みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『キャラクター』についてお話していこうと思います。
ポール・オースターの『幽霊たち』という小説を読んで以来、こういう主人公が犯人ないし悪役に対峙していく中で、相手の中に自分を見出していく物語にゾッコンな当ブログ管理人。
映画『キャラクター』は、邦画では珍しいオリジナル脚本のサスペンス映画であり、上記のような構造を内包しつつ、さらに創作者と被創作者のメタな視点をも持ち込んだ作品と言うことで前情報の時点で期待値が爆上がりしておりました。
少し話が変わりますが、この映画、公開前からノベライズ版なるものが発売されております。
このノベライズについて、「映画とは異なる結末」と表紙に明記されており、加えて帯のコメントには著者の長崎尚志さんのこんなコメントが書かれていました。
この作品は映画『キャラクター』の何稿目かのシナリオをもとに、小説にしたものです。したがって登場人物のイメージはそのままですが、後半からラストにかけてのストーリーは大幅に異なります。
(長崎尚志『キャラクター』帯より引用)
ここまで書いているわけですから、ノベライズと映画版は全く別物と思って問題ないのかもしれませんが、個人的に1つ厭な前例があります。
2021年2月に『哀愁しんでれら』という映画が公開されたのですが、この映画も公開前からノベライズを「もう1人のしんでれら」というアナザーストーリー的な位置づけで発売していました。
ただ、これが結構曲者でした。というのも、アナザーストーリーを謳っておきながら、このノベライズは映画版と全く同じプロットでキャラクター名を変えただけみたいな内容だったんですよ。
それで、映画版を見るときに、楽しみが半減してしまった苦い記憶があります。
この経験もあって、鑑賞前に読むかどうか迷いに迷ったのですが、脚本的に途中で没になったものと最終的に採用されたものを比べて、どう物語がブラッシュアップされていったのか?という観点でも楽しみたいなと思い、読むことを決断しました。
今回の記事では、まずはノベライズ版についての解説や考察を書かせていただきまして、映画が公開されたら、そちらと比較しながらの論考も加えていけたらと考えています。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『キャラクター』
あらすじ
漫画家としてデビューすることを夢見る青年、山城圭吾はいくつもの出版社に作品を持ち込むが、「絵は良いが、キャラクターが弱い」と言われ続け、万年アシスタントの立場に甘んじていた。
ある日、彼は背景作画の一環で、「誰が見ても幸せそうな家」をスケッチしてきて欲しいと依頼される。
山城は、近所の丘の上にある豪華な作りの一軒家に目をつけ、スケッチを始めるのだが、その家は異様な雰囲気を放っていた。
というのも、家の中は真っ暗であるにも関わらず、大音量でオペラが流れており、それが家の外にまで漏れ聞こえていたのだ。
ドアノブを観察しようと家に近づいた山城。すると突然、玄関のドアが開き暗闇の中に人影が見えた。さらにその人影や中に入れとでも言いたげに手招きをしていた。
山城は、その手招きに誘われるようにして、家の中へと足を踏み入れる。
家の中に入った彼は、そこで信じられない光景を目にする。何とその家で暮らしていた家族4人がダイニングで惨殺されていたのだ。
そしてそのダイニングの一角に座っている先ほど手招きをしていた男は、山城に告げる。
「ぼくの顔、見た?見ちゃったよね。」
凄惨な光景を目撃した山城は精神的にショックを受けるが、その男の不思議な魅力に取りつかれ、彼をモデルにした殺人鬼が登場する『34』という漫画を書き上げる。
すると、その漫画が大受けし、連載も決まり、大ヒット。山城は万年アシスタントから一転して人気マンガ家になるのだった。
しかし、彼のマンガの人気の高まりに伴って、奇妙なニュースがメディアで報じられるようになる。
何と、『34』で描かれた事件の状況、対象、凶器、トリックが踏襲された事件が現実に起き始めたのだ…。
スタッフ・キャスト
- 監督:永井聡
- 原案:長崎尚志
- 脚本:長崎尚志 川原杏奈 永井聡
- 劇中漫画:江野スミ 古屋兎丸
- 撮影:近藤哲也
- 照明:溝口知
- 編集:二宮卓
- 音楽:小島裕規
- 主題歌:ACAね(ずっと真夜中でいいのに。)×Rin音 prod by Yaffle
本作『キャラクター』の監督を務めた永井聡監督は、『恋は雨上がりのように』や『帝一の國』などのマンガの実写版で知られています。
『恋は雨上がりのように』や『世界から猫が消えたなら』などでは、瑞々しい映像と魅力的に映し出されたキャラクターたちがとても印象に残りました。
非常に豊かで力強い「画」を撮れる監督なので、個人的にはノベライズ版を読みながら、このシーン永井監督ならどう撮るんだろうか…と妄想しながらニヤニヤが止まりませんでしたね。
そして、原案・脚本を担当し、ノベライズ版も執筆した長崎尚志さんは、浦沢直樹さんの『20世紀少年』シリーズのプロットの共同考案者としても有名な漫画原作者です。
今回の『キャラクター』の主人公である山城はマンガ家という設定ですが、その着想を得たのはご自身の経験ということなのかもしれませんね。
撮影・照明には、全編にわたってそのダークな世界観を映像で表現した『さんかく窓の外側は夜』で知られる近藤哲也さんと溝口知さんのタッグが起用されています。
全体をモノトーン基調にした画作りが特長であり、その中で絶妙なショットとライティングが印象的で、映像作品として非常に優れていましたので、『キャラクター』にも期待してしまいますね。
編集にはこれまでの永井監督作品を支えてきた二宮卓さん、劇伴音楽には『響』などで知られる小島裕規さんがクレジットされました。
- 山城圭吾:菅田将暉
- 両角:Fukase
- 川瀬夏美:高畑充希
- 真壁孝太:中村獅童
- 清田俊介:小栗旬
- 大村誠:中尾明慶
当ブログ管理人は、SEKAI NO OWARIがまだ「世界の終わり」だった頃にライブに行ったりもしていたんですが、ボーカルの深瀬さんは過去に精神病で入院していたことがあったようです。
NYに留学するんですけど、まあちょっと、精神的な不安定もあったのか、パニックになって帰ってきちゃって。そこで精神病院に入院して……もう学歴も、得意なことも何にもない、そんな状態で自分に残ったものは、病気と、強い薬と、出られない――閉鎖された病棟っていう。
そういった辛い経験をしてきた彼だからこそ、世界の終わりの初期の楽曲はかなりダークな世界観を持っていて、そういう雰囲気に私も惹かれたんですよね。
特に彼は柔らかい表情を見せる一方で、目の奥に闇があるというか、ミステリアスな得体のしれない何かが見え隠れしていて、その空気感が今回の両角という役にバシッとハマるんじゃないかな?と思います。
一方で、主人公役には幅広い役どころをこなせる菅田将暉さん、その恋人役に高畑充希さんが起用されました。
また事件を追う刑事役には、中村獅童さんや小栗旬さんらがクレジットされており、非常に豪華な顔ぶれですね。
『キャラクター』ノベライズ・コミカライズ・映画の違いは?(ネタバレ注意)
実は、この『キャラクター』は3つの媒体で物語が展開されています。
- ノベライズ
- コミカライズ
- 映画
まずは、その3つの結末をそれぞれ整理していくのですが、この3つの大きな違いは中盤に「誰が辺見に殺されるか?」なんですよ。
そのある人物の死をきっかけに物語が分岐していき、異なる結末に辿り着くように作られているのです。
ノベライズと映画を比較して、映画版の結末の意味、その結末の向こう側に待つものは何なのかについて自分なりの視点で動画でも考察しております。
ノベライズ版:一応ハッピーエンドかな?
- 中盤までの大きな違いは山城と夏美が結婚しているどころか、むしろ別れている点(夏美は妊娠している)
- 中盤で辺見に殺されるのは「真壁」だった
- クライマックスの山城VS両角の現場に駆けつけるのは「清田」
ノベライズでは、中盤で先輩刑事である真壁が辺見によって殺害されます。
これに伴って、必然的にクライマックスで山城の自宅に駆けつけるのは、清田ということになりますよね。
(C)2021映画「キャラクター」製作委員会
そこで1つ面白いのが、清田の山城と両角に対する対応なんです。
清田は何と現場で両角に魅せられてしまい、拳銃を発砲して彼を射殺するんですよ。
しかし、この時に両角の中にあったカリスマ殺人鬼の「キャラクター」が清田に伝染してしまいました。
後に逮捕された辺見が取り調べの際にこんなことを言っています。
「殺人てのはね、選ばれた人間には伝染病みたいに移るんですよ。」
(長崎尚志『キャラクター』より引用)
ノベライズのラストでは、山城は新作の連載をスタートさせ、夏美とよりを戻すなど幸せな結末を迎えています。
その一方で、今度は清田が両角から受け継いだ「キャラクター」に戸惑い、自分の中の暴力的な衝動を掻き立てられているのです。
そう考えると、ノベライズは一見ハッピーエンドではあるのですが、一抹の不穏さを残していると言えるのではないでしょうか。
コミカライズ:おそらくこれが1番衝撃の展開
- 中盤までは映画と全く同じ展開
- 中盤で辺見に殺されるのは「両角」だった(両角から主役を奪い返そうとした)
- クライマックスで山城と対峙するのは辺見
- クライマックスの山城VS辺見の現場に駆けつけるのは「清田」
というのも、中盤で清田や真壁といった刑事組ではなくて、両角本人が殺害されてしまうという展開なんですよ。
辺見は16歳の時に4人家族を殺害する事件を起こしていて、両角は元々辺見のファンだったという設定が映画とコミカライズでは明かされています。
しかし、両角が徐々に辺見を侵食していき、辺見はその「カリスマ殺人鬼」というキャラクターを両角に奪われてしまいます。
何者でもなくなってしまった辺見、そして逆にカリスマ殺人鬼となった両角。
前者は、何者でもなくなってしまったが故に、逮捕され事情聴取を受けても一貫性のない言動を繰り返しています。
そんな辺見が失った「キャラクター」を取り戻そうとして、「両角」を殺害するわけですよ。
当然、クライマックスで山城と対峙するのは、両角ではなくて、辺見ということになるわけですが、こうなるとそもそも作品のテーマと言うか軸がブレブレですよね。
創作者と彼の描いた創作物としてのキャラクターが対峙し、反転するというのが本作の最も重要な点であるわけですから、辺見が山城と対峙するのでは意味がありません。
ちなみにこのコミカライズ版では、両角のキャラクターは辺見の中に戻っていくので、清田や山城に受け継がれることはありません。
そのため、3つの媒体の中でも最もストレートなハッピーエンドだったと思います。
映画:最も不安で示唆的な結末に
- 中盤まではコミカライズと全く同じ展開
- 中盤で辺見に殺されるのは「清田」だった
- クライマックスの山城VS辺見の現場に駆けつけるのは「真壁」
やはりこうした映画で有名な俳優が起用されていると、彼は最後まで生き残るだろうなんて無意識の勘が働いてしまうものですが、映画『キャラクター』はそこを逆手に取ってきましたね。
中盤で辺見によって殺害されるのは、後輩刑事の清田でした。ですので、クライマックスで山城の下に駆けつける刑事は「真壁」ということになります。
では、映画のラストで両角のキャラクターが伝染したのは、一体誰だったのか?
それは言うまでもなく、主人公の山城です。
彼は、殺害現場を目撃し、そこで両角というカリスマ殺人鬼と目が合い、彼に魅せられてしまいました。
映画の冒頭にも山城は「いい人」すぎて悪役を描くことができないと言われていました。
そのため彼は魅力的な両角のキャラクターを取り込むことで、『34』という漫画を完成させます。
『34』という作品において、山城が創作者であり、殺人鬼ダガーが創作物であるという立場は揺らぎませんし、それを模倣している両角もまた山城に従属する存在です。
しかし、物語のクライマックスで、『34』内でダガーがとったのとは異なる行動を両角が現実世界でとることによって、その関係が崩壊します。
それを可視化したのが、両角が山城の書斎へと上がりこみ、彼が普段仕事をしている椅子に腰かけたシーンでした。
(C)2021映画「キャラクター」製作委員会
まさしく、創作する側とされる側が反転したのです。
山城と両角の戦いは、刑事の真壁の介入もあり収束するのですが、その結末が『34』の最後の1コマの「反転」になっていた点に気づきましたか?
つまり、『34』における「漫画家」の立場にいるのが両角、そして「殺人鬼ダガー」の立場にいるのが山城という具合に2人の立場が入れ替わっています。
なぜ、入れ替わったのか?
それは、先ほども言いましたが、両角のキャラクターが山城に伝染したからです。
「伝染」についてもう少し詳しくお話しておきますね。
おそらく今作において最初の「カリスマ殺人鬼」はのキャラクターを当初持っていたのは、殺人鬼ダガー両角ではなく、彼のアシスタント辺見だったのでしょう。
辺見は16歳の時に4人家族を殺害する事件を起こしていて両角は元々辺見のファンでした。しかし、両角が徐々に辺見を侵食していき、辺見はその「カリスマ殺人鬼」というキャラクターを両角に奪われてしまいます。
何者でもなくなってしまった辺見、
そして逆にカリスマ殺人鬼となった両角。
彼はいつしか自分のファンだった両角にそのキャラクターを奪われてしまったのです。
劇中の辺見は何につけても記憶がないと言い、発言にも一貫性がありませんが、それは彼が何者でもないが故の言動なのでしょう。
そして、こうした一連の辺見の言動は、ラストの裁判のシーンで「自分は誰だ?」と語る両角に重なるものがあります。
つまり、今度は両角がキャラクターを山城に引き渡す形で失ってしまったんですよね。両角もまた辺見のように何者でもなくなってしまったのです。
このように『キャラクター』の映画の結末が描いたのは、「キャラクターの伝染」だったのだと思います。
映画版の結末の先にあるものとは?
映画のラストに、家具屋にいる夏美と双子の赤ん坊の背後に嫌な視線を感じさせるカットがインサートされていました。
直前に「辺見がまだ捜索中である」と刑事たちが話していたことから考えると、この視線の主は辺見なのだと思います。
(C)2021映画「キャラクター」製作委員会
仮に、辺見の魔の手凶刃が夏美に迫り、彼女とそして双子の赤ん坊を殺害してしまったとしたら、それは単に殺人事件として悲劇なだけではなく、もう一つの意味で悲劇だと思いませんか?
なぜなら、それは山城と両角がピタリと重なってしまうことを意味するからです。
両角は、過去に自分の属していた4人家族を主体とする宗教組織を壊されたわけですが、その宗教組織は彼にとっての「家族」だったので、この出来事は彼が自分の「家族」を壊されてしまったと読み替えられます。
つまり、両角の「キャラクター」を受け継いだ山城が、自分の家族を壊されるという出来事を経験してしまうと、それこそ両角と全く同じ状況に置かれることになるわけですよ。
そうなると、彼が正真正銘の次なる「ダガー」になるという未来が待っています。
しかし、映画版はそんな暗い未来に一抹の希望を残してくれていました。
それは、山城が病室の脇に置かれた紙に描いた清田の似顔絵です。
劇中で先輩刑事真壁が、後輩清田について映画の中で、清田について、真壁が「元暴力団でありながら、今は刑事をやっている」といっていました。
つまり、清田は、悪を内に秘めながらもそれを抑え込み、善なる行いを全うする人間なんですよね。
山城が「清田」のように、悪を内に秘めながらも善なる道を行くのか。
それとも両角の「キャラクター」に浸食されて、悪に身を落とすのか。
映画『キャラクター』は、まさしくこの分岐点で幕切れたのだと僕は思います。
私は彼が劇中で言っていたあの言葉を信じています。
「マンガでは悪が滅んで善が勝つ」
『キャラクター』解説・考察(ネタバレあり)
創作者と創作物の関係について
(C)2021映画「キャラクター」製作委員会
まず、今回の『キャラクター』という作品は創作者と創作物の関係性に言及した作品でもあります。
劇中にこんな言葉がありました。
「ある有名な先生が言ってた。自分のキャラクターが勝手に動き出すらしい。紙の上の登場人物が作家を操るようになる。」
(長崎尚志『キャラクター』より引用)
つまり、物語ないしキャラクターが生まれる瞬間というものを、「創作者が描く」のか、それとも「創作者が(物語やキャラクターに)描かされる」のか、そのどちらの視点で捉えるのか?という話です。
本作の主人公である山城は、雑誌の編集者や先輩のマンガ家から「良い人過ぎて魅力的な悪役を作れない」と指摘されていました。
つまり、あまり不満の無い人生をそれなりに送ってきた山城には、彼自身の中に「悪人」がいないから悪役を創作することができないのだという視点ですね。
そんな中で、彼はひょんなことから家族4人が惨殺された光景を目撃し、さらにその現場に居合わせたサイコキラーの両角に邂逅します。
この出来事がきっかけで、山城は『34』という作品の連載をスタートさせ、そこに描かれたダガーという魅力的な殺人鬼でもって日本中の読者を魅了しました。
ただ、ここで『34』で描かれているダガーの行動が、現実の世界で両角の起こす殺人事件に一致するという奇妙な出来事が起き始めます。
そもそも『34』は、山城が自身の目撃した一家4人惨殺事件に着想を得て描き始めたものです。その点で、彼は両角ないしダガーにこの作品を「描かされて」いると言えますよね。
しかし、その次に起きる事件は、山城が自身のアイデアで描いたエピソードを両角が現実世界で再現するという関係性になっています。
つまり、この場合は山城の描いたダガーが両角に先行しているわけですから、山城が両角ないしダガーを「描く」側にいるわけです。
しかし、その事件の中で登場した刺身用の包丁を巡って、山城は両角から意見をもらい、それをマンガの中に持ち込みました。再び彼は「描かされた」のです。
このように、本作『キャラクター』は、山城と両角(ないしダガー)による、「描く」「描かせる」という行為における主導権争いの様相を描いています。
ただ、物語の中盤くらいまでは、基本的に両角(ないしダガー)が比較的、山城に従順な姿勢を見せているため、どちらかと言うと山城の側に主導権が握られているようにも見えます。
彼が描いた3つ目の事件のエピソードで、ダガーが三度4人家族を狙うが、娘が1人生き残ってしまうという展開を描くと、両角は小言を言いながらもそれを模倣しました。
ここからノベライズ版の方のクライマックスでは、両角が山城のコントロールの外に出て暴走するという展開へと突き進んで行きました。
山城の姉の恋人になって、彼の家族に介入しようとするなどしたことで、彼は恐ろしくなり、『34』という作品の連載を休止する決断をします。
しかし、ここで両角は山城に宣言しました。
もし、連載を再開させなかったとしても、自分は君のコントロールの外で、同様の事件を起こし続けていくと。
それを知った山城は、特別読み切り連載として、警察の協力も得ながら、両角に自分の家族を狙わせるように誘導する内容の物語を描きます。
両角ないしダガーが山城に「描かれている」キャラクターでいてくれた頃なら、その試みは上手く行ったかもしれません。
しかし、もはやダガーないし両角は、彼の支配の外にいます。
それ故に、山城や警察の目論見は外れ、予想外の出来事が起き、物語のフィナーレへと向かって行きました。
まさしく「自分のキャラクターが勝手に動き出す」という現象が起きたわけですが、ノベライズ版のクライマックスでは、まさしく「紙の上の登場人物が作家を操る」という現象が起きそうになります。
それは、「狂気の伝染」とも言うべきでしょうか。
次の章で詳しくお話していきますね。
伝染する狂気、自分の中の衝動
(C)2021映画「キャラクター」製作委員会
創作者が物語を作るときに、その筋書きに自分の人生や経験を投影することがあるように、キャラクターに自分の人格を分け与えることは珍しくありません。
今作の中で、山城の先輩にあたるマンガ家や編集者たちが言っていた、自分の中に「悪人」がいない人間には魅力的な悪人を描くことはできないという理論は、まさしく上記のようなことが創作活動においては起きるからこその言説でしょう。
有名どころで例を挙げるならば、太宰治の遺書的な位置づけの作品とも言える『人間失格』には、葉蔵という主人公がいます。彼の辿る物語と太宰自身が辿った人生には共通点が少なからず見られます。
ただ、ここで考えたいのは、先ほどの「卵が先か鶏が先か」の問題です。
葉蔵が劇中で自殺未遂に及ぶ描写があります。現実世界で太宰治自身も自殺未遂を何度も繰り返し、最終的には心中してしまいました。
ここで、この出来事は本来どちらが先んじていたのかという問いが生じますよね。
太宰治自身が葉蔵というキャラクターの有する狂気に引っ張られていき、最終的に『人間失格』を書かされたのか。それとも太宰治自身が自分の人格を分け与える形で葉蔵を作り上げたのか。
この問いに答えを難しいのですが、『キャラクター』という作品はその両方があり得るという視点で描かれていたような気がします。
そもそも周囲の人から「いい人」と評されている山城にダガーというサイコキラーが自然と出て来ただろうかと聞かれると、それは難しいでしょう。
ですので、やはり冒頭の殺人現場で「両角=ダガー」に出会ったことで、彼が山城にキャラクターを描かせたと見るのが妥当ですよね。
しかし、同時に山城自身の中にも「両角=ダガー」に魅せられる素質があったことは否定できません。彼は『34』の連載が始まってから、人が変わったようだと周囲の人から評され、恋人にも距離を置かれました。
つまり、「ダガー」は元々彼の中に潜在的には秘められた人格だったのであり、それが両角との出会いがトリガーとなって引き出されたのではないかという見方もできるわけです。
とりわけノベライズ版のクライマックスでは、山城が両角の中に自分自身を見出すような展開が描かれます。
「これは、ぼくの顔だ」彼はささやくように言った。「ぼくが彼で、彼がぼくだ。」
(長崎尚志『キャラクター』より引用)
つまり、創作者とキャラクターが重なり合い、さらにそのcharacterを奪い合うんですよ。
その光景は、最初から山城の中には「いい人」と「ダガー」が混在していて、その2つの人格が主導権を争っているかのようですよね。
ノベライズ版には、章と章の間で「影」が山城に迫って来る描写がありましたが、この「影」というのが、彼の中に潜在的に存在していた「ダガー」的な人格なのかもしれません。
結果的に、山城は両角に取り込まれることはありませんでした。
しかし、両角の狂気は、彼を殺害した刑事の清田の方に「伝染」してしまいます。
つまり、今作において両角という人物は何だったのかを考えてみると、それは自分の中に潜んでいるcharacterを引き出す「トリガー」だったんだと思います。
その不思議な魅力が、自分の中に潜む狂気を引きずり出し、表に引っ張り出してきてしまう。
ノベライズ版のラストで、山城は自分の家族を題材にしたかのような仮面家族のホームドラマを新連載企画として編集者にぶつけ、見事採用されました。
これはもちろん彼自身の家族から着想を得たものでしょう。
どんなに外面が「いい人」に見えても、その人の中にも「悪人」は住んでいて、問題はそれを引き出す「トリガー」に出会うかどうかなんじゃないかなと思いました。
きっと、アシスタントだった頃の山城は、自分の家族ないし両親が奇妙な仮面夫婦のような関係にあることについて、あまりネガティブな感情を持っていなかった、というよりどうでも良いと思っていたのでしょう。
しかし、表に出さなかっただけで、そんな家族に対する屈折した感情は確かに彼の中に存在していたんです。
そして、それを両角との出会いが引き出してしまった。
だからこそ、彼は「悪人」を描けるようになったわけです。
人は誰しもが他人の中に自分を見ると言いますよね。でも不思議なことに、他人の中に見出す自分は決まってネガティブなイメージだったりします。
「同族嫌悪」という言葉は、まさしくそうした事象から生まれた言葉でしょう。
他人は、自分の中の「悪」や「負」のcharacterを表出させる鏡なのです。
そして、鏡は自分自身にそのcharacterの存在を自覚させ、伝染させてきます。
ダガーが山城や清田に乗り移ったかのように…。
そんな自分の中に秘められた衝動が暴かれ、表に引きずり出されていく過程を「他人」というメディアを使って、「伝染」という形で見せたのが『キャラクター』という作品なのです。
創作物と「模倣犯」について
(C)2021映画「キャラクター」製作委員会
今作『キャラクター』を鑑賞しながら、どうしても考えてしまうのは、創作物とその模倣犯の関係性かもしれません。
どちらかと言うと、サブプロット的な扱いですので、明確な描写があるわけではないのですが、主人公の山城は、自身の描いた『34』というマンガの劇中の事件と類似の事件が現実で起きるようになり、世間からの風当たりが強くなっていきました。
つまり、こうした事件が起きたのは、山城があんな創作物を作ったからであり、だからこそその創作物は責任を追及されるべきであるという風潮が高まったわけです。
過去に、埼玉県でとある創作物の模倣犯が出て来た際に、警察が漫画家を訪ね、作品内容が模倣されないような配慮と、作中の行為が犯罪に当たると注意喚起を促すことなどを要請した一件が大きな話題となりました。
要はこれが「表現の自由」の侵害ではないか?という見方で、創作物に対する干渉に冷ややかな意見が持ち上がったのです。
『キャラクター』でも主人公の山城は直接的に作品を中止しろと言われるわけではないですし、担当の編集者たちも彼を必死に庇い、連載を続けさせようとします。
しかし、自宅に警察がやって来たことによって、自分が事件に関係しているという自責の念が強くなり、連載を無期限で救済させてほしいと頼み込むようになったのです。
そんな創作物と模倣犯の関係性について、『キャラクター』という作品はどういう視座を取ったのか。
それは、多くの人間の中に、そうした「模倣」へ駆り立てられる衝動のようなものが先天的に内包されているが、それを実行に移さないように「線引き」が出来ているという見立てだったのではないでしょうか。
その描写があまりにもグロテスクすぎると世界中で大問題となった『ムカデ人間2』という映画があります。
この作品は、博士がムカデ人間を作る様に惹かれた1人の男がそれを「模倣」しようとする様を描いているのですが、ラストはいわゆる「夢オチ」なんですよね。
つまり、1人の男がムカデ人間を作ることを「模倣」しようとイメージをしてみるのですが、イメージをすればするほどに、そんなことは自分にはできないと残虐性との「線引き」をより明確にしていくのです。
『キャラクター』では、終盤に両角という男と、山城や刑事の清田らが対峙し、彼の狂気に魅せられて、殺人衝動を駆り立てられていきます。
それでも、山城や清田は何とか自分の中で折り合いをつけ、線を引こうとしていますし、自分にはその線を超えることはできないのだと実感していたようにも見えました。
結局のところ、「模倣犯」になるのは簡単なことではなく、たいていの場合は、模倣しようとしたところで、自分にはそんなことはできないと足を踏み止まらせることができるはずです。
私たちの社会で「模倣犯」が日常茶飯事のように起きていたら、この理論は成立しませんが、めったに起きない以上、やはりその「線引き」は多くの人が創作物に触れる過程で何気なくやっていることなのでしょう。
一方で、その「線引き」ができない人間ないし「模倣」することに躊躇いの無い人間は、結局のところそれは「創作物」があろうがなかろうが、元から「悪」を自分の中に飼っている人間なのだと思います。
『ムカデ人間』のハイター博士とそれを模倣しようとした『ムカデ人間2』の主人公に途方もない距離があったように、事件を起こしてしまう人間と起こさない人間の間には、途方もない距離があるのです。
『キャラクター』の終盤の両角と山城の対峙は、そんな「距離」を感じさせてくれましたし、普通の人間が両角やダガーに憧れたとて、彼になることはできないという点を明確にしてくれたような気がしました。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『キャラクター』についてお話してきました。
創作者と創作物のコンテクストを盛り込んでいて、しかもタイトルが「キャラクター」なので、もっとメタな視点をふんだんに取り入れた特殊な構造のサスペンスを想像していました。
ただ、ノベライズ版の後半の展開は、基本的に犯人について調べて、そして追い詰めていくというサスペンスとしては極めて王道な作りだったと思います。
ですので、サスペンスとしては普通に楽しめたんですが、設定の面白さの割には、平凡なところに落ち着いてしまったなという印象は受けました。
これが、映画版の方でどう改善されているのかも気になります。
「キャラクター」というタイトルを冠しているくらいですから、もっと思い切ったメタな視点で物語を描いて欲しいなというのが、個人的な思いです。
ノベライズ版を読んで、この後半部分が映画版でどうなっているのか…非常に楽しみになりました。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。