【ネタバレ】『ザスーサイドスクワッド』解説・考察:「はみ出し者」たちの物語に感涙!

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ザスーサイドスクワッド』についてお話していこうと思います。

ナガ
北米の大手批評家レビューサイトRotten Tomatoesで、90%超の支持を獲得し、大絶賛で迎えられていますね!

後ほどお話しますが、DCEUが迷走する1つのきっかけにもなった前作の『スーサイドスクワッド』は公開直後から評判が悪く、半ば無かったことにされてしまいました。

何がそんなに上手くいかなかったのだろうと改めて考えてみたのですが、個人的には「はみ出し者」と「ヒーロー」の差別化ができていなかったところが大きいのかなと思います。

各キャラクターのバックグラウンド、戦闘のスタイル、世界を救う行為への向き合い方などなど、「はみ出し者」と「ヒーロー」では明確な線引きがあって然るべきです。

しかし、ポップ路線とダーク路線の狭間で中途半端な内容に仕上がった2016年版の『スーサイドスクワッド』は、とにかくその線引きが曖昧でした。

キャラクターは魅力に欠け、彼らの戦っている理由、正義との向き合い方も不明瞭で、物語にも登場人物の物語にも何一つ感情が乗ってこないのです。

そんな中で、DCは火中の栗を拾う形で、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズの監督として知られるジェームズ・ガンを脚本として招聘し、後に監督をも任せる決断をしました。

こうして、2016年版『スーサイドスクワッド』を完全に上書きする形で作られた『ザスーサイドスクワッド』ですが、流石ジェームズ・ガンと言わざるを得ない圧倒的なクオリティでした。

ナガ
前作で最大のモヤモヤになっていた「はみ出し者」と「ヒーロー」の差別化がはっきりと物語の中で為され、キャラクターに感情移入しまくってしまい、終盤は不覚にも感動で涙してしまいましたよ…。

めちゃくちゃ笑えるのに、めちゃくちゃ泣ける。そんな最高のエンターテインメントが誕生したと断言できる素晴らしい1本です。

ぜひ、多くの方に劇場でご覧いただきたいですね。

では、ここからは個人的に感じたことや考えたことをお話させていただきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ザスーサイドスクワッド』解説・考察(ネタバレあり)

そもそも『スーサイドスクワッド』はなぜ作り直されたのか?

まず最初にそもそも今回の『ザスーサイドスクワッド』がどういった経緯で制作されたのかを整理しておこうと思います。

2016年の『スーサイドスクワッド』制作から、今作公開に至るまでの経緯はかなり複雑で、それでいて知っておくべき内容ではありますので、ぜひお付き合いください。

 

①2016年版『スーサイドスクワッド』制作をめぐるゴタゴタ

2016年に公開された映画『スーサイドスクワッド』は批評家、観客双方から支持を得られず、今もなお「DC映画の黒歴史の1つ」的な位置づけで語られがちです。

ただ、その背景には、制作段階でのゴタゴタが大いに関係していました。

まず、監督に抜擢されたのは『フューリー』の監督を務めたことでも知られるデヴィッド・エアーです。

ブロックバスター初挑戦ではありましたが、『フューリー』も高評価で迎えられており、公開前は非常に期待されていたのを覚えています。

しかし、制作が順調に進みながらも、公開日と同年の5月にある事件が起きました。

関係者向けのテスト試写が行われたのですが、ここでデヴィッド・エアー監督が手がけたダークテイストのものと、ワーナーが予告編の制作会社と共同して制作したポップテイストのものという2バージョンが試写されたのです。

この2バージョンの評判がどうだったかと言うと、どちらもほどほどだったのだとか。

ここで配給会社のワーナーが下したのは2バージョンを混ぜて、ちょうど中間くらいのトーンに仕上げて予定通り公開するという決断でした。

主に次の3つのファクターが挙がり、ワーナーはデヴィッド・エアー監督の脚本を大幅に方向転換することにしたのです。

  • MCUがポップテイストの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』で大成功
  • ダーク路線の『バットマンVSスーパーマン』が興行的に失敗
  • ポップテイストの予告編の再生数やインプレッションが好調

しかし、その結果として、映画のトーンがどっちつかずになり、極めて散漫な作品が世に出ることとなったんですね。

また、監督もそうですが、この決断により、ジャレット・レトがジョーカーを演じたシーンが大幅にカットされたというニュースも話題になりました。

 

②DCが「火中の栗を拾って」ライバルから監督を引き抜き

2016年版の『スーサイドスクワッド』は評判こそ散々でしたが、興行的には成功していたので、続編が作られるのではないかという報道もありましたし、ワーナーもプロジェクトとしては進めていたでしょう。

そんな時、映画界に大きなニュースが飛び込んできました。

2018年7月に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』成功の立役者であるジェームズ・ガンが同シリーズの3作目の監督を解雇されたのです。

その背景には、彼が2008年〜2012年ごろかけて小児性愛、レイプ、人種差別、ホロコースト、エイズなどに関連した不謹慎なジョークをSNSにアップしていたという報道がありました。

賛否ありながらも、同シリーズのキャスト陣が「ジェームズ・ガンが撮らないなら出演しない!」くらいの勢いで支持したこともあり、結果的に2019年に監督には復帰しています。

しかし、その間に「火中の栗を拾った」のがワーナーでありDCサイドでした。

2016年版の『スーサイドスクワッド』制作時にライバルの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の成功に引っ張られたワーナー。

そんなワーナーが、MCUから解雇されたジェームズ・ガンに声をかけ、『スーサイドスクワッド』の続編の脚本執筆を依頼したのです。

当初は脚本のみの予定でしたが、最終的には監督も務めることになりました。

結果的に「続編」ではなく「リブート」という形になりましたが、こうして直接のライバルからの引き抜きによるアメコミ二大勢力の「はみ出し者映画」が世に送り出される運びとなったのです。

 

③『ザスーサイドスクワッド』とデヴィッド・エアー監督の思い

そして、忘れてはいけないのが、今回自身の監督作を半ばオフィシャルに黒歴史されてしまったデヴィッド・エアー監督です。

彼は2016年版の公開後から、自身のディレクターズカット版を発表したいとワーナーに要求を続けてきましたが、『ジャスティスリーグ』のザックスナイダーカットのようにその要望が通ることはありませんでした。

また、彼は「スタジオ版(2016年公開版)は僕の映画ではない。」と断言しており、それは「自分の人生を反映した最高の映画だった。」ともコメントしています。

というのも、デヴィッド・エアー監督はロサンゼルス南部の貧困地区で幼少期を過ごし、非行や犯罪に手を染め、逮捕されたこともあったようです。

死体を見たり、人が目の前で死ぬのを目撃することも日常茶飯事のような場所で、高校を中退し堕落した日々を贈っていたある日、彼は自分の友人が目の前で死ぬというショッキングな出来事を経験しました。

それを機に人生を変える決断をし、彼はアメリカ海軍に入隊します。

辛く苦しい日々でありながら、彼はここで規律と忍耐を学んだとも語っていますね。

その後、仕事を転々としながらデヴィッド・エアーは後に彼が注目されるきっかけにもなった『トレーニング デイ』の脚本を書きあげます。

そうしてキャリアを積み重ねた後に作り上げた自身の『スーサイドスクワッド』は、「はみ出し者」として生きてきた自分にしか書けない、作れない映画だったと彼は強調します。

デヴィッド・エアー監督は、そんな思いを抱えながらも、今回の『ザスーサイドスクワッド』への支持を表明しました。

そして、自身の手がけたバージョンの公開をあきらめないと決意を新たにしています。

以上、ここまでが今回の『ザスーサイドスクワッド』の公開に至るまでの諸々の経緯です。

こうした背景も知った上で作品を見ていただけると、より味わい深くなるのではないかと思います。



「はみ出し者」の物語として完璧な仕上がりに!

この記事の冒頭でも書きましたが、やはり2016年版の『スーサイドスクワッド』の最大の問題点は、「はみ出し者」の物語として確立されていなかったことだと思います。

キャラクターのバックグラウンドの描きこみが甘く、チームの面々の連携や関係性は掘り下げられず、彼らの考えや信条も曖昧で、ヒーローとの差別化ができていなかったんですよね。

主人公が犯罪者たちであり、彼らは正義のヒーローとは本来敵対する存在であるという前提が見えにくく、彼らが主人公たる意味が見えませんでした。

ナガ
そういう意味では、デヴィッド・エアー監督のディレクターズカットは気になるところだね…。

そんな前作の反省もあり、ワーナーないしDCは『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』という「はみ出し者」の物語を大成功させたジェームズ・ガンを連れてきたわけですが、結果的にこれが大成功でした。

今回の『ザスーサイドスクワッド』は一体何が素晴らしかったのかをここからは3つの観点からお話させていただきます。

 

①「スーサイドスクワッド」というチーム名が活きた物語に

©2021 WBEI TM & (C)DC

2016年版の『スーサイドスクワッド』は、決死のミッションに挑むという割には、そんなにキャラクターが死なないので、ミッションの困難度合いを感じるのが難しい部分がありました。

デヴィッド・エアー監督本来のダークでシリアスな路線のバージョンであれば、もっと多くのキャラクターが死亡するストーリーだったりするのかな…?

それはさておき、メインキャラクターが全員犯罪者でかつキャラクターの数もそれなりに出せるということで、ヒーロー映画と差別化できる部分があるとすれば、第一にキャラクターの命を「軽く」することだと思います。

ヒーロー映画では、基本的に主人公が正義の側にいて、最終的には彼らが「勝つ」ことが宿命づけられていますから、多くのキャラクターの命が失われるという展開はレアケースでしょう。(そういう意味でも『アベンジャーズ インフィニティウォー』は衝撃的でしたね。)

今回の『ザスーサイドスクワッド』は、映画の冒頭からガンガンキャラクターを葬っていきました。

数少ない2016年版からの続投キャラクターであるキャプテンブーメランの退場は衝撃的でしたが、そんなことはもう気にならないレベルで、最初の作戦で大量のキャラクターが退場したので、衝撃的でしたね。

そもそもこのタスクフォースXが今回の任務に当たったのは、その難易度が高く、全滅必至だったからでした。

特に、アマンダは陽動部隊と本隊にチームを分け、陽動部隊の方は最初から全滅前提で送り出していたような気がします。文字通り「スーサイドスクワッド」というわけですね。

この命の軽さにより、正規の軍隊や正義のヒーローを派遣しないようなダーティーでかつ死をも厭わない任務であるということが強調され、メインキャラクターたちの位置づけが明確になったと思います。

まずは、ここが2016年版との大きな違いの1つだと個人的には感じました。

 

②己の正義のために戦うことが大義に通ずる

©2021 WBEI TM & (C)DC

今回の『ザスーサイドスクワッド』がヒーロー映画との差別化という観点で見たときに、非常に巧いなと感じたのは、「正義」の描き方です。

ヒーローとヴィランという区別で考えたときに、その違いとして指摘できるのは、前者は大義のために戦い、後者は個人的な正義のために戦うという点でしょう。

サノスのような大義のために戦うヴィランもいますが、彼は非常にレアケースで、大半のヴィランはそうではありません。

『ザスーサイドスクワッド』におけるヴィランであるスターロも、もれなく地球を支配するという私欲のために戦っていました。

ナガ
では、ヒーローでもヴィランでもない、今作の「スーサイドスクワッド」の面々のような「はみ出し者」たちはどう描かれるべきなのでしょうか。

仮に2016年版のように彼らを半ば大義のために戦う存在と混同してしまうと、ヒーローと差別化することができなくなります。

一方で、ただ単に私欲や個人的な正義のために戦い、それによって世界に悪影響を与えるのだとすると、ヴィランと差別化できなくなるでしょう。

では、ヒーローとヴィランのどちらにも属さない「はみ出し者」をジェームズ・ガン監督はどう描いたのでしょうか。

今回、「スーサイドスクワッド」の面々のポジションを描く上で監督は「リック」「アマンダ」「ピースメイカー」「スターロ」というキャラクター達を巧みに操りました。

まず、「リック」は典型的な大義のために戦うキャラクターで、ヨトゥンヘイムでアメリカがスターロの実験に関与していた証拠のデータをメディアに公開すべきだと考えます。

しかし、「アマンダ」はそのデータを公開することは、アメリカの威信低下につながるため、何としてでも阻止すべきだと考えていました。彼女はアメリカの正義のために戦っていると言えるでしょう。

一方で「ピースメイカー」はそんなデータの扱いを巡って「リック」と対立します。

©2021 WBEI TM & (C)DC

なぜなら、彼は「アマンダ」の指令を受けており、減刑を勝ち取るためには、そのデータを破壊するしか選択肢はないと考えているのです。

そういう意味でも、「ピースメイカー」は自分のために戦うという色が強いキャラクターだと言えるでしょう。(それが奇しくもアメリカの大義にリンクしているところはありますが)

ナガ
彼は「キャプテンアメリカの影」みたいなところがあるよね…。

また、『ザスーサイドスクワッド』のヴィランであるスターロも先ほども書いたように、完全に自分自身の野望のために行動していました。

こうした様々な「正義」のために戦うキャラクターがいる中で、「ブラッドスポート」を中心にしたチームの面々はどう位置付けられたのでしょうか?

彼らはアマンダから減刑を提示されたり、自分の家族を半ば人質に取られているわけですから、言うまでもなく自分のために戦っています。

その一方で、クライマックスでは、コルトマルタ島の市民を救うというただ目の前の人を助けるという純粋な正義のために戦うことを決意しました。

つまり、『ザスーサイドスクワッド』の「はみ出し者」たちというのは、あくまでも自分のために戦う一方で、半ば無意識のうちに大義のために戦っているのです。

ジェームズ・ガン監督は、ヒーローでもヴィランでもない「はみ出し者」たちを、ヒーローとヴィランの両方の要素を兼ね備えた中間者的存在として描いています。

象徴的だったのは、「ブラッドスポート」の最終的なデータの扱いです。

彼は、「リック」のようにデータの公開を匂わせつつ、一旦は「アマンダ」や「ピースメイカー」たちと同様に、データを伏せることに決めます。

しかし、「ブラッドスポート」はそのデータをあくまでも自分たちが自由になるための武器として扱い、アマンダへの「人質」にするんですよ。

このように、彼らは半ば無意識的に「大義のために」という側面を有しながら、あくまでも自分たちのために戦い、力を行使します。彼らの戦いは上官の命令からは「はみ出して」いますからね。

この位置づけが物語の中で明確になったことで、『ザスーサイドスクワッド』は「はみ出し者」の物語として確立されたように思いました。

 

③「はみ出し者」たちに感情移入してしまう

©2021 WBEI TM & (C)DC

そして何より今回の『ザスーサイドスクワッド』が素晴らしかったのは、キャラクターたちにめちゃくちゃ感情移入してしまうところだと思います。

ナガ
これは前作では、考えられなかったところだよね…。

そもそも「スーサイドスクワッド」の面々は、全員終身刑の犯罪者なので、私たち観客から最も遠いところにいると言っても過言ではありません。

こうしたキャラクターの描写は、大きく分けると2パターンあります。

まずは、ジョーカーのように私たちの理解や共感を完全に超越した存在として描くアプローチですね。

この場合はあえてバックグラウンドや行動・感情への意味づけを省略することでキャラクターを際立させることができます。

そしてもう1つが、今回の『ザスーサイドスクワッド』のブラッドスポートたちのように私たちが身近に感じられたり、共感を抱いたりできるような存在に演出することです。

とりわけ今回の『ザスーサイドスクワッド』のキャラクターたちは家族ないし親子関係で何らかの問題や悲哀を背負っていました。

ブラッドスポートは、自らが犯罪者であるために、1人娘を真っ当な道から脱線させてしまう危機に瀕しています。

ラットキャッチャーは、父が貧困の中で耐えられなくなり自死を選んだという壮絶な過去を持ち、それを引きずっていました。

ポルカドットマンは、母親に人体実験の対象とされてしまい、酷い扱いを受けたことで、母親を愛情の対象としてではなく、憎しみの対象と捉えています。

2016年版ではウィル・スミスのデッドショットを除いてほとんど掘り下げられなかったのですが、今回は1人1人のキャラクターたちにしっかりとスポットが当てられました。

それぞれの「はみ出し者」になるまでの物語が明かされ、そんな「はみ出し者」たちが集い、誰にも見られていないけれども世界の片隅で人類存亡をかけて戦う。

思えば、象徴的だったのは「ネズミ」だったのかもしれません。

「ネズミ」は私たち人間が忌み嫌う生き物であり、言ってしまえば駆除の対象です。

劇中のブラッドスポートのような反応が当たり前だよね!

しかし、そんな忌み嫌って、遠ざけるはずの害獣を私たちはいつの間にか好きになって、応援し、その活躍に涙してしまうわけですよ。

ヒーローでも、ヴィランでもない、「はみ出し者」たちだからこそ、この『ザスーサイドスクワッド』という作品は成立しているのだと思います。

そして、彼らの活躍を映画で見た私たちが、思わず涙し、勇気をもらえるのと重なるように、その映像が劇中のメディアでも報じられ、ブラッドスポートの娘にも勇気を与えました。

ェームズ・ガン監督の演出が憎いのは、彼らの戦いが大衆に受け入れられ、彼らが「正義のヒーロー」になるような描写を加えないことでしょう。

あくまでも、彼らは「はみ出し者」であり、その場に居合わせたから気まぐれに戦っただけであり、言うなればそれはアメリカの正義からは逸脱する行動でした。

しかし、少なくともブラッドスポートは、テレビを見ていた娘にとっては「ヒーロー」になったのです。

このようにジェームズ・ガン監督は、「はみ出し者」と世界、社会、大衆と言った大きな関係性でヒーローを生み出すのではなく、「はみ出し者」とその娘というミニマルな関係性の中で「ヒーロー」を誕生させました。

それは奇しくも「映画」と「観客=わたし」の関係性に重なっています。

スーサイドスクワッドの面々が万人にとって「ヒーロー」だったとは言い難いかもしれません。

しかし、少なくとも私にとって彼らは紛れもない「ヒーロー」だった。そう言えるような物語を作り上げたことが、今回の『ザスーサイドスクワッド』の最大のストロングポイントではないでしょうか。



アクションの魅せ方と時間の操作で観客を引き込む

ここまでは物語性の部分について言及してきましたが、最後に演出的なところについてもお話させてください。

『ザスーサイドスクワッド』のようなアクション系のブロックバスターは、作品のリズムや緩急のつけ方が意外と難しいと個人的には思っています。

というのも、通常の作品であれば、アクションパートとドラマパートが交互に展開されていく、その繰り返しの中でしか構築できないからです。

ナガ
観客に時系列に沿って物語を伝えるためには、そうするしかないよね…。

ですので、アクションパートに移るまでのドラマパートが冗長になったり、逆にアクションパートが長すぎて全体的に薄っぺらく、単調になったりなんてよくある話です。

アクションパートはしっかりと見せつつも、キャラクターのバックグラウンドはきちんと掘り下げないといけない。それでいて作品として単調になってはいけない。

アクション系のブロックバスターを成立させるためには、こうしたいくつものポイントを押さえていかなければなりません。

そんな中でジェームズ・ガン監督は、今回少し面白い演出ないし魅せ方をしていたと思います。

というのも、『ザスーサイドスクワッド』はアクションパートとドラマパートを完全に分けてしまうのではなく、アクションをやりながら半ば同時進行的にドラマパートを展開していくという荒業を披露したのです。

『ザスーサイドスクワッド』は「フラッシュバック」と「フラッシュフォワード」と呼ばれる映画の時間表現の技法を多用しています。

アクションパートを先行して描き、そこから「フラッシュバック」で時系列を戻して、そこに至るドラマパートに言及したり、ドラマパートを「フラッシュフォワード」で前借りして、「フラッシュバック」で巻き戻してという具合に、かなり時系列を自由自在に操作してありました。

この魅せ方というか演出のやっていることは「DJ」に近いと思います。

本来の時系列と流れの物語があって、それを使って観客の興奮を煽るために、ミックスの仕方を変えたわけです。

こうした時系列の操作は、アクションパートとドラマパートが絶え間なく行き来するジェットコースターのような感覚を与え、観客に息つく暇を与えません。

2時間11分というアメコミ映画の中でも長尺に分類される作品でありながら、体感時間が異常に短いのも、そうした監督の「ミックス」の巧さがあってのものなのだと思いました。

ナガ
また、アクションシーン単体で見ても、本当に魅せ方が多様で、全く飽きることがありません。

中盤のハーレイクインの「ロンド」とも形容できる美しいアクションシーンは、アメコミ映画の中でも屈指のアクションと言えるでしょう。

©2021 WBEI TM & (C)DC

素手での接近戦から始まり、敵から銃を奪って銃撃戦に発展させつつ、最後は槍を使った戦いへと切り替えるというアクションシーンだけで綺麗な三幕構成になっていたのは印象的です。

エフェクト面でも、『ザスーサイドスクワッド』はグロ・ゴア描写が目立ちましたが、このハーレイのアクションシーンは血が花びらに転じるという独特のエフェクトがかけられており、差別化されています。

戦争映画を想起させるような戦闘、スパイ映画を思わせるような潜入アクション、カーチェイス、ハーレイクインのロンド、スーサイドスクワッドの面々同士の戦闘、そしてスターロという巨大怪獣との戦闘と、作品を通して振り返ってもアクションシーンが非常に多様でした。

そんな多様で単体でも見ごたえのあるアクションシーンを、「フラッシュバック」と「フラッシュフォワード」で絶妙にミックスしたことで、『ザスーサイドスクワッド』はとてつもなく勢いのある作品に仕上がったと言えるでしょう。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ザスーサイドスクワッド』についてお話してきました。

ナガ
『マンオブスティール』以降のDC映画としては最高傑作でしょう!

2016年版が制作段階のゴタゴタで追求できなかった「はみ出し者」の物語が、確かに今回の『ザスーサイドスクワッド』にはありました。

R15指定は伊達ではなく、グロ・ゴア描写はぶっ飛んでいて、かなりコメディ色の強い作品ではあるのですが、それでも最後には「感涙」してしまうという具合に、観客の感情がジェットコースターのように絶え間なく変化する作品でした。

まさに、エンターテインメントの醍醐味を凝縮したような映画だったと言えるでしょう。

他のDC映画を見ていなくても、前作を見ていなくても、全く問題ありません。

ナガ
今すぐに劇場で鑑賞していただきたい1本です!

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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