【ネタバレ考察】『ダーリンインザフランキス』最終回:弱く、不完全であることの人間らしさ

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですねアニメ『ダーリンインザフランキス』の最終回が放送されましたので、その考察を書いていきたいと思います。

記事の内容の都合上、『ダーリンインザフランキス』最終回までのネタバレを含みます。その点をご了承いただいた上で読み進めていただければと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

併せてチェックしておきたい小説

おそらく『ダーリンインザフランキス』と併せて鑑賞することでよりこの作品に対する理解が深まるであろう文学作品を3作品ほど紹介しておきます。良かったら読んでみてください。

『ハーモニー』伊藤計劃

人間が戦争のない、平和な世界を実現するためにはどうすればよいのだろうか?それを突き詰めた先にあるのが、人間の意識を管理システムに外部化し、最適化するというアプローチというわけです。つまり人間の弱さとは「自我」への執着であり、それを捨てることで完全に調和のとれた社会が完成するだろうというのです。

『ダーリンインザフランキス』に登場するビルムの思想には、この伊藤計劃氏の『ハーモニー』に通じる部分が多く感じ取れます。意識をビルムに委ね、肉体を解脱して究極の快楽を手に入れる。ただそこにはもはや「自我」や「人間」という言葉は存在し得ないのです。

『わたしを離さないで』:カズオイシグロ

カズオイシグロの名作SF小説。臓器を提供するためだけに育てられるクローンの少年少女の物語を描いた作品です。

『ダーリンインザフランキス』の最終回のサブタイトルが「わたしを離さないで」になっているだけではなく、本作の設定の多くがこのカズオイシグロの小説からの引用に見て取れます。魂こそが人間の本質であり、肉体はその入れ物に過ぎないというメッセージに思わず涙が止まらない、内容となっています。

『ミネハハ』:フランク・ヴェーデキント

少女だけが暮らす謎めいた寄宿舎での物語が淡々と描かれた作品です。『ダーリンインザフランキス』のミストルティンの描写や、少年少女だけの閉塞された空間設定など多くの点で共通点が見出せます。

また『ミネハハ』も『ダーリンインザフランキス』も閉塞された空間とそこでの子供の性的な成熟の過程を描いています。ぜひぜひ合わせて鑑賞して見て欲しい1冊です。

弱く、不完全であることの人間らしさ

人間は誰しも肉体という器を持っています。『わたしを離さないで』というカズオイシグロの小説では臓器売買の中で徐々に肉体をすり減らす少年少女がそれでも意識の上では結ばれていたいんだという悲痛な思いが描かれました。

この小説を読んだときに、非常に感動したのですが、同時にそれは綺麗ごとだなと思ってしまう自分がいました。だって意識の上では一緒になんてはっきり言って想像できるはずもないですし、それが繋がっているということになるのかさえも定かではありません。だからこそ私は、どうしても自分の大切な人には精神的な面だけでなく、物質的な面で近くにいて欲しいと思ってしまいます。

そう考えた時に、人間という生き物は至極面倒くさい生き物だと思いました。肉体的にも、精神的にも繋がっていたい、だからこそ意識を外部化して生きるという決断がいかに合理的なものだとしても受け入れられないんです。

『ダーリンインザフランキス』という作品が肉体と意識を有する人間だからこその「面倒くささ」を描いてきたことは自明です。

例えばそれは恋愛であり、結婚であり、生殖でもあります。『ダーリンインザフランキス』の中では、ココロがその中心的な役割を果たしたと言えます。肉体を解脱し、意識の上で永遠に凪の様な快楽の中で暮らせるとしたら、あたらしい個体を生み出す必要はありません。現に人間の社会では恋愛や結婚を巡って様々な問題が浮上していますし、さらに言うなれば新しい個体を生み出すという生殖という行為が地球全体に大きな問題を引き起こしていることは事実ではないですか。

肉体を捨ててしまえば、そんな問題はひとところに解決してしまいます。しかし、その決断がいかに合理的であろうと受け入れられないのが人間なんですよ。それでも非合理的に生きようとするのが人間なんです。

他にもこの作品では食料の問題が描かれていましたよね。この問題もまた人間に肉体があるから生じる問題です。肉体を捨ててしまえば、もう悩む必要もありません。エネルギー問題だってそうです。人間が肉体を維持していくためにそれを必要とするだけの話です。

肉体と意識が伴って初めて人間は人間足り得るのだというあまりにも面倒くさい考え方が、我々の弱さであり、不完全さであることは自明なのです。「脳死は人の死」という考え方に見られるように、肉体だけでもダメで、逆に意識だけでもダメで。何と面倒くさいことでしょうか。

だからこそ私は『ダーリンインザフランキス』の中でイチゴがイクノに本心を打ち明けられた時に返答したあの言葉こそが、この作品の最も言いたかったことではないのか?と思いました。

©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

「めんどくさくたっていいじゃん。それを言うなら私だって相当だよ。私たちみんな面倒くさいんだよ。でもさ、それでいいかなって最近思い始めてきてるんだ。もしかしたら、こういうのの積み重ねが生きてるってことなんじゃないかなって。」

その「面倒くささ」で宇宙を飛び越えたのがヒロとゼロツーであるわけじゃないですか。ヒロは残されたゼロツーの空っぽの身体に、ゼロツーを見出すことが出来ず、宇宙の果てまでゼロツーの意識が搭乗したアパスを追いかけたわけですよ。

そして私はヒロが登場したことで形態が変化した真・アパスのあのフォルムにもそういう人間の「面倒くささ」が反映しているのを感じました。

©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

確かにアパスにはゼロツーの意識がいるわけですが、肉体本体は故郷に残してきてしまいました。だからこそヒロとゼロツーの精神的な距離だけでなく、肉体的な距離を感じさせるための演出こそが真・アパスのゼロツー巨大化ヴィジュアルだったのではないかと思いました。

『ダーリンインザフランキス』というアニメ作品が、キャラクターたちの精神的な連帯だけでなく、肉体的な連帯をも逃げずに描いてきたこともまた、本作の描こうとした弱く、不完全であることの人間らしさに集約されるんだと思います。

人間はどこまでも面倒くさく、不完全で、弱い生命体です。自分の意志で何事も考えていかなければならないという不便さと誰かと繋がることでしか生きていけない弱さ、肉体と意識の共存に執着してしまう面倒くささ。でもそれを積み重ねることが「生きる」ことであり、人間らしさであると、宇宙を銀河を飛び越えたゼロツーとヒロの「愛」が教えてくれたわけです。

「何事も楽しむこと。」

「時には抗うこと。」

「努力し続けること。」

「生ぬるいやり方じゃなく本気で取り組むこと。」

「相手を知ろうとすること。」

「運命は自分の手で切り開けること。」

「自分の気持ちに正直であること。」

「誰かの翼になること。」

©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会

ラストシーンで私はあの宿り木にヒロとゼロツーの意識が宿って、その中でずっと一緒にいるというラストを選ぶんだと思っていたら、何と彼らの生まれ変わりを登場させてきました。このシーンが賛否両論なのはわかります。

ただ「意識だけはずっと一緒だよ。」なんて終わり方は綺麗ごとだし、人間らしくないと思いませんか。そうするのであれば、記憶は失われても、生まれ変わりであっても、意識と肉体を持つ個体として、再び出会うというあのラストはダリフラらしいと言えるのではないでしょうか。

おわりに

約半年にわたって続いてきた『ダーリンインザフランキス』ですが、21話以降は特に駆け足になりすぎて、脚本が空中分解している感じはしましたし、描き切れていない部分が非常に多いように感じましたね。

ただこの作品が描いてきた弱く、不完全であることの人間らしさという点に関しては、すごく共感できるものでしたし、ただの上辺だけの綺麗ごととして片づけてしまわなかったのも良かったのではないかと思います。

半年間素敵な作品をありがとうございました。

『ダーリンインザフランキス』Blu-ray情報

ダーリンインザフランキスのBlu-ray&DVDの第5巻には劇中で登場した絵本『まものと王子様』が収録されると、公式サイトの特典欄に明記してありました。現段階ではどのような仕様になるのかは未定ですが、これは非常に気になるところですね。

『ダーリンインザフランキス』EDに杉山勝彦が仕掛けた秘密とは?

当ブログではダリフラのEDに関する考察を書いております。良かったらこちらの記事も読みに来ていただけると嬉しいです。

参考:『ダーリンインザフランキス』EDに隠されたもう1つのストーリーを読み解く!

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