『響け!ユーフォニアム3』を巡って。それでも私には原作の結末が必要だったという話。

本記事は一部、作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。

『響け!ユーフォニアム3』の第十二回「さいごのソリスト」を見た。

あまりにも正しくて、それでいて残酷だった。

端的に言えば、原作とは180度正反対の選択により、物語の最終的な目的地が示されるのだが、それでも本作の本質や核となる思想は一切ブレていない。

原作よりも正しい形でそれらに向き合っていると言っても、過言ではないのかもしれない。

「原作改変」という言葉に社会がこれだけ敏感になっている中で、第十一回、第十二回と続く展開を作り出した勇気に敬意を表したいし、その改変の内容の素晴らしさに拍手を贈りたい。

一方で、第十二回が放送された後のSNSでの感想を見ていると、「原作を読んだときに喉の奥につっかえていた小骨が取れたような気がする」といったものが散見された。

その声に対して、私も理解と共感を示す。

なぜなら、原作はテキスト媒体であったがゆえに、ある程度「描かない」選択をしたとしても、読者に対する誠実さを損なわずに済んだからである。

原作は、全国大会のメンバーを決めるためのオーディションから大会当日、そしてその結果発表までの流れをかなり足早に表現していて、何だか事実だけを淡々と綴っているような性急さすら感じさせた。

この強引とも受け取れる描き方、あるいは、脆弱な柱の上に成立していた大団円には、原作が発売された当初も一定の賛否があったと記憶している。

原作をアニメにするとなったときに、逃げられないのが「音」の存在だ。

「テキスト」であれば、物理的な「音」が読み手に聞こえないために、「描かない」ことで逃げられる余地が残されているが、アニメではそれができない。

観客に誠実であるために、原作が余白として残した部分と向き合ったときに、果たして同じ結末を辿れるだろうか?と再検討する姿勢は至極誠実だし、そのプロセスを踏んだ京都アニメーションの制作スタッフたちにはとてつもない覚悟を感じた。

『響け!ユーフォニアム3』は、原作を脚色し、掲げていた主題に忠実で、それでいて美しく正しい物語へと導いたと言える。その点に大いに納得する。

その上で、私は、この第十二回を見たときに、胸がざわざわして、冷静ではいられなくなった。

少し、自分の過去について語らせていただくことを許していただきたい。

私は地方のとある公立高校の部活動(運動部)で主将を務めた経験がある。当時、競技の実力的には一番優れていたこともあって、高校2年生の夏に引退した先輩方と顧問の教師から指名される形で、選出された。

時は流れて、高校3年生の春。新入生が部活動に入部してくる時期だ。そして、その中に自分とほとんど同等の実力をもつ新入生が1人いた。

主将だった自分は、部やチームのことを思い、実力の底上げになるからと大いに喜んだ。

しかし、部内戦で、初めてその後輩に敗れたときに、とてつもない焦燥感に襲われた。

部内で最も実力があるという理由で選ばれた主将のポジションを支える足場が突然、グラグラと揺れ始め、心がざわついたのである。

もっと練習して、実力を誇示しなければ、自分はそこにはいられないと思った。練習しなければ。練習しなければ。練習しなければ。

そう思った自分の決心は思わぬ障害に阻まれた。

6月の学校行事の実行委員長に任命された。さらに、大学受験が控える年なのにも関わらず、学業の成績が大きく落ち込んだ。

練習どころではなかった。実行委員長としての活動は放課後に行われるため、部活動に関われる時間が少なくなったし、テストが行われるたびに落ちていく自分の成績に震えた。

3つのことに追われ、そのどれもに身が入らない日々が続き、やがて心身に不調をきたした。全身に発疹が出たり、気分が落ち込んで、学校を休む日もあった。

その後、どうなったのかまでは語ることを避けたいと思うが、こういう経験を高校時代にした自分にとって、武田先生の著した『響け!ユーフォニアム 北宇治高校吹奏楽部、決意の最終楽章』における久美子はあの頃の自分そのものだった。

だからこそ、彼女の焦燥感や苦悩が自分事のように感じられて、胸が苦しくなったし、読み進めながら、涙が止まらなくなった。

何と言うか物語の登場人物にこんな感覚を覚えたのは初めてだったのだが、「同志」の1人だと素直に思った。

「正しさ」という観点で見たときに、原作のクライマックスの大団円に「喉の奥に小骨がつっかえるような」感覚が残るという意見に理解を示す。

しかし、原作の「正しさ」を欠く大団円に私は救われたのだ。

久美子というキャラクターに自分を重ね、大いに肩入れをしていた自分のエゴを否定しないが、それでも久美子が報われる一抹の歪さを孕む結末に、あの頃の自分が救われたような気持ちになり、ボロボロと泣いてしまった。

話は変わるが、物語の役割とは一体何なのだろうか?

アラブ文学者の岡真理氏は自身の著書『アラブ、祈りとしての文学』の中で文学の役割を次のように定義している。

その惨状の場にいない者、いなかった者達が、当事者達に捧げる祈りである。

彼女はアラブで起きている悲惨な光景を前にして、物書きとしての自分の役割や意義を顧み、上述のような結論を出した。

私はこの「祈り」のための文学(あるいは物語)という考え方が大好きだ。

物語は現実を決定的に変える力は持たないと思う。それについては、岡真理氏も次のように述べていた。

極言すれば、今、すでに起きていることがらに対して祈りそれ自体が無力であるように、小説は無力である。小説は、出来事のあと、つねに遅れてやってきざるをえない無能なものたちだからだ。

同様に、久美子にとっての幸せな大団円が、私自身のあの頃の顛末を何か変えてくれるわけではない。

しかし、私たちは、祈ることで、経験しなかった出来事を思い描き、自分が辿らなかった世界線を知り、叶わなかった生を生きることができるのだと思う。

もしかすると、私のような読者が大勢いて、その大勢の祈りが原作のあの結末を導いたのかもしれない。それはいささか思い上がりだろうか。

さて、このとりとめのない文章で私が何を言いたかったのかというと、ときに「正しさ」を祈りが捻じ曲げることも物語にとっての正しさの1つの形ではないかということだ。

きっと、私と同じような経験をして、原作で久美子が辿り着いた結末に救われた人間がたくさんいるはずだ。

そして、その救いは、いかにアニメ版の展開が「正しい」ものであったとしても、否定されたり、損なわれたりしないものだと信じている。

原作者の武田先生は本シリーズを描くにあたって、次のように述べた。

努力は報われる、ただしそれは本人が望む形とは限らない。というのがユーフォシリーズを書く上で一貫して決めているルールです。

その通りだと思う。現実を生きている私たちは、それがその通りであることを嫌というほど思い知らされてきた。

それでも、本人が望む形で努力が報われる結末を私たちは祈るように物語に求めてしまう生き物なのだろう。

現実に起きてしまった災害は変えることはできないが、物語の中だけでもそれを捻じ曲げて見せた2016年の『君の名は。』の大ヒットはそれを体現しているとも言える。

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ここまで来ると、原作とアニメのどちらが優れているなんて議論は野暮だ。言うまでもなく、どちらも優れている。(この議論を覆面オーディションとそれに対する部員による投票という形で半ば内包し、肯定する姿勢を見せているアニメ版の語り口はあまりにも成熟しているが…。)

しかし、アニメ版が「正しさ」で勝るために、原作の結末への評価が損なわれ、あの大団円を愛した人が肩身の狭い思いをするのではないかという一抹の不安を感じている。

今だからこそ、私は改めて原作を肯定し、讃えたい。

それが自分の歪なエゴだったとしても、個人的な経験に由来する祈りだったとしても、あの頃の自分への救済願望だったとしても。

それでも、あの結末が大好きなんだと胸を張って宣言したい。

末筆ながら、この身勝手で稚拙な私の文章が気持ちを同じくする「同志」の元に届いてくれていたら、嬉しい。