【ネタバレあり】映画「ミックス。」感想・解説:古沢良太脚本の共通点から紐解くメッセージとは?

アイキャッチ画像:(C)2017「ミックス。」製作委員会

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね、映画「ミックス。」について語っていきたいと思います。

本記事はネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。作品を未鑑賞の方はご注意ください。

良かったら最後までお付き合いください。

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映画『ミックス』

あらすじ・概要

ドラマ「リーガルハイ」で知られる人気脚本家・古沢良太のオリジナル脚本作品。新垣結衣と瑛太がダブル主演を務め、卓球を題材に、男女混合ダブルス(ミックス)を通じて巻き起こる人間模様を描いた。

幼い頃、卓球クラブを経営していた母のスパルタ教育により、天才卓球少女として将来を期待された多満子だったが、母の死後は普通の人生を歩んでいた。

ある時、恋人を会社の新人社員に寝取られたことをきっかけに、逃げるように田舎に戻った多満子は、いまや赤字経営に転落した卓球クラブを立て直すことになる。

そのために全日本卓球選手権の男女混合ダブルス(ミックス)部門への出場を目指すことになった多満子は、クラブに通う落ちぶれた元プロボクサーの萩原とコンビを組むのだが……。

監督は、同じく古沢のオリジナル脚本作品「エイプリルフールズ」を手がけた石川淳一。2016年のリオデジャネイロオリンピックで男子シングルス銅メダルを獲得した水谷隼をはじめ、石川佳純、伊藤美誠ら本物の卓球選手も登場する。(映画comより引用)

この映画は本当にあらゆる感情を失いそうになるので注意が必要です!

ナガ
新垣結衣可愛い!!

この映画『ミックス。』を見た人はこの言葉しか発せなくなると言います・・・。

特に飲み屋で広末涼子に甘えたをしている新垣結衣が可愛すぎるので必見です!

(C)2017「ミックス。」製作委員会 映画「ミックス。」予告編より引用

ナガ
これは可愛すぎた・・・。反則!

新垣結衣という女優の魅力がギュッと凝縮された1本となっております。

より詳しい作品情報を知りたい方は公式サイトへどうぞ!

参考:映画『ミックス。』公式サイト

予告編

脚本家「古沢良太」とは?

今、日本において最も勢いと人気がある脚本家の1人、それが古沢良太であると言えます。

彼はもともとドラマ畑の脚本家で、「相棒」シリーズなんかにも参加していました。

映画に関しては映画「ALWAYS 三丁目の夕日」で脚本を担当しました。その後も「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズの続編や「探偵はBARにいる」などの作品の脚本を担当しどんどんと評価と人気を高めていきました。

そして彼の地位を確立することとなったのが、テレビドラマ「リーガルハイ」ですよね。自信のオリジナル脚本でもって製作された本作は大きな話題となり、脚本家「古沢良太」の名前は一気に知名度が高まりました。

ナガ
個人的にも大好きすぎて何度も見返してます!

さらに2015年には今作「ミックス。」でもタッグを組んだ石川淳一監督とタッグを組んで、映画「エイプリルフールズ」を製作しました

ナガ
『エイプリルフールズ』は個人的にはいまひとつ・・・。

また、同年にテレビドラマ「デート~恋とはどんなものかしら~」をこちらも自身のオリジナル脚本で制作されました。

このように次々に話題のドラマや映画の脚本を手掛けてこられました。

「ミックス。」感想・解説:古沢良太脚本作品の共通点から紐解くメッセージ

今回は古沢良太脚本の中でも原作色が強くないものとオリジナルのものをいくつか取り上げて、そこに見られる共通点と本作「ミックス。」を重ねながら、彼の作品に通底するメッセージ性について考えていこうと思います。

今回扱うのは以下の作品とします。

  1. 「ALWAYS 三丁目の夕日」シリーズ
  2. 「リーガルハイ」シリーズ
  3. 「デート~恋とはどんなものかしら~」

超えるべきものとして描かれる親の存在

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(C)2017「ミックス。」製作委員会 映画「ミックス。」予告編より引用

古沢良太脚本作品でまず注目したいのは、親というものの描き方でしょう。彼は基本的に「親」という存在を大きなもの、超えるべきものとして描く傾向にあるんですよね。

まず、映画「三丁目の夕日」シリーズについて考えてみましょう。その中でも古沢良太のそういった「親」という存在の描き方が顕著だったのが、3作目の「ALWAYS 三丁目の夕日64」だったと思います。

原作では、決して目立つキャラクターでは無かった茶川龍之介というキャラクターを膨らませて描いてきた意味がここに集約されていました。

龍之介は、父親から勘当されていました。彼にとって父親は大きな存在であり、そして憎むべき存在だったんですね。そしてそんな父の死に際して、彼は父親の本当の思いを知りました。

余計に父親の存在の大きさとまだまだ遠いその背中を確認したんでしょうね。

結果的に彼は、自身の息子である淳之介に自分の父親と同じことをしました。

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(C)2012「ALWAYS 三丁目の夕日‘64」製作委員会

ドラマ「リーガルハイ」でも「親」の存在が象徴的に描かれた回がありましたよね。主人公の古美門研介の父親が登場するファーストシーズン終盤のとあるエピソード(第8話)です。

幼少期から法曹関係の職に就いていた父親に、常に自分を論破してみよ・・・と圧力をかけられて、厳しく育てられました。そして、彼が弁護士として活躍するその最中、相手側の弁護人として彼の「敵」として登場してきたわけです。

この2作品だけでも「親」という存在の描き方に対して、古沢良太なりの1つのこだわりが伺えます。親は子供にべたべたと寄り添って、優しく育てるものでは無いのでしょう。

あくまで親は子供に厳しく、時には突き放すべきであるというのが古沢良太の思いなのではないでしょうか?

しかし、それもまた愛なんですよね。

「ALWAYS 三丁目の夕日」の茶川龍之介の父親も「リーガルハイ」の古美門研介の父親も、どちらも「愛」ゆえに2人を突き放したんですよね。だからこそ息子を突き放した後も、陰ながら息子の活躍を見守り続けています。

そして超えるべき存在として、その心に留まり続けたわけです。それも「親」の在り方の1つだと思いますし、それも「愛」の在り方なんです。

では、映画「ミックス。」に話を移しましょう。富田多満子は幼少期から母親の富田華子、スパルタで卓球を仕込まれました。

彼女は自分の意志も無視されて、ひたすらに卓球を強要されました。そして彼女は亡くなる間際に「自分の人生を生きてもいいよ。卓球を止めてもいいよ。」と言ったわけです。

しかし、その後の人生で多満子の心の内には、母親の華子は常に大きな存在としてあり続けたんですよね。

映画「ミックス。」において華子は、自分の娘に卓球を通して強い心を育てたかったのだと思います。強い心を育てておけば、例え卓球を止めてしまったとしても、やっていけると彼女は確信していたんでしょう。

また「卓球」というものを極めておくことで、いつか多満子が人生に挫折した時にきっと彼女を救ってくれるとそう信じていたのだと思います。

一方で母親の華子もまた「愛」ゆえに多満子に厳しく当たり、突き放したんですよね。そして、終盤の全日本決勝戦の時に多満子は再び母に邂逅して、彼女を超えていこうと決意するわけです。

では、自分の親を超えてしまった後はどうなるのか?古沢良太はそこにまで自身の明確な考えを持っているように感じます。

ドラマ「リーガルハイ」の第8話で、親子の関係を「東京タワーと東京スカイツリー」に例えていました。親が東京タワーであったとして、いつの日か子が東京スカイツリーになるかもしれません。そんな日が来れば、子は親を超えていったことになります。

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https://www.athome.co.jp/contents/at-research/vol22/より引用

でも東京スカイツリーができても東京タワーのシンボル性って全く色褪せないですよね。依然として大きな存在には変わりないんです。古沢良太はそんな2つのタワーに理想の親子関係を見ているのかもしれません。

愛するべきは・・・?

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(C)2017「ミックス。」製作委員会 映画「ミックス。」予告編より引用

古沢良太脚本作品に通底するものとしてネガティブなものこそ愛するべきものであるという視座が存在していると思います。

まず、「ALWAYS三丁目の夕日」シリーズで描かれたのは「貧しさや乏しさを愛せ」という点ですよね。

高度経済成長に差し掛かる日本で、まだまだ貧しくて、物質的にも苦しい生活を強いられている庶民の暮らしがすごく力強く描かれています。でも、そんな彼らの日々を懸命に生きる姿が我々にはとてつもなく愛おしく映るんです。

そしてドラマ「リーガルハイ」ですね。このシリーズで描かれたのは、「醜さを愛せ」という点ですよね。

特に第2シーズンではこのテーマ性が一層際立ちました。古美門研介が第2シーズン最終回で相手弁護士の羽生に言い放ったあのセリフは、画面の向こう側にいる我々に向けられているようなものとも感じられました。

「自分が醜い人間の1人だと自覚することだ。醜さを愛せ。」

人間って自分はどこか他人より優れているだとか自分は他人とは違うという、ある種の選民的な考えを持ってしまいがちなんですよね。他の人は醜い、自分はそんな人たちとは違う、そう信じてやまないのです。

しかし、我々はまさに自分もそんな「醜い他者」の1人であると自覚し、自身の醜さを愛するところから始めなければならないのでしょう。

次にドラマ「デート~恋とはどんなものかしら~」にスポットを当ててみます。

この作品では、「非合理さを愛せ」と言う点が描かれているように感じました。

他人と恋愛をするということは、合理的に考えて、単純な損得勘定に持ち込むと、実は損なのかもしれません。確かに人を愛することは合理的なことなのではないのかもしれません。

ただそれでも人を愛したいと願うなら、その不合理さをも愛さなければならない、そういったメッセージ性を強く感じた作品でした。

さて、映画「ミックス。」に話を戻しましょう。この作品で、描かれたのは「不器用さを愛せ」ということなんですよね。人間は誰しも器用に生きれるわけじゃない。器用に生きられる人間なんて、ほんの一握りの人間なんです。しかし、人は自分が器用な人間だと錯覚して、他人の不器用さに不寛容なんですね。

この世界には、不器用ながらも懸命にもがいて、努力して生きようとしている人がいます。そういう人たちを自称器用な人間が断罪できるはずがないのです。

映画「ミックス。」に登場する人物たちはどうしようもなく不器用な人間たちばかりです。それでも彼らは自分が不器用な人間だとちゃんと自覚しています。だからこそ彼らは強いんです。

我々は、まず自分の不器用さを認め、そしてそれを愛することでより良い人生を得られるのかもしれませんね。

このように古沢良太は、一見ネガティブなものを自分も持っているものであるとして受け入れなさい、それを愛しなさいと作品を通して我々に訴えかけているんです。それこそが古沢流よりよい人生の第一歩なのでしょう。

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「幸せ」の在り処

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(C)2017「ミックス。」製作委員会 映画「ミックス。」予告編より引用

古沢良太が作品を描く際に最も重要視しているのは、「幸せ」だと個人的には思うんですね。

「ALWAYS三丁目の夕日」シリーズの茶川家はとても貧しい暮らしですよ。でもあの3人でつつましく暮らしていければ、そこには彼らなりの「幸せ」があります。

また第3作目で描かれた六子の結婚も印象的でしたよね。医者としての出世街道からは大きく外れて、自分の信念だけで診療を続ける男性を夫として受け入れたんです。裕福な生活は望めないかもしれませんが、それでも彼女なりの幸せを見出したのでしょう。

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(C)2012「ALWAYS 三丁目の夕日‘64」製作委員会

ドラマ「リーガルハイ」シリーズは特に第2シーズンでそのテーマ性が明確になりました。「幸せ」というものは他人が客観的に判断して押しつけるものでは無いんです。「幸せ」は個々人が自分の主観的視点のみで判断しうるものなんですね。

そして映画「ミックス。」でもまさしく「幸せ」が大きなテーマになっていましたよね。客観的かつ合理的に判断すれば、もっと「幸せ」な道はいくらでもあったと思うんです。

多満子は江島とよりを戻せば、普通の幸せを手にできたかもしれません。萩原も東京で就職先を見つければ、また幸せな人生に戻れたかもしれません。他の人たちもみんなそうです。客観的に見るなれば、いくらでも幸せな道は開けていました。

でもそれって彼らにとっての「幸せ」ではないんですよね。結局彼らは自分の主観的判断だけでもって自身の「幸せ」の在り方を決めたわけです。そういう「幸せ」を選ぶことはすごく覚悟のいることだと思うんです。

例えば、高給の一流企業に就職が決まっていたのに、自分の夢だからと低賃金な希望職種に就いたとしましょう。世間的に見れば、その人は約束された幸せな人生を投げ捨てたと映るかもしれません。でもその人自身は自分の「幸せ」のためにその道を選んだわけですよね。この決断はすごく勇気が要るものだと思うんです。

だからこそ映画「ミックス。」は、不器用なキャラクターたちが、仮初めの幸せではなく、自分で自分の「幸せ」の何たるかを決められるようになるまでの物語として描かれたのだと感じました。

無くしたものを取り戻す物語

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(C)2017「ミックス。」製作委員会 映画「ミックス。」予告編より引用

映画「ミックス。」において、フラワー卓球クラブに所属する人間は、みんな何かを無くした人間たちなんですよね。

無くしたものは様々です。恋人、家族、子供、自分の居場所、じぶんらしさ・・・。登場人物たちはそんな無くした何かを見つけるために卓球というスポーツに集います。

そして卓球という競技を通して、自分が無くした何かを取り戻していくんですよね。

これは今年公開された映画「ハルチカ」に非常にテーマ性が似ていると思います。「居場所」を失った高校生たちが、吹奏楽部という場に集い、音楽を通してそれを取り戻していく過程を描いた作品ですからね。

本作「ミックス。」もまさしくそのタイプの作品です。そう考えた時に、あの卓球のプレイヤータイプと名前が表示される演出ってすごく意味があるものだったと思うんですね。

相手選手の名前表示は当初から出ていたんですが、フラワー卓球クラブのメンバーの表示って最後の最後、全日本卓球大会神奈川県予選まで出てきませんでした。

というのもフラワー卓球クラブのメンバーって卓球そのものを楽しもうと思って始めたわけでは無かったですよね。どのキャラクターも自分の喪失感を埋めるために卓球を始め、続けてきたのです。そして、物語を通してその喪失感が埋められていきました。

その帰結として、最後の大会のシーンでは次々にフラワー卓球クラブのメンバーの名前表示が出てきました。

自分の無くしたものを埋めるための「手段」としての卓球ではなく、自分が本気で楽しむための「目的」としての卓球へと、その在り方や意識が変容した瞬間、そして純粋に卓球を楽しむ者としてコートに立った瞬間、それがあの何気ない表示に込められた意図だったのだと思います。

おわりに

一つだけ脚本の不満点を述べさせていただくとしたら、缶詰工場に荻原が多満子を迎えに来るシーンですよね。

ナガ
なぜキスしちゃったの?

まさしくそこです。そこは恋愛描写を入れなくても良かったと思うんですけどね・・・。

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(C)2017「ミックス。」製作委員会 映画「ミックス。」予告編より引用

演出や編集といった映画技術面では、かなり不満も残る内容でしたが、それを差し引いてもやっぱり古沢良太の脚本は素晴らしいです。

どんな題材であっても、きちんと自分の作家性を表現できる数少ない脚本家だと思います。彼の今後の作品にも期待したいと思います。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。




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