「リップヴァンウィンクルの花嫁」解説・考察:リップヴァンウィンクルとニュークス

一部ネタバレもありますので、鑑賞されてから読まれることを推奨いたします。

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『リップヴァンウィンクルの花嫁』についてお話していこうと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

作品の講評

まずこの作品を見て感じさせられたのは、何と岩井俊二監督らしい作品だろうかということでした。女性の物語というベースを維持しつつも。まさに現代の社会問題を浮き彫りにする切り口の鋭いおとぎ話であったと言えるでしょう。

これまでの『リリイ・シュシュのすべて』のような長編で、人間の内面を深くえぐるような映画を数多くとってきた監督ですが、今作『リップヴァンウィンクルの花嫁』は『花とアリス』の頃の映像的な美しさへと回帰し、それがかえって人間の闇を深くしているという残酷な映画だったように思います。

まさに岩井俊二節炸裂といったところでしょうか?




 

「白い謎の帽子」は何を意味するのか

 

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©RVWフィルムパートナーズ 「リップヴァンウィンクルの花嫁」予告編より引用

リップヴァンウィンクルの花嫁が最初にPVで出してきた映像で特に印象的だったのは、この独特の白い帽子だったと思います。作品を見ればこの謎は一瞬で解けますね。

これはツイッターでいう白い卵、つまり初期アイコンなのです。のちに触れますが、これが物語において重要な意味を持つことは言うまでもありません。

現代の我々を取り巻く環境

現代において我々を取り巻く大きな問題の一つは個性の希薄化です。この問題が発生した原因というのは紛れもなく「都市」の誕生です。都市には群衆が存在します。この群衆が生じるというのは個人というものがある種消滅するということでもあるのです。この物語でもこの点はとても意識されていたと思います。

誰でもよかったと言わんばかりにSNSで手に入ってしまった彼氏、代理で結婚式に参列するアルバイトたち、東京の大都会を行き来する名もない群衆、そして真白の「私が死んでももはや誰も気に留めない」という種の発言はまさに人の個性というものが失われたということを表現するものであったと感じられました。

さらに言うと、代理の結婚式参列の話はとても興味深いものです。主人公の七海は冒頭自分が新婦で、代理出席者を呼ぶ立場であったが、中盤では自分が代理出席者の立場となります。つまり冒頭の七海というのは、無個性の代替可能な人間だったのです。だからこそ彼女が新婦であろうとアルバイトの代理出席者であっても何ら違いがないという皮肉をまざまざと見せつけているわけです。。

そしてこの典型がSNSであることは間違いありません。SNSにおいて人は皆別の名前で自分とは切り離された存在下のように存在します。しかし、SNSにおいては個性なんて存在しません。1個人は1データに過ぎないからです。

SNSというのは無個性社会の典型的なモデルなのです。我々が個性を失い、代替可能な他者となってしまった現代において、そんな人間の典型とも思える七海が個性を獲得する。これが今回のメインであったわけです。個性の獲得という点については後でも触れていきたいと思います。

リップヴァンウィンクルとニュークス

リップヴァンウィンクルというのは、真白のSNSプラネットにおけるアカウント名です。ニュークスというのはみなさんご存じ、「マッドマックス 怒りのデスロード」に登場するウォーボーイの一人です。

私は真白とニュークスにジャンルは全く違えど共通点を感じずにはいられませんでした。『マッドマックス:怒りのデスロード』では、ウォーボーイたちが君主のイモータンのために戦う姿が描かれます。

しかしウォーボーイというのはあくまで戦闘集団であってその一人一人は個人として全く認識されていない、個性を持たない存在なのです。つまり、ウォーボーイたちというのは現代を生きる我々にとてもリンクする無個性な存在なのです。

そんな社会にあって強烈に自分という存在を認めてほしいと叫ぶのが他でもなくリップヴァンウィンクルこと真白とニュークスなのです。2人の叫びは同じく「Witness me!!」です。

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©2014 WARNER BROS. ENT. 「MAD MAX FURY ROAD」より引用

存在を認められることで我々は代替可能な他者から他の誰でもない個人へと変わることができるのです。また、この二人に共通するのは自分が死んでいく様を見ていてほしいという究極の承認欲求でもあります。こういう点で真白とニュークスはとても共通点の多い存在であると感じました。

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我々がかけがえのない存在になるには

我々がかけがえのない存在になるうえで大切なもの、この物語が教えてくれるのは2つのものだと思いました。それは「仕事」と「愛」です。

確かにこの二つは現代において自分が唯一無二の存在になれるものだと思います。真白はAV女優という言い方はよくないがある種の「汚れ仕事」のようなものについていた。

しかし彼女はその仕事に誇りを持っていたし、一生懸命でした。それは彼女が自分を必要とされている、これは私にしかできないと感じていたに他なりません。

だからこそ、それを失うことが怖かった、なんなら自分が死ぬことよりも怖かったのです。だから彼女は手術をして仕事という個性を失うことよりも、死ぬことを選んだのです。

真白の葬式後にAV女優たちが「私たちこの仕事辞めたら何にも残らない。」と言っていましたが、まさにこのことです。

そしてもう1つが「愛」です。真白は自分と同じく無個性な七海と出会いお互いを承認し合い、お互いをかけがえのない存在だと感じるようになります。

七海の最初の旦那は七海にとってはデパートでお金を出して手に入る商品のように、何でもいい誰でもいい存在に過ぎませんでした。だからそこには愛はありませんでした。

しかし七海と真白はお互いがお互いの存在意義となれるような関係になっていきます。これを愛と呼んでいいのかはわかりませんが、「愛」と形容しておきたいと思います。

七海も真白も現代に生きる我々の1サンプルなのです。つまり、この物語を通して岩井俊二監督は、彼らを媒体として我々にいかに唯一無二の存在となることができるかを伝えようとしているのではないのでしょうか?


真白の実家のシーンの異常性

真白の実家のシーン。あのシーンは感動された方も多いのではないでしょうか?しかし私はあのシーンにそこはかとない不気味さを感じずにはいられませんでした。

あのシーンで言いたかったのが、真白の母親が真白の生き方をやっと認めてあげたということなら実にこのシーンは感動的です。

しかしこのシーン、私には本当に真白を認めてあげることができたのは七海だけだったということを言おうとしているのではないかと思いました。七海は死ぬ間際に幸せでもなんでも私はお金で買う、と発言していました。

そして実家のシーンで登場する3人において真白の死によってお金を受け取ったのは誰だったか思い出してほしいのです。それは安室と真白の母親に他なりません。

つまりこの2人がこのシーンで服を脱ぎ感極まり、真白の遺骨の前で焼香を挙げるという行為はお金で買われたものとは解釈することはできないでしょうか?

結局母親は真白に何一つ共感しておらず、お金をもらえたから、娘を思い感極まったふりをしているだけなのではないでしょうか。

このシーンは母親の涙ですらお金で買えてしまうという究極の皮肉を表しているように私には感じられました。母親は娘をかけがえのない存在ではなく、お金を提供してくれた一個人とみなしているのです。

こんなことを考えているとあのシーンはとてつもない異常性を持って私の前に現前していました。このシーンはみなさんの解釈を聞いてみたいところです。

まとめ

長くなったが今までこの作品も含めて計8作品の岩井監督作品を見てきましたが、このリップヴァンウィンクルの花嫁は彼の1つの集大成にして、最高傑作だと思いました。

この映画を経て、次に岩井俊二監督がどのような映画を作りだしてくるのかにも注目したいところです。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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