【ネタバレ】『サマーフィルムにのって』解説・考察:好きを「自分ごと」にする瞬間

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『サマーフィルムにのって』についてお話していこうと思います。

ナガ
久々にとんでもない脚本を拝ませていただきました…。

実を言うと、終盤に至るまでは私自身も「普通に良い映画だなぁ~。」くらいに思いながら鑑賞していたんですが、ラスト10分で全部ひっくり返りました。

本編の中に散りばめられた「点」が綺麗に繋がって「線」と化していき、ファーストシーンからラストシーンに至るまでの全ての瞬間が物語的、あるいは演出的に呼応しあうのです。

何というか、本編の全てのシーンがこのラストへと続いていたのだという脚本的な緻密さに感動し、鳥肌が立ちましたね。

本作は、ドラマや CM、MV など様々な媒体の映像作品を手がける松本壮史さんが監督を務め、劇団「ロロ」主宰の三浦直之さんが脚本を担当しました。

そして、主人公には元乃木坂46の伊藤万理華さんが起用されていて、良い意味で肩の力が抜けた等身大の高校生を演じていました。

気鋭のクリエイター陣と若いキャスト人が作り出した型にはまらない規格外の青春映画となっており、多くの人に届いてほしい愛おしい作品だと思います。

さて、ここからはそんな『サマーフィルムにのって』について個人的に感じたことや考えたことをお話していきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『サマーフィルムにのって』解説・考察(ネタバレあり)

映画監督を「自分ごと」にする瞬間を描く

(C)2021「サマーフィルムにのって」製作委員会

この『サマーフィルムにのって』という作品が何を描こうとしていたのかと考えてみると、それは「好き」を「自分ごと」にする瞬間だったのかなと思いました。

そんな物語の中心にいたのは、もちろん主人公のハダシなのですが、もっとも端的で分かりやすく描かれていたのは、彼女の友人であるブルーハワイかもしれません。

彼女は少女マンガが大好きであり、電子書籍で夜な夜な読み耽っては、きらきらとした青春や甘酸っぱい恋愛に憧れを抱いていました。

しかし、それを表に出したり、何か行動を起こしたりはできず、思いを自分の中に閉じ込めたまま、傍観者の立場に留まり続けていたんですね。

ただ、物語の後半にそんな彼女が映画部の自主映画作品で、そんなキラキラした青春恋愛映画の当事者の1人を演じることとなり、憧れ、眺め続けていた世界を「自分ごと」へと変えていきます。

そう、この物語は自分の「好き」に対して「傍観者」の立場を取っていたキャラクターたちが、それを「自分ごと」に変え、「当事者」へと転じていくプロセスを描いた作品なのです。

本作のSF的物語要素の中心にいる凛太郎もそうですよね。

彼は、自分が憧れていたハダシ監督のデビュー作を見るために、未来の世界から過去へとやってきて、彼女の映画制作に巻き込まれ、次第に「当事者」の立場に立つことを余儀なくされていきました。

しかし、それでも彼のスタンスは、あくまでもハダシ監督の作品が好きで、彼女の作品がきちんと後世に遺されてほしいというものであり、そこに「自分」はありません。

未来の世界で映画という芸術が消失してしまうことを憂いながらも、それに対して自分が何か行動を起こすというよりは、ハダシ監督の作品に期待をしているないし自分が彼女の作品を見られたらそれで十分といったところでしょうか。

そんな彼が物語の終盤には、映画という芸術の灯を絶やさないために、自らがメガホンを取り、映画を作るんだという覚悟を表明します。

このように凛太郎も物語の中で、徐々に映画というものに対する自分の立ち位置やスタンスを変化させており、最後にはそれを「自分ごと」に変えていったのです。

そして、何と言っても『サマーフィルムにのって』の中心にいるのは、主人公のハダシ監督ですね。

彼女は、『座頭市物語』などの時代劇映画の名作に憧れている高校生で、そんな名作たちに感化されて、自分も時代劇を撮りたいと『武士の青春』という作品の脚本を執筆します。

しかし、彼女は自分の書いた脚本にも関わらず、そんな映画をどこか客観視してしまっていて、作品の中に「自分」が入り込めていないのです。

それが顕著に表出してしまうのが、ラストシーンであり、ハダシ監督は自分の好きな名作からの引用を自分の物語に当てはめたり、時代劇の「型」を気にしてしまい、物語の結末の脚本を書くことができず、苦心します。

それでも、ハダシ監督はライバルである映画部の花鈴の思いに触れ、凛太郎への恋心を自覚していく中で、自分の物語として『武士の青春』という作品の結末を見出しました。

映画監督になるとは何か?

映画をたくさん見て、それらの良いところを真似ぶことによって作品を作り上げていくという「守破離」の考え方で言うところの「守」の部分ももちろん大切です。

しかし、本当の意味で映画監督になるというのは、自分が映画で何を作りたいのか、何を伝えたいのか、何を描きたいのかを明確に持つことなのだと『サマーフィルムにのって』という作品は高らかに宣言します。

物語の冒頭時点では、ハダシ監督の目に陳腐なキラキラ映画の監督としてしか映っていなかった花鈴は、恋愛映画に対して自分の哲学や考えをきちんと持っていました。

そんな他者の考え方に触れ、触発されながら、彼女が本当の意味で「映画監督」になり、「自分ごと」のラストシーンを撮影するラストシークエンスには度肝を抜かれましたね。

また、そうした脚本的な展開のさせ方も巧いのですが、何よりハダシ監督自身に凛太郎と対峙させるという物語の主題を可視化するメタ的なアプローチに感動しました。

自分の書き上げた物語を俯瞰で見ていたハダシ監督が、物語の中に入り込み、自分の哲学と考えを持って、その結末を作り上げていくというある種の思考プロセスの可視化は、まさしく1人の「映画監督」の誕生の瞬間を演出しています。

この『サマーフィルムにのって』はそもそも花鈴が撮った劇中映画のファーストカットとそれを眺めるハダシ監督の表情から始まります。

一方の、ラストシーンでは、ハダシ監督自らの撮った映画のクライマックスと、映画に「自分ごと」としてのめり込む彼女の姿が描かれていました。

「傍観者」から「当事者」へという物語のベクトルがファーストカットとラストカットで綺麗に対比されており、そこに劇中映画のファーストカットとラストカットがそれに呼応するというメタ的な演出も重なることで、お見事という他ない完璧な構成になっていたと言えるのではないでしょうか。



他者の森をかけ抜けて自己になる

『サマーフィルムにのって』という作品のもう1つの面白さは、時代劇とキラキラ青春映画という2つの異なるジャンルの劇中映画を作品内に同居させている点だと思います。

劇中映画『好きってしか言えないじゃん』を手がけるのは、映画部を取り仕切る花鈴という学生で、そんな彼女と彼女の撮る作品に対してハダシ監督はネガティブな感情を抱いています。

ハダシ監督は、彼女の秘密のシアタールームの内装からしても時代劇ばかりを見ていて、他のジャンルの映画には、ほとんど触れてきていないという設定なのだと思いました。

そんな時代劇への愛と憧れを胸に、彼女は自らが監督・脚本を手掛ける時代劇作品『武士の青春』の制作を始めるわけですが、彼女は行き詰まってしまいます。

彼女は自分が「描きたいもの」の軸がまだ明確に定まっておらず、どこか過去の名作時代劇やそれらが打ち出してきた「型」に縛られてしまっているところがありました。

そのため、映画の撮影を始めても、その映像に対する評価軸が、自分の評価している素晴らしい時代劇の名作に近いかどうかでしかないわけですよ。

そこに、時代劇にしか触れてこなかった彼女なりの苦悩と葛藤があり、『サマーフィルムにのって』という作品はいかにしてそんな状況にブレイクスルーをもたらすかを迫られます。

では、この状況を打破するために、本作は何を用いたのか。

それこそが、花鈴というハダシ監督とは正反対のキャラクターであり、彼女の愛するキラキラ青春恋愛映画なのです。

(C)2021「サマーフィルムにのって」製作委員会

ナガ
個人的にハダシ監督にブレイクスルーをもたらす、プロセスの描き方にすごくグッときました。

というのも、自己認知の過程においては、他者の視点に触れることが非常に大切だといわれており、溝上慎一氏はこのことを「他者の森をかけ抜けて自己になる」と表現しています。

つまり、人間が自分自身を確立していくためには、他者の存在や他者の視線を欠かせないものなんですよね。

思えば、それが正しく取り入れられているのかは別として、花鈴というキャラクターは自分の作品に時代劇の要素を持ち込むなど、キラキラ青春恋愛映画を愛しながらも、多様な視点や考え方を吸収しようとしていました。

一方の、ハダシ監督は、彼女と彼女の撮る作品を怪訝そうに見つめ、時代劇の世界に閉じこもり、他者の考え方や視線に触れることから避け続けてきてしまったんです。

だからこそ、この映画においてハダシ監督にブレイクスルーをもたらすのは、花鈴でなければならなかったのだと思います。

彼女の映画監督としての考え方に触れ、そして嫌っていたキラキラ青春恋愛映画に触れることで、自分自身の作品が深まり、本当の意味で自分の撮りたいものを見つけ出しました。

まさしく「他者の森をかけ抜けて自己になる」と形容される自己認知のプロセスを2つの異なるジャンルの劇中映画とそのクリエイターの交錯という形で見事に演出したわけです。

私たちは、自分の「好きなもの」だけの世界で生きることはできません。

しかし「好きなもの」だけに熱中し、そこに囚われすぎると、思考は柔軟性を失い、凝り固まり、いつしか何も生まなくなってしまいます。

大切なのは、「嫌いなもの」や「知らないもの」に積極的に触れ、そのたびに自らをそして自らの「信じるもの」や「好きなもの」を捉えなおしていくメタ認知の過程なのです。

キラキラ青春恋愛映画と時代劇、スクールカーストの上位にいる者と下位にいる者、未来と過去。

全く異なるものが交錯することで、私たちはブレイクスルーを起こしていけるのだという真理を『サマーフィルムにのって』は映画制作のプロセスに乗せて描いたのです。

 

ビート板というキャラクターがなぜこの物語には欠かせないのか?

(C)2021「サマーフィルムにのって」製作委員会

さて、最後に『サマーフィルムにのって』において、影が薄いながらも、非常に重要なキャラクターであるビート板についてお話させてください。

この作品を見て、ビート板というキャラクターを見たときに抱いたのは、他のキャラクターよりもちょっとだけ大人びていて、物事を俯瞰で見ている人物だなという印象でした。

そう思った時に、真っ先に自分の頭によぎったのは、アニメ映画『たまこラブストーリー』に登場する常盤みどりというキャラクターです。

彼女は自分の中に「好き」の気持ちを抱えながらも、自分を取り巻く状況をちょっとだけ他の人よりも俯瞰で見れてしまうがために、表に出さず胸の内に秘めるという選択をします。

『たまこラブストーリー』を手がけた山田尚子監督は、作品の中で青春のキラキラした部分だけではなく、その暗い部分にも焦点を当てたいと語っていたのですが、まさしくみどりというキャラクターは青春の「苦さ」を作品の中で背負っていました。

もちろん、この『たまこラブストーリー』という作品は、主人公のたまこと彼女が好意を寄せるもち蔵の2人の物語が主軸ですので、みどりがいなくても成立はするでしょう。

しかし、彼女が青春の「苦さ」を一身に背負っているからこそ、この作品はより味わい深いものになっていたわけです。

ナガ
話を『サマーフィルムにのって』に戻します。

今作におけるビート板の役割というのは、まさしく『たまこラブストーリー』におけるみどりに重なるものがあると思いました。

彼女もまた、映画作りに情熱と青春を捧げる主人公たちの傍で、どこか大人びていて、そんな状況を俯瞰で見ている人物として描かれています。

象徴的だったのが、彼女がブルーハワイに「失恋」を指摘されたときに、「これって失恋なんだ。」という発言をしたことでしょうか。

「失恋」と言われたことに対して、鈍感というよりは、むしろ感情的ではなく、理知的に自分自身の置かれている状況から、それを分析しようとしているように見えました。

『サマーフィルムにのって』において、彼女が好意を寄せていたのは、ハダシ監督の方なのか、凛太郎なのかという点についても、かなりぼかされていて、ここも個人的には良かったと思いますし、ますますみどりに重なるポイントだなと思いました。

SF好きなのに、時代劇鑑賞に付き合っているビート板の姿から察するに、私としては彼女の好意のベクトルの先にいるのは、ハダシ監督なのかなと思ったり…。

天体が好き、SFが好き、そして好きな人がいる。そうしたたくさんの「好き」を抱えながらも、それらに対して感情的になったりしない。

ハダシ監督の映画の撮影にあれだけ協力しながらも、天文部の文化祭の展示はサラッと準備している要領の良さも含めて、やっぱり彼女は他のキャラクターよりもちょっとだけ「大人」なのです。

少しだけ「大人」で、少しだけ他の人よりも物事を俯瞰して冷静に見れてしまうからこそ、彼女は息苦しさを抱えているんですよね。

ナガ
彼女が今作の映画製作において「カメラマン」を担当しているという事実がそんな立ち位置を象徴しているといえるでしょう!

ハダシ監督がどんどんと前に進んでいき、ブルーハワイも自分なりの輝きを見出す中で、まだ自分は、物語を見つめることしかできない、1歩を踏み出すことができていないのかもしれない。

それでも、ラストシークエンスでカメラのレンズ越しに世界を見つめていた彼女は、モニターから目を離し、目の前で起きている出来事を自分の目で直接見ようと試みています。

(C)2021「サマーフィルムにのって」製作委員会

葛藤の中で、もがいて、悩んで、それでも自分なりの答えに辿り着こうとしている等身大のキャラクターとして、ビート板は『サマーフィルムにのって』において欠かせないキャラクターでした。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『サマーフィルムにのって』についてお話してきました。

ナガ
力技かもしれませんが、ラストで完全にひっくり返されたよね…。

よくあるSF設定と王道の青春物語から、ここまで斬新な作品が生まれるとは思っていなかったので、本当に良い意味で期待を裏切ってくれました。

上映館の数が「30」程度とかなり小規模での公開となっておりますので、盛り上げて、何とかもう少し多くの映画館で上映してもらえないかなと思っている次第です。

夏に見るのにピッタリの王道だけど、王道じゃない最高の青春映画だと思います。

1人でも多くの人に届くことを祈りながら、記事を締めくくらせていただきます。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

関連記事