてもらうことはできず、自分の漫談を収録したテープを持ち込んでも、ジェリーではなくマネージャーのミス・ラングによって本人に届けられぬまま処理されてしまう。
それでも自分は彼に気に入られているのだと信じてやまないルパートは、ジェリーの別荘に押し掛け、何とかして話を聞いてもらおうとする。
当然、そんなルパートの存在を恐ろしく感じたジェリーは、「二度と自分の前に現れるな!」と強い言葉で突き放す。
彼に突き放されたルパートは何とか有名なろうと、彼の狂信的なファンであるマーシャと手を組み、恐ろしい計画を立てるのだった・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:マーティン・スコセッシ
- 脚本:ポール・D・ジマーマン
- 製作:アーノン・ミルチャン
- 撮影:フレッド・シュラー
- 編集:セルマ・スクーンメイカー
監督を務めたのは『タクシードライバー』や『グッドフェローズ』などの作品でもお馴染みのでマーティン・スコセッシですね。
日本の遠藤周作の文学作品『沈黙』を映画化したことでも知られています。
そして意外にもこの作品で重要な役割を果たしているのは、脚本を担当したポール・D・ジマーマンなんですね。
というのも彼のフィルモグラフィを見ると、ほとんど映画のタイトルは掲載されていないんです。
彼は元はと言うと批評家として活躍していて、雑誌などの媒体に寄稿しており、その中でアメリカのテレビ放送についても批評を書いていました。
また編集にはマーティン・スコセッシ作品と言えばこの人!といっても過言ではない、セルマ・スクーンメイカーが参加しています。
- ルパート・パプキン:ロバート・デ・ニーロ
- ジェリー・ラングフォード:ジェリー・ルイス
- リタ・キーン:ダイアン・アボット
- マーシャ:サンドラ・バーンハード
- キャシー・ラング:シェリー・ハック
主演を務めたのは、ロバート・デ・ニーロで、彼はこの作品でその評価を不動のものとしたといっても過言ではないと思います。
それくらいに彼の今作での演技は圧倒的で、松田優作を初めとする映画人も今作の彼を見て脱帽したと語っています。
そして本作中で大物コメディアンとして描かれるジェリー・ラングフォード役には、本物の大物コメディアンであるジェリー・ルイスが加わりました。
『キングオブコメディ』解説・考察(ネタバレあり)
幻想と現実のマリアージュ
本作『キングオブコメディ』は確信犯的に幻想と現実の境界を曖昧に描いています。
そしてそれは本作のエンディングが現実であるか幻想であるかに纏わる論争が今も絶えず続いていることからも明らかです。
本作の中ではルパートが自分の部屋の地下室で、パネルのコメディアンや司会者を相手にトークを繰り広げたり、壁に貼られた写真の大観衆を前に喝采を浴びたりといった妙なシーンが多く描かれます。
しかし、それらの我々が奇妙に感じるシーンはルパート自身にとっては紛れもない「現実」なのであり、彼は自分の世界ではスターなのです。
ただこの映画はそんなルパートの空想紛いのものをいかにも「現実」っぽく見せて見たり、逆にこれは現実ではないんだよと突きつけるような演出を用います。
そうすることで本作を見ている我々は、もはやそこに描かれていることが果たして現実なのかそれとも幻想なのかという区別がつかなくなるのです。
そして先ほど少し触れましたが、ジェリー・ルイスがジェリー・ラングフォードを演じているという事実が本作の現実と幻想の境界を一層曖昧にしています。
というのも実在の大物コメディアンが映画の中の世界の大物コメディアンを演じているからです。
このように、『キングオブコメディ』という作品は、私たちに「あなたならこの映画、現実と見るか?それとも空想と見るか?」と問いかけてきているのです。
この作品が描き出したのは「アメリカ」そのもの
この作品について考えていく上で、私が考えたのは、この作品が映し出している幻想と現実の混線というのは、「アメリカ」という国そのものではないのか?ということです。
教科書では、イギリスからの移民が未開のアメリカ大陸を開拓し、国を作り上げていっただとか、最初は13の州から成る国だったとか、その後イギリスと独立戦争をしたといった歴史が綴られています。
では、どういった人々がイギリスからアメリカ大陸へと渡ったのかというと、それは主にプロテスタントたちだったと言われています。
16世紀に起こった宗教改革を契機として生まれたプロテスタントは、16世紀に入るとイギリス内にも持ち込まれ、これがピューリタンと呼ばれる呼ばれる人たちを形成していくことになりました。
彼らは当時イギリスで主流だったイングランド正教会からの分離派であり、マジョリティから見れば「異端者」です。
だからこそその教義の内容もどちらかというと反国教会的な点が目立つのですが、面白いのは彼らが正教会が何と言おうと、自分たちは自分たちの真実を信じるし、自分たちが真実を自由に決められるという視点が垣間見えることです。
カート・アンダーセンの『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』においては次のように語られています。
権威ある専門家が何と言おうと、自分たち一人にこそ、何が真実であり何が真実でないかを決める権利があると考えるようになった。それどころか、情熱的で空想的な信念が何につけても重要なのだと思い込むようになった。
カート・アンダーセン『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』
つまり、当時のピューリタンたちは現実がたとえどんなものであろうと、自分たちが現実が何たるか、真実が何たるかを決めることができるという「自由」を信奉したのです。
そして彼らは、本国で虐げられるようになると、アメリカ大陸を目指すようになります。
大航海時代には、エル=ドラドという黄金郷の噂が流布されましたが、まさしくそんな銀や金があるという幻想を信じたプロテスタントたちが多く南アメリカないし北アメリカへと移住してきました。
当然、それらは幻想にすぎず、移民してきた人たちには餓死に代表されるような悲惨な運命が待ち受けていたのですが、それでも本国では依然として金や銀の採掘される黄金郷という幻想が流れ続けました。
フランシス・ベーコンは当時の植民活動を次のように評していたそうです。
人間の知性は、いったんある意見を採用すると(一般に受け入れられている意見であれ、自分が賛同できる意見であれ)、ほかのあらゆるものを引っ張り出して、その意見を擁護するようになる。それを否定する重要な事例がいくつも見つかったとしても、それを無視・嫌悪するか、何らかの違いを持ち出して除外・拒絶する。
ピューリタンたちはアメリカ大陸を「神の国」であると信じてやまず、そこでどんな運命が待ち受けており、現実が幻想と異なるものであっても、それを無視して幻想を正当化し、やがては幻想を現実とすり替え始めたわけです。
カート・アンダーセンはアメリカという国がそもそもこういった経緯で建国されるに至った国であることが、その遠い子孫にあたる現代のアメリカで幻想と現実の境界が曖昧になる1つの先天的な要因として挙げています。
さて、これを踏まえて、『キングオブコメディ』におけるルパート・パプキンの行動や考え方を見て見るとどうでしょうか。
そうなんですよ。まさしく彼は、自分の幻想に憑りつかれており、それを現実と混同し、その境界を見失っています。
さらには、自分の抱いている幻想をジェリーに押しつけ始めるのですが、当然受け入れられるはずもなく、自分が間違っているのだと諭される羽目になります。
しかし、彼が自分の間違いを認めることはありません。そして自分の考えを何とかして正当化する方向へと働きかけるのです。
このように『キングオブコメディ』という作品におけるルパート・パプキンというキャラクターはアメリカが建国時から、いや建国以前からこべりついている「幻想を正当化するDNA」を体現しているのです。
メディアと幻想、ショービジネスが作る「アメリカ」
(c)20th Century Fox Film Corp. All rights reserved
アメリカにおいてショーというものの持つ影響力は計り知れません。
そのパイオニア的な存在だったのが、映画『グレイテストショーマン』のモデルでもある興行師P・T・バーナムでしょう。
『グレイテストショーマン』の中では、家族思いのサーカス団長という描かれ方をしていましたが、彼は偽物を本物とすり替えることで世間の関心を集め、富を築いた人物です。
彼は猿のはく製と魚のはく製を組み合わせて、人魚のはく製として自身の博物館に展示するなどというペテンを日常的に行っていたわけですが、当然知識人からはこんなものは偽物だと指摘されるわけですよ。
しかし、彼は先ほどのプロテスタントたちの考え方同様、自分が真実だと信じているのだから、この人魚のはく製は紛れもなく真実なのだと語るのです。
こういう考え方が、アメリカにおいて、刺激を与え、人々を熱狂させるためであれば、偽物を本物にすり替えようと、白を黒と言おうと構わないのだというある種の免罪符となってしまいます。
それが現代に近づいてくると、テレビを初めとする「ショー」という形で表出します。
というよりもアメリカでは政治でも経済でも金融でも何もかもがショービジネス化されていきました。
特にアメリカでは、政治の世界においてその傾向が強く見られました。
カート・アンダーセンの『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』においてはケネディやレーガン、クリントンが例として挙げられています。
ケネディは自身のハリウッドスターのような風貌を生かして、メディアを利用したり、愛人がマリリンモンローだったりとまさに華やかなショーを見せているようでした。
しかし、その背後で彼は骨粗鬆症やアジソン病に苦しみ、薬が欠かせなかったと言います。
また、彼の暗殺もメディアたちに取り上げられることによって刺激的なショーとして、国民に届けられることになりました。
レーガンは元々俳優だったこともあってか、映画好きなのもあってか、政治シーンでしばしば映画のセリフを引用し、完全に政治というものをフィクションと混同させました。
彼のエピソードで面白いのは、もう1つ「ハルマゲドン」ですよね。
レーガンは「ハルマゲドン=核戦争」と捉え、そこに関心を持つ人と哲学的な会話をした結果、それを真剣に受け止めるようになったとされています。
そしてこの発言が、アメリカ国民の「ハルマゲドン」という幻想を信じる心と共鳴し、彼は選挙戦で大勝を収めました。
また、クリントンの任期は、『キングオブコメディ』が作られるよりも後になりますが、実に本作のルパートを思わせる点があります。
彼はその任期の間にモニカ・ルインスキーという実習生と愛人関係になっていたのです。
しかし、何とも面白いのが、クリントンはこの実習生とのスキャンダルが出たことでメディアにおけるショーの主役に躍り出ることとなり、逆に国民からの任期と支持率を高めたのです。
もちろん後に、愛人関係の証拠が出てきてしまうと、どうしようもなくなってはしまいますが、それでも刺激的で面白ければ良いと言わんばかりにクリントンのスキャンダルをメディアを通じて消費したところに「アメリカ」を感じます。
アメリカという国では、メディアを通じて伝えられる出来事は大半が「ショー」と化しており、人々はそこに刺激を求め、その刺激を提供してくれる幻想が信奉されるのです。
本作のルパートはチャップリンの「とんでもない悲劇がかえって笑いの精神を刺激してくれる。」という言葉の如く、自身の悲劇を自嘲気味に喋り「一夜の王」となります。
そこに、ジェリー・ラングフォードが誘拐されたなどという事実があったとしても、人々はその現実を刺激的な幻想へとすり替え、信奉することを止めません。
というより、先ほどのクリントンとモニカ・ルインスキーの一件に想起されるように、この事件がメディアに利用されることによって、むしろルパートという男の刺激性を強め、より国民に受け入れられやすい状況を作り出したとも言えます。
ドイツの映画監督ヴィム・ヴェンダースは自身の作品がアメリカではじめて放映されることとなった際に、アメリカを訪れた時の印象を『アメリカン・ドリーム』という詩の中に込めました。
これほど見ること(ヴィジョン)が衰えてしまった場所もない
絶えず先行する映像以上のものを
より強烈な映像で見つけなければならない
単純なもの ありのままのものへのまなざしは失われてゆく。
アメリカの大きな自然公園では
まるで自然は公園以外の形では存在しえないかのように
(「美しい」ところには必ず公園があり
その性質上必ずディズニーランド化していく。)
(ヴィム・ヴェンダース「アメリカンドリーム」より抜粋)
この詩は幼少の頃からアメリカという国に憧れを抱いていたヴェンダースという男が、初めて訪れた際に、その幻想が音を立てて崩れ落ちていく様を綴った詩とも言えます。
刺激的な映像をテレビを初めとするメディアからあまりにも受け取りすぎたことで、アメリカの人々は「単純なもの」「ありのままのもの」つまり現実へのまなざしを喪失しつつあるというのです。
そして自然でさえも、ありのままで楽しむことはせず公園という形で「テーマパーク化」された状態の自然を楽しむのです。
ルパート・パプキンという男の現実の姿があれほど狂っているにもかかわらず、メディアを通じて刺激を増幅された彼の虚像は、刺激を求める人々にとって大好物だったというわけですね。
結局ラストシーンは現実なのか幻想なのか
さて、本作の中で最も論争を生んでいるのは、やはりそのラストシーンでしょう。
これは現実だという風に見たければ、ラストシーンにジェリー・ラングフォードの姿がないことを理由として挙げることができます。
ラストシーンに至るまでのルパートの幻想のシーンには、基本的に彼の姿がありましたから、彼がいないということは、ルパートは幻想から解放されたのだと解釈することもできるでしょう。
一方で、幻想だという風に見たければ、ラストシーンの場所が刑務所を思わせるような場所であること(彼の背後のカーテンが檻のように見える)や彼が着ている赤色の衣装が囚人服を思わせることを理由に挙げれば良いでしょう。
しかし、この作品の結末について現実だ幻想だといっても結局のところ答えはないように思います。
マーティン・スコセッシ監督はイタリア系アメリカ人であり、イタリア移民社会で育ったという出自を持っています。
とりわけ彼の『タクシードライバー』『最後の誘惑』といった作品は、実にポストモダニズム的と言いますか、アメリカという国が抱いている幻想を打ち壊すような作品に仕上がっています。
とりわけ後者は公開当時激しい批判に直面しましたが、ここまでに書いてきたことを踏まえて考えると、この作品がそうなることも何となく予見できてしまいます。
言わば、キリスト教というものの幻想を暴くかのようなアプローチをとったわけで、そんな映画が幻想を愛する敬虔な信徒の目に触れたら・・・。
だからこそマーティン・スコセッシ監督はこの『キングオブコメディ』という作品で、アメリカという国を包む現実と幻想のカオスを表現しようとしたのだと思いました。
現実が幻想と化し、幻想が現実と化していくアメリカという国そのものを「キングオブコメディ」として半ば自嘲的に描いたのではないかと私は考えました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『キングオブコメディ』についてお話してきました。
名作と呼ばれ、議論を呼び続けるのも頷けます。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。
参考文献
・『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史』
・『映像(イメージ)の論理』