【感想・考察】『イーダ映画史に残る性描写とその魅力を語る

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回は私が最も印象に残っている性描写が登場する映画をご紹介します。

文学においても、絵画においても、そして映画においても、芸術作品と性的な描写というものは切っても切り離せないほど密接な関係にあります。数々の映画で性的な描写というものが登場しましたが、これほどまでに印象に残った性描写は個人的には過去に存在しなかったように思います。

その映画作品のタイトルが「Ida(イーダ)」です。

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©Phoenix Film Investments and Opus Film 映画「イーダ」予告編より

作品概要

1962年のポーランド。戦争孤児として修道院で育ったアンナ(アガタ・チュシェブホフスカ)は、院長におばの存在を知らされる。おばのヴァンダ(アガタ・クレシャ)はアンナがユダヤ人であり、本名はイーダであると告白。イーダは両親の墓を訪れたいと言うが、墓はおろか遺体がどこにあったのかさえもわからない。そこでヴァンダは、イーダの両親が生活していた家を訪れてみようと提案し……。

この映画は本当に淡々としており、モノクロ映画であるということも相まって終始暗い雰囲気に包まれた映画である。しかし、主人公のイーダという一人の女性が修道会という社会から隔絶された厳格な空間から一歩外に踏み出し、アイデンティティの揺らぎに直面しながらも新たな生き方を見つけていくという過程を繊細に描き出した傑作である。

そしてこの映画の終盤にその性的描写が登場する。その描写の印象の強さはほかの映画作品のそれとは比べ物にならない。その魅力を今回は語っていきたいと思う。

修道女の疑問

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©Phoenix Film Investments and Opus Film 映画「イーダ」予告編より

初めに修道女、シスターと呼ばれる人たちについて少し解説をくわえなければならないだろう。キリスト教における修道女と呼ばれる存在は、端的に言うと厳格な修道誓願を立てて、それを実行する女性のことである。カトリックや正教徒など派閥によってもそのあり方は異なるが、修道女は基本的に俗世間から離れて、修道会で神に祈りをささげながら生活を送る。


彼女たちの修道誓願の3本柱は清貧、貞潔、服従である。

彼女たちはキリストの花嫁ともいわれており、貞潔、つまり生涯未婚であり、純潔であることが求められる。また清貧、つまり贅沢の一切を禁じられている。そのため修道女たちは聖餐の時を除いてはアルコール飲料を摂取しないという。つまり修道女というのは厳格な規律の元、その生涯をキリストへの祈りにささげるということに他ならないのである。

今作の主人公であるイーダは、まだ修道誓願を立てていない、いわゆる修道女見習いの立場にある。そしてこのまま修道会にいれば、何も考えることなく修道女になる運命にあるだろう。

しかしそんな彼女は自分の両親のルーツを知る旅というきっかけで生まれて初めて修道会の外の世界を知ることになる。そこで感じたのは、「私は何者なのか?」という自分のアイデンティティの揺らぎである。そして今まで盲心的に従ってきた修道会の生き方に疑問を抱く。

そんな彼女は物語の終盤、ある少女が修道女の誓願を立てる場面で涙を流す。それは自分のこれ方の生き方に対する純粋な疑問の表れだった。




映画史に残る性描写

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©Phoenix Film Investments and Opus Film 映画「イーダ」予告編より

そして彼女はドレスに着替え、煙草に火をつけ、酒を飲むと、夜のクラブへと出かけていく。そこで活動するバンドマンの男に彼女は心惹かれる。それは彼女とは全く逆の生き方をしてきた人間である。

イーダはその男と一晩を共にする。彼女は自身の純潔をささげる。


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©Phoenix Film Investments and Opus Film 映画「イーダ」予告編より

この一晩の情事にこれほどの魅力があるのはなぜなのか。

それは全く異なる生き方をしてきた二人の交わりであること。修道女というこれからの彼女に待ち受けていたはずの人生の否定であること。さまざまな理由が考えられるが、最大の理由はこの映画作品におけるこの性描写の存在感である。

この作品は終始暗く重い雰囲気に包まれている。というのもナチスの戦争犯罪にも関連するユダヤ人問題を扱っていることもあるし、修道女という厳格な世界を扱っているからである。そして、置かれた環境にただしたがって生きる、アイデンティティを持たぬ主人公イーダは何者にも慣れに存在であり、その表情は終始虚ろで感情を持たない。

しかしこの性描写の一瞬だけ、彼女の表情に光が差す。生気が宿るのである。それは女性としての生き方に目覚めたためなのか、はたまた修道女として生きる道を否定したことで、自分だけの生き方を見出したためだろうか。


映画に張り詰めた緊張感と閉塞感が一瞬だけ取っ払われ、そこにあるのは生を、性を実感するひとりの女性の姿なのである。

行為の後で彼女は、バンドマンの男に、俺と一緒に普通の人生を歩まないかと提案される。彼女はその話を楽し気に聞くが、最終的にその提案を受け入れることなく去っていく。それはその提案を受け入れれば、結局それは何かに従って生きていくに他ならないからである。

彼女は自分だけの生き方を模索する覚悟をしたのである。

イーダの初めての性経験は愛という感情から語れる類のものではないのである。彼女を縛るすべてのしがらみからの解放を意味し、彼女に広い世界で生きる一人の女性としての生を実感させ、未来への希望を提示する、いわばイニシエーション的役割を果たしたのである。

それゆえにこの性描写にこれほどまでに心惹かれるのだ。

モノクロ映画で、戦争犯罪を題材に扱い、終始重苦しい空気に支配された映画であるため見る人を選ぶとは思うが、ぜひ見ていただきたい傑作である。




 

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