【ネタバレ】『花束みたいな恋をした』感想・解説:サブカルという栞。イヤホンのLとR。重なるということ。

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『花束みたいな恋をした』についてお話していこうと思います。

ナガ
2021年公開の映画の中で最も楽しみにしていた作品の1つです!

何と言っても本作の脚本を手掛けたのは、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』『最高の離婚』『カルテット』といったテレビドラマを作り出してきた坂元裕二さんなのです。

坂元さんの作品と言えば、やはりその独特の「会話劇」が注目されますよね。

特にドラマ『カルテット』の時には、毎週新しい回が放送されるたびにそのセリフの1つ1つが注目を集め、SNSなどで話題になりました。

彼の手掛ける作品のセリフって、徹底的に現実主義を貫いているというよりは、むしろフィクショナルないし文体的だと思います。

つまり、日常会話というよりは、キャラクターたちが小説を朗読しているような「作り物」感がどことなく漂っているのです。

しかし、会話の中身を聞いていると、その内容があまりにもリアルで、私たちが日常の中で何気なく話す話題にマッチしているため、親近感を覚えます。

この語り口のフィクショナルさと、語る内容のリアリティのミスマッチが、その「あわい」に不可思議な領域を生み出しているのが、坂元さんの作品の特徴だと私は考えています。

特に今回お話する『花束みたいな恋をした』という作品は、そのミスマッチを徹底的に極めた作品と言えるのではないでしょうか。

登場人物の語っている内容は、今の若者のサブカルチャーの世界を精緻にとらえており、近年の“シティ・ラブストーリー”の中でも群を抜く出来栄えだと思います。

それでいて、本作は坂元さんが「日記」のような作品にしたかったと語っていることもあり、実に「書き言葉」的なセリフやモノローグが飛び交っていました。

この「コントラスト」が心地良いハーモニーを奏でており、見るものを惹きつけてやみません。

さて、今回はそんな映画『花束みたいな恋をした』について自分なりに感じたことや考えたことを綴っていきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『花束みたいな恋をした』

あらすじ

山音麦と八谷絹はそれぞれ別の相手とカフェを訪れていた。

2人は、カフェの片隅でイヤホンを片方ずつ耳に差し込み、1つの端末で音楽をシェアしているカップルを見かける。

そんな光景を見ながら、2人はかつて恋に落ち、大切な時間を共に過ごした相手に思いを馳せるのだった。

東京・京王線の明大前駅で終電を逃したことから偶然に出会った大学生の山音麦と八谷絹。

成り行きで居酒屋、そしてカラオケに行くことになった2人は、好きな音楽や映画、小説のことについて語り合う。

2人はサブカルチャー方面の興味がほとんど同じだったこともあり、頻繁に会うようになり、やがて恋に落ちる。

麦と絹は、大学を卒業し、両親に反対されながらもフリーターをしながら、多摩川沿いの小さなアパートで同棲をスタートさせる。

しかし、生活をするため、そして何よりも2人の関係の「現状維持」のためにも就職は必須だと2人は思い至る。

就職活動を経て何とか仕事に就いた2人だったが、その頃から少しずつすれ違いが始まるのだった…。

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:土井裕泰
  • 脚本:坂元裕二
  • 撮影:鎌苅洋一
  • 照明:秋山恵二郎
  • 編集:穗垣順之助
  • 音楽:大友良英
  • インスパイアソング:Awesome City Club
ナガ
土井監督と坂元脚本のタッグはもうファンからしたら最高に熱いですね!

まず監督を務めた土井裕泰さんは『カルテット』『逃げるは恥だが役に立つ』など近年の人気ドラマの裏にはこの人あり的な人物です。

昨年は映画『罪の声』の監督も務め、こちらも非常に出来栄えが良く、各映画賞で高く評価されていますね。

そして、脚本を手掛けたのは、記事の冒頭にも紹介した通りで坂元裕二さんですね。

ちょうど有村架純さん主演のドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』が撮影されていたであろう2015年頃に、今回の企画が持ち上がっていたようです。

坂元さんは、菅田将暉さんと有村架純さんの2人と何か映像作品を撮りたいという意向だったようで、2017年に正式に映画化企画として動き始め、監督として土井裕泰さんに打診がいったそうですね。

ちなみに坂元さんは今回の脚本の初稿を1週間ほどで書き上げたと語っています。

撮影には、2017年公開の『夜空はいつでも最高密度の青色だ』や2019年の『アンダーユアベッド』で高く評価された鎌苅洋一さんが起用されました。

編集には実写版『ちはやふる』や昨年の『罪の声』などで知られる穗垣順之助さん、劇伴音楽には『岸辺の旅』『影裏』などにも楽曲を提供した大友良英さんがクレジットされています。

また、インスパイアソングとして、架空の町「Awesome City」のサントラを演奏するというコンセプトで活動しているシティポップの人気グループAwesome City Clubが参加しています。

物語の中にも彼らの楽曲が登場し、麦と絹の物語を彩っていきますので、要注目です。

キャスト
  • 山音麦:菅田将暉
  • 八谷絹:有村架純
  • 羽田凜:清原果耶
  • 水埜亘:細田佳央太
ナガ
この2人をメインキャストにした時点で「勝ち確」みたいなもんでしょ…。

予告編のお風呂のシーンが最高すぎて、何回も見てしまいましたが、菅田将暉さんと有村架純さんが作る空気感が本当に大好きです。

有村架純さんは、今作のようなちょっと「セリフチックなセリフ」を話す役がすごく巧いと言うか、嘘くさくなく演じられてしまいます。

以前に『ナラタージュ』を見た時は、ちょっと演技的に物足りないな…という印象もありましたが、役どころや脚本にもかなり影響を受けるのかもしれません。

菅田将暉さんは文句なしに巧いですね。序盤の勢いのある無邪気な若者感も、そこから少しずつ社会に出ていろんなことに冷めていく感じも、この上なくリアリティがありました。

そして、麦と絹の物語に大きな影響を与えることとなるとある1組の男女を清原果耶さんと細田佳央太さんが演じています。

その他にも、本作には序盤の2人の出会いの場面で、押井守さんが本人役として登場しているので、こちらも要注目です(笑)

映画com作品ページ
ナガ
ぜひぜひ劇場でご覧ください!



『花束みたいな恋をした』感想・解説(ネタバレあり)

なぜ「花束」なのだろうか?

さて、まず本作のタイトルで含まれる気キーワードでもある「花束」について考えていきたいと思います。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会

ナガ
みなさんは、花束って人生の中で何度かもらったことありますか?

当ブログ管理人も何度かもらったことがありますが、こまめに水を差したり、日光に当てたり、時々茎を切ってあげたりしても、やっぱり枯れるもんは枯れるんですよね。

『花束みたいな恋をした』の劇中で「恋愛には賞味期限がある」というセリフがありましたが、まさしく「花束」にも賞味期限みたいなものがあります。

最初はとても美しいモノなんだけれど、その美しさを永遠に保つことはできないので、緩やかなに萎れ、やがては枯れてしまうのです。

おそらく今作のタイトルは、そうした「花束」というモチーフの性質に恋愛を重ねています。

しかし、単に枯れていくことと恋が冷めていくことを重ね合わせているというわけではありません。

重要なのがグーグルマップのストリートビューに、花束を持って歩いていた頃の2人が映り込んでいたことに気がつく場面をラストシーンに据えたことでしょう。

この時、2人の恋愛関係は完全に終わっていましたが、写真の向こう側にはあの時と変わらない美しい「花束」が今も残されているのです。

私は、この状況こそが2人にとっての「花束みたいな恋」なのだと痛感しました。

終わってしまって、とっくの昔に枯れてしまったけれど、思い出の中では今も色併せず、ずっと美しく、愛おしい。そういう恋愛を2人はしたのだと。

ナガ
「花束」って多くの人にとっては、渡した瞬間、もらった瞬間にのみ意味があるものなんじゃないかな?

でも、時間が過ぎ去ってみて、改めて思い返して見た時に、ふわっとその美しさや香りもらった時の記憶が蘇って来る。

そういう感覚を繊細に描き切ったのが、今作『花束みたいな恋をした』なのかなと個人的には思っています。

 

サブカルチャー史が演出する2人の時間の流れ

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会

『花束みたいな恋をした』は、映画や小説、マンガ、音楽と言ったサブカルチャー要素を多く盛り込んだ作品となっています。

2021年の冬クールのテレビドラマとして『ウチの娘は、彼氏が出来ない!!』という化石みたいなオタク描写を連発しているヤバいドラマがありますが、『花束みたいな恋をした』のサブカルに関する造形はとても深いです。

個人的に感動したのは、2人が初めてあった日に自己紹介をする場面で麦が好きな言葉として「バールのようなもの」を挙げたところだったりします。

これ、おそらくですが「水曜日のダウンタウン」で「バールのようなものバール説」という内容を放送していて、そこから引用しているのでしょう。

「水曜日のダウンタウン」は当ブログ管理人が大学生だった頃も、見てない人はいないんじゃないか?ってくらいにみんな見ていましたし、そこで取り上げられた内容が話題になることもしばしばでした。

坂元さんの脚本は、こういうディテールの部分を絶対に外さないので、もうこのセリフ1つだけでも麦や絹というキャラクターに親近感を抱いてしまいます。

そして、この作品が何とも憎いのは、2015年以降のサブカル史とリンクさせた日記テイストで麦と絹の物語を描いていく点です。

例えば、2人の就職活動が上手く行かないことを表現した描写として、こんなモノローグが入っていました。

その夏、シンゴジラが公開されても、ゴールデンカムイの八巻が出ても、新海誠が突如ポスト宮崎駿になっても、渋谷パルコが閉店しても、私たちの就活は続いた

(『花束みたいな恋をした』より引用)

ナガ
いや、これサブカルオタクにはたまらない表現ですよ…。
  • 『シンゴジラ』:2016年7月
  • 『君の名は。』:2016年8月
  • 『ゴールデンカムイ』:8巻:2016年9月16日
  • 渋谷パルコ閉店:2016年8月7日

映画やマンガ、サブカルの聖地に纏わる「大きなニュース」が流れ、それらが過ぎ去っていく中で、主人公たちが就活をしていたという表現の切り口は何とも斬新です。

もちろん、これに限らず、この『花束みたいな恋をした』という作品は、リアルタイムベースで映画やアニメ、マンガ、ゲームと言ったコンテンツを追っていきます。

フィクションの中では、こういった映画やマンガを実名で引用するケースが少なかったりしますが、今作は「日記」としてあえて実名でバンバン作中に登場させていくことで、「サブカル史」を通じて、麦と絹の過ごした時間の流れを観客に感じさせることに成功していると言えるでしょう。

任天堂がSwitchを発売して、2017年に『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』が発売される。

渋谷ユーロスペースで2017年12月に『希望のかなた』が公開される。

2018年3月に『ゴールデンカムイ』の第13巻が発売される。

音楽界に崎山蒼志が現れる。そして今村夏子さんが2019年に芥川賞を受賞する。

こうした、サブカルの時間の流れを感じさせる事物が2人の日常のあちこちに散りばめられており、それらが「時間」を指し示すシグナルとして機能していました。

とりわけこうした演出にした意図は、劇中のセリフとしても明確にされています。

「山音さんも、映画の半券、栞にするタイプですか。」
「映画の半券、栞にするタイプです。」

(『花束みたいな恋をした』より引用)

ナガ
まさしくこういうことなんですよね!

この『花束みたいな恋をした』という作品が2人がかつて恋をした記憶の日記であり、その印象的な場面にサブカルモチーフが「栞」として挟み込まれているのが、この作品の構造なのです。

ナガ
そして、これ結構当ブログ管理人もやっちゃいますね。

「“あれ”があったのって何年だっけ?」

「えーっと、“あれ”があった時は、映画館で~が上映されていたから、○○○○年だね。」

こんな会話をしたのは、人選で2度や3度ではありません。結構無意識的にやってしまうものなんですよ。

このように、サブカルモチーフを主人公たちが美しい思い出にアクセスするための「栞」にするという私たちが何気なくやってしまう、日常の機微を作品に落とし込んでしまう坂元さんのテクニックには驚かされました。



イヤホンのLとR。共有と分割。

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会

今作の冒頭に、印象的な描写が登場します。

それは、カフェで1組のカップルがイヤホンを片方ずつ耳に差し込み、1つの端末で音楽をシェアするというものです。

そして、これはかつての麦と絹が付き合い始めの頃にやっていた音楽の聴き方でもありますね。

それから5年が経過し、今では他人同士になってしまった彼らはそんなカップルを見て、かつて自分たちが言われたことと同じ短評を添えます。

「音楽ってね、モノラルじゃないの。ステレオなんだよ。イヤホンで聴いたらLとRで鳴ってる音は違う。Lでギターが鳴ってる時、Rはドラムが聞こえてる。片方ずつで聴いたらそれはもう別の曲なんだよ。」

(『花束みたいな恋をした』より引用)

こういうイヤホンの描写を見ていると、無性にジョン・カーニー監督の『はじまりのうた』を思い出しますよね。

(『はじまりのうた』より引用)

ちなみにあの映画では、イヤホンを2人用に分岐するケーブルが使われていたので、2人がそれぞれに両側の耳にイヤホンを差し込んで、音楽を聴いていました。

この何気ない描写は、本作『花束みたいな恋をした』における麦と絹の関係を象徴していると言っても過言ではありません。

そもそも、2人が恋に落ち、付き合い始めるきっかけになったのは、映画や本、マンガ、音楽と言ったサブカルチャーの趣味がぴったりと合ったからなんですよ。

天竺鼠のライブ。TBSラジオ「菊地成孔の粋な夜電波」。今村夏子さんの『ピクニック』。キノコ帝国の「クロノスタシス」。

初対面ながら、面白いくらいに趣味があった2人は、意気投合したというわけです。

ただ、この時の彼らは、それぞれが自分の世界を持っていて、同じコンテンツを好きだとしても、それを自分の領域で楽しんでいたに過ぎません。

そしてその領域が、たまたま重なり合ったのです。

しかし、付き合い始めて、さらに同棲するようになると、その関係性が変わっていきます。

例えば、マンガ『宝石の国』の第3巻を一緒に読んでいる描写がありました。

これまでであれば、2人で別々に読んで、その感想や意見を持ち寄って共有する関係だった2人が、1つのコンテンツを同じ時に、同じ場所で享受する関係に変貌したのが見て取れます。

ただ、こういう関係が少しずつすれ違ってしまうんですよね。

例えば、舞台を一緒に見に行く約束をしていたのに仕事が入ったり、クリスマスに買い物がしたいのに、絹の好みで映画に連れていかれたり。

『希望のかなた』を見ている絹と麦。

高揚している絹。

まったく内容が頭に入らない麦。

(『花束みたいな恋をした』より引用)

まさしく同じものを共有しているのに「全く違うもの」として享受しているという、イヤホンのLとRのような現象が起きていますよね。

2人が、別々にサブカルチャーを享受して、それに対して抱いた思いや感想を持ち寄っていた時には、決してこんなすれ違いは無かったはずです。

しかし、1つのコンテンツを一緒に同じ温度で、同じ空気感で味わおうとすればするほどに、2人はすれ違ってしまいます。

かつて趣味が同じだ!ということで恋人関係になった2人が、近づけば近づくほどに、その趣味の違いを感じるようになるというアイロニックな構造が埋め込まれているわけです。

ただ、これはサブカルチャーに限らずとも、恋愛というものにおいては、よくある話とも言えます。

別々の家に暮らしている恋人関係だった時には、気が合う、価値観が合うと思っていた相手といざ一緒に暮らしてみたら、全然違っていたみたいな話ですね。

冒頭のシーンの中で麦と絹がそれぞれこんなことを言っていました。

麦:「分けちゃダメなんだって、恋愛は」
絹:「恋愛はひとりに一個ずつ」

(『花束みたいな恋をした』より引用)

このやり取りは、まさしく『花束みたいな恋をした』という作品へのアンサーとも言えるものです。

では、次の章で、本作が描いた「恋」や「愛」のカタチについて読み解いていきます。



自分の世界を持って、「重なり」あう恋愛を

(C)2021「花束みたいな恋をした」製作委員会

当ブログ管理人が恋愛や結婚について考える上で、すごく印象に残っている言葉があります。

それは、タレントの壇蜜さんが結婚する時にお話されていた言葉なのですが、まさしく今作のメッセージにも重なる部分があると思うので、引用させていただきますね。

「私にとって“ちゃんと生きられる”の意味は、経済的・精神的に自立して生きられるということです。ひとりで生きられないから結婚するのではなく、自分ひとりでも生きられる自信がついたから誰かと一緒にいられるようになったわけで」

この言葉を聞いた時に、私自身もハッとさせられました。

相手に寄りかかったり、依存したりするために結婚や恋愛をするのではなく、自分自身の主体性を維持したままで一緒にいるという選択があるのだと実感させられたからです。

『花束みたいな恋をした』という作品において、最終的には一緒にいることを選択できなかった絹と麦に足りなかったものもきっとそんなお互いの主体性なのだと思います。

麦は映画、マンガ、小説と言ったサブカルチャーをこよなく愛しており、イラストの仕事を志していましたが、2人の生活を維持するために営業職に就きました。

その結果、以前読んでいたような本は全く読まなくなり、その代わりにビジネス本や自己啓発本にばかり手を出すようになりました。

一方の絹は、楽しく自分のやりたいことをやりながら人生を生きていきたいと考えており、仕事をしながらも、趣味の時間を忘れることはありません。

2人は同棲当初に「現状維持」を目標にしましたが、その意味合いはそれぞれ異なります。

絹の思う「現状維持」はきっと大学生の頃のような、趣味を共有して、一緒に映画や小説、音楽を楽しむような関係性を維持していくことなのだと思います。

一方で麦にとっての「現状維持」は、仕事をしてしっかりとお金を稼いで、2人の生活を維持していくことなのです。

ここが決定的に異なっているが故に、2人は同じ目標に向かっているはずなのに、どんどんとすれ違っていきました。

ナガ
まさしくイヤホンのLとRだよね…。

そうして、自分自身をすり減らし、主体性を喪失していき、2人の関係の維持に寄与するだけの日常を送ることになってしまうのです。

絹:「好きで一緒にいるのに。何でお金ばっかりになるんだろって。」
麦:「ずっと一緒にいたいからじゃん。そのためにやりたくないことも…」
絹:「わたしはやりたくないことはしたくない。ちゃんと楽しく生きたいよ。」

(『花束みたいな恋をした』より引用)

こうやって、お互いがすれ違ったままで、関係性の「現状維持」に依存した結果、5年の歳月をかけて、2人の恋愛関係はその温度を失っていきました。

そして物語のクライマックスで、いよいよ2人は付き合い始めたのと同じファミレスで別れ話をすることになります。

この時、「別れたくない」と思った麦は絹に「結婚して欲しい」と切り出しました。

彼がなぜ「結婚」を切り出したのか、それは法的に関係を結ぶことで、お互いが自分たちの関係の維持に寄与することに「正統性」を与えられるからなんですよ。

恋愛関係としては冷めきっていたとしても、結婚という法的な関係になれば、彼らはどんな形であれ、2人の生活を維持していかなくてはなりません。

そういう状況になれば、また同じ方向に向いて歩きだせるのではないかというのが麦の考えなのです。

しかし、そこで彼らが目撃したのはファミレスでまるで出会った頃の麦と絹のようにサブカルチャーの話をしている羽田凜と水埜亘の男女の姿でした。

彼らは、その姿を見て、きっと自分たちが「失ってきたもの」を実感してしまったのでしょう。

あの頃、2人は確かに自分の世界を持っていて、そしてそれが重なり合うことにドキドキと高揚感を抱いていました。

しかし、今の彼らにはもうあの頃のような一緒に過ごすことの高揚感を取り戻すことはできないのです。

なぜなら、絹と麦は「恋愛はひとりに一個ずつ」という主体性を失ってしまったからなんですよね。

だからこそ、絹と麦は別れを選ばなければなりません。

それは、自分自身の世界を、主体性を取り戻すための「別れ」と言えます。それ故にネガティブではなく、きっとポジティブなのだと思いました。

『花束みたいな恋をした』という作品は、恋愛と個人の主体性を関連づけ、主体性の喪失に伴って、2人の関係が形骸化していき、温度が失われていくというプロセスを丁寧に描き切りました。

ラストシーンで、2人はもう別々の場所で暮らしています。

そんな彼らが、ふと思い出したのが「同棲していた頃によく買いに行っていたパン屋」でした。

こうやってちょっとしたことで「重なる」。

別々の人間だけれども。別々の世界を持っているけれども。別々の価値観や考えを持っているけれども。別々のバックグラウンドを背負っているけれども。

その、ふとした「重なり」こそが恋愛の醍醐味なのだと、この作品は言っているような気がしました。

「何もかもが同じになることが愛おしいのではなく、何もかもが違うのにたまに「重なり」合うことがたまらなく愛おしいのである。」

『花束みたいな恋をした』に込められた思いはまさしくこういうことなのではないかと私は受け止めました。

ラストシーンに起きた「小さな奇跡」はきっとそれを端的に表現するものです。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『花束みたいな恋をした』についてお話してきました。

ナガ
坂元節全開の最高の会話劇でしたね!

紛れもない「別れ」へと至る物語なのですが、その中に恋愛の醍醐味みたいなものが詰まっていて、たまらなく愛おしい映画だったように思います。

また、サブカルチャーの引用の仕方や作品への溶け込ませ方、そして何より引用する作品のチョイスが最高で、グッときましたね。

1度と言わず、2度3度と見返すことで、味わいが深くなっていくタイプの作品だと思いますし、こんな状況下ではありますが、ぜひ見ていただきたい作品です。

「別れ」の映画なのに、無性に恋がしたくなる…。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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