【ネタバレ考察】『線は、僕を描く』小泉監督が描く「まなざし」の物語のひとつの到達点として

小泉徳宏監督の作品は「まなざし」と共に始まる傾向にある。

2013年に公開された『カノジョは嘘を愛しすぎてる』は、佐藤健演じる音楽クリエイターの小笠原秋がビルの屋上から街並みを見つめているシーンで始まる。

2016年に公開された『ちはやふる 上の句』は、メディアや観衆のまなざしがクイーン戦に挑む主人公の千早に向けられているシーンで幕を開けた。

また同作の続編で2018年に公開された『ちはやふる 結び』は、同じくクイーン戦の場面だが、周囲の人たちのまなざしの中心にはいない脇役の千早がクイーンである若宮に札を手渡し、まなざしを向けるシーンで幕を開ける。

(C)2018 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社

そして、今回お話していく『線は、僕を描く』もまた横浜流星演じる主人公の青山霜介のまなざしで始まる。

彼のまなざしは椿を描いた一枚の水墨画に向けられている。そんな彼の瞳からは涙がこぼれ落ちている。

しかし、なぜこんなにも小泉監督は「まなざし」にこだわるのだろうか?

その理由を考えるにあたっては、先ほどのシーンにおける「まなざし」を向ける側と向けられる側に分解する必要がある。

『ちはやふる 結び』のファーストシーンを例に考えると、向ける側にあたるのが千早であり、向けられる側にあたるのがクイーンの若宮である。

逆に『ちはやふる 上の句』のファーストシーンでは、向ける側にあたるのがメディアや観客であり、向けられる側にあたるのが千早だ。

『カノジョは嘘を愛しすぎてる』では、音楽クリエイターの秋は「まなざし」を向けられる側であり、彼の手掛けるロックバンドの大ファンでもあり、ミュージシャンの卵でもあるヒロインの理子は「まなざし」を向ける側である。

そして『線は、僕を描く』のファーストシーンにおける霜介は当然「まなざし」を向ける側だ。

このように情報を整理していくと、「まなざし」を向ける側と向けられる側、それぞれが意味するものが何なのかが見えてくる。

前者は、まだ何者でもない、そして何者かになることに憧れを抱く人間として、後者は、前者のような人たちの憧れの器であり、自分が何者かをある程度確立した人間として描かれていると言える。

小泉徳宏監督の映画では、「まなざし」を向ける側から向けられる側への移行が物語を通じて描かれている。その移行を主人公の成長に重ねているのだ。

『ちはやふる』シリーズであれば、クイーンに憧れる存在でしかなかった彼女が、数年後には自身がクイーンとなっている。

『カノジョは嘘を愛しすぎてる』において、トップミュージシャンたちに憧れの視線を向けていた理子は、CMに出演し、さらにはミュージシャンとして大々的にデビューを果たす。

彼女たちは、いつか自分が向けていた「まなざし」の先にいた存在に、気づけば自分がなっていたのである。

『線は、僕を描く』における霜介の成長と変化もまた確かに「まなざし」を向ける側から向けられる側への移行として描かれている。

物語の序盤における彼は、水墨画のステージのアシスタントであり、飾られた1枚の椿の水墨画を鑑賞するだけのいち観衆に過ぎない。一方で、物語の終盤には彼が自身の描いた椿の水墨画を見られる立場になっており、さらには大学で開催された水墨画のステージの主役へと転じている。

では、なぜ小泉監督は「まなざし」を向ける側から向けられる側への移行を登場人物の「成長」に重ねるのだろうか?




『線は、僕を描く』解説・考察(ネタバレあり)

コペルニクス的転回とまなざし

(C)砥上裕將/講談社 (C)2022映画「線は、僕を描く」製作委員会

これを考えていく上で、カントが自身の学説の独創性を自負して用いた「コペルニクス的転回」という言葉を引き合いに出してみたい。

カントは自身の学説がもたらす哲学的方法の変革をコペルニクスの天文学上の変革に擬らえたと言われている。コペルニクスの天文学上の変革とは、いわゆる天体が地球を巡る天動説を否定し、地球が天体に対して運動する地動説を提唱したことである。

彼はこの変革を、認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従い、認識が対象に対して受動的ではなく、むしろ能動的でかつ運動的であると想定した例として捉え、自身の哲学の分野における学説に重ねたのだ。

「認識が対象に従う」かあるいは「対象が認識に従う」かという2つの立場があり、前者から後者へと移行する大きな変革を「コペルニクス的転回」と呼んだのである。

この「認識」という言葉を、ここでの「まなざし」に言い換えることはできないだろうか。

つまり、人は「まなざし」によって推論され、解釈され、そして形作られていくと捉えるのである。

この考え方に従うと、自分に向けられる「まなざし」の数が増えれば増えるほどに、自分の認識は強められていき、自己が確立されていくということになる。

小泉監督の映画の主人公たちは、先ほども述べたようにまだ何者でもないキャラクターであり、何者かになることを渇望しているキャラクターとして描かれている。

そして、物語の中での成長を通じて、「まなざし」を向ける側から向けられる側への移行を果たすこととなる。

『ちはやふる 結び』でも、映画冒頭の千早はクイーンに「まなざし」を向ける側の存在として描かれており、観衆やメディアの「まなざし」もまた彼女ではなく、クイーンの若宮に向けられている。

「まなざし」の数によって、自分を確立した存在である若宮と、そうではない千早の数を対比的に演出していたわけだ。

そんな彼女には、『ちはやふる 上の句』の冒頭で描かれていたように、クイーン戦に出場し、聴衆やメディアの視線を一手に集めるという未来が待ち受けている。

このように小泉監督は「見る」という行為、あるいはその行為がもたらす「まなざし」というものにこだわりを持って作品を制作しているように思える。

そうした視線へのこだわりないし執念のようなものを感じたのは、『ちはやふる 上の句』のクライマックスにおける大江奏のこの言葉だ。

見ててあげてください。部長の運命。

(『ちはやふる 上の句』より引用)

千早は自身の仲間である真島太一の運命戦の結果を見ることを恐れ、祈るように目を閉じる。しかし、そんな彼女を見た大江奏は上記のセリフを述べ、それを受けて千早は目を開け、「まなざし」を太一に注ぐ。

(C)2016 映画「ちはやふる」製作委員会 (C)末次由紀/講談社

祈りではなく「まなざし」を。「まなざし」が対象を変えていく力を信ずる小泉監督らしい演出と言えるのではないだろうか。

とは言え、これまでの作品における登場人物たちの成長譚では、「まなざし」の対象は常に自分の外側に存在している。

『ちはやふる 結び』において主人公の千早が最終的に教師という進路選択をするわけだが、物語の終盤に彼女が他校のかるた部の顧問教員に視線を注ぐ一幕が挿入されていた。

また、彼女は「周りに勇気をあげられる人」になりたいと自分の目標を掲げるが、これに付け加えて「しのぶちゃんみたいに」と述べている。

このように小泉監督の作品における登場人物たちの「まなざし」が注がれるなりたい自分像は、常に自分の外部にあるものとして描かれてきたわけだ。

それらを見つめることで、いつしか「まなざし」の先にいた存在に、自分がなっていくというのが、「見る」から「見られる」側への移行であり、成長だった。

『線は、僕を描く』小泉監督らしい「まなざし」の成長譚でありながら、これまでの作品と決定的に異なるポイントはここにこそあると思う。



「まなざし」の成長譚の極致としての『線は、僕を描く』

(C)砥上裕將/講談社 (C)2022映画「線は、僕を描く」製作委員会

そして、『線は、僕を描く』は、小泉監督が撮り続けてきた「まなざし」の映像作品の極致であると言える。

本作もこれまでの彼の作品と同様に「見る」「見られる」の関係が意識された作品なのだが、水墨画という題材を扱ったことにより、その在り様が変化している。

美学者の森川恵昭氏は、自身の著書である『日本美の性格』の中で、仏教の「仏説観無量寿経」を取り上げ、「見る」あるいは「観る」行為について次のように述べている。

“観”とは見ることにちがいないが、如上の意味を荷なった「見る」である。日想観や水想観におけるように、現実に目に見える特殊な、個別的な事柄を通じて、その背後にある目に見えない、より普遍的な、永遠なるものを見ることが、“観”の意味なのである。そして、この仏教における“観”というものに絶えずなじんできた日本人は、自らがうみ出す美や芸術の性格を形成していくのに大きな役割を果たすことになるのである。

(森川恵昭『日本美の性格』より引用)

森川氏がここで述べた内容ないし「観る」という行為は、まさしく『線は、僕を描く』の中で篠田湖山が霜介に伝えようとしていた教えに重なるように思う。

「見る」とは単に目に見える具体的な事物やその形を捉えることであり、「観る」とはその背後に広がる不可視の本質に目を向けることだ。そして水墨画において重要なのは、後者の視線であると本編中でも繰り返し述べられていた。

これまでの小泉監督作品における自己の確立は、他者からの「まなざし」によってもたらされていた側面が強かったように思う。

『ちはやふる』においてチームで戦うことの意義が強調され、仲間からの「まなざし」が本来の自分を超えた力を引き出していくという展開はその端的な例と言えるし、『カノジョは嘘を愛しすぎてる』はそれを恋愛の中で描いている。

しかし、『線は、僕を描く』は水墨画の世界における対象を「観る」行為を持ち込むことで、これまでとは異なる自己の確立の仕方を描いたのだ。

佐藤基樹氏、幸秀樹氏の『「見る」ことについての一考察-日本的なものの見方「観る」に着目して-』の中で、上記の「観る」に関連して、雪舟の水墨画に対する向き合い方を解釈した一節がある。

雪舟は,芸術家でもあり、禅僧でもあるため仏教の「観る」の概念をもって対象を見て、描くことができたと筆者は考える。「山水長巻」は、絵筆を用いて雪舟が眺めた世界を表現しているものの、雪舟が本当に表現したい世界は、奥にある目に見えない世界、つまり、眺めた世界を通して雪舟の内にある世界を表現したかったのではないか。目の前にある世界に目を向けて「観」つつ、自らの内にある世界を描いたのではないだろうか。

(『「見る」ことについての一考察-日本的なものの見方「観る」に着目して-』より)

注目したいのは、対象に向けた「まなざし」を通じて、自らのうちにある世界を描くという捉え方ではないだろうか。

そして、これこそが『線は、僕を描く』に持ち込まれた霜介の自己の確立の描かれ方だったように思う。

確かに彼は水墨画を描くようになり、その筆致や作品が他者の「まなざし」に晒されるようになったことで、他者を介して自分という存在を推論され、解釈されていく。

しかし、それ以上に彼は目の前にある題材に向き合うことで、あるいは対象を「観る」ことで、その向こう側にある自分自身の形を探っているのだ。

これまでの作品が「見る」側から「見られる」側への移行として成長を演出した一方で、今作では「見る」側と「見られる」側と自己完結し、自分が自分自身を絶えず対象化し、推論し、解釈し、自分の輪郭を変容させていくという成長の描き方をしている。

本作の劇中で江口洋介演じる西濱湖峰が、霜介に対して「『なる』のではなく『変わって』いくもの」という発言を繰り返していたが、まさにこのことである。

つまり、「見る」側と「見られる」側に線引きがあり、どちらかからどちらかに「なる」ということではない。

それが自分の中で併存し、絶えず「見る」あるいは「見られる」ことを通じて、自ずと自分という存在のカタチや認識が「変わっていく」ということだ。

また、先ほども述べたようにこれまでの小泉監督の作品では、登場人物たちのなりたい自己が常に自分の外部にあるものとして描かれていた。

一方で、『線は、僕を描く』はなりたい自己を自分の内側に見出す物語となっている。

だからこそ、篠田湖山は霜介に対して、自分や千瑛の筆致を真似るのではなく、自分だけの線を見つけなさいとアドバイスをするのである。

他者の中に自己があるのではない。「観る」を通じて、他者や対象の本質を捉え、それを通じて自分の内的世界に自己を見出していく。

この姿勢にこそ『線は、僕を描く』が、小泉監督の「まなざし」の映像作品の正統な後継であり、そのひとつの到達点として語るに値する理由がある。

彼の志向する「まなざし」を介した成長譚は、水墨画という題材との出会いを通じて、新しい境地へと到達したのだ。