【感想・考察】映画「ソニータ」 ドキュメンタリー映画のタブーとは?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

少し前のことになりますが、UNHCRが主催した難民映画祭というイベントに参加させていただきました。

このイベントは難民に関連する映画を上映し、現在の難民の状況というものを1人でも多くの方に知ってもらいたいという企画で、映画自体は無料で見ることができました。

会場では募金やマンスリーでの支援の申し込みを受け付けていて、映画を見た方がそんな世界の状況に何かを感じ取って、支援に協力する姿が見られました。

私もマンスリーでの支援までの金銭的余裕が無いので、映画代くらいのわずかな金額ではありますが、会場の募金箱に投じさせていただきました。

まず、このような素晴らしい企画が実現されたことに感謝したいと思いました。

今回はそんな難民映画祭の中でも一際印象に残った「ソニータ」という作品を紹介したいと思います。

予告編


概要

ここから本題に移るわけですが、私が今回難民映画祭で鑑賞したのは、「ソニータ」というドキュメンタリー映画作品です。


By United People 映画「ソニータ」より引用

この作品は、アフガニスタン難民となりイランで暮らす少女ソニータの物語です。彼女はイランのテヘランで学校に通う傍で、ラップミュージシャンになるための活動を続けていました。しかし、イランで女性が人前で歌うことは禁じられているのです。

また故郷のアフガニスタンに暮らす母親からは兄の結婚資金のために、手付金と引き換えに結婚を強制されます。そんな2つの苦しみを抱えながらも、夢に邁進するソニータの姿を生き生きと描き出したドキュメンタリー映画となっていました。

本作品はまだ日本では未公開で、2017年の秋頃公開の運びとなる模様です。






ドキュメンタリー映画の禁じ手??

そして、私が今回考察したいのは、この作品がドキュメンタリー映画のタブーを破っているのではないか?ということについてです。

それは、この作品に登場するあるシーンに関してです。

本作品の中盤にソニータは母親にアフガニスタンに戻って結婚するよう強制されます。そのために母親はイランにやってきて無理矢理にソニータを連れて帰ろうとするわけです。母親はお金をいくらか用意すれば、ソニータを連れて帰るのを猶予するとテヘランの学校に提案します。その額は学校に払える金額ではありませんでした。

そして監督をはじめとするスタッフたちが学校とそして母親と相談することになります。その結果、映画製作側が母親にその額を支払い、ソニータに半年の猶予を与えることが決定したのです。

本作品の監督を務めたロクサラ・ガエム・マガミ監督はこの作品の冒頭でドキュメンタリー映画に対する自分の考えを述べていました。

 それは、ドキュメンタリー映画において監督をはじめとする映画製作側が、その撮影対象となる人物の人生に影響を与えることがあってはならないということです。

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By United People 映画「ソニータ」予告編より引用

しかし、彼女は同作品中で、そのタブーを破ることになるわけです。ソニータは監督がいなければ、猶予されることなく、母親に連れ帰られて、結婚する運命にあったでしょう。それを監督が金銭を支払ったことで変えてしまったのです。

確かにソニータがアフガニスタンに連れ帰られてしまったら、このドキュメンタリー映画の製作が滞ってしまう、いや中止になってしまいます。それを避けるためだったのが最大の理由だったのでしょう。

しかし、その決断はドキュメンタリー映画を撮影する者の立場として果たして正しいものだったのでしょうか?

私は以前に森達也さんというジャーナリストであり映画監督である方のドキュメンタリー映画に関する意見を読ませていただきました。森達也さんはオウム関連の題材を扱った「A」や「A2」、佐村河内守さんを扱った「FAKE」といったドキュメンタリー映画の監督をされた方です。

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特に印象に残ったのは次の一節です。

 あるがままを撮っても作品にはならないし、あるがままを撮ることなど実質的には不可能だ。カメラは必ず現実に干渉する。被写体に影響を与える。
(DIAMONDオンライン:ドキュメンタリストが守るべき最後のルール 森達也 より)

つまり、監視カメラや隠しカメラで撮影したものでない限り、撮影者が被撮影者に影響を与えないことなどありえないということです。

私は昨年、「みんなの学校」という小学校教育の現場を捉えたドキュメンタリー映画を鑑賞しました。確かにカメラの存在を感じさせない映像作品に仕上がっていましたが、あれが100%ありのままの学校教育現場か?と言われたらそれは否だと思います。

私は小学校教育現場に関わる機会があったのですが、その時に体感した空気感とこのドキュメンタリー映画で体感したものとではやはり異なっています。子供といえど、カメラの影響を無意識に受けていることは間違いないのです。

 ありのままを撮影したつもりでも、ドキュメンタリー映画が映し出すのは、現実ではなく、撮影者が切り取った「現実」にすぎないということです。

ドキュメンタリー映画が「映画」と定義される所以もおそらくここにあります。

撮影されたのは、現実を切り取って作り出した「現実」という創作物なのです。

それゆえにその被撮影者に撮影者が鑑賞することもあっても良いのではないだろうか?と私は思いました。

撮影者も人間であり、被撮影者に何か感じ取るものがあるかもしれません。それゆえに撮影者が個人的な決断や感情から、そのカメラに映り込むのであれば、それも間違いなく現実なのです。

 そしてその決断に撮影者と被撮影者の間に何らかの反応を引き起こしたのなら、それはドキュメンタリー映画が映し出す「現実」となりうるのです。

自分が映し出したいものを映すという本質的な部分においてはドキュメンタリー映画も一般的に映画と呼ばれる映画も何ら変わりないということです。

 ただドキュメンタリー映画においては、撮影者が現場に介入することができる、許されているのです。

森達也さんの「FAKE」というドキュメンタリー映画作品はまさに彼が被撮影者に干渉することで生み出された、彼の思想を反映する「現実」を映し出した作品だったのです。

では、話を「ソニータ」に戻します。ロクサラ・ガエム・マガミ監督がソニータという少女のために金銭を支払いました。

それは、おそらく監督としての決断ではなく、彼女の個人的な決断であったのだと私は考えています。

 この瞬間に監督は撮影者でありながら、被撮影者にもなったのです。

つまりこの瞬間に「ソニータ」という作品はソニータとそしてロクサラ・ガエム・マガミという2人の女性の物語へと変貌したわけです。

私は森達也さんが出した結論に非常に共感しています。

 それは、ドキュメンタリー映画にルールやタブーなど存在しないということです。

撮影者が被撮影者に介入して、作品を被撮影者を変質させることは、ドキュメンタリー映画のタブーなどではなく、むしろ特権と捉えるべきなのではないでしょうか?

ドキュメンタリー映画とは、現実のありのままを楽しむものではないのです。撮影者が自分の思想を反映する切り取った創作物としての「現実」を楽しむためのものであり、撮影者が被撮影者ともなりうる現場から生まれる予想を超える化学反応を楽しむためのものなのです。

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By United People 映画「ソニータ」予告編より引用

こう考えてみると、ある意味で「ソニータ」という作品はドキュメンタリー映画の原初的な在り方を体現した作品なのかもしれません。

まとめ

映画「ソニータ」は2017年10月に日本公開となるそうです。この記事で興味を持った方は、ぜひこの作品をご覧ください。

また、アフガニスタン難民の現状やソニータというシンガーについて知るとともに、ドキュメンタリー映画の在り方について考えてみて欲しいと思います。




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2 件のコメント

  • Twitterでもお世話になっておりますm(._.)m
    最近学校の現代文の授業で、メディアのドキュメンタリー番組についての作品を読みました。その作品の中で取り上げられてたのは、クルーが先住民を追った中での話でした。その先住民は雨の少ない地域に住んでいるため、神聖な雨乞いの儀式を行うらしいのですが、クルーが訪れた際には、珍しく儀式をする前に雨が降っていたそうです。クルーは困った中で、先住民達に雨は降っているが儀式をやって欲しいとお願いしてました。もちろんブログの通りここまではいいのですが、ここでクルーが行ったのはその行為を切り取り、過程を映し出さないというものです。テレビや映画といったメディアというものは、特にドキュメンタリーものであるならば、いけないのは介入ではなく、それを映し出さないという行為。その行為は我々に対して間違った考えを植え付けてしまいます。まだ我々に収まるならば許せるものですが、メディアに権力が加わった時に、プロパガンダなども行えてしまいます。長くなりましたが、授業での一件とナガさんのブログを読ませていただいて、自分の中にひとつの素晴らしいものが出来ました。公開した際には是非鑑賞したいと思います。

  • atsukiさんいつもありがとうございます。
    非常に興味深いコメントでした。私も過程を隠すという行為はドキュメンタリー映画に許容された範囲外の不正と考えます。今回引用させていただいた森達也さんの記事にそれに関することが書かれていたのが印象的でした。ドキュメンタリー映画というものはゴルフに似ている。ゴルフというものは大会などでない限りは自己申告の競技なんですね。だから申告次第で不正ができてしまう。でも果たしてそれは面白いのか?という疑問を彼は投げかけています。震災のドキュメンタリーでヤラセや捏造、隠蔽などの不正が最近多く取りざたされましたが、そうまでして撮ったものにドキュメンタリーとしての価値があるのでしょうか?ドキュメンタリー映画において撮影者が被撮影者に介入することがタブーだという勘違いが蔓延っているせいで、そういった不正を不正とも思わずやっている人がいる。むしろその介入こそがドキュメンタリーの本質だということがもっと重要視されなければならないのだと僕は思いました。「ソニータ」という映画はその点にすごく正直でした。それゆえにドキュメンタリー映画の正しい在り方を体現しているようにも取れました。

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