【ネタバレ考察】『ぼくらのよあけ』 大人の目線から描かれる「僕ら追い越してく強さ」

みなさんは映画を見終えたときに、そのタイトルの意味するものにふと思いを馳せることはないだろうか。

作品を見る前と見た後でタイトルの意味が全然違ったものに思えたり、作品を見ることでタイトルの意味が深まったりするのは珍しいことではない。

今回ご紹介する映画『ぼくらのよあけ』も私にとって、そんな作品の1つとなった。

映画『ぼくらのよあけ』は、2011年に「月刊アフタヌーン」で連載されていた今井哲也さんの同名のマンガをアニメ映画化した作品だ。

『理系が恋に落ちたので証明してみた。』シリーズなどを手掛けたZERO-Gが制作し、これまでにも数多くの作品でコンテや演出を担当してきた黒川智之さんが監督を務めている。

また、『交響詩篇エウレカセブン』シリーズやアニメ映画『サイダーのように言葉が湧き上がる』などの脚本を手掛けてきた佐藤大さんが今作の脚本を担当した。

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さて、話題を本作のタイトルに移していこう。

『ぼくらのよあけ』というタイトルを紐解く上で、注目すべきは「ぼくら」と「よあけ」という2つの名詞だ。

前者では、なぜ1人称単数の「ぼく」ではなく、1人称複数の「ぼくら」になっているのか、あるいは「ぼくら」に含まれている登場人物が誰なのかが気になる点である。

後者では、「よあけ」という状況を導くためには、そもそも「よ(夜)」が必要であり、「ぼくら」にとっての「よ(夜)」が何を指しているのかが気になる点だ。

今回のコラムでは、タイトルにまつわるこの2つの疑問を掘り下げながら、『ぼくらのよあけ』が描こうとしたものを考えてみたい。




『ぼくらのよあけ』解説・考察(ネタバレあり)

ジュブナイル作品ながら際立つ大人の目線

©今井哲也・講談社/2022「ぼくらのよあけ」製作委員会

少年・少女の青春をテーマとして描いた作品群を「ジュブナイル作品」という言葉で総称することがある。

「ジュブナイル作品」の典型的な作品と言えば、世界的には『E.T.』『スタンド・バイ・ミー』、日本だと『時をかける少女』などは有名だろうか。

具体的なタイトルを挙げていくとキリがないが、「ジュブナイル作品」に分類される作品は、少年・少女を物語の中心に据え、彼らの目線で捉えた世界を描くことが多い。また、大人の存在が描かれない閉じた世界で物語が展開されることも珍しくない。

『ぼくらのよあけ』も間違いなくこうした「ジュブナイル作品」に分類される作品なのだが、特筆すべき点がある。

それは、大人の目線が積極的に介在すること、あるいは劇中での大人の存在感が強いことだ。

本作では、3人の大人のキャラクターたちが印象的に描かれる。沢渡はるか(CV:花澤香菜)、沢渡遼(CV:細谷佳正)、河合義達(CV:津田健次郎)だ。彼らは本作の主人公である沢渡悠真(CV:杉咲花)たちの保護者(親)にあたる。

本作の物語の中心にあるのは、主人公の悠真たちが直面する「二月の黎明号」の問題だ。

「二月の黎明号」というのは、宇宙から1万2000年の歳月をかけて2022年に地球にたどり着いた宇宙船のことであり、この宇宙船はトラブルのために故障し、阿佐ヶ谷団地の一棟に擬態して休眠していた。

悠真たちはひょんなことから「二月の黎明号」に関わることとなり、この宇宙船を母星に返すための手助けをすることとなるのである。

そして、物語が進むにつれて、悠真たちの親世代にあたる3人のキャラクターたちもまた、この「二月の黎明号」の問題に深く関わりがあったことが明らかになっていく。

つまり、彼らは子どもたちを見守る傍観者ではなく、むしろ当事者として描かれているのだ。

今作のタイトルとポスターを見ただけだと、「ぼくら」という言葉が指す人物が悠真たち少年・少女のことであると何の疑いもなく思うだろう。

しかし、本編を見ると、この「ぼくら」という言葉の背後に隠された、少年・少女の保護者(親)たちの存在に気づかされる。

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それを踏まえて「よあけ」という言葉についても考えてみよう。

「よあけ」という言葉は「新しい時代や文化、芸術などの始まり。」(weblioより)という意味でも用いられる。

悠真たちが子どもから少しだけ大人へと成長していく物語を考えると、少年・少女の成長や目覚めを「よあけ」と表現したと考えてもよいだろう。

一方で、先ほども述べたように「よ(夜)」が「あける」ということは、「あける」ための「よ(夜)」が必要という視点で捉えることもできる。

では、「よ(夜)」にあたる状況を経験してきたのは誰だろうかと考えたときに、当てはまるのは、悠真たち少年・少女というよりはむしろ、はるか、遼、義達たち大人の方ではないだろうか。

彼らは子どもの頃にある約束を結んだのだが、それを果たせないまま大人になってしまった。その約束を果たせずにいる状況を「よ(夜)」と表現するのは、実にしっくりとくる。

つまり『ぼくらのよあけ』というタイトルには、長い間果たすことのできなかった約束を果たすはるか、遼、義達たち大人の物語が含意されているのだ。

 

団地、大人、そして「僕ら追い越してく強さ」

©今井哲也・講談社/2022「ぼくらのよあけ」製作委員会

頼もしくなった子どもたちを見上げる大人の視線。本作を象徴するカットの1つである。

『ぼくらのよあけ』の物語は団地を舞台にして繰り広げられる。

団地を舞台にした作品は数多くあるが、近年だとやはり是枝裕和監督の『海よりもまだ深く』が印象的である。

是枝監督は同作の脚本の1行目に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」と書いたとインタビューなどで語っていた。

脚本の1行目に「みんながなりたかった大人になれるわけじゃない」という言葉を書いたんですけど、すべてが思うようにはいかず、「こんなはずじゃなかった」と思っている男の話と団地の姿が重なったということですね。いまや団地がそういう場所なんだ、と。

HOUYHNHNMより引用)

是枝監督は「なりたいになれなかった大人」を「理想の家族の器」としての役割を終えつつある近年の団地の在り様に重ねたわけだ。

『ぼくらのよあけ』における団地もまた、子どもというよりは大人に重ねられている舞台設定に思える。なぜなら、はるか、遼、義達たちはまさしく「なりたいになれなかった大人」だからだ。

親というのは、子どもには自分のようになって欲しくない、自分と同じ失敗をしてほしくないと無意識のうちに心のどこかで思ってしまう生き物である。

それゆえに、子どもに制限を課し、失敗を未然に回避させようと試みることも多い。これは愛情のひとつのカタチだ。

しかし、こうした親主体、親目線の制限は子どもたちの開かれた無限の可能性を奪ってしまう場合がある。

はるか、遼、義達は自分たちが約束を果たせなかったこと、「なりたいになれなかった大人」であることを自覚している。そして同時に子どもたちにはそんな風にはなって欲しくないと考えている。

だからこそ、彼らは「二月の黎明号」の問題に積極的に関わろうとする悠真たちを制止する。自分たちと同じ失敗や後悔をして欲しくないのだ。

それでも、悠真たちは約束を果たすことを、問題を解決することを諦めない。その真っ直ぐな姿勢と情熱が次第に大人たちの思いを変えていくことになる。

『ぼくらのよあけ』が、子どもたちだけにスポットを当てたものであったとしたら、それは単なる成長劇、イニシエーションの物語に留まっていただろう。

しかし、そこに大人の目線、とりわけ親の目線を介在させることによって、本作は子どもが親の想像や期待を超えていく物語になっていると言える。

『CLANNAD』の主題歌である名曲『小さなてのひら』にこんな歌詞が登場する。

小さな手にも いつからか
僕ら 追い越してく強さ

(『小さなてのひら』作詞:麻枝准. 作曲:麻枝准 より引用)

『ぼくらのよあけ』が大人の目線を持ち込むことで描いたのは、まさしくこの「僕ら追い越してく強さ」だったと言えるのではないだろうか。

「なりたいになれなかった大人」たちが抱える憂鬱や後悔。そうしたネガティブな感情を飛び越えて、成長していく子どもたちの力強さや頼もしさ。

©今井哲也・講談社/2022「ぼくらのよあけ」製作委員会

先ほどのカットと呼応するカット。大人が子どもたちを見上げるカットになっているのが印象的だ。

子供たちの成長劇を大人の視点から捉えたからこそ描けた「強さ」があったように思う。

 

おわりに:子どもたちの「逸脱」を信じて

©今井哲也・講談社/2022「ぼくらのよあけ」製作委員会

杉咲花さんのボイスアクトは『サイダーのように言葉が湧き上がる』に続いて素晴らしい。思春期に差し掛かり、声変わりの予感を漂わせる小学6年生の男の子特有の中性的な声を見事に演じてみせた。

本作の冒頭に学校の授業で、悠真たちがペットボトルロケットとドローンの実践に取り組む一幕が描かれている。

ここで、他の生徒たちが先生に指示された通りに取り組んでいる一方で、悠真はペットボトルロケットを遥か彼方まで飛ばしてしまい、先生の指示から大きく逸脱してしまう。

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みなさんならこうした場面に遭遇したときに、悠真にどんな声をかけるだろうか。

子どもたちは、大人の想像を大きく超えていく可能性を秘めている。大切なのは、それを自分たちの想像の範疇に収めようとすることではなく、その「逸脱」を信じてあげることなのかもしれない。

もしあの時、大人が悠真の「逸脱」を咎めていたとしたら、本作の後半で描かれたブレイクスルーは起きなかったと言ってよいだろう。

このように本作には、子どもの成長に向き合う大人ないし親の視点が通底している。

だからこそ『ぼくらのよあけ』は、子どもたちにはもちろん、大人にこそ見て欲しいジュブナイル作品なのだ。