みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね、いよいよ公開となりました映画『名探偵コナン 緋色の弾丸』についてお話していこうと思います。
シャーロックホームズシリーズの中でも名作と名高い「緋色の研究」ですが、こちらは一夫多妻制とその制度が原因で起きた過去の因縁を巡る事件を描いた作品です。
つまり広義で解釈すると「家族関係を巡る過去の因縁によって現在軸に事件がもたらされる」という構図になっており、その点でリンクしているとも考えられますね。
今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』は、予告編でも赤井ファミリーの集結が話題になっていましたが、扱われた事件そのものも「親子」ないし「家族」に関わりの深いもので、そこが綺麗に1つの映画としてもまとまっていたポイントだと思います。
その一方で、良くも悪くも「名探偵コナンファンのための映画」の側面が強まり、映画だけの一見さんお断り感は強まった印象は受けました。
同シリーズの劇場版は、比較的原作やテレビシリーズを追いかけていなくても、遜色なく楽しめるというのが特長ではあったのですが、『名探偵コナン 純黒の悪夢』以降は、原作ありきのものも増えてきました。
その中でも、今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』は、赤井ファミリーの関係性を知らないと、何をやっているかのかが分からない描写もあったり、原作を知らない人には通じない小ネタが散りばめられていたりと、「ファン向け」色は特に強まった印象です。
ということで、今後の劇場版『名探偵コナン』シリーズがどんな方向へ向かっていくのかを占う上でも1つ重要な作品になるのかなと思います。
さて、ここからは本作について個人的に感じたことや考えたことを綴っていきます。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『名探偵コナン 緋色の弾丸』
あらすじ
世界最大のスポーツの祭典「WSG」が東京で開催されることが決まり、それに合わせて世界初の「真空超伝導リニア」が名古屋と芝浜間に開通する。
世界の注目を集める中、名だたる大会スポンサーが集う事前のパーティ会場で園子の父が拉致される事件が発生した。
偶然その場に居合わせたコナンは、少年探偵団の協力もあり、何とか園子の父を発見するが、犯人に「殺害」の意図は見受けられなかった。
そして、コナンは刑事の話から同様の事件が製菓会社の社長の身にも起きていることを知り、過去のとある築地の事件を思い出す。
それは、15年前にアメリカのボストンで起きた「WSG連続拉致事件」だった。
この時も、「製菓会社社長」「財閥系企業のCEO」「自動車会社の社長」の3人が拉致され、3人目は殺害されていた。
コナンは今回の「WSG」のスポンサーにも自動車会社のCEOジョン・ボイドがいることを知り、次のターゲットが彼であると推定。
ジョン・ボイドはSPをつけ、さらには探偵の毛利小五郎に犯人の調査を依頼するが、リニアの体験乗車会前の健康診断の会場となった病院で異変が起きる。
その間に連れ出されたジョン・ボイド。そして事件を巡り、赤井ファミリーが動き始めるのだが…。
スタッフ
- 監督:永岡智佳
- 原作:青山剛昌
- 脚本:櫻井武晴
- キャラクターデザイン:須藤昌朋
- 総作画監督:須藤昌朋
- 撮影:西山仁
- 編集:岡田輝満
- 録音監督:浦上靖之 浦上慶子
- 音響効果:森川永子 横山正和
- CG監督:松倉大樹 小岩寛満
- 音楽:大野克夫
- 主題歌:東京事変
今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』の監督を務めたのは、前作の「紺青の拳」から引き続いて女性の永岡智佳さんですね。
前作のラブコメ描写が結構好きで、キャラクタームービーとしての『名探偵コナン』を撮るのが巧い人だなという印象を受けましたが、今回も引き続きその路線でしたね。
赤井秀一と羽田秀吉の描写もそうですし、灰原の描写もかなり巧くて、物語として見るとガタガタな印象は受けましたが、キャラクターの描写は一級品でした。
脚本には近年の「純黒の悪夢」と「ゼロの執行人」などの黒の組織、安室さん絡みの劇場版を手掛けてきた櫻井武晴さんが起用されています。
その他のスタッフ陣も、基本的には『名探偵コナン』シリーズではお馴染みの面々となっています。
主題歌には東京事変の「永遠の不在証明」が選ばれ、これを映画館の音響で聴けるだけでも本作を見る価値があるんじゃないかなと思いました。エンドロールが最高にクールでした。
『名探偵コナン 緋色の弾丸』感想・考察(ネタバレあり)
予習しておくべき赤井ファミリー情報
赤井ファミリーについては、原作でかなり描写も多く、1つ1つ細かいところまで拾っていくと情報量が膨大になってしまいます。
そのため、この記事ではあくまでも今作『名探偵コナン 緋色の弾丸』を見る上で知っておくべき情報に限ってお話していきますね。
赤井ファミリーの構成
まず、本作に登場する赤井ファミリーは基本的には「4」人となります。
- メアリー世良
- 赤井秀一
- 羽田秀吉
- 世良真純
ただ、これには事情がありますので、まずはそこからご説明させていただきますね。
メアリー世良は赤井秀一を軸として考えると、彼の母親にあたります。そして、父親が赤井務武なので、彼らは「赤井ファミリー」なのですが、この父親が他界しているんです。
そのため、「世良」というメアリー旧姓を、彼の死後に生まれ、母親と共に暮らしている真純は使っており、「世良真純」と名乗っているという事情があるのです。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
そして、メアリー世良が「母親」という割には身体が小さすぎないか?と疑問に思われた方も多いと思いますが、原作の中で彼女が、務武に変装したベルモット(黒の組織の変装を得意とする女性)に、コナンや灰原が飲んだものと類似の毒薬を飲まされ体が縮んでしまったという経緯があります。
こういった事情があり、メアリー世良は赤井秀一の母親であるにも関わらず、身体が小さく、しかも名字が異なるという奇妙な状況が生まれているわけです。
そして、もう1人重要なのが、羽田秀吉ですね。彼もまた名字が異なるわけですが、そこにも深い理由があります。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
秀吉は、高校卒業の時期に、天才棋士として活躍し、四冠を制覇していたものの、夢半ばでこの世を去った息子の浩司の夢を叶えるために養子になってほしいと、務武の知り合いの資産家である羽田家に頼まれます。
彼は、それを受け入れ、プロの棋士になる道を選び、これに伴って名字が「赤井」から「羽田」に変更されているというわけです。
そのため、赤井秀一を軸に4人の関係性を整理すると次のようになります。
- メアリー世良:母
- 赤井秀一:本人
- 羽田秀吉:弟
- 世良真純:妹
そうなんですよ。これについても詳しく解説していきますね。
なぜ、赤井ファミリーはお互いを認識していないの?
赤井ファミリーがお互いにどれくらい認知し合っているの?という部分が今回の『緋色の弾丸』を見ていて、かなり混乱するポイントだと思います。
というのも、そこには原作で描かれたとある事件が関わっているからです。
原作で、赤井秀一は一度「殺されて」います。
詳細を話し出すと長くなるので、簡単にだけ言うと、逆スパイとして黒の組織に潜入させていたキールというコードネームの女性に呼び出され、射殺されてしまうという流れでした。
しかし、これが赤井とコナンが結託して行った、キールを黒の組織に信用させるための「偽装死」だったということが後に明らかになります。
とは言え、赤井が生きているということがあまり表に出過ぎてしまうと、せっかく黒の組織のジンたちにキールを信用させた一計が無駄になってしまうので、表沙汰にはしていないのです。
原作の中で、赤井秀一の周囲の人間を黒の組織が調査し、その死が真実かどうかを確かめようとするというエピソードがありましたが、その結果として、ジョディやアンドレを初めとする彼の周囲の人たちが心から悲しんでいる姿が組織に「死」を確信させるに至りました。
一方で、赤井秀一はこれまでの自分とは違う「沖矢 昴」という大学院生に扮して、工藤邸で暮らすようになり、その状態で捜査に関わるようになります。
映画の中で、立体駐車場で変声機のスイッチを切る描写がありましたが、あの装置で赤井と沖矢の声を切り替えているわけです。
ということで、「沖矢 昴=赤井秀一」という状況を知っているのは、基本的に下記の人物になると思います。
- 江戸川コナン
- 阿笠博士
- 工藤有希子
- 工藤優作
- ジェイムズ・ブラック
- ジョディ・スターリング
- アンドレ・キャメル
- キール
今回の劇場版で、赤井秀一ないし沖矢 昴の協力者として動いていたFBIのジェイムズ、ジョディ、アンドレの3人は当然彼の生存を知っています。
一方で、彼は工藤邸に転がり込んでいるわけですから、当然新一の両親も正体を知っていますし、コナンや変声機を手配した阿笠博士も正体を知っています。
では、映画版で弟の羽田秀吉を認識していたのは、一体どう説明するんだということになりますが、彼については「沖矢 昴=赤井秀一」という状況を理解しているわけではありません。
というよりも、そもそも赤井秀一が死んだという事実を知らないんじゃないかなと思いました。秀一の「死後」も2人は頻繁に連絡を取り合っています。
映画版でセリフの中だけで言及された「標的は警視庁交通部」のエピソードの時にも2人は連絡を取り合い、羽田は恋人の宮本由美の警護を秀一に依頼していました。
ただ、メアリー世良と世良真純の2人については、原作でのこれまでの描写では「沖矢 昴=赤井秀一」という状況を知らず、秀一は死んだというじじつを信じているものとして描かれています。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』の中で、特に真純は沖矢 昴が「何者かが変装している」ということには勘づきつつも、彼が秀一であるという事実には辿り着いていません。
一方で、メアリー世良については、今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』を見る限りでは、その正体に気がついている様子でしたね。
真純に沖矢の車を追わせたのもそうですし、何よりポストクレジットのラストシーンでその事実が浮かび上がってきたように思います。
さて、整理していくと赤井ファミリーの「秀一」に関する認識は次のようになるわけです。
- メアリー世良:秀一の「死」(「沖矢 昴=赤井秀一」)を知らないと思われていたが、今回の映画版でその正体に気づいたことが仄めかされた。
- 羽田秀吉:そもそも「沖矢 昴=赤井秀一」という関係性も把握していないが、秀一が生きているということについては知っており、連絡も取っている。
- 世良真純:「沖矢 昴=赤井秀一」の関係を知らず、秀一は死んだと思っている。
- 赤井秀一:沖矢 昴として真純に関わり、母のメアリーが幼児化している可能性を悟っている。
少し複雑ではありますが、上記の関係性が分かっていると、本作『名探偵コナン 緋色の弾丸』で混乱することはまずないだろうと思いますね。
赤井ファミリーとその他のキャラクターの関係性
ここまでは、赤井ファミリーの内部の話を主にしてきましたが、ここからはそれ以外のキャラクターと関連づけてお話させていただきます。
まず、コナンとの関係性ですが、彼と関係性が強いのが赤井秀一と世良真純の2人になりますね。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
前者は、今回の映画版でも分かる通りで、共に黒の組織の調査や事件の解決に関わっているという状況です。ちなみに赤井さんは「工藤新一=江戸川コナン」のことを知っています。
そして、世良真純は蘭や園子の学校に転校してきた高校生探偵です。彼女は新一に好意を寄せており、それ故に「コナン=新一」の可能性を疑っているのです。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
この設定は「緋色の弾丸」のリニアのシーンで真純がコナンのスマホ2台持ちに言及していた場面などにも繋がっています。
まず、赤井秀一はかつて「諸星大」という名前で行動しており、その頃に組織の人間である宮野明美という女性と恋人関係になります。
その後、組織に巧く潜入した秀一は「ライ」というコードネームを与えられて、暗躍するようになるわけですが、この明美の妹が志保という名前で、実は彼女は今の灰原哀なのです。
原作でのある作戦中に秀一がジョディに「俺はまだ、その茶髪の少女 (灰原) と顔を合わせるわけにはいかない。」と語る場面があります。
(C)青山剛昌
このことから秀一は「灰原=志保」という関係性に何となく気がついているのだと伺えますね。一方で、灰原は諸星については知りつつも、赤井秀一については知らず、沖矢の正体にも気がついていません。
『名探偵コナン 緋色の弾丸』の中で、コナンが灰原に赤井さんと連絡を取っていることを隠そうとする場面が何度かありましたが、その背景にはこういった設定があるということを知っておくと良いでしょう。
ファンムービーに傾倒していくことの是非
さて、ここまで赤井ファミリーに纏わる情報を整理しながら、本作『名探偵コナン 緋色の弾丸』を見る上で知っておきたい情報をまとめてきました。
ただ、書きながら思ったんですよ。『名探偵コナン』の劇場版って、こんなに一見さんお断りな映画だったかな…と。
同シリーズの名作と言われる「時計仕掛けの摩天楼」「ベイカー街の亡霊」「迷宮の十字路」といった作品ってミステリとしても一級品でかつ、映画だけの情報で純粋に楽しめる物語なのが印象的です。
ただ、「純黒の悪夢」以降、急激に原作ありきの映画色が強くなり、「ゼロの執行人」なんかは情報が複雑すぎて、大人でも物語についていくのがやっとよいうような内容になっていました。
こうした傾向は、もちろん『名探偵コナン』というシリーズの「成熟」と「人気」を象徴するものです。
コンテンツとしての「成熟」と「人気」があるからこそ、ファン向けのコアな内容をふんだんに盛り込んだ劇場版を作っても受け入れられるという土壌が形成されてきました。
また、前作の『紺青の拳』もそうですが、近年の作品は特にミステリというよりも「キャラクタームービー」の色が強まっています。
つまり、原作のスピンオフとして、キャラクターの魅力を掘り下げるようなある種の「公式の同人」のような位置づけで、「ファンサービス」的な観点からキャラクター同士の関係性を描いたわけです。
近年の劇場版『名探偵コナン』では、上記の「内容のコアファン向け化」と「公式の同人的なキャラ映画化」の2つの流れが顕著にみられます。
それを象徴するのが、今回の劇場版のラストで発表された2022年公開の新作ですよね。
もちろんマンガの「警察学校編」をそのまま映画化すると、江戸川コナンが登場しませんから、その過去が絡む安室さん絡みの何らかの新作エピソードだとは思います。
ただ、仮に「警察学校編」をベースにするとなると、これまたマンガの予習が必須になって来ますよね。
しかも、「警察学校編」というスピンオフがそもそも「公式の同人」色が強いファン向けの内容なので、それを劇場版に持ってくるという事実が近年の「ファンムービー化」を象徴する事象です。
この流れが良いか悪いかを単純に判断することは難しいと思います。
もちろんこうした原作やテレビアニメも追いかけてくれているコアなファンに焦点を当てることで、より踏み込んだ内容の映画にできたり、原作と連動させたりと言ったMCUのようなアプローチも可能です。
その一方で、この流れが続くと、劇場版『名探偵コナン』シリーズを追いかけてくれていた、おそらく大多数の「コナンくんは映画だけ見ている」という層をふるい落としかねないんですよね。
つまり、内容が「コア化」することで、ライト層を取り込めなくなっていく可能性があるのです。
昨年の「紺青の拳」はミステリというよりは、ドラゴンボールかよ!とツッコミたくなるようなアクションがメインでした。
今年の「緋色の弾丸」はミステリとしては近年のコナン映画の中でも群を抜いて低いクオリティです。というより犯人になり得る人物が他に出てきていないので、最初から犯人が確定みたいな状況でしたよね。
コナン映画の名作と呼ばれる作品は、どれもミステリとしての完成度が高かったわけで、そうした信頼感が徐々にライト層を取り込み、シリーズの人気が拡大していったという側面は大きいと思うのです。
ただ、そうしたクラシカルな作風に戻すと、近年の「キャラ映画」路線ないし「原作ありき路線」を望んでくれているコアなファンからは受けが悪いということになるでしょう。
そのバランスを模索していたのが、近年の劇場版『名探偵コナン』シリーズだったと、私は思っているのですが、今回の「緋色の弾丸」と来年の「警察学校編」で一気に「ファン向け」の方向性が強めていく選択をしたのだと伝わってきました。
今作は、赤井さんと羽田兄貴の共闘であったり、赤井さんが放った弾丸が「シルバーブレット(銀の弾丸)」で彼の異名と重なったりと原作ファンにはたまらない目くばせがたくさんあります。
しかし、その熱がライト層に伝わるのか?と聞かれると疑問符がつきます。
さらに、そうしたキャラ映画としてのベールをはぎ取ったときに果たして今回の映画がミステリとして面白かったか?と聞かれると、私は「否」と答えますね。
そのバランスの悪さが露呈してしまい、次作でより「ファン向け」の方向性が強まりそうな劇場版『名探偵コナン』シリーズ。
興行収入的には右肩上がりな一方で、内容面についてはまさしく重要な選択を迫られているのかもしれません。
親と子の因縁を巡る家族映画として
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
さて、ここからは『名探偵コナン 緋色の弾丸』の内容面に踏み込んだお話をさせていただきます。
今作のキーワードは、言うまでもなく「家族」であり、「親子」です。
まず、事件の主犯格であった井上 治と白鳩 舞子の2人の動機に、「家族」という枠組みが強く関わって来ます。
というのも15年前に起きたWSGに纏わる事件で、最初に誘拐された製菓会社の社長の子息にあたるのが井上治であり、その犯人として逮捕された石原まことの娘にあたるのが白鳩 舞子だったからです。
後者は自分の父親は冤罪で誤認逮捕されたと信じており、それ故に父を逮捕し、死に追いやったFBIを恨んでいました。
井上も同様に、父があの事件がきっかけでWSGのスポンサーを降板せざるを得なくなり、それを契機にアメリカ中から非難され、国を追われたという過去を持ち、FBIを恨んでいます。
この2人が、家族の無念を晴らすべく、当時のFBI長官で、現在はWSGの会長にもなったアランを殺害しようと考えているんですね。
こうした家族ないし親と子の因縁を抱える犯人に立ち向かうのが、今回は赤井ファミリーでした。
先ほども紹介しましたが、赤井ファミリーは複雑な関係性であり、しかも彼らの現状には、ある1つの事件が深く関わっています。
それが、「羽田浩司殺人事件」です。
これは先ほど話題に挙げた天才棋士の羽田浩司がホテルで何者かによって殺害された事件でした。
この事件には黒の組織の「ラム」という人物が関わっており、さらには秀一の父である務武はこの時に命を落としたとされています。
そして、原作で秀一が話しているように、彼がFBIを志したのは、「羽田浩司殺人事件」がきっかけなのです。加えて兄の秀吉が羽田家の養子となったのも、この事件があったためですよね。
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
つまり、赤井ファミリーの現在には、「羽田浩司殺人事件」が密接にかかわっており、しかも彼らはそれぞれの事情で異なる名字を名乗っています。
この状況と、今回の主犯格2人の状況を重ねて描くことが今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』の主眼だったのだと思いました。
こうした構図で、赤井ファミリーを描くことで、過去に囚われ、バラバラになりながらも、どこかで繋がっている不思議な家族関係を描くことに成功していたと思います。
ジョディが終盤に、犯人の井上に対して証人保護プログラムという「欺瞞」であなたは生かされているのだと説く一幕がありましたが、これも「名探偵コナン」というシリーズにおいては大きな意味を持つ言葉です。
なぜなら、主人公の江戸川コナンもそうですが、赤井さんも「沖矢」という偽名を使っていますし、灰原も本名を名乗らずに生活しているからです。
つまり、家族のつながりを象徴する「名前」を失う形で、何とか生かされているというキャラクターは非常に多いのです。
井上と白鳩は「名前」を奪われたことが、家族を奪われたというイメージに直結し、それを憎しみや怒りの感情に変えていきました。
今回のWSG東京に際して起こした事件は、きっと彼らにとっては「家族」を取り戻す戦いだったのでしょうし、FBIに奪われた「名前」を取り戻す戦いでもあったのでしょう。
しかし、コナンや赤井ファミリーがそうであるように、「名前」における繋がりを失ったとしても、「家族」のつながりが切れることはないのです。
犯人たちのバックグラウンドを描きながら、それが翻っては主人公のコナンや本作のキーパーソンである赤井秀一とその家族への言及に繋がっていくという構成は見事という他ないのではないでしょうか。
犯人を生かすコナンとスナイパーの赤井の対比
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
さて、『名探偵コナン 緋色の弾丸』で個人的に1つ注目すべきだと感じたのは、赤井さんがスナイパーであり、暗殺者であるという側面をきちんと描いていたことではないでしょうか。
今作の終盤にジョディが「FBIにはFBIのやり方がある」と明言していたわけですが、彼らはアメリカの組織ということもあり、犯人の確保が難しい場合には、やむを得ず命を奪うという選択も厭わないのです。
原作でも赤井さんが他人を殺めていることは、何となく仄めかされてきたわけですが、今回彼が「銀の弾丸」を用いたシーンで犯人の急所を狙っていたことが明らかになりました。
しかし、今作の事件の展開の中でコナンは犯人に対して「自分の目的のためならば、他人の命を奪っても良いというのか?」という問いを投げかけています。
「ゼロの執行人」では、安室やコナン、それぞれの組織の人間の「正義」のぶつかり合いを描き、絶対的な正義などというものが存在しないのだということを明確に描いていました。
今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』でも赤井さんがミッション遂行のためであれば、犯人の暗殺も辞さない人間であることが強調され、その一方でコナンはそれを良しとしないというある種の対立が描かれました。
これも、それぞれの考える「正義」のぶつかり合いなんですよね。
だからこそ赤井さんは自らの意志で、犯人の急所を狙い、一方でコナンは自らの意志で犯人の急所を外させるような行動を取りました。
どちらが正しい、間違っているという話ではなく、「正しさ」が存在しないからこそ、お互いの思う最善を取るという形で、赤井さんとコナンが似て非なる人物であることをきちんと描けていたのは、本作『緋色の弾丸』の褒めるべきポイントの1つなのではないでしょうか。
オトナとコドモの対比、終わりの予感
(C)2020 青山剛昌/名探偵コナン製作委員会
そして、もう1つ今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』で特筆すべき点は、コナンや灰原の描き方でしょう。
というのも、序盤からやたらとコナンと灰原と、それ以外の少年探偵団を区別するようなセリフや描写が目立ちました。
例えば、序盤に園子が劇中ヒーローのグッズを持って博士の家にやって来た時、コナンと灰原は冷めた視座で、距離を置いていましたよね。
他にもコナンと灰原が「自分たちもまだ10代」と言葉にしていたのも印象的でした。
そして、物語において明確にオトナとコドモの区分けをしたのが、リニア組とヒーローショー組で少年探偵団が分かれるところですね。
コナンと灰原がリニアに乗る選択をした一方で、他の3人はヒーローショーを見に行くという選択をしました。
空港に向かう道すがら、蘭がリニアには乗らないで2人に家に帰るように諭しますが、2人は「ボクたち、ワタシたち、子どもだから…。」とごまかしていたのも重要です。
つまり、コナンや灰原が子どもではなく、あくまでも子どもを演じている「コドモ」でしかないという構図を観客に改めて印象づけるような描写が繰り返されていました。
そうして子どもたちは、ヒーローショーにおいてステージの上で繰り広げられる正義と悪の戦いを「傍観」しています。
一方でコナンと灰原の「コドモ」たちは、それぞれリニアと新幹線に乗り込み、まさしく事件の渦中に身を置いていますよね。
つまり、光彦や歩美、元太たちが見つめているステージの上のヒーローショーの側にいるのがコナンや灰原なのです。
今回の『名探偵コナン 緋色の弾丸』はこの対比が非常に効いており、物語全体を通底していました。
そして、物語の最後には、コナンと灰原、そして残りの少年探偵団3人を道を隔てて描いていたことに気がつきましたか?
子どもとして生活はしているけれど、彼らとは同じじゃない、子ども時代にはもう戻れないコナンと灰原の「コドモ」という特異点を明確にするような対比の描写でした。
そして、この描写は何となくですが、『名探偵コナン』というシリーズが徐々に「終わり」へと向かっていっている空気を感じるものでもあったと思います。
もうすぐ彼らは別々の道、いや本来の道へと戻っていくのだという寂しい予感に満ちたラストシーンは、本作の「締め」としてはこの上ないものだったと言えるでしょう。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『名探偵コナン 緋色の弾丸』についてお話してきました。
ファン向けに舵を取るのか、ライト向け路線を貫くのかという選択は本当に難しいと思いますね。
近年、前者の比重を上げて、興行収入を伸ばしているだけに余計に前者に舵を切りたくなる制作側の思惑も理解できます。
ただ、個人的にはやっぱりここまで原作の予習前提の劇場版『名探偵コナン』はしんどいかなという印象は受けました。
今回に至っては、赤井ファミリーの描写を追っていないと、物語の展開も分かりづらい内容なので、余計に「原作ありき」感が際立っていたところはあります。
『名探偵コナン 緋色の弾丸』は1つのこのシリーズにとっての分岐点になる作品なのかもしれません。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。