みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『トイ・ストーリー4』についてお話していこうと思います。
製作が発表されてからずっと不安で不安で仕方がなかった映画なんですが、ついに公開の日を迎えたということで早速鑑賞してまいりました。
もうこれまでの人生で見終わった後に、映画に対してこんなに複雑な感情を持った経験は正直に申し上げて前例がなくて困惑しております。
この結末を到底受け入れられないし、絶対に許せないというのが、見終わった直後の率直な思いでした。
なんでこんなものをわざわざ作ったんだシリーズ3作目で終わらせておいてくれたらよかったじゃないか・・・と怒りに震えました。
でも冷静になってみると、心のどこかで私はこの映画を嫌いにはなれない、というより受け入れたい、愛したいと思っていることに気がつきました。
今、この記事の導入文を書いている段階では自分がこの『トイ・ストーリー4』に対して賛なのか、それとも否なのかすら明確にできていません。
ですので、今回の記事は書きながら自分の中でこの映画に対する複雑でぐちゃぐちゃな思いを整理していくことになると思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『トイ・ストーリー4』
あらすじ
ウッディたちの新しい持ち主となった女の子ボニーは幼稚園に通い始める時期を迎えていた。
しかし、内向的な彼女は幼稚園に行くことを嫌がり、幼稚園でも1人ぼっちになっていました。
そんなある日、彼女は工作の時間に使い捨てフォークからフォーキーというおもちゃを作ります。
家に戻ってきて、おもちゃたちに迎えられるフォーキーですが、彼は自分のことをゴミであると認識していて、自分の役割はゴミ箱にいることだとし、それを全うしようとします。
ウッディはボニーを悲しませないために何度も何度も彼をゴミ箱の中から救い出そうとします。
そんな時、ボニーは両親と共に旅行に行くことになり、当然彼女のおもちゃたちも一緒に連れていかれることになります。
お気に入りのフォーキーももちろん一緒に行くことになるのですが、しきりに車からの逃亡を企てます。
ウッディは何度も何度もそれを阻止しようとしましたが、夜になり、フォーキーが車の窓から風で飛んで行ってしまいます。
それを追いかけて外の世界へと飛び出したウッディは、これまでに見たこともない世界に直面することになるのでした・・・。
スタッフ・キャスト
- 監督:ジョシュ・クーリー
- 脚本:ステファニー・フォルソム&アンドリュー・スタントン
- 編集:アクセル・ゲッデス
- 撮影:パトリック・リン&ジーン=クロード・コラーチ
『トイ・ストーリー』と言えばジョン・ラセター監督で、前作『トイ・ストーリー3』についてはリー・アンクリッチ監督が起用されていたんですが、今作は変更されました。
今回『トイ・ストーリー4』の監督に起用されたのは、ジョシュ・クーリー監督でした。
ジョシュ・クーリー監督は『インサイドヘッド』の脚本を担当した人物で、今回が初の長編映画監督作品ということです。
ピクサーというアニメーション制作会社は、社員全員が常に短編のアニメーションを作ることを要求されていて、それが評価されると長編で脚本や監督を担当する機会に恵まれるようです。
ジョシュ・クーリー監督もフィルモグラフィを見ると一目瞭然ですが、短編製作で徐々に評価を高め、そして『インサイドヘッド』で脚本に見事抜擢されたような経歴を持つ人物です。
今回の『トイ・ストーリー4』にはすごく『インサイドヘッド』とも通じるものを感じたので、そこについては彼らしさが出ていて良かったのではないでしょうか。
脚本のコンビは大抜擢のステファニー・フォルソムと『ファインディング・ドリー』で名作の続編という大仕事を成し遂げたアンドリュー・スタントンです。
『ファインディング・ニモ』という名作の続編ということもあり、公開前から賛否あった作品ですが、素晴らしいものに仕上げてきました。
ですので、脚本についてはある程度信頼を置けるような気はしますね。
- トム・ハンクス:ウッディ(唐沢寿明)
- ティム・アレン:バズ・ライトイヤー(所ジョージ)
- アニー・ポッツ:ボー・ピープ(戸田恵子)
- トニー・ヘイル:フォーキー(竜星涼)
- クリスティーナ・ヘンドリックス:ギャビー・ギャビー(新木優子)
- キーガン=マイケル・キー:ダッキー(松尾駿)
- ジョーダン・ピール:バニー(長田庄平)
- キアヌ・リーブス:デューク・カブーン(森川智之)
- アリー・マキ:ギグル・マクディンプルズ(竹内順子)
フォーキー役にトニー・ヘイル、ギャビーギャビー役には『ネオンデーモン』などで知られるクリスティーナ・ヘンドリックスが加わりました。
またバニー役にはコメディアンから映画監督へと転身したジョーダン・ピールが起用されていて、絶妙なコメディテイストを作品にもたらしています。
デューク・カブーン役には、『マトリックス』や『ジョンウィック』シリーズでおなじみのキアヌ・リーブスが起用されました。
と、このように本国での声優陣もかなり個性的なラインナップになっています。
そして吹き替えの声優陣もかなりタレント起用が目立ちますが、それほど違和感を感じた人はいなかったように思います。
ダッキー&バニーのところにチョコレートプラネットの2人を起用しているところについても、ここは本国でもコメディアンを起用していたりするので、タレント起用と言えどマッチしています。
フォーキー役の竜星涼さんも個人的には素晴らしかったと思いますし、新キャラクターですが、すごく愛着のわくボイスアクトでした。
デューク・カブーン役にはベテランの森川智之さんが起用されていて、外連味満点の声で、作品を引き締めてくれました。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!!
『トイ・ストーリー4』感想・解説(ネタバレあり)
この映画がどうしたって大嫌いなのだ
まずは鑑賞直後に感じた自分の思いを率直に書いていきます。
私はもう映画を見終わった後、ただただ全身の力が抜けて、抜け殻のようになっていくような気分でした。
それくらいに幼少期から追いかけてきた、というよりもアンディと同世代でもはや「自分自身の物語」として愛してきたシリーズの最新作はショッキングな内容でした。
『トイ・ストーリー』というシリーズに対して、私が抱き続けてきたのは「役割を全うすることの尊さ」を追求し続けてきた作品だということです。
シリーズ1作目で自分が「おもちゃ」なのだという現実を叩きつけられ、飛べないんだと言われながらも、「かっこつけて落ちているだけだ」とそれを受け入れ、全うしようとしたバズ。
シリーズ2作目で展示品となって未来永劫愛されるのか、それともおもちゃとして子供を楽しませるのかという選択を迫られ、迷いながらも後者を選択したウッディ。
シリーズ3作目で示された、アンディのもとから離れても、確かにおもちゃの役割は続いていくのだという普遍的なメッセージ。
しかし、今回の『トイ・ストーリー4』はポスターにも綴られた「あなたはまだ本当のトイストーリーを知らない。」というキャッチコピーが象徴するように、これまでのシリーズを根底から覆すような展開や主題に満ちています。
特に衝撃的なのが、やはりラストシーンに待ち受けるウッディの決断です。
これまで、常に仲間のことを思い、アンディとの別れに際しても、おもちゃの仲間たちと共に生きていくことを選んだウッディ。
どんな時も「おもちゃ」であることを肯定し、受け入れ、その役割を全うして生きたウッディ。
そんな彼が、本作のラストシーンでは自分に与えられた役割を放棄し、そして仲間たちとの決別を決めるのです。
衝撃的だったというよりは、自分が想定していた中で最も見たくなかった結末をそのまま見せつけられたような印象です。
そして今作がもう1つどうしても受け入れがたかったのは、これまでのシリーズでは重視されていたユーザーという視点の欠落です。
『トイ・ストーリー』って常にアンディというおもちゃで遊ぶ子供の存在があってこそ成立してきたシリーズです。
おもちゃから子供への視線、そして子供からおもちゃへの視線。
この2つの視線のバランスが絶妙であり、それでいて物語の決裁権はあくまでも子供の方に委ねていたからこそ「おもちゃの物語」として完璧だったんだと思います。
『トイ・ストーリー3』のラストでも確かにウッディがアンディと共に大学にはいかないという決断をしたのは事実です。
しかし、最終的にウッディをボニーに譲るという決断をしたのは、他でもないアンディなのです。
ただ『トイ・ストーリー4』のラストについてはユーザーの視点の介入は皆無であり、完全にウッディだけの価値観と感情だけで決断され、ボニーのもとを離れることになります。
でもこの結末がどうしても受け入れられないのは、『トイ・ストーリー3』のラストがあるからです。
確かに本作冒頭でも描かれていたようにウッディはボニーのお気に入りのおもちゃではありませんでしたし、次第に忘れられていきました。
そしてラストではバズライトイヤーがウッディに対して「ボニーは大丈夫だ」という言葉を残しています。
そうしておもちゃによる独善的な決断が敢行されてしまいます。
まあボニーが大丈夫だというのは、あながち間違いではないと思いますし、それほど否定すべき要件とは思えません。
しかし、私はこのラストを見た時に、どうしてもアンディの悲しい表情がイメージできてしまうのです。
彼はウッディを大学にまで持って行こうとするほどに気に入っていた少年であり、『トイ・ストーリー3』のラストでも「これは僕の宝物なんだ。大切にしてくれるかい。」と念を押してボニーに譲ったんですよ。
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『トイ・ストーリー4』がユーザーの視点を軽視していると感じるのは、結局そういうこれまでのシリーズへの配慮の至らなさです。
ちょっとしたコメディ演出でも1作目で提示された「おもちゃは人間の前では動かない」というルールを覆すことで笑いを取るダッキー&バニーの存在感は目立ちました。
今作はとにかくウッディのあの決断を描くために、これまでの作品では重要視されていたユーザーの視点(子供の視点)を徹底的に矮小化しているようにも見受けられました。
あとはバズライトイヤーを初めとする既存のおもちゃキャラクターたちの出番の少なさですよね。
『トイ・ストーリー3』ってあれだけ新キャラクターを登場させておきながらも、既存のキャラクターたちの見せ場の演出も巧くて、バランスが絶妙だったんです。
それが今作になると、ウッディとボー・ピープ、そして新キャラクターたちにひたすらスポットが当たり、これまでのシリーズのメインキャラクターであるバズですらもほとんど見せ場なしの状態です。
この歪さのせいで、今作が『トイ・ストーリー』の続編なんだよと言われても、イマイチ腑に落ちない感じもしました。
これまでのシリーズだ大好きだからこそ苦しいし、こんな物語を見たくなかったと心の底から思わされてしまう、そんな最新作だったと思います。
ギャビーギャビーの描写はダメじゃない?
(C)2019 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
『トイ・ストーリー』シリーズのヴィランになるおもちゃって必ず悲しい運命を背負っています。
例えば『トイ・ストーリー2』のプロスペクターはおもちゃの棚の売れ残り商品で、誰にも持ち主になってもらえなかったことに対する深い悲しみを背負っています。
『トイ・ストーリー3』のロッツォは持ち主に「捨てられた」というトラウマを引きずっており、性格が歪んでいます。
こういったヴィランたちに「救い」を提示していくというのがこのシリーズの「巧さ」でもあったように思います。
そして今作『トイ・ストーリー4』に登場したギャビーギャビーというヴィランは、いわば「不良品」だったおもちゃです。
つまり製造された時点でおもちゃとしての機能に欠陥があり、それ故に子供と遊ぶことができず、子供と遊ぶ想像をして日々を過ごしてきたわけです。
ディズニー映画は近年マイノリティやハンディを抱えて生きる人を映画の中で活躍させようとする傾向が強く、『モアナと伝説の海』や『リメンバーミー』でもそういった人たちを象徴するキャラクターを扱っています。
ギャビーギャビーの「初期不良品」という設定は、生まれながらにして何らかのハンディを抱えて生きる人たちを模したものなのではないかと考えずにはいられません。
ですので、そういうハンディを抱えて生きるおもちゃも、他のおもちゃと同じように持ち主に愛されて、その役割を得ることができる権利があるんだという点を本作は描きたかったんだと思います。
この社会的な意義とメッセージ性はすごく理解できるのです。
しかしですよ、今作の終盤にギャビーギャビーはウッディから正常な再生機を半ば移植する形で譲り受け、美しい声を手に入れます。
ただ美しい声を再生できる機械を手に入れられたからと言って、彼女が店に遊びに来ている女の子に受け入れられることはありませんでした。
ここまでは悪くないと思います。でもこの後の展開はすごく気になりました。
というのもギャビーギャビーが持ち主に出会うシーンで、迷子の女の子は再生機から流れてくる「美しい声」を聴いて、そして連れていくことを決断するのです。
それをやってしまうと、ギャビーギャビーがあの時、初期不良を抱えた再生機のままでガラガラの声が流れていたら、果たして迷子の女の子は受け入れてくれたのか?という疑問を残してしまうではないですか。
製作陣が意図したのは、間違いなくハンディを抱えていても、他の人やおもちゃと同じように「役割」を与えられ、生きることができるというメッセージでしょう。
ただギャビーギャビーの「救済」をああいう演出にしてしまったがために、むしろハンディを抱えている人が受け入れられるためにはその原因であるハンディを取り除かなければならないというメッセージにも取れてしまうんです。
作品全体の賛否は抜きにしても、ギャビーギャビーに示される「救い」のシーンに関してだけは受け入れ難いものだったように思います。
シリーズ4作目としての方向性は正しい
今作に対する感想として、これまでのシリーズを否定している、続編として成立していないというものをしばしば見かけます。
この記事の冒頭でも長々と書いたように私自身も今作を『トイ・ストーリー』シリーズの一部として受け止めきれない思いはあります。
しかし、それでも『トイストーリー3』のあの結末から今作への物語や主題の発展のさせ方は、裏切っているというよりはむしろ正当で忠実なように思えます。
前作のラストのアンディからボニーへのおもちゃの継承という行為が何を意味していたのかと考えてみましょう。
シリーズ1作目と2作目では、ウッディたちは「アンディのおもちゃ」であることに対して使命感や役割を感じていました。
しかし、3作目は彼らが「アンディのおもちゃ」であることの役割から解放され、ボニーへと継承されることで、おもちゃの役割を普遍化する物語を描いていたんですね。
つまりおもちゃの「子供を楽しませる」という役割は、持ち主や子供に従属するものではなくて、普遍的なものとして存在しているということを描き出したのが前作のラストなのです。
そう考えると、『トイ・ストーリー4』の展開やテーマって前作から正統な発展の仕方をしていますよね。
前作のラストは言わば最小単位のミニマムな描写でもって、「おもちゃの役割」の普遍化を描こうとしたんだと思います。
だからこそ『トイ・ストーリー4』が志向したのは、その普遍化をもっと大きな世界の出来事として描くというところだったと思っています。
ですので、シリーズの方向性やテーマの一貫性としてはむしろブレていないという見方もできると思いました。
そしてその普遍化の物語をシリーズ1作目の『トイ・ストーリー』に準えて行ったというのが、これまた興味深いポイントです。
後ほど、ウッディの物語としての解説をする際に、もう少し踏み込みますが、本作は物語の構成がシリーズ1作目と非常に似ています。
『トイ・ストーリー』というのは、アンディの子供部屋という最小単位の世界で、おもちゃの役割を問う物語になっていました。
そのため子供部屋の外の世界も、隣の家の男の子の家の子供部屋だったりと意図的に世界の規模を小さくして描いています。
一方の、『トイ・ストーリー4』は物語の展開を踏襲しながらも、1作目とは対照的に大きな世界観の中で物語を描いています。
移動遊園地が出てきたり、ハイウェイが出てきたり、アンティークショップが出てきたりと本当に比べ物にならないほど広大な世界とそこに息づくおもちゃたちを描いています。
つまり『トイ・ストーリー4』は私たちの生きる世界そのものを「大きな子供部屋」と解釈し、そこに生きるおもちゃたちの役割を改めて問い直したわけですね。
そして「アンディのおもちゃ」という帰結を迎えた1作目とは対照的に、『トイストーリー4』は「子供のおもちゃ」という帰結になっています。
いろいろと考えてみましたが、私の辿り着いた現時点での思いは、シリーズを否定しているわけではなく、むしろ補強し、拡大するような作品だったのではないかというものです。
ウッディはいつだって少し先を行くリーダーなんだ
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個人的にですが『トイ・ストーリー4』というよりは『ウッディ』というタイトルで公開された方がしっくり来ていたような気はしています。
というのも本作は、『X-MEN』シリーズの『ローガン』のような味わいで作られたノスタルジックで退廃的な雰囲気を孕んだ映画なんですね。
ウッディというキャラクターがこのシリーズの中でどんな立ち位置だったのかと考えてみると、やはりアンディのおもちゃたちのコマンダーと言いますか、リーダー的立ち位置なんですよね。
そして常に仲間思いであるという点もすごく重要ですよね。どんなに苦しい状況でも決して仲間を見捨てるようなことはしません。
そんな「アンディの子供部屋」のおもちゃたちのリーダーであり、常にみんなの1歩先を行っているようなキャラクターであったウッディが今回すごく奇妙な描写のされ方をしています。
『トイ・ストーリー』の冒頭で描かれたのは、バズライトイヤーという最新のおもちゃがやって来たことによって子供部屋でのリーダーという立場が脅かされるというものです。
つまりこれまで常におもちゃたちの先頭に立っていたウッディというキャラクターが、バズという新しい司令塔の登場によって仲間たちからの信頼を失っていくのです。
そして持ち主のアンディからもバズライトイヤーが優先して寵愛を受けるようになり、自分で遊んでくれる機会が激減しました。
それでも彼はバズという存在を受け入れ、そして救出し、仲間の元へと戻ったことで再びリーダーとして受け入れられることになりました。
つまり彼はどんどんと新しいおもちゃがやって来て、「アンディの子供部屋」という自分たちの世界が「変化」していくことを受け入れたわけです。
その中で自分の序列が変わっていくかもしれないという不安はありますが、それでも自分はアンディを楽しませるために、そして仲間を守るために存在するんだという指針を確固たるものとしました。
そして『トイ・ストーリー2』でもウッディには「変化」という点で重要な問いが突きつけられました。
それは「子供の成長」という変化を受け入れるのかどうかというすごく難しい問いかけでしたよね。
子供はいつか成長して、おもちゃを手放してしまうという運命にあり、それなれば博物館に展示されて永遠の愛を手に入れる方が幸せなんじゃないかという誘惑が彼の脳裏をよぎります。
しかし、それでも尚「変化」を受け入れ、ウッディはアンディの元へと戻るわけです。
そしてアンディのおもちゃたちの中でも一歩先んじたリーダーとして日常に戻っていくことになります。
いよいよ『トイ・ストーリー3』ではアンディの成長という「変化」が明確になり、おもちゃたちから卒業してしまうという物語が描かれます。
保育所から仲間たちを救い出そうとするヒーローとしてのウッディは健在で、それに加えてラストシーンで三たび「変化」を受け入れるウッディの姿が描かれたのも印象的です。
それは先ほども書いたように、彼はおもちゃとして「子供を楽しませる」という役割を全うするためにアンディの「変化」を受け入れ、次のステップへと踏み出したという点ですね。
『トイストーリー』シリーズをウッディの物語として捉えなおして見た時に際立つのは、彼は常に「変化」を受け入れてきたキャラクターであり、それが彼がアンディのおもちゃたちのリーダーたる所以だったというところです。
そして『トイ・ストーリー4』では、再びウッディに「変化」が求められます。
とりわけ今作ではウッディが「西部劇の保安官」であるというコンテクストがすごく効果的に機能していました。
西部劇とはまさにアメリカを象徴するジャンルであり、保安官と言えばその中でも花形であり、みんなのヒーローです。
しかし、近年はその人気をすっかり喪失しておりジャンルとしても下火です。
一方でボー・ピープが象徴するのは、近年の強い女性像を志向する映画たちであり、これらはハリウッドでも今すごく勢いがありますし、その中心にいるのがディズニー映画です。
だからこそこれまで「子供部屋」というミニマムな世界に固執してきたウッディは大きな世界を前にして、取り残され、リーダーとして機能することはなくなります。
つまりこれまで「子供部屋」という小さな世界ではヒーローであり、コマンダーだった彼が、大きな世界に出て、そしてボー・ピープという強い女性に再会し彼女の指示に従う存在となります。
しかし、ウッディは指示に従わずに行動して規律を乱したり、ドジを踏んで叱責されたりと過去作では考えられないようなミスを連発し、そして最後にはボー・ピープらからも見捨てられる一幕があります。
そして彼にはもう最後の手段しか残っていませんでした。自らのパーツの一部を差し出して仲間を救う。
この行動がどうしようもなく切ないのは、これまでどんな時も仲間を助けるヒーローだったウッディがそんなことでしか仲間を救うことができなくなってしまったという悲哀です。
彼はこれまで「子供部屋」という小さな世界でコマンダーとして活躍し、そして子供のためにどうすればいいかを知っていました。
しかし、大きな世界に出てみると、彼にはこれまでに直面したこともないような課題が降りかかり、そしてその連続にただただ振り回されるだけなのです。
そうして老いた西部劇の保安官であるウッディは静かに、世界の早すぎる流れの中で置いていかれてしまうのです。
このあたりがまさに『ローガン』に重なると感じた部分だと思います。
しかし、そこで効果的に機能したのがフォーキーでありデューク・カブーンだったと個人的には感じています。
フォーキーは自分のことを用済みのゴミだと考え、しきりにゴミ箱の中にダイブしてしまうのですが、ウッディはそこから救い出し、彼に「ボニーのおもちゃ」としての役割を説きます。
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君は今までの使い捨て食器としての役割を終えてしまったかもしれないけれど、「おもちゃの世界」に来れば新しい役割があるんだということをフォーキーが体現し、証明しています。
そしてデューク・カブーンとは、まさしくCGやVFX全盛の時代に少しずつ影が薄くなっていく本格派スタントたちの存在です。
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彼の過去の描写で子供がテレビCMのように飛んでくれないじゃないかと彼のことを捨ててしまう描写がありましたが、これもVFXとスタントの対比のように思えました。
VFXは超現実的な動きが可能ですが、スタントでは確かに限界があり、同じようなことを表現することはできません。
この2つの新しい新キャラクターは、まさに「世界の変化に取り残された者たち」の象徴なんだと思います。
そしてまさに『トイ・ストーリー4』のウッディはこの2つの新キャラクターに親和性が高くなるように設計され、描写されています。
終盤にデューク・カブーンが移動式遊園地の中で大ジャンプを決める瞬間というのは、『トイ・ストーリー』のバズの飛行シーンを思わせます。
バズは自分が本物のスペースレンジャーではなく、思っている理想とはかけ離れた自分に気がついても、「おもちゃ」なりの飛翔を見せてくれました。
本物のスペースレンジャーでなくとも、理想の自分ではなくとも、今の自分にできることがきっとあるはずというバズの「おもちゃ」としての強い感情があのワンシーンには宿っていたのです。
そして『トイ・ストーリー4』のデューク・カブーンの飛翔シーンもまさに似たようなシチュエーションで描かれており、そして感慨深いものと感じさせてくれます。
俺たちまだやれるよな・・・。
「世界の変化に取り残された者たち」が自分なりに今の世界に役割を見出していく、それこそが『トイ・ストーリー4』描きたかった物語なのだと思います。
そしてラストシーンへと至り、あのウッディの決断が描かれます。
彼は「変化」を拒み、「ボニーの子供部屋」に戻るということもできました。
しかしウッディがその決断をしないことは、むしろこれまでの『トイストーリー』の物語があるからこそ明確なのです。
なぜなら彼はいつだって「変化」と「不変」の二択を迫られたときに、前者を選んできたのですから。
だからこそ彼はアンディの、そしてボニーの「子供部屋」というミニマムな世界から飛び出し、世界という大きな「子供部屋」に生きるという「変化」を受け入れるのです。
ウッディから「彼女は大丈夫かな?」と問いかけられて、一瞬驚きと悲しみに満ちた何とも言えない表情をします。
つまりバズはこのセリフでウッディが意図しているところを言葉にせずとも察したというわけです。
そしてバズの答えは「彼女は、ボニーは大丈夫だ。」というものでした。
常に「変化」を受け入れてきた彼のことを真横で見てきたバズだからこそ、この一瞬で通じ合うことができたのだという2人の絆の強さがうかがえるシーンでした。
また、先ほども書いたように本作のラストはシリーズの否定ではなく、むしろ『トイ・ストーリー3』の描いたテーマの補強でもあります。
つまり何が言いたいのかというと、彼はボニーを見捨てたわけでもなく、そして仲間たちを見捨てたわけでもありません。
『トイ・ストーリー3』の中で本作の結末に繋がるヒントはすでに描かれていました。
ウッディはいつだって仲間を助けるというキャラクターでしたが、前作で保育園から脱出する時に、チャターフォンのようなおもちゃを一緒に脱走させるということはしませんでしたよね。
この時点で彼は、まだ自分たちの仲間のおもちゃだけを守るという考えに憑りつかれているような節はあったと思っています。
しかし終盤にロッツォが危機に陥った際に、彼は迷いながらも助けようと決断しましたよね。
この瞬間から『トイ・ストーリー4』への歯車はすでに動き出していたんだと思います。
そして『トイ・ストーリー4』のエンドロール内のシーン等でもウッディは、射的の景品にされているおもちゃを救出したりするなどの行動を取っていました。
つまり本作のラストシーンが意味しているのは、ウッディにとっての「仲間」そして「子供」という概念の具象から抽象へのアップデートです。
これまでバズを初めとする「アンディのおもちゃ」たちが「仲間」であり、そしてアンディとボニーこそが彼にとっての「子供」でした。
今作はこれまでのミニマムな単位を否定したわけではなく、むしろそれを抽象的な概念の中の1つの具象として内包したという方が正しいのではないかと思います。
簡単に言えば、ウッディは「アンディ=子供」ではなく、「アンディ=子供のうちの1人」というところに真にたどり着けたのだということです。
こうして『トイ・ストーリー4』のラストシーンで、私たちはほんの少しだけ先を行くヒーローとしての、コマンダーとしてのウッディの姿を再確認することができたのです。
本作が志向した存在論とは
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『トイ・ストーリー4』について私が特に気になった3つのポイントを挙げさせてください。
- フォーキーという子供が作り出した「おもちゃ」にも意志が宿る
- 本作はこれまで以上に両親の存在が際立っている
- バズがしきりに内なる声に自分の行動指針を尋ねている
まず、1つ目のフォーキーというゴミから作られたおもちゃに意志が宿るという描写は非常に重要です。
これは『トイ・ストーリー』の世界において意志を持つことができるのは、レディメイドのおもちゃというわけではなく、子供が「おもちゃ」であると認識したものであるという設定を新たに提示したとも言えます。
次に2つ目の両親の存在感がこれまで以上に際立っているという点についてです。
アンディの父親が明確に描写されず、様々な憶測を呼んだことは有名な話ですが、それにしてもこれまでのシリーズで子供の親の出番がこれほど多い作品はなかったと思います。
ボニーはすごくナイーブな少女で、幼稚園に行くにもすごく不安を抱えている様子が見受けられます。
そんな彼女のことを支えているのが、おもちゃたちではあるんですが、それ以上に両親の存在であるという点は、私たちの世界では当たり前のことかもしれませんが、『トイストーリー』シリーズの描写としては衝撃的です。
とりわけ冒頭のシーンでウッディはおもちゃたちが子供を支えてあげないと!と躍起になっていましたよね。
しかし、本作はそれに対して彼女を支えるのは必ずしもおもちゃたちである必要はないという点を突きつけたわけです。
そして3つ目のバズがしきりに内なる声に自分のするべきことを尋ねる描写ですね。
これまでバズはいつだってウッディや仲間たちと共に様々な作戦に臨んできましたよね。
しかし、『トイ・ストーリー4』において彼はその大半のシーンで単独行動を取らざるを得ない状況にあり、いつもなら隣にいるはずのウッディがいないのです。
だからこそバズは不安なんだと思いますし、誰かに自分の行動や存在を担保してほしくて、しきりに自分の内なる声に耳を傾けているように見受けられました。
つまりバズが取っていた行動の正体というのは、ある種の自己存在の自己肯定ですよね。
さて、ここまで述べてくると、バラバラになっていた3つのピースが1つに繋がったように思えませんか?
これまでのシリーズでウッディは自分がお気に入りじゃなくなるかも、アンディが成長したら自分たちは見捨てられるかもなんて「存在」に纏わる不安を抱えていました。
ここに象徴されるように『トイ・ストーリー』シリーズにおいておもちゃたちの存在を確固たるものにしてきたのは他でもないアンディでした。
ウッディを含めたおもちゃたちは「アンディのおもちゃ」であるという自己認識があったからこそ、これまで自分たちの存在を確かなものとし続けることができたのです。
そして『トイ・ストーリー3』のラストで、その役割がアンディからボニーへと引き継がれたはずでした。
これから彼らの存在を保証してくれるのは彼女なのだと。
しかし、アンディのお気に入りだったウッディは、ボニーにとってのお気に入りではありません。
つまりこれまで自分の存在を全面的に保証してくれる後ろ盾となっていた持ち主の子供が、ウッディの「存在」を保証してくれなくなってしまうのです。
だからこそ『トイ・ストーリー4』という作品は、そんな自分の存在の担保を失ったウッディの新しい存在意義を見つけるための旅路を描きました。
そしてその答えが9年前に別離したボーとのロマンスにあったということなのでしょう。
元々『トイ・ストーリー4』の初期構想はウッディとボーのラブストーリーだったとも言われていますので、この点については脚本の大規模リライトがあったとされてはいますが、初期段階から変わっていないように思います。
フォーキーが意識を持つ設定が他者(とりわけ子供)からおもちゃとして認識されることだったという点が、すごく重要なのですが、私たちが自分の存在を確固たるものにできるのは他者のおかげなんです。
「私」の存在を担保してくれる「あなた」の存在がいなくなってしまったら、その瞬間に私たちは存在への不安に苛まれることになります。
だからこそ私たちはそんな「あなた」の存在を求め続けるのであり、それこそが人生なのかもしれません。
フォーキーは自分のことをゴミだと卑下しますが、おもちゃとしての彼の存在を認めてくれるボニーやウッディのおかげで世界に存在を保つことができました。
ボニーはそのナイーブな性格ゆえに幼稚園にも上手く馴染めていない様子でしたが、家に戻れば両親が温かく迎え入れてくれ、彼女の存在を認めてくれます。
そしてウッディにとっての「あなた」はもちろんアンディだったと思いますし、ボニーだったと思うのですが、それ以上に今はボーだったのかもしれません。
世界という広いおもちゃ箱の中で自分の存在を認めてくれる存在。それはきっと彼女にとっても同じだったんだと思います。
恋愛、親子愛、友情・・・人と人、おもちゃとおもちゃ、そして人とおもちゃ、その交わり方は様々です。
そして私たちの存在は紛れもなく、「私」をみとめてくれる「あなた」たちのおかげで成立しています。
ラストシーンでウッディとバズが「無限の彼方へ、さあ行こう」という言葉と共にお互いの絆とそして存在を確かめ合うシーンがありました。
まさに、誰かが誰かの「あなた」になっているんだということを強調するシーンですよね。
そして同時におもちゃにとっての「あなた」が必ずしも持ち主(子供)である必要はないんだということが明確になったシーンでもあります。
『トイ・ストーリー4』という作品が「生きる」という深いテーマに踏み込んでいると言われるのは、この存在論への言及ゆえなのでしょう。
アンティークショップと射的に隠された小ネタの持つ意味
『トイ・ストーリー』シリーズってこれまでもそうなんですが、結構作品の中に細かな小ネタを散りばめてあります。
まずは映画ネタと思われるところをいくつか挙げていきましょう。
冒頭のRCが雨の中用水路に流されていくシーンですが、これはホラー映画の『IT』を想起させますよね。
このホラー映画の中にも冒頭に、少年の紙で作った船が側溝を流されていって排水口へと流れ込んでしまうという描写がありました。
そして何と言っても『トイ・ストーリー』シリーズで言及が多いのが『スターウォーズ』シリーズとスタンリー・キューブリック作品です。
『トイ・ストーリー4』に関して言うのであれば、ボーの腕が取れるシーンが完全に『スターウォーズ5 帝国の逆襲』のオマージュネタになっていましたね。
皆まで言う必要もないかと思いますが、ベイダーがライトセーバーでルークの腕を斬ってしまうシーンですね。
あとはスタンリー・キューブリック作品で言えば『シャイニング』と『2001年宇宙の旅』ネタはありましたね。
前者についてはアンティークショップで流れている曲が『シャイニング』のラストで使われた「Midnight, the stars and you」だったり、ダッキー&バニーが妄想でおばあさんからカギを奪うビジョンの中で彼女の家が「237番地」だったりしていました。
後者については、バズの心の声のサウンドに『2001年宇宙の旅』の主人公のセリフの1節が含まれていたと思います。
そして今作の中でも特に重要な小ネタが散りばめられているのが、アンティークショップと射的の露店です。
まず本作に登場するアンティークショップなんですが、ポスターにも描かれている店の開業年を見てみましょう。
(C)2019 Disney/Pixar. All Rights Reserved.
なんと、これはピクサーという会社が設立した年と重なるんですよ。
そして興味深いことに店内にはこれまでのピクサーシリーズを想起させるモチーフがこれでもかというほどに散りばめられています。
例えば上記のポスターの中でも左の方に『カールじいさんと空飛ぶ家』に登場した犬が隠れキャラとして描かれてますよね。
他にも店内には以下のモチーフが確認できました。
- 『ファインディングニモ』のゴーグル
- 『バグズライフ』のクッキーの箱
- 『リメンバーミー』でデラクルスが歌っていた楽曲
- 『カーズ』のリジー風の車(黒のフォード)
- 『メリダとおそろしの森』の紋章
そしてもう1つ重要なのが射的の露店でして、ここにもいくつかピクサーのモチーフが散りばめられています。
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まずパッと目につくのは『リメンバーミー』のギターと『インサイドヘッド』のイカリを模したアイテムですね。
そしてロケットをよく見ていると、ここに有名はLuxo Ball、通称ピクサーボールの模様が描かれているんですよ。
さて、では今作ではなぜ、このように射的店やアンティークショップにピクサーモチーフが集中的にあしらわれていたのでしょうか。
まず、アンティークショップというのは、これはピクサーそのものなんですよね。
これは店の設立年の一致や中に置かれているこれまでの作品のモチーフからも明らかです。
そう考えると、今作でアンティークショップに長年本を読みながら子供と遊ぶことを夢見ていたギャビーギャビーというのはある種のピクサーの象徴的キャラクターです。
そしてアンティークショップの中に足を踏み込んできた女の子に遊んでもらおうとするのですが、これは受け入れられませんでした。
これって言わば、ピクサーがこれまでの作品の「アンティークな価値」に甘んじて、進化や変化を止めてしまえば、いずれ子供に受け入れてもらえなくなるという暗示にも思えます。
だからこそギャビーギャビーはアンティークショップの外の世界へと飛び出していき、そして1人の迷子の女の子に受け入れられます。
つまりこの一連のアンティークショップ関連の描写というのは、全てが常に革新性と深化を追求していくというピクサーの原点回帰でもあり、決意ともとれるのです。
しかし、巧いのはアンティークショップを否定しているというわけではなくて、ボーがウッディと共に店内を徘徊していた時に「美しい風景」を目にしていましたよね。
ボーもその風景を見ながら、ここからの眺めは好きだったとノスタルジーに浸るような講評を述べています。
これまでの作品たちの残してきた功績や美しさを肯定しながらも、それでもそこに甘んじず前に進もうとするピクサーの意志こそが本作のアンティークショップに散りばめられた小ネタの正体なのです。
そしてラストシーンで描かれる射的店から救出されるおもちゃたちの描写もここに繋がります。
象徴的なピクサーボールの模様が描かれていることからも明らかですが、まさに『トイ・ストーリー4』という映画がこれからのピクサーを新たな進化や変化へと導く起爆剤になるんだということを仄めかしています。
近年続編の制作が多く、保守的にも感じられるピクサーが今後どのような作品を送り出してくるのかにも注目が集まります!
おわりに:トイ・ストーリーという子供
いかがだったでしょうか。
今回は映画『トイ・ストーリー4』についてお話してきました。
個人的にはタイトルにもしたように「この結末を受け入れられないけど愛したい」というのが率直な感想です。
ですので、明確にこの映画に対して否というわけでも賛というわけでも今はありません。
ただ最後に1つ書くことがあるとすれば、私は今作を見て、『トイストーリー』というシリーズそのものが1つの子供であり、そして私たちはその成長を見ているように思えました。
- 『トイ・ストーリー』
- 『トイ・ストーリー2』
上記の2作品はとりわけ「おもちゃ讃歌」としての側面が強く、より具象的で狭い世界の物語です。
一方で『トイ・ストーリー3』では明確に変化と成長が見られます。
前述の2作品よりも少しだけ世界観が広がり、これまで具体的に描いてきた世界観を抽象化・一般化することで拡張していくような方向性が垣間見えました。
そして『トイ・ストーリー4』では明確にウッディの抽象化・一般化された「仲間」「子供」という概念への到達を描いていたように思います。
世界の広がり、考えの多様化、具象から抽象への想像力の発達。
これらはまさしく幼少期の子供の精神性の発達のプロセスなんですよ。
だからこそ『トイ・ストーリー』というシリーズが1人の子供なのだとしたら、彼の成長を見届ける上で『トイ・ストーリー4』という段階は描かれなくてはならなかったものです。
そういう意味でも本作なくしてはこのシリーズを終えられなかったのかもしれません。
まだまだ語りたいことはありますし、自分の中で冷静になれていない部分もありますので、もう1度鑑賞したうえでいろいろと整理して追記も順次していこうと思います。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。