みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『寝ても覚めても』についてお話していこうと思います。
作品の解説と考察を書いていくことになりますので、ネタバレになるような要素を含みます。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『寝ても覚めても』
あらすじ
大阪で社会人になった朝子は訪れた写真展で麦に出会い、恋に落ちます。
過去に謎も多く、不可解な言動も目立つ麦に対して朝子の友人はあまり良い印象を持ちませんが、彼に夢中な朝子はどんどんとその魅力に惹かれていきます。
しかし、そんなある日、麦は突然姿を消してしまいます。
その数年後朝子は、東京のカフェで働き始めます。朝子はカフェの隣にある酒造メーカーのビルに届けたコーヒーのポットを回収しに行くのですが、そこで麦にそっくりの男性、亮平に出会います。
最初は戸惑いを隠せない朝子でしたが、優しく包み込んで斬れるような性格の亮平に次第に惹かれていきます。麦と亮平。
2人の瓜二つな顔の男性。
その間で揺れ動く朝子の思い。物語はまるで「寝ても覚めても」を繰り返すかのように二転三転し、誰も予想しない方向へと転がっていきます。
スタッフ・キャスト
本作の監督を務めるのは今や世界中から注目を集めている新進気鋭の濱口竜介さんです。2015年に公開された『ハッピーアワー』はスイスのロカルノ映画祭でも高い評価を獲得し、日本でも数々の賞を受賞しました。
また、黒澤清監督作品においてしばしば脚本を担当してきた田中幸子さんが本作『寝ても覚めても』の脚本を監督の濱口竜介さんと共同執筆しているんですね。この事実を知っておくと、本作がどことなく黒澤清監督作品の雰囲気を感じさせることも腑に落ちるのではないかと思います。
そして、本作の不思議な世界観を支える劇伴音楽を担当されたのが、tofubeatsさんです。作品の中で劇伴音楽が果たす役割が重要なのが今回の『寝ても覚めても』という作品でしたが、その役割のこの上ない形で全うされていたので、素晴らしかったと思います。
キャストには東出昌大さんをはじめとして、唐田えりかさん、瀬戸康史さん、伊藤沙莉さんなど今が旬の若手俳優が勢ぞろいしています。
東出昌大さんは1人2役という難しい挑戦をされていますが、見事に演じ切っていました。面白かったのが劇中の麦というキャラクターが有名になったきっかけが「朝ドラへの出演」だったことなんですが、これって2013年に『あまちゃん』と『ごちそうさん』への連続出演でブレイクした東出さん自身の来歴を反映してますよね(笑)
またヒロイン役を務める唐田えりかさんは『暗黒女子』や『ラブドック』などにも出演しており、現在注目が集まっています。
私が個人的に注目しているのは、伊藤沙莉さんで、彼女を知ったのは『獣道』という映画を見た時だったのですが、すごく声に特徴がある女優さんで、一度その声を聞いたら、忘れられない魅力があると思います。
この『寝ても覚めても』という作品はカンヌ国際映画祭に出品されていて、既に世界20カ国での配給も決まっているそうです。
この時に日本の『万引き家族』が最高賞に値するパルムドールを受賞しましたが、私個人としてはこの『寝ても覚めても』が受賞しても納得できたと思います。それくらいに素晴らしい映画でした。
映画『寝ても覚めても』解説
では、ここからいくつかの視点から映画『寝ても覚めても』の深みに迫って行きたいと思います。
牛腸茂雄の写真から読み解く『寝ても覚めても』
まずは本作で非常に印象的なモチーフとして登場している牛腸茂雄の写真から本作を読み解いていきましょう。
その前に簡単にではありますが、牛腸茂雄という人物についてお話しておく必要があるでしょう。
彼は写真家なのですが、幼少の頃に胸椎カリエスという病気を患ったことをきっかけに、その後遺症で背中が曲がってしまいました。その後大辻清司に師事する形で、写真を学び始め、評価され始めます。
特に映画『寝ても覚めても』にも使われている人がカメラの方に向き合っている正対の写真が収められた『SELF AND OTHER』という写真集は高い評価を獲得しました。
1983年に36歳の若さで亡くなられてしまったのですが、その死後に写真集の細管などを経て、さらに評価と人気が高まり、今でも多くのファンがいる日本の名フォトグラファーの1人と言えるでしょう。
さて、ではなぜそんな牛腸茂雄の写真が『寝ても覚めても』という作品に印象的なモチーフとして登場することになったのかというと、それは彼の写真に込められた意図が深く関係しているんですね。
『SELF AND OTHER』という写真は直訳すると『自己と他者』という意味になります。
なぜそんなタイトルを彼は自身の写真集につけたのか。それは先ほども述べた彼が胸椎カリエスの後遺症により背中が曲がっているという外見的な異質さが1つ関係しています。
彼はそういう他人とは違う特徴的な外見を持っていたがゆえに他人が自分に向ける「視線」というものに人一倍敏感だったんですよ。
他の人に向けられているものとは明らかに違う「視線」が自分には注がれていると常に感じ取っていたのです。だからこそ、彼はその「視線」にこそ人と人との関係性が現れるのではないかという考えに至りました。
そして被写体をカメラを向けている自分自身と正対させることで、被写体とカメラ(牛腸自身)の関係性をその「視線」を通じて描くことに成功したわけです。
さらに言うと、その「視線」はその写真を見る我々にも向けられており、彼が感じ取っていた「視線」と人間の関係性コンテクストを追体験できるようになっています。
この写真集において彼が取ったアプローチは被写体を自分の親族から始まって、最終的には全くの他人になるようにグラデーション的に設定することでした。これにより、牛腸自身と被写体の関係性がどのように「視線」に影響を与えるのかという点を浮き彫りにしたわけです。
ここまで説明してしまえば、『寝ても覚めても』という作品がいかに牛腸茂雄的な映像に支配されているかということがお分かりいただけたかと思います。
印象的に挿入された東出昌大や唐田えりかのカメラに正対したクローズアップショットは朝子と亮平、麦の関係性を浮き彫りにする「視線」の表出でありながら、その「視線」を映画を見ている我々に向けることで、そのコンテクストを我々自身を映画の中に取り込んで感じさせるという極めて高等的なテクニックなんです。
この映画において朝子の心理描写が言葉で語られることはほとんどありません。
「亮平のことが好き」という愛情表現が本心からくるものなのかが定かではないために、あれはもはや感情を表現した言葉とは言えません。
ただ朝子が2人の瓜二つな男性に向けている視線に全ての感情が集約されています。
濱口竜介は牛腸的に「視線」の変化に全てを託したのです。
チェーホフの『三人姉妹』から読み解く『寝ても覚めても』
さて希代の劇作家チェーホフの名作『三人姉妹』ですが、この作品は劇中で朝子の親友が演じているという形で登場しましたよね。では、この『三人姉妹』という作品が『寝ても覚めても』という作品にどんな関係性があるのかを探っていこうと思います。
この作品はロシア帝政末期を生きる三姉妹の物語です。
父親が身分の高い軍人だったこともあって、モスクワで華々しい毎日を過ごしていた3人ですが、父親の死を契機として没落し、田舎町で閉塞感に苛まれながら暮らすこととなります。
そんな彼女たちの唯一の希望は「モスクワ」でした。いつか自分たちが栄光の日々を過ごしたモスクワへ帰ること。
それだけを夢見て、モスクワでの日々を偶像的に崇拝しながら暮らしていました。そんな時に彼女たちが暮らす田舎町に軍人がやってきます。そんな中で、次女で既婚のマーシャは退屈な夫に飽き飽きし、ヴェルシーニン中佐という男性に恋をします。
この次女のマーシャというキャラクターが極めて映画『寝ても覚めても』の朝子に近似しています。
朝子と麦って正反対の人物に思えますよね。物語冒頭での描かれ方は間違いなく彼らを対照的な人物として描くことに終始していたと思います。
その動機が『三人姉妹』におけるマーシャがヴェルシーニン中佐に惹かれる動機とほとんど同じだと思うんです。
自分を知らない世界へと連れて行ってくれる存在であり、自分には無いものを持っている存在。
マーシャがヴェルシーニン中佐に恋をしたのは、田舎での閉塞感に満ちた生活を彼が打破してくれると感じていたからであり、モスクワへの憧れが彼に重なったからでもありました。
そういう自分が憧れる外の世界へと連れだしてくれるある種の「王子様」に憧れる、シンデレラシンドロームに侵された少女のように朝子は麦という男性に憧れ、惹かれるんですよね。
本作において麦の故郷は北海道でした。映画『寝ても覚めても』において、仙台という土地が重要な役割を果たしたことは言うまでもありませんし、北海道という場所が『三人姉妹』におけるモスクワ的な機能を果たしていたことも自明でしょう。
北海道という土地は麦の故郷であり、それゆえに彼女の憧れでもあったんですよ。
それが朝子という人物の動線に現れているではないですか。
彼女は麦が消えてしまった後で、大阪から東京へと移り住みます。そして亮平と共に仙台での震災ボランティアに参加するんですよ。つまり朝子という人物は少しずつ北海道という場所に物理的に近づいています。
しかし、物語の大きなターニングポイントとして亮平の転勤が契機となり彼女は東京から大阪へと移り住むことになります。
これはつまり北海道から物理的に遠ざかるということを意味しています。このプロセスを経るということが朝子にとっての麦との決別になることは言うまでもありません。
このタイミングで朝子の前に麦が現れるのは、もはや物語として必然としか言いようがありません。
そして朝子は一度亮平を捨てて、北海道へと向かう決断をするんですよね。麦は自分を迎えに来てくれた白馬の王子様のように見えたのでしょう。しかし、彼女は途中でその決断が誤りであるという認識をするんですよね。
その決断が下される場所が仙台なのはこれまた極めて意図的であるとしか言えません。
仙台という土地は朝子が亮平と共に訪れた場所の中で最も北海道に近い場所だったからです。
よってここから先に進めば、亮平との暮らしを捨てることを意味し、その先に進み北海道に辿り着くことは麦との暮らしを受け入れることを意味するという分岐点的な構図になっていたのです。
そういう状況になって初めて、朝子は麦を拒絶します。自分はもうこれ以上先には進めないと彼に告げました。その決断は『三人姉妹』においてマーシャが下したヴェルシーニン中佐との別れという決断と同質のものです。
在りもしない希望の到来に期待して、現実の生活から逃避するシンデレラシンドローム的な倒錯から少女が大人になる瞬間。
過去の幸せな日々にすがり、そこにのみ「幸せ」を見出して生きるのではなく、今自分が生きている瞬間をより良いものにするために努力するという「地に足をつけた」生き方に目覚めるというのは、まさに少女が大人へと成長するプロセスであると言えるでしょう。
だからこそ朝子は麦の車で大阪に帰るのではなく、自分の足で、自分の力で大阪に帰る必要がありました。誰かに甘え、誰かに依存し、「ここにない希望」に憧れた日々に終わりを告げるために。
朝子は麦と過ごした日々が夢だったのか、それとも亮平と過ごした日々が夢だったのかという自問を繰り返したわけですが、最終的には、前者が「夢」であったと自覚し、亮平がいる「今」に「目覚める」んですね。
映画『寝ても覚めても』はチェーホフの『三人姉妹』的な朝子の成長譚と言えるわけです。
イプセンの『野鴨』から読み解く映画『寝ても覚めても』
やはり本作において最も重要なのが、このイプセンの『野鴨』という作品になるでしょう。なぜこの映画を語る上で、欠かせないのか。それは単に劇中でマヤの舞台の演目が『野鴨』だったからという理由だけではありません。
亮平がマヤの舞台を見に行った際に、大地震が起きますよね。この一連のシークエンスってすごく重要だと思うんです。この一連のシーンを見た時に私が思い出したのはディミアン・チャゼル監督の『ララランド』でした。
映画『ララランド』の中盤に、セブとミアが映画館で『理由なき反抗』を見て、映写トラブルに見舞われて、グリフィス天文台に向かうまでの一連のシークエンスがあります。
このシーンは当ブログでの『ララランド』の個別記事でも解説しているんですが、自分たちの言葉で新しく映画を語り始めるんだという映画の中に自分たちの世界を作り出すというメタ構造になっているんです。
それがこの『寝ても覚めても』における『野鴨』を巡るシーンにも見られるんです。
注目したいのは、震災により『野鴨』の上演が中止となり、そしてその舞台が崩壊したこと。そしてその後、亮平が道端に転がっていた看板を自らの手で立て直すシーンです。
これは『野鴨』という演劇が亮平と朝子の世界へと溶け出し、彼らがそれを演じる者になったことを端的に表しているプロセスになるんです。
その直後のシーンで亮平と朝子が街の中で出会い抱きしめ合うというのも印象的です。ここからイプセンの『野鴨』的なプロットが進行していくこと考えると腑に落ちるかと思います。
ではイプセンの『野鴨』とは一体どんな作品なのでしょうか。この作品は、端的に言うと「嘘や間違い、罪を受け入れて初めて人と人は関係を結べるのではないか?」という視点から作られた作品だと考えられます。
ヤルマールという男は妻のギーナと娘のヘドヴィックと共に平穏に暮らしているのですが、ひょんなことからギーナがかつて町の豪商であるヴェルレと性的な関係を持っていたことを知ってしまうんですね。
そしてヘドヴィックはヤルマールとの間の子ではなく、実はヴェルレとの間にできた子だったのです。それを知らされたヤルマールは激しく憤慨し、この家にはもういられないとして、ギーナとヘドヴィックを激しく責め、家から出ていってしまおうとします。
すると愛する父親のヤルマールが自分のせいで家を出ていこうとしていると気に病んだヘドヴィックは猟銃で自らの命を絶ってしまいます。しかし物語のラストでは、皮肉なことにそんな最愛の娘の死を経てヤルマールとギーナが再び関係を結び直すのです。
イプセンはこの『野鴨』という作品を通じて、そんな嘘や間違い、罪を犯しながらも生きていこうとする、他人と関係を結ぼうとする愚かな人間を肯定的に描き出そうとしているように思えます。
人間とは誰しも嘘や罪を重ねながら生きる生き物であり、本当の「罪」とは、それを受け入れられないことではないのか?という視線が作品の中に色濃く反映されています。
そして『野鴨』という作品では、娘ヘドヴィックの死がヤルマールにとっての「断罪」になっているんですね。その「断罪」を経て、初めて彼は妻ギーナの嘘と過ちを受け入れることができたわけです。
さて、映画『寝ても覚めても』に話を戻しましょう。本作において嘘や過ちを重ねているのは、言うまでもなく朝子です。つまり彼女がこのプロットにおける「ギーナ」的な立ち位置に当たります。
一方で、それを受け入れるかどうかの決断を迫られるのが亮平であり、これが「ヤルマール」的立ち位置に当たります。
この近似性を理解しておくと、『寝ても覚めても』の後半のプロットが『野鴨』に裏打ちされたものであることが分かりやすいでしょう。
しかし、面白いのがこの『寝ても覚めても』のラストには肝心の「断罪」としての「死」が登場していないんです。終盤に亮平が猫を捨てたと朝子に告げます。これがある種の「断罪」的に機能しているのは事実なのですが、猫は結局生きていました。
ここで思い出したいのが、冒頭の耕介とマヤの演劇論をめぐる口論のシーンです。耕介は演劇は劇作家が著した台本通りに演じなければならないと述べていた一方で、マヤは台本を自分の中に落とし込んで自分の言葉で語ることにこそ意味があるという趣旨の発言をしていました。
確かに本作はチェーホフの『三人姉妹』やイプセンの『野鴨』のモチーフや展開の多くを受け継いでおり、亮平と朝子が『寝ても覚めても』という作品の中で劇中劇を演じているような構造になっていました。しかし、そのラストでは自分たちの言葉で、自分たちの意志で結末を選び取るんですよ。
朝子が亮平に「私はどれほど謝っても取り返しのつかないことをした。だから謝らない。」という発言をしますが、これはまさにイプセンの『野鴨』的な「断罪」を受けることへの否定です。
そして、それを受けた亮平も「ヤルマール」のように結論を出すことはしません。
後ほど結末の解釈をお話しますが、ここで本作の後半パートが『野鴨』の踏襲とそこからの脱却を描いていたことが分かりました。
映画『寝ても覚めても』考察(ネタバレあり)
本作のイプセン的に開かれたラストシーン
イプセンとチェーホフというと希代の劇作家ですが、2人の描く演劇を指してしばしばこんなことが言われます。イプセンは演劇を舞台に乗せ、チェーホフは人生を舞台に乗せる。これは一体どういう意味なのでしょうか。
手塚とおるさんという方が星雲社から発売されている『野鴨』の単行本に掲載されている解説の中で触れているのですが、チェーホフの演劇は人工的に演劇として描くために据えられた展開や結末があり、登場人物のパーソナリティが明確である一方で、イプセンの演劇は極めて自然に人間とその人生を描いており、登場人物のパーソナリティが不明瞭であるということです。
イプセンの『野鴨』に強く影響を受けて、チェーホフは『かもめ」をいう演劇を書いたんですが、この2つの作品を比べてみると、結末として2人が据えた「死」の意味合いが全く異なっているんですよね。
チェーホフが『かもめ』に据えた「死」って、登場人物の人生に必要だったからというよりも、演劇を作る上で必要だったと感じさせられてしまうんです。
そしてこの2人の違いとして私が強く感じるのは、チェーホフの作品はその幕切れにおいて、登場人物の明確な人生の方向性を示し、1つの物語として完結させる一方で、イプセンの作品の幕切れはそういった明確な方向性が打ち出されないままにあるタイミングで強引に物語を断絶させてしまったような印象を与えるんです。
それは『寝ても覚めても』に登場した『三人姉妹』と『野鴨』を比べてみても自明です。
『三人姉妹』の物語の結末においては3人の姉妹が今後どのようにして生きていくのか、何をするのかという方向性を打ち出して、演劇として明確に完結させています。
一方で、『野鴨』の結末においては登場人物がどのようにして生きていくのかなんて方向性は全く見えないんですよね。それでいて突然物語は幕切れを迎えるのです。
そう考えてみるとこの映画『寝ても覚めても』という映画は極めてイプセン的な結末を迎えていることが分かります。2人の物語は明確な「幕切れ」を迎えることなく、これからも続いていくであろうことを予感させながら断裁されました。
この「幕切れ」を描かないというイプセン的な手法によって、『寝ても覚めても』という作品はこの上なく開かれた作品性を獲得しています。
この作品が描こうとしたのは亮平と朝子の物語の結末ではなくて、彼らの人生そのものなんですよ。
交わらない視線に見る永遠性
(C)2018「寝ても覚めても」製作委員会/COMME DES CINEMAS
サルトルがかつて自身の著書でこんなことを述べました。
私はまなざしによって対象となり、モノとなってしまう。ギリシア神話には、まなざしによって相手を石に変えてしまうメデューサという化け物が登場するが、それと同じように、他人のまなざしは、私をモノに変えてしまうのである。
これは他人のまなざしというものが自分に注がれることで、その瞬間に他人にとって自分は何者か「である」ことを止められなくなってしまうというある種の宿命を示唆しています。
またこのサルトルの「メデューサの視線」に対する解釈に対して谷川 渥が自身の著書『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』の中でこう語っています。
サルトルによれば、眼差しの交差は、相手を対象と化す相互メドゥーサ的な営為にほかならない。目合(まぐわ)いは、サルトルにあっては、永遠に実現不可能な愛の合体のメタファーとなる。
谷川 渥『鏡と皮膚―芸術のミュトロギア』より引用
つまり自身の眼差しが相手の眼を対象化していしまうというジレンマから抜け出すことができない以上、眼差しを交錯させるということは不可能に近いわけで、だからこそ相手と向き合い見つめ合う行為というのは永遠に実現不可能な愛の合体のメタファーだと谷川 渥は読み解いたのです。
そう考えてみると、本作のラストシーンは実に印象的です。2人は見つめ合うことなく、横に並び立ち、ただ目の前に流れている川を見つめています。
2人の「眼差しの交錯」は『寝ても覚めても』のラストシーンには登場していないんです。
だからこそ朝子と亮平はこの後の人生を共にすることが予見されるのです。彼らが視線を交錯させないことで、逆説的に彼らはお互いに対象化されることない愛の永遠性を生み出したと捉えられます。
2人は見つめ合うのではなく、ただ川を見つめています。2人で同じものを見つめているという視線のマジックに朝子と亮平の人生のその後がうっすらと垣間見えているところに『寝ても覚めても』という映画の美しさを感じずにはいられません。
愛とは海ではなく、川である
人って悩んだり、落ち込んだりしている時に決まって海が見たい気分になりますよね。
この心理的な作用を紐解いていくと、海というものを自分のちっぽけな悩みを丸ごと受け止めてくれる相手のように捉えているのではないかと考えられます。
一方で、人は誰かと恋愛関係を結ぶときにも相手に同じことを求めるように思います。どこまでも美しく、そこに留まっていて自分を受け入れてくれるもの。そんな海のような特性を相手に押し付け、それが愛であると錯覚するんです。
『寝ても覚めても』という作品はそんな海のような愛の在り方に対して「愛とは川である」という考え方を突きつけているようにも取れました。
これは海と強く結びつきを感じさせる麦と川を強く想起させる亮平の2人のどちらを取るのかという決断に際して、朝子が後者を選び取ったことでも明らかです。
朝子が麦に感じていたのは、自分の全てを包み込んで受け止めてくれるような包容力だったと思うんです。
そして彼女は亮平に対しても同じものを求めています。
彼女は亮平に甘えっきりになっていました。だからこそ麦という男は海のようでありました。
しかし、人を愛するということはイプセンが『野鴨』の中で指摘したように、嘘と欺瞞と罪に満ちています。
しかし、そんな嘘と罪に満ちた愛であっても、それを受け入れ、人生を共に歩んでいくことこそが愛の姿なのではないのかというメッセージが本作からは強く伝わってきます。
嘘と欺瞞で澱みながらも、ただ淡々と流れていく川。そんな愛もまた美しいのです。
おわりに
いかがだったでしょうか。
ここまで映画『寝ても覚めても』の解説と考察を書いてきました。
かなり『野鴨』や『三人姉妹』といった演劇作品からの視点に偏った考察にはなってしまったように思いますが、これが私の個人的なこの映画に対する見解になります。
濱口竜介は近い将来日本を代表する映画監督になることでしょう。
黒沢清監督を強く想起させる作風でながら、もっとシャープネスな作品に仕上がっており、監督作がまだほとんどないというのに、既にそのスタイルが洗練されているようにすら感じさせられます。
『ハッピーアワー』で魅せた鬼才っぷりは幻ではなかったことを今作で証明したとも言えるでしょう。
かなり余白が多い作品ですし、考察の余地はたくさんあります。ぜひとも皆さんは自分の眼でこの作品を見て、自分なりの解釈や考察に辿り着いて欲しいと思います。その際に私の一意見ではありますが、この記事が参考になれば幸いです。
今回も読んでくださった方ありがとうございました。
作品の感想を書きました。
作中のチェホフの演技評と同じ結果になるのかも・・・。
https://twitter.com/netesame_movie/status/1044852265184612355