【ネタバレ考察】『リコリスピザ』世界の中心が自分でなくなることの受容を恋と呼ぶのなら

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『リコリスピザ』についてお話していこうと思います。

ナガ
待ちに待ったポールトーマスアンダーソン監督の最新作ですね!

『マグノリア』『ザ・マスター』など数多くの名作を世に送り出し、映画ファンの間でも高く評価される彼の新作が公開されました。

今回の作品は、ノスタルジーを掻き立てるような「あの頃」の青春映画ということもあり、題材としてはポールトーマスアンダーソン監督らしくない、意外なものに思えます。

ただ作品を見てみると、相変わらずヤバいメインヒロインが登場したり、変な性癖の扉が開きそうな危ういロマンスが描かれたりと、らしさ全開で、ファンを安心させてくれました(笑)

ちなみに本作のタイトルである『リコリスピザ』は、1969年から1980年代後半にかけてカリフォルニア州南部で店舗を展開していたレコードチェーンの名前から取られたものということです。

このタイトルからも分かるように、本作は過去を振り返り一つの時代にスポットを当てて、主人公とヒロインの恋愛模様を描き出していくわけですが、どこか監督の自伝的映画なのかなとも思わされます。

ポールトーマスアンダーソン監督自身も映画の舞台と同じエリアで育ったからこそ、当時の空気が緻密に再現され、映画を見ているだけで、タイムスリップしたような、異国の異なる時代の空気で肺が満たされるような不思議な感覚を味わえるんですね。

とは言え、調べてみますと、本作は監督の自伝的作品と言うよりは、子役スターから転じて現在は映画プロデューサーとして活躍しているゲーリー・ゴーツマンの生い立ちを描いているとのことです。

また、監督のこれまでの作品を追いかけてきた人にとってのもう1つの見所は、『マグノリア』『ザ・マスター』などの過去作にしばしば登場した故フィリップ・シーモア・ホフマンであるクーパー・ホフマンを主演として抜擢していることでしょう。

このように、これまでの作品とは一味違った思い入れの強さを感じる作品になっているわけです。

さて、そんな『リコリスピザ』ですが、個人的に今回彼が描こうとしたことは『ザ・マスター』『ファントムスレッド』にも通じていると思います。

つまり、青春映画でありつつも、今作は「自分の世界の中心」あるいは「自分の世界の主導権」の話なんですね。

この記事では、そうした視点から『リコリスピザ』を自分なりに深めていきたいと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『リコリスピザ』考察(ネタバレあり)

被写体とカメラマンの出会い

©2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

ポールトーマスアンダーソンは、設定や視覚的な演出によって、登場人物の関係性をあぶり出すことに長けたクリエイターです。

例えば、前作に当たる『ファントムスレッド』では、階段という舞台装置を効果的に用い、登場人物の主導権の在り処を仄めかすような演出を用いました。

今作に関しては、冒頭のシーンがゲイリーとアラナの関係性とそれぞれの立ち位置を端的に表していると言っても過言ではないでしょう。

冒頭の長回し風のカットで描かれたのは、まさしくゲイリーとアラナが出会う、ボーイミーツガール(あるいはボーイミーツレディ)の瞬間と言えます。

観客は、学生同士なのかと勘ぐるわけですが、会話を重ねていくうちにそれがどうも違うことに気づかされていき、2人は撮影ブースへと向かっていきます。

そして、被写体となるゲイリー、撮影をサポートするアシスタントとしてのアラナという形で2人のポジションが明確にされるのです。

撮影というシチュエーションにおける主役、あるいは中心は言うまでもなく被写体であり、それはゲイリーのことですよね。

一方で、アラナが置かれているポジションというのは、カメラマンですらないアシスタントであり、同シチュエーションにおける端役も端役なわけです。

ここにゲイリーが子ども、アラナは大人というコンテクストが加わることで、本作の構図があっという間に提示されます。

つまり、ゲイリーはまだ世界が自分を中心に回る青春時代を生きている青年であり、アラナはそうした時代を通りすぎ、自分が世界の端役に過ぎないことを諦念とともに受け入れた大人の女性であるということです。

この関係性や2人のポジションについては、のちのシーンで徐々に肉づけされていきます。



ゲイリー:鈍感さで君臨する世界の中心

ナガ
では、先にゲイリーの物語について解説を加えていきます。

彼はかつて子役スターだったこともあり、業界人からも広く認知された存在なのですが、身体的な成長を経て、徐々にその地位を剥奪されてきたことが伺えます。

18人の子どもの中の1人を演じる彼は、そのドラマの主役ないし中心からは程遠い立ち位置であり、言わば端役の1人に過ぎません。

©2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

それでも、彼は自分を中心に世界が回っている、このドラマの中心には自分という存在がいるのだという過信を続けており、それが主役を貶めるような舞台上での下品な発言につながったのでしょう。

彼はもう舞台の上の中心ではないのに、自分はまだ中心にいると信じて止まない。

15歳という子どもから大人への過渡期は、誰もがそのギャップに苦しむ時期にあるわけですが、ゲイリーはそれに対してどこか鈍感です。

続くオーディションのシーンでは、彼は昔なじみのプロデューサーから呆れられ、大人になったことを自覚するよう促すかのように、「ニキビが…」なんてセリフを読み上げさせられていました。

それでも、彼はまだ世界は自分を中心に回っていると信じて止まない。無自覚な鈍感さが彼を支えているのです。

また、物語の後半になるにつれて、ゲイリーは実業家(ビジネスマン)へと転身していくわけですが、アラナから指摘されたように彼は依然として自分が世界の中心に立つことを諦めようとしません。

ウォーターベッドのブームが到来する匂いを嗅ぎつければ、自分がそのブームの火付け役かのように振る舞い、ピンボール禁止の法律が廃止されると耳にすれば、真っ先に店をオープンさせました。

ましてや、ジョン・ピーターズなんて自分より目立つ俳優は許せませんから、車をめちゃくちゃにしてやらないと気がすみません。

アメリカで最もホットなトレンドの中心には彼がいる。そういう構図を作り出すことにゲイリーは必死なのです。

だからこそ、テレビで世界の当たり前を根底から揺るがすような「石油危機」なんて大ニュースが報道されても、彼は気に留める様子もありません。

なぜなら世界のメイントピックとなっている「石油危機」ですらも、彼の世界においては些末な要素に過ぎないからです。

しかし、彼のウォーターベッドビジネスは石油危機の影響を大きく受けてしまい、事業規模を縮小せざるを得なくなります。

このように、ゲイリーの物語というのは、子どもと大人の過渡期に起きる「自分が世界の中心であるという全能感とその崩壊の足音によるせめぎ合い」によって構築されているのです。

ゲイリーはその「足音」を感じながらも、鈍感なふりをし、それを遠ざけるために、次々に新しいビジネスに手を出し、世界の中心に君臨し続けようと試みています。

 

アラナ:世界の中心に憧れる端役

ナガ
次に、メインヒロインであるアラナの方にスポットを当てていきましょう。

彼女は、先ほども書いたように撮影クルーのアシスタントであり、同シチュエーションにおける端役も端役な存在でした。

だからこそ、自分の仕事に対して「クソ」であると断言しており、そうした状況から脱出することを望んでいます。

アラナは最初に、役者として活躍するゲイリーの介添に転身しましたが、観劇している際に周囲の人たちに「私は彼の介添です」といった発言をしていましたよね。

彼女はゲイリーという舞台の中心人物かのように振る舞う元子役スターに付き添うことで、自分もまたその空間の中心にいるのではないかと喜びを覚えており、それがこの発言に繋がっているように思われます。

家族という共同体においては、末っ子であり、自分よりも重んじられ、権力を有する姉という存在がおり、さらには厳格な父と信仰がその中心に君臨しているため、恋人を自宅に連れていくことすらままなりません。

©2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

自分が世界の端役に過ぎないということを常に意識され続けてきた彼女は、まるで自分が世界の中心にいるかのように振る舞うゲイリーに惹かれます。当然の成り行きです。

彼女は彼といることで、自分も世界の中心にいられるのではないかとそう考えたのではないでしょうか。

しかし、アラナはそのプロセスの中で、次々に世界の中心にあなたはいないのだと突きつけられるような出来事を経験していきます。

女優に転身した際には、彼の代表作のメインヒロインに似ているとジャック・ホールデンから気に入られました。

ただ、夜のゴルフ場で、彼が自身の出演作のワンシーンを再現するとなった際に、彼女はバイクから叩き落され、ヒロインの座に君臨することを許されませんでしたよね。

また、ウォーターベッドビジネスは石油危機によって立ち行かなくなり、ピンボールビジネスに際してはゲイリーから運転手というハンドルを握る役割を剥奪されています。

そうして逃げるように選挙ボランティアという仕事に駆け込んだわけですが、、これも市長に気に入られ、彼の隣にいることで、自分が世界を動かす側の人間になれると考えてのことでした。

とんとん拍子で事が進み、彼女は市長候補に気に入られたわけですが、彼が彼女に命じたのは自身のスキャンダルの処理です。

アラナは、自分がワックス市長候補の物語の端役あるいは駒の1つでしかないことを自覚し、同じく彼に捨てられた恋人と抱きしめ合います。



世界の中心が自分でなくなること恋と呼ぶのなら

ここまで、ゲイリーとアラナのそれぞれが辿った物語について解説をしてきたわけですが、共通しているのは、2人とも自分が世界の中心に君臨することに対して執念めいたものを抱いているということです。

しかし『リコリスピザ』においては、ここに「恋愛」という重要な要素が絡んできます。

とは言え、今作の恋愛模様の描き方は、ポールトーマスアンダーソン監督らしさがさく裂していることもあり、かなり独特です。

というのも、彼が今作で描いたのは、ジレンマと駆け引きなんですよ。

まず、前者の「ジレンマ」について言及しますが、これは先ほどまでお話してきた2人の個人としての物語にリンクしています。

ゲイリーとアラナはお互いに自分が中心に君臨できる世界を模索しており、俳優、ウォーターベッドビジネス、選挙ボランティア、ピンボールバーと活躍の場を次々に移していきました。

ただ、そうした自分の中心性を確立することと、恋愛という行為はかみ合わせが悪いのです。

例えば、ゲイリーはアラナに対して「また電話するよ!」と声をかけ、主体的に彼女の電話番号を聞き出し、主導権を握ったはずでした。

しかし、彼が電話をかけることになったのは、アラナが自分の俳優仲間と寝ているかもしれない、デートをしているかもしれないという危機感からであり、彼は「電話をかけさせられた側」なのです。

恋愛とは、言わば「自分ではない存在を中心にして世界が回り始める事象」であり、それ故に彼らの個人としての希求との間にジレンマをもたらします。

そしてもう1つの「駆け引き」ですが、これは2人がジレンマを解消するために、あるいは自分が君臨する中心のポジションを失わないために行っていたものです。

例えば、テイルオコックで、俳優のジャックホールデンを伴ったアラナと、女友達を伴ったゲイリーが対峙する場面がありましたよね。

©2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

このシーンにおける座席は「それぞれの世界」のメタファーであり、2人が別々の世界に君臨した状態で、どちらがその主導権あるいは中心というポジションを手放すのかという駆け引きをしています。

彼らはお互いに、自分が関係性における主導権を掌握し、相手を自分が君臨する世界の中に引き込むことを狙って、駆け引きをしているのです。

しかし、ゲイリーもアラナも、時折相手を想う気持ちが先行し、歯止めが利かなくなります。

警察に突然連行されたゲイリーを見たアラナは、全力で駆け出し、彼を追いかけました。

一方で、ジャックホールデンのバイクから叩き落されたアラナを見たゲイリーも全力で走り、彼女の元へと駆けつけました。

このときの2人は、明確に自分ではなく、相手のために走った、あるいは走らされたのであり、これは自分以外を中心に世界が回った瞬間なのです。

自分が中心に君臨する世界を確立したいという思い、自分以外の確固たる中心が世界に生まれてしまうことへの不安。

その不安とジレンマの中で、駆け引きを繰り返した2人は、最後の最後で自分ではなく相手のために走り出し、引き合います。

自分が自分の世界の中心であることを放棄し、相手が中心となった世界を受け入れ合うこと。

しかし、想いが通じ合えば、わたしはあなたの世界の中心となり、あなたはわたしの世界の中心となるという相補的な世界の構築と見ることもできます。

「世界の中心が自分でなくなる」ことを受け入れてでも、一緒にいたいと願う感情こそが「恋」なのだと本作は結論づけているように思えました。

 

「鏡」と「窓」が意味したもの

そして、ポールトーマスアンダーソン監督は、こうした世界の中心のシフトを「鏡」と「窓」という2つのモチーフを使って演出しています。

この映画のファーストカットは鏡で自分の姿を見ているゲイリーでしたが、彼が鏡で自分の姿を見るカットは映画の中で何度も反芻されました。

とりわけ、2人の出会いのシーンで、ゲイリーはアラナの持っている手鏡に自分の姿を映し出してみていましたよね。

鏡に映るのは、他でもない自分自身であり、それ故に鏡面という境界線を挟んだ2つの領域に自分が君臨することが許されます。

また、私たちは自分で自分の姿を見ることが叶わない以上、「鏡」は自分がこの世界に存在していることを知覚させてくれる、自分を映し出すカメラのようなものだとも言えるでしょうか。

一方で「窓」は、向こう側が透けて見えるモチーフであり、境界線の向こう側に自分がいない空間を作り出す役割を果たしていると見ることができます。

ゲイリーが女友達と性的な行為に及んでいたトイレの窓、誤認で連行されるゲイリーとアラナを隔てたパトカーの窓、選挙事務所やレストランの窓。

どれも向こう側に自分には干渉できない、コントロールできない世界が広がっています。

ゲイリーは、「窓」の向こう側の世界を自分の世界に取り込もうとしていました。

例えば、彼は街を歩いていて、店の窓の向こう側にウォーターベッドを見つけ、それを自分のビジネスの材料にしていました。

一方のアラナは、「窓」の向こう側に自分が中心でいられる世界があると信じて、行動を続けました。

選挙事務所の「窓」の向こう側に辿り着いた彼女は、事務所を嗅ぎまわる外部存在を通じて、向こう側の人間として確立されます。

しかし、ワックス市長候補にスキャンダルの火消しに使われ、レストランの「窓」の向こう側=こちら側に帰されてしまいました。

そんな2人が迎えるクライマックス。

ゲイリーは自分の店にアラナが来てくれると信じ、自分の店の「窓」の向こう側を見つめています。

一方で、アラナはゲイリーの店を「窓」を覗き、向こう側に彼がいないか、あるいは私の居場所がそこにないかを確かめようと試みました。

しかし、これまで通りの「窓」とその向こう側の世界に対する向き合い方で2人は再会を果たすことができません。

だからこそ、ゲイリーは待つことをやめ、店を飛び出し、「窓」の向こう側に自分が行く、つまり自分が中心に君臨しえない世界に足を踏み入れる決心をします。

また、アラナも「窓」の向こう側にではなく、今私が端役としてしか存在しえないこちら側に留まって、ゲイリーを探そうと試みました。

ゲイリーがピンボールバーで、いつものように髪型を直すシーンがありましたが、この時に彼が見ていたのは、鏡ではなく窓でした。

ガラス面にうっすらと映し出された自分自身を確認しつつも、その向こう側の世界を伺う。もちろんそこに期待しているのはアラナの存在です。

しかし、選挙事務所へと辿り着いたゲイリーはもう自分の感情を隠しません。彼が選挙事務所の窓に見ているのは、自分自身の姿などではありません。

©2021 Metro-Goldwyn-Mayer Pictures Inc. All Rights Reserved.

そこに自分はおらず、ただアラナの存在だけを追い求めています。

ラストシーンで、2人は再会を果たすわけですが、このシーンは2人の最初の出会いの場面の再現にもなっているのです。

ゲイリーはもう手鏡を見ることはありませんし、2人を隔てる窓ももうそこにはありません。

自分ではなく誰かを中心に世界が回り始めることを恋と呼ぶのであれば、『リコリスピザ』のラストシーンは出会いの場面と呼応することで、視覚的に「恋」の何たるかを描写したと言えるでしょう。

こうした演出の見事さが、らしくない題材に、ポールトーマスアンダーソン監督らしさを感じずにはいられないポイントなのかもしれません。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『リコリスピザ』についてお話してきました。

ナガ
らしくない題材で、ここまでらしさを全開にできるのはすごいですね…。

ポールトーマスアンダーソン監督作品をずっと追いかけてきましたが、『リコリスピザ』は、彼の物語の多くに共通するコアの部分を受け継ぎつつも、青春映画として抜群の仕上がりという驚くべき作品になっていました。

ラブストーリーとして見ると、かなり歪なので、王道を期待している人にとっては少し期待外れなのかもしれませんが、その「歪さ」がファンにとっては「らしさ」であり、味わい深いのです。

ぜひ、監督やモデルとなったゲーリー・ゴーツマンが青春時代を過ごした、かつてのアメリカの空気を映画館で肺いっぱいに吸い込んできてくださいね。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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