【ネタバレ考察】『ボクたちはみんな大人になれなかった』:ボクらは「学園祭の前日」を生き続けられない

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』についてお話していこうと思います。

ナガ
燃え殻さんのデビュー作がついに映画化ですか…。

note運営のコンテンツ配信サイトであるcakesに連載されていた作品で2017年に書籍化されると著名人からも絶賛され、一気に注目を集めた作品です。

今回、この話題作の映像化に着手したのは、MVやCMの映像を数多く手がけたクリエイターの森義仁さんでした。

強烈で心に棘のように突き刺さる言葉を綴る作家の燃え殻さんと、言葉ではなく映像で語ることを生業としてきた森義仁さんが掛け合わさることでどんな化学反応を生むのか。

その点で、森義仁監督と『そこのみにて光輝く』などで知られる脚本の高田亮さんは、かんり「面白い仕掛け」を施してくれたと思います。

原作と今回の映画版における最大の違いは、記憶を巡る順番であり、主人公の意識のベクトルです。

原作小説では、最も古い出来事から順を追って、現代に向けて出来事が語られていきますが、映画ではそれをあえて崩しており、モチーフや人、出来事を辿って記憶を辿っていく連想ゲームのようなアプローチが取られています。

小説の語り口が好きだったという方は、まずこの大きな改変に戸惑うかもしれませんし、そこで拒絶反応が出てしまうかもしれません。

しかし、さらに遡ってみると、そもそもcakesの方に投稿されていた燃え殻さんの投稿時点では、時系列はバラバラになっていて、著者が思いついたものを思いつくままに綴っていったという雰囲気を感じさせます。

つまり、小説の体裁にする際に、この物語は過去から未来へと続く「時系列順」に並び変えられたと見ることができるんですね。

そして、映像作家の森義仁監督はこれを映像というメディアに落とし込むうえで、「時系列」を崩すことがベターだと判断したのでしょう。

現に、映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』におけるこの構成は、かなり効いていましたし、作品のテーマを表現するにも適していたと思います。

今回の記事では、そんな映画版が「時系列順」を壊し、異なる時間軸を行き来するようなアプローチを取ったことに着目しながら、作品を掘り下げていきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』考察(ネタバレあり)

遠い過去の輝きに満たされた現在あるいは宇宙

©2021 C&Iエンタテインメント

みなさんは夜空に輝く「星」について話すとき、こんな決まり文句を聞くことはないでしょうか。

私たちが今見ているのは、もしかすると何億光年も向こうの星から、途方もない距離と時間を超えて届いた輝きなのかもしれない。

この話を聞くたびに面白いなと思うのは、夜空の星の輝きは、その星の何億年も前の姿であり、私たちがそれを目で捉える頃には、もうその星は別の姿に変わっているかもしれないということです。

つまり、光を発した星そのものは遠い過去に消えてしまっているかもしれないのに、その輝きだけが時間を超え、距離を超えて残り続け、私たちが今見ている夜空を美しく彩っているんですよ。

そうした消えてしまった、あるいは忘れかけていた過去が、現在の私たちの世界にある種のアトリビュートのように残り続けている。こう考えたときに私たちの何気ない日常もまた宇宙であり、そこにある事物や、そこに生きる人間、起きた出来事の1つ1つは星とその輝きに似ているのではないかと考えさせられます。

そして、映画版『ボクたちはみんな大人になれなかった』は、こうした感覚をその独特の映像の構成によって巧妙に作り出した作品なのだと思いました。

燃え殻さんの小説において、主人公とその彼女であるかおりが「安全地帯」と呼称するラブホテルの一室は次のように描写されています。

どの部屋にもラッセンのジグソーパズルが額に入れて飾られていて、下手なヨーロッパ調の絵が壁全面に描かれ、トイレはレンガを模した壁紙だった。部屋にはカーテンのかかった窓が1つだけあったが、開けたことはなかった。

(新潮文庫『ボクたちはみんな大人になれなかった』燃え殻 より引用)

一方で、映画版はこの象徴的なラブホテルの一室を「宇宙」に準えたデザインに改変し、原作とは異なるものにしています。

原作では、映画の序盤に登場するスーの住むワンルームが「卑猥なプラネタリウムのよう」と表現されていたり、インドからかおりが送ってきたポストカードに夜空と星のモチーフがあしらわれていました。

こうした宇宙や星を想起させるモチーフを映画版では、作品の最も印象的な空間となるラブホテルの一室に集約し、強調したわけです。

原作を読んだだけの状態で、私はこの作品に対して「宇宙」という言葉をタグ付けすることはないと思います。しかし、映画版を見たら間違いなくこの言葉を作品に紐づけます。

それくらい映画版では「宇宙」という言葉が印象づけられるような設計になっていたのです。

「(宮沢)賢治はずっと東北の田舎町で人生の大半を過ごしたのに、銀河まで旅したんだよ。」

(新潮文庫『ボクたちはみんな大人になれなかった』燃え殻 より引用)

映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』に映し出される映像は、私たちの日常とどこまで地続きで、体験したこともないのに一度触れたような手触りが感じられるものばかりです。

しかし、そんな映像と言葉の連続によって、私たちは時折、日常の中に世界の法則のようなものを垣間見、そこに「宇宙」を感じることができます。

そして、こうした感覚を観客にもたらす上で欠かせなかったのが、実は本作の連想ゲームのように異なる時間軸の記憶を辿っていく構成だったのです。

 

在りし日の輝きと星の残骸が同居する現在

©2021 C&Iエンタテインメント

先ほども書いたように、私たちが星の輝きを見るとき、それは途方もなく遠い時間の向こうで発せられたものです。

つまり私たちの現在に存在する輝きは、本来遠い過去に存在していたものということになりますし、もしかするとその星はもう同じ姿を留めていないかもしれません。

映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』はまさしくこの感覚を映像の構成の中に持ち込んでいるのだと思いました。

例えば、主人公たちが過ごしたラブホテル1つ取ってもそうですが、このホテルがまだ健在だったころの過去の風景と、看板が壊れ、入口が封鎖されてしまった現在の風景のどちらを先に見せるのかによって、私たち観客が受ける印象はガラリと変わってきます。

過去を先に、現在を後から見せれば、観客の中では「衰退」の印象が強まりますし、その順番を入れ替えれば、過去を懐かしむような「憧憬」の印象が強まることでしょう。

これを先ほどの星の例えに還元すると、「在りし日の星の輝き=現在に同居する過去の残像」であり、「星=変わってしまった過去としての現在の実像」と定義できるかもしれません。

つまり、主人公の記憶の中にある「健在だった頃のラブホテル」のビジョンは現在に同居する過去であり、目の前に現存する「廃れたかつてラブホテルだったもの」はその輝きを辿った先にある紛れもない現在なのです。

そして、この映画は「廃れたかつてラブホテルだったもの」から「健在だった頃のラブホテル」へというベクトルで全編にわたって物語を展開していきます。

しかし、だからと言ってこれを「現在から過去へ」のベクトルであると安直に断定してしまうことは避けたいと思います。

なぜなら、ここまでも書いてきたように星の輝きとその星の残骸は、私たちの現在という軸において同居しているものだからです。

つまり、映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』は新しい記憶から古い記憶へ順番に辿っているように見えて、実はある時間軸とある時間軸を「行き来」するような作りになっているのだと思います。

例えば、冒頭に大島優子さん演じる恵と主人公の誠が別離を選ぶシーンがあります。ここから本作は2人が結婚の話を考えていた時系列的には過去の出来事にスポットを当てました。

しかし、主人公がその過去を回想する思考を働かせているのは「現在」であり、それ故にこの過去の風景は、それとは変わり果ててしまった「現在」と確かに同居しうるということになるのです。

最も印象的なのは、作品の中盤に登場する奥野瑛太さんが演じる宮嶋というヤクザ者の描写でしょうか。

主人公にとって宮嶋は、路面で転倒したときに助けてくれた恩人であり、同時にテレビでその顔を見た殺人事件の犯人であるという2つの印象しかありません。

時系列的には、前者が過去ということになるのかもしれませんが、主人公がテレビニュースで宮嶋の顔を見た瞬間に、彼の頭の中には過去のエピソードが蘇っています。

だからこそ、ニュースを見ている彼にとっての今には「宮嶋が犯罪を犯した現在」と「宮嶋がテロップを拾うのを助けてくれた過去」が同時に存在しているわけです。

このようにして、映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』は主人公の誠が夜の街を歩いているという唯一の現在軸から、それと時を同じくして彼の意識に届く「過去=星」の放った「輝き」にスポットを当てています。

人から人へ、出来事から出来事へ、ものからものへ…と連想ゲームのようにして繋がっていく数々の過去の放つ「輝き」が、物語のラストで主人公の脳裏を駆け抜けていき、そこに壊れてしまった現在の街の風景がリンクしていく演出は印象的でした。

仮に今作が物語を小説版のように時系列順に展開していたなら、こんな感覚を抱くこともなかったのではないかと思います。

なぜなら、時系列順に描くと、記憶が一続きの物語として確立されてしまい、この作品が主人公の思考を視覚化したものであるという前提が薄れてしまうからです。

だからこそ、時系列順ではなく、断片的にある時間からある時間へと、連想ゲームのように記憶を辿り、行き来するような構成が映像化を実現するうえではハマっていました。

本作の物語は、あくまでも夜の街を歩いていた主人公の身に起きたほんの数分間の出来事に過ぎず、映像のほとんどは彼の意識をかすめた膨大な過去の「輝き」にすぎません。

その中で、「星」そのものは失われてしまった、あるいは残骸になってしまったのに、その「輝き」だけが残像として在りし日の姿のまま現在に残り続け、主人公を呪い続けているという残酷な状況が描かれています。

そして、その「輝き」に満たされた空間を可視化したのが、あの宇宙をモチーフにしたラブホテルの一室です。

「在りし日の星の輝き」としての過去が作り出す「宇宙」を、森義仁さんは、時間が止まったラブホテルの一室に重ね、そこに閉じ込められている主人公の状況を演出しました。

宇宙ではなく、宇宙風のラブホテルだったというのもアイロニックで効いていました。

あの空間は、「安全地帯」という名の「虚構」なのですから。



ボクらは「学園祭の前日」を生き続けられない

©2021 C&Iエンタテインメント

本作の劇中の会話の中で、押井守監督の映画『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』が話題に上がります。

この作品が描いたのは、ラムちゃんの「この瞬間がずっと続けばいいのに」という発言がトリガーとなって、「学園祭の前日」が無限ループする物語です。

掘り下げ始めると一晩語れてしまうので、深追いはしませんが、『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』は、『うる星やつら』という作品の枠組みそのものを脱構築するような性質を持っています。

変わらないものや永遠に繰り返すものなどない。そうしたメッセージをあたるの「それは夢だよ。それは夢だ。」という台詞に込めていたのが、印象的でした。

サザエさん方式で似たような日常が永遠に続き、登場人物が成長することはなく、大人になることもない『うる星やつら』の世界観に真っ向から立ち向かった作品だったわけです。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』のタイトルにおける「大人」という言葉は、この『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』の影響を受けているように思います。

「学園祭の前日」を繰り返すことは、大人になるまでの猶予期間に永遠にとどまることを意味しており、それは大人になることから逃げ続けることを意味します。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』において、主人公は過去の放つ「輝き」に囚われたまま生きており、現在においてその輝きが失われてしまったことから目を背けて生きています。

つまり、誠もある種の「夢」の中に閉じこもっているのであり、「大人になれなかった」とは、そこから脱却することができない状態のことを指しているのです。

本作においては、そんな誠の囚われている過去の記憶を巡る旅が描かれますが、その旅路の果てに主人公が辿り着くのは、全ての始まりの場所ともいえる「ラフォーレ原宿」です。

ここで彼は、コロナ禍で誰もいない夜の風景の向こうに、かおりと初めてであった日の風景を投影しています。

彼の現在軸において2つの風景がある意味では同居していると表現することはできますが、「かおりと初めてであった日の風景」というのは、現在の彼にとってもはや実体のない「輝き」でしかなく、それに触れることは叶いません。

彼が見ている「輝き」は、過去に星が放ったものであり、今はそこに存在しない星の「輝き」です、つまり彼に見えているのは、「残像」のようなものなのです。

彼は劇中で、かおりと過ごした宇宙を模したラブホテルについて「ここだけ時間が止まっているようだ」と評していました。

つまり、誠はかおりがもういなくなったにも関わらず、その残像にすがり、いつまでも過去の「輝き」に満たされた「宇宙」に閉じこもっていたのです。

そんな彼は映画のラストで、夜の街を歩きます。

かおりと分かれた分岐路。かおりが働いていたインド雑貨屋。かおりと通った渋谷タワーレコード。かおりとの安全地帯だったラブホテルの残骸。

彼は現実の世界を自分の目で見て、今まで自分が囚われていた「輝き」がもはや得難い、触れがたいものであることを悟り、2つの風景を途方もない時間と距離が隔てていることを実感するのです。

燃え殻さんの小説のは「ありがとう。さよなら」という言葉で幕を閉じます。

しかし、映画版は「ほんと、普通だわ。」という主人公の言葉で幕を閉じました。

個人的には、この「普通だ」という映画版の言葉のチョイスが好きです。

『ボクたちはみんな大人になれなかった』の中で「普通」という言葉は何度か登場していますが、特に印象的なのは、主人公と恵が母への挨拶を終えてカフェを出たシーンと主人公とかおりが過ごしたラブホテルでの最後の夜のシーンでしょう。

前者においては、結婚を望む恵に対して、震災後に結婚する人が増えていて、その流れに迎合することを「普通だ」と嘲笑しました。

一方の後者においては、誠から結婚の話を切り出したところ、かおりから「なんかほんと普通だなぁと思って。」と返答され、彼は「そうだよね」と自嘲気味に同意します。

つまり、彼はかおりと「普通」を手に入れる前に別れてしまったことで、彼女との関係や彼女と過ごした時間が「特別」なものになってしまい、その引力から逃れることができなくなっているのです。

恵と結婚しないのもそのためで、彼女と結婚して「普通」を一たび手に入れてしまえば、かおりと過ごした時間が「特別」としての強度を保つことはできなくなるでしょう。

それ故に誠は「普通」を選べないし、いつまでもかおりと過ごした「特別」の中に、彼女と過ごした時間の止まっている「ラブホテル=宇宙」の中に閉じこもっているのです。

だからこそ、誠が「大人になる」ためにはそこから何とかして飛び出さなければなりません。飛び出して、あの時間は「特別」じゃないんだと受け入れなければなりません。

『うる星やつら2 ビューティフルドリーマー』において、不思議な世界から解放されたラムに対して、あたるが「あれは夢だ」と優しく言い聞かせたように、本作では誠がかおりと過ごした時間は「普通だ」と自分に言い聞かせます。

「ほんと、普通だわ。」とは主人公の別れの言葉なのです。

出会いの場面と、別れの場面が交錯し、ラストシーンでは東京の街を朝日が照らし始めます。

必ず朝は夜になるように、必ず夜は朝になる。

そうして彼は「大人」になったのです。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ボクたちはみんな大人になれなかった』についてお話してきました。

ナガ
原作はもちろん素晴らしいですが、映画版も大好きでした!

こういうポエティックな色が強い小説を映像化すると、どうしても印象重視になったり、逆に映像よりも言葉に依存してしまったりと上手くいかないケースも山ほどあります。

しかし、森義仁さんは映像の力を信じ、燃え殻さんの原作を映像だからこそできる表現やアプローチに落とし込んで見せました。

とりわけ連想ゲームのように異なる時間軸の記憶を遡っていくスタイルは原作とは一線を画しており、視覚的な印象が強い映画というメディアならではの演出だったと思います。

ナガ
加えて、ラストシーンのアレンジがこれまた効いていましたね。

原作はかなりストレートな言葉を選んでいるんですが、映画版はより婉曲的で『ビューティフルドリーマー』を意識したものになっていたところにグッときました。

作り手が原作と、そして劇中で扱われている音楽や映画に対して真摯に向き合っているからこそできた作品なのだと思います。

ぜひ燃え殻さんの原作と、森義仁さんの映画版を比べながら、両方を楽しんでみてください。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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