【ネタバレあり】『ウインドリバー』解説・考察:記号化すらされない「死」に尊厳と祈りを

アイキャッチ画像:(C)2016 WIND RIVER PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVE

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね7月27日から公開の映画『ウインドリバー』についてお話していこうと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

監督のテイラーシェリダンについて

ナガ
この名前を聞いただけで安心感あるよね!

まずは本作『ウインドリバー』にて監督を務めたテイラーシェリダンについて触れておきたいと思います。やはり彼の名前を世界に轟かせたのは、ドゥニヴィルヌーブ監督作品で、彼が脚本を務めた映画『ボーダーライン』でしょう。

『ボーダーライン』ではメキシコ麻薬戦争、今作ではネイティブアメリカン保留地での少女失踪事件を題材にしていますが、どちらの作品もそんな人1人の力ではどうしようもないような巨大な事件を前にして主人公たちのミニマルな成長譚を描き出したという点で脚本的には共通点を見出す事ができます。

また『最後の追跡』という西部劇作品でもデヴィッド・マッケンジー監督とタッグを組み、アカデミー賞にて脚本賞にノミネートされました。西部劇らしい男性映画のフォーマットを踏襲しながら、ウィットに富んだ会話劇を交え、主人公の2人がアメリカの社会問題を明るみに出していくというプロセスは、テイラーシェリダン印とも言えるプロットです。

しかしプロットは主題としても至ってシンプルである一方で、彼の組み立てる脚本は極めて複雑と言えます。『ボーダーライン』では、シェイクスピアの劇作品でしばしば用いられているような5幕構成を採用し、大きな注目を集めました。また基本的に彼はプロットを複雑にしない一方で、キャラクター描写に複雑性をもたらすことで、物語を深化させていく傾向があります。

特に今回の映画『ウインドリバー』に関してはプロットは極めて単純明快です。脚本に関してもこれまでのテイラーシェリダン脚本と比べてもとりわけ複雑ということもありません。しかし、キャラクターの設定に関してはかなり複雑性を孕んでいて、それがために本作は非常に厚みのある仕上がりとなっています。

そして今作ではテイラーシェリダン自身が監督を務めているわけですが、銃撃戦のシーンなんかの撮影は非常に興味深いと思いましたね。スタイルとしては『ボーダーライン』に近いものは感じるんですよ。ロングショットを取り入れながら、さらにPOV視点の映像を挿入したりすることで緊迫感と臨場感、躍動感のある銃撃戦が実現されていました。

ただドゥニ・ヴィルヌーブ監督って基本的にすごく画面のバランス的にも均整の取れた美しい映像を撮るんですよね。それこそ計算しつくされた画作りが印象的で、銃撃戦のシーンなんかでも無駄のないシャープな映像が多用されました。終盤の夕暮れ時の突入シーンなんて1つの芸術作品ですからね。

一方で、『ウインドリバー』でテイラーシェリダン監督が魅せたのは、緊迫感と臨場感を残しつつも、アクションとしてもかなり派手な躍動感を意識した映像でした。『ボーダーライン』のような映像そのものの芸術性は感じられませんでしたが、銃撃戦のシーンの迫力は増していて、この辺りは彼の撮りたい映像の趣向が出ているのかなと思いました。

では、ここから映画『ウインドリバー』の解説・考察へと移っていきます。一部ネタバレになるような内容を含みますのでご注意ください。

『ウインドリバー』は探偵小説的か?

本作『ウインドリバー』は『最後の追跡』と同様でテイラーシェリダンらしい西部劇の様相を呈しているわけですが、私個人としては西部劇というよりも探偵小説のコンテクストに通ずるものを感じました。

元々探偵という存在の成り立ちはヴォルター・ベンヤミンの『パサージュ論』にも挙げられたことですが、「群衆」の誕生にあるとされました。都市が生まれ、「群衆」が生まれたことで個人の足跡が消失したことで、その不可視化された足跡を辿る者としての「探偵」が生まれたわけです。

このベンヤミンの『パサージュ論』に関しては映画『羊の木』の考察にてもう少し詳細に触れているので、こちらをご覧頂ければと思います。

参考:『羊の木』とパサージュ論、そして神の裁きと赦し

では、探偵小説に焦点を当てていくとどうでしょうか。例えばエドガー・アラン・ポーは史上初の推理小説と名高い『モルグ街の殺人』という作品を世に送り出しました。これが1841年のことです。実は、その7年前に1834年パリにフランソワ・ヴィドックが世界初の探偵事務所を開設しているんです。この事実がポーが探偵小説最初の作品の舞台をパリに据えたことに通じていることは間違いないでしょう。

そして19世紀後半になるとコナンドイルの『シャーロックホームズ』シリーズが登場し、そして20世紀に入ると探偵小説はいわゆる黄金時代を迎えます。これはどういうことかと言いますと、探偵小説というジャンルが世間的な認知を高め、注目され、そして長編小説化されるようになり、名作が次々に生まれた時代ということですね。

代表的な作家というとアガサ・クリスティ、ヴァン・ダイン、ディクスン・カーらの名前が挙げられるでしょう。当ブログでもアガサ・クリスティ原作の映画『オリエント急行殺人事件』の考察を書いておりますので、良かったらこちらもご覧ください。

参考:『オリエント急行殺人事件』はハードボイルドという新しいポワロ像を描いた

そして重要なのが、なぜこの時代に探偵小説は黄金期を迎えることになったのかという点です。これに関しては探偵小説批評の重鎮、笠井潔氏が非常に興味深い指摘をしています。それは第1次世界大戦という人類の大惨禍が探偵小説の黄金時代の根底にあるという持論です。

笠井氏は、第1次世界大戦によって名も無い多くの人々の「記号としての死」、つまり大多数の中の1人として多くの人が戦争で命を落としたことが人々を探偵小説へと走らせたというのです。

これを考えてみますと、探偵小説というのは殺人が起きて、そしてその手がかりを追いながら、ある個人の消失した足跡を探り当て、そしてなぜ「死」がもたらされたのかという謎を解明していくことに基本的な主眼があります。

つまり探偵の仕事というのは、消失した個人の「死」に意味と尊厳を付与していくという作業でもあるわけです。「死」という記号に、誰の、誰によって、なぜ、といった情報を付与していくことで、その「死」は単なる記号という束縛から解放されることとなります。

こういった探偵小説の在り方を踏まえて考えると、映画『ウインドリバー』は極めて探偵小説的な意義を継承した作品と言えると思います。

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記号化すらされない「死」に尊厳と祈りを

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映画『ウインドリバー』の題材は映画の最後にもテロップで表示されるのですが、アメリカのネイティブアメリカン保留地で多発した少女失踪事件についてです。ここで注目したいのは、テロップにもあった通りで、ネイティブアメリカンの少女の失踪数について正確な数値を示したデータは存在していないという事実です。

つまり、ネイティブアメリカンの少女たちの死というのは、もはや記号化すらされていなくて、1つ1つの死が世間から認識されることもなく、ただこの世界から消失していっているという現実がそこにあるわけです。

そんな少女たちの名も無き「死」たちに尊厳を取り戻そうとする意志が映画『ウインドリバー』には強く感じられます。その1つの表象として「足跡」というモチーフが登場しています。

この映画ではコリーがしきりにスノーモビールの跡や人の足跡を気にする様子が映し出されています。これは単純な話をしてしまうと、新たに降り積もった雪が足跡を消失させてしまうからという事情があるのですが、モチーフとして捉えてみますと、これを辿るという行為を通じて『ウインドリバー』が探偵小説のフォーマットを踏襲していることの表れでもあります。

雪原で亡くなった1人の少女の現場から続く、雪の上に刻まれた「足跡」を辿ることで、名も無き「死」に意味を付与していくという物語構造を、この作品はわざわざ視覚的に明示してくれています。

そしてその「死」の真相を解明した時、はじめて1つの「死」に意義と尊厳が付与されることになります。雪の中を足や手、胚の細胞が壊死しながらも必死に走った少女。必死に生きようとしたその最期を心に刻み込むことで、「死」に血が通い、そして生まれるのです。

ジェレミーレナー演じるコナーがマーティンに告げた、「死」から逃げずにその痛みを受け入れること。我々はあまりにも多くの「死」を日常的に記号として享受することで次第に無感覚になりつつあります。『ウインドリバー』という作品は、そんな現代を生きる我々への強いメッセージが込められています。

コナーの娘が生前に書き残していた草原の楽園に関する詩。これは劇中に登場する雪に閉ざされたウインドリバーの地とは対照的なユートピアです。現実世界で悲惨に死した魂が、せめて死後の世界では楽園で幸福を享受してほしいというテイラーシェリダン監督からのささやかな祈りのようにも感じられますね。

そう考えるとこの『ウインドリバー』という作品が最も訴えたかったのは、雪の中を懸命に疾走する少女とそこにオーバーリンクする祈りのような詩が印象的な映画の最初のシーンだったように思えてきます。

ミニマルな物語への連結

ナガ
ここテイラーシェリダン脚本の凄いところだよね!

ここがテイラーシェリダン監督の脚本の妙でして、作品には社会的な問題や問題に対するメッセージが込められているんですが、その大きな枠組みでの作品構造がぴったりと作中の登場人物の描写にリンクしてくるんですよね。

まず主人公のコナーは、かつて自分の当時16歳だった娘が謎の失踪を遂げて変死したという過去を持ち合わせています。実は彼はネイティブアメリカンの女性と結婚していて、彼自身は白人なんですが、子供たちはネイティブアメリカンの血を継いでいたわけです。そういう点で、冒頭の少女の死体を見た時に、彼が自分の娘の姿を重ねたことは明白です。

つまり、本作の物語というのはメタ的に見ると、探偵が「足跡」を追うことで「死」の真相を解明し、意義と尊厳をもたらすという視点が存在しているんですが、それをコナー自身の物語に重ねているんですよね。

彼の娘はコヨーテに食べられて、検死もままならず犯人を特定することも出来ずに忘れ去られようとしています。だからこそ彼はマーティンの娘の「死」の「足跡」を追うことにこだわったんです。その真相を解明することはもはやコナー自身の過去の清算であり、自身にとっての救済でもあったからです。

ラストシーンで戻ってきたコナーがマーティンに静かに寄り添うシーンがありますが、このシーンはコナーにとっても救済と祈りのひと時であったはずです。

またエリザベス・オルセン演じるジェーンの物語もリンクしているように感じられます。彼女はFBIとしてあくまでもこの事件を殺人事件として立証し、大規模な捜査を展開することにこだわっていました。だからこそ彼女にとっては目の前にある少女の死体以上に、検死の結果が重要なんですよ。それはまさに「記号としての死」です。

しかし彼女はマーティンやコナーと関わる中で、「死」がもたらす深い絶望を知り、そしてその思いに感化される中で徐々に少女の「死」と向き合うことになります。そして、胸部に発砲され、大怪我に見舞われながらも懸命に戦い、そして終盤には自分置いて犯人を追いなさいとコナーに告げます。

彼女もまた目の前の「死」に尊厳を取り戻すことにこだわったのです。記号としての「死」ではなく、血の通った実体のある「死」の意味に触れたからです。

テイラーシェリダン監督はネイティブアメリカンの少女たちの名も無き「死」に祈りを捧げるという大枠を定めながら、それを踏襲する形でキャラクターの個々の物語を構築し、それを1つの映画に纏め上げています。相変わらずハイレベルな脚本ですね。素晴らしい。

おわりに

やはり脚本というのは映画の屋台骨のようなものですから、ここがしっかりしていないと映画の完成度や強度はどうしても低くなってしまいます。そういう意味ではテイラーシェリダンという名前が脚本家の欄にクレジットされているだけで、安心感がありますし、映画が大崩れする心配はないと断言できてしまうと言っても過言ではありません。

『ウインドリバー』では彼が監督をも自分で務めたわけですが、映像的にも非常に興味深いポイントが多かったですし、緊迫感ある捜査シーンと銃撃戦に痺れました。

『ボーダーライン』の続編でも彼が脚本を担当したということで、監督は交代してしまいましたが、依然楽しみな映画です。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

2 件のコメント

  • こんにちは。「その〝死〟に名をつける」、これ以上の弔いはないわけですね…。お父さん二人が佇むシーンには、えもいわれぬ悲しみと安堵がありました。

    • さるこさんコメントありがとうございます!
      ラストシーンは印象的でしたよね。娘を亡くした2人の父が互いの娘の死を思いながら寄り添う悲しくも美しいシーンでした!

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