【ネタバレ考察】『メアリと魔女の花』においてメアリは魔法を捨てたのか?

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『メアリと魔女の花』についてお話していこうと思います。

なぜこのタイミングなのかと聞かれると、公開から約1年が経ち、スタジオポノックの新作が夏公開に決まったということで、これは見逃していたこの作品を見ておかなければと思ったからです。

公開当時、あれやこれやと批判を受けていた作品というイメージだったんですが、見てみるとこれは面白いではないですか。非常に頷かされる出来でしたね。旧作なので、それほど考察をする気も無くて、インターネット上の考察を漁りに行ってみたんですが、これが驚くほどに腑に落ちないんですよ。

米林監督のジブリから脱却する覚悟を示した作品だと言われましても、あくまでもこの映画の主役はメアリですし、そのメタ的な視点は作品から目を背けているような気がしますし、はたまた原発批判だと言われても、そういう風に取ろうと思えばとれるけど・・・程度。そしてその適切なのか適切でないのかもよく分からない独自解釈を「正統教義」のように据えて巻き起こる作品への賛否論争。

一体「メアリの物語」はどこへ行ってしまったんでしょうか。こうも腑に落ちる解釈がまだどこにも転がっていないなら、自分で描くしかないと思いました。自分を満足させるためにブログを書く。これぞブログ本来の在り方というものです。

ですので、今回私が書いていく映画『メアリと魔女の花』の解釈は完全に独自のもので、あくまでも自分がこう思ったという範疇を出るものではありません。ただ、この考察を読んで、なるほどなぁと思っていただけるなら、こんなに嬉しいことはないです。

今日はいつもに増して自己満足のために記事を書いていきます。良かったら最後までお付き合いください。

また本記事は作品の内容に深く踏み込んでいくものであり、ネタバレを含みます。その点をご了承いただいた上で読み進めていただければと思います。

『メアリと魔女の花』はあくまでもメアリの物語である

さて、ここから本編について詳細に言及していくわけですが、まずは本論を書いていく前に私がどういう視点と方向性でこの物語を捉えているのかという部分を明らかにしておかなければ、全体の構造が分かりにくくなってしまうと思われます。ですので、最初にここから書いていく内容の方向付けをしておきたいと思います。

私は『メアリと魔女の花』という作品を米林監督の物語とも彼の個人的な主義・思想主張の場とも見てはいません。あくまでもメアリという少女の成長譚として読み解きます。この点がまず最重要項目です。

そして彼女の成長をどう描いた作品なのかという問いに対しては、メアリが魔法を超えた「想像力」を獲得するまでの物語だったとお答えします。つまり、私はこの映画が「メアリが魔法を捨てる物語」だったという見解に対しては、完全に反対の姿勢で書き進めていきます。

これに関してですが、そもそも映画というものは現実に「魔法」をかけて、魅力的に映し出すメディアなのです。『メアリと魔女の花』を米林監督の映画として見ているにもかかわらず、この映画が「魔法を捨てる映画である」と見るのは、いささか矛盾しているようにも感じます。

「想像力」を獲得するまでの物語と言っても、ざっくりしすぎているでしょうから若干補足しておきますと、この作品は「見えるものしか見えなかった少女」が「見えないものを見ることができる少女」へと成長した映画だったのではないかと考えております。

以上の点が私がここから書いていく内容の主軸になる部分です。

メアリの赤い髪と性格について

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

まず、考えていきたいのはメアリという主人公のパーソナリティについてです。

外見的なことから話し始めますと、メアリという少女の最大の特徴は赤毛の縮れ毛です。これはシャーロットおばさんから脈々と受け継がれた血筋的なものであることが予見できますね。そしてピーターがそんな赤毛のメアリを揶揄う描写が多々登場します。

ではなぜ赤毛が嫌われるのか、有名なところで言うと「赤毛のアン」という物語はおそらく多くの人がご存知でしょう。こういった作品において赤毛が嫌われるのは、あくまでもイメージ的なものなんです。キリスト教の世界ではイエスを裏切ったユダは赤毛だった、創世記において人類最初の殺人を行ったカインは赤毛だったという逸話が残っています。こういった赤毛に憑りついた裏切りや不信のイメージが「ヘイト」を生み出していたわけです。

主人公のメアリの赤毛にはそういった背景があるわけです。現実の世界では、疎まれる赤毛。しかし魔法の世界にいってみると、一転してそういった”負”の個性が好意的に受け取られ始めます。「赤毛は強い魔力の象徴だ。」といったことを言われますが、これは赤毛がケルト系の民族に多い特徴であり、彼らの呪術的なイメージと相まって生み出された視点であるように思われます。

世界が違えば、常識は常識ではなくなる。魔法学校のある世界とメアリが暮らしている世界は繋がっているようで、実は大きくかけ離れているわけです。赤毛に対するリアクションという些細な一面で、本作に登場する2つの世界の隔たりや異質さを端的に示した点が非常に面白いですよね。

また、メアリの性格についても考えておきたいところです。シャーロットおばさんたちはメアリのことを「見たものに何でも興味を示す女の子」と評しています。そしておばさんは「それがあの子の良いところよ。」とも付け加えています。

この「見えるもの」に興味を示すという冒頭の彼女のパーソナリティが非常に重要な設定になっているのではないかと私は考えています。彼女はシャーロットおばさんの刺繍や、ゼベディの庭仕事、納屋に立てかけられた箒、黒猫といった自分の目に入ったものには次々に興味を示します。しかし、幾分目新しいものも無く、あの家での生活に退屈さを隠しきれません。

「見えるもの」に執着するという行為は、裏を返せば「見えないもの」を見ようとしていないという発想に辿りつきます。「見えるもの」への執着や好奇心というのは、誰しもが幼少の頃に持っている感性です。そこから発達するにつれて、人間は「見えないもの」を想像する力を身につけていきます。

この力が人間を人間足らしめるものであり、人間が社会を生み出すことが出来た理由であり、芸術や文化を生み出すことが出来た最たる要因でもあります。つまり「見えるもの」に固執する冒頭のメアリの姿は、彼女の未熟さを表現しているようにも捉えることができるわけですね。

「夜間飛行」という青い花が持つ意味とは?

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

本作に登場するモチーフの中で最重要なのが「夜間飛行」という青い花になりますよね。この花の意味をどう解釈するかによって『メアリと魔女の花』という作品の見え方はガラリと変わってきます。

例えば児童文学の『青い鳥』において青色というカラーは、「幸福」の象徴として描かれています。作中でのトリカゴの中にいる青い鳥という描写は、幸せは自分の身近にあるということのメタファーとして受け入れられ、青に幸福という意味合いを付け加えました。

また、ノヴァーリスの『青い花』においては、青い花はどんなに手を伸ばしても届かない遥かなる理想という意味合いを持っています。ここでも青色というカラーが手に入れたいものを象徴するものになっていることが伺えます。

しかし英語ではブルーと言うと憂鬱な気分を指す単語として捉えられます。2016年に公開された『ブルーに生まれついて』というチェットベイカーの伝記映画ですが、この作品を見ても、ブルーとはメランコリックさの象徴であり、チェットがそんなブルーに生まれついてしまった自分の境遇をも受け入れ、突き進むという姿勢が強調されています。

ロマン派のオペラに「アラベラ」という作品がありますが、このオペラは徹底的に青色の舞台演出にこだわりを見せており、それが少女の夢見がちな「若さ」や「未熟さ」を強調しています。2017年に公開された映画『ララランド』でも青色が同様の用いられ方をしているのは自明でしょう。

このようにひと口に青色がこういう意味ですと限定的に解釈してしまうことは難しいんですよ。ただ私が注目したいのは、ノヴァーリス的な青い花が「どんなに手を伸ばしても手に入らないもの」の象徴であることと、ロマン派的な青色が「若さ」や「未熟さ」を孕んでいるという側面です。

この点を当てはめて考えると、『メアリと魔女の花』に登場する「夜間飛行」という青色の花に込められた意味が見えてくるのではないでしょうか。

まずメアリがこの花に出会い、魔法の世界へと足を踏み入れますよね。そしてその後もたびたび「夜間飛行」の力に頼ることで、困難に立ち向かいます。しかし最後の最後ので彼女は青い花を自分の意志で手放しますよね。ここまでの一連の描写が、『メアリと魔女の花』という作品がメアリの「未熟さ」からの脱却の物語であることを明らかにしています。

一方でマダムマンブルチュークやドクターデイの視点から青い花を見てみると、それはノヴァーリス的な「どんなに手を伸ばしても手に入らない理想」を表しているようにも見えます。だからこそそんな「夜間飛行」の幻影に囚われている彼らは未熟な人間として描かれているわけです。

こう考えてみると、ラストシーンにおけるメアリが青い花を投げ捨てたシーンが「魔法」を捨てたのではなくて、自分の「未熟さ」を投げ捨てたのであるという側面が見えてきます。

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『メアリと魔女の花』に反映された世阿弥の精神

実はですねこの章で書いていくことが、私がこの記事の中で最も書きたかったことなんですよ。私はこの『メアリと魔女の花』という作品には世阿弥の「風姿花伝」の考え方や「幽玄」についての考え方が強く反映されているのではないかと考えています。世阿弥というのは、日本史なんかでも登場する能という芸能を大成させた人物です。ここからはその論拠を示してみようと思います。

メアリが旅を”させられる”物語

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

この作品を見ていて非常に印象的なのが、メアリが乗っている箒ですよね。箒はまるで自分の意志を持っているかのように行動していますし、それは時にというよりも決まってメアリの意志に反した行動をとります。

基本的に映画の中で「旅」を主軸に据えた作品は「ロードムービー」と呼ばれるわけですが、こういうジャンルの映画においては、あくまでも主人公は旅行をする人間にあります。それを示す象徴的な事実が、ロードムービーにおいては電車で旅をする映画が非常に少ないということです。車やバイク、徒歩、時には芝刈り機乗って(映画『ストレイトストーリー』)なんてこともありますが、基本的には旅の主導権が人間に握られているんです。

電車や列車とは、出発点と到着点がレールによって決められていますし、自分の意志で行き先を途中で変更することが叶わないんですよ。だからこそ「ロードムービー」という主人公が主体的に旅をする映画においては、電車は登場しにくいんです。

『メアリと魔女の花』に話を戻しますと、この映画において実は終盤に至るまでメアリは「主人公」ではないんですよ。彼女は世界とそしてあの箒によって、ただ旅をさせられているだけなんです。

実はこの旅の在り方というのが、世阿弥の考える能に登場する旅に近いものなんです。世阿弥の能はしばしば「訪れ」の演劇であると評されますが、これは彼女が物語の主軸に常に「旅」を据えるからなんです。

メアリは箒と「夜間飛行」の花によって意図せず、エンドア大学を巡る魔法の物語へと組み込まれていきます。そこにはメアリの主体性はなく、彼女はただマダムマンブルチュークやかつてのシャーロットが引き起こした因果律の中で翻弄される存在です。そして彼女たちの物語の中で、青い花とそしてピーターという実験体をもたらす役割を受動的に担わされる羽目になります。その後、メアリは箒の意志によってかつてのシャーロットの暮らしていた家へと導かれます。ここまでは、メアリはこの作品の主人公として成立していないんですよ。

面白いのは現実世界で退屈していた、さらには赤い髪のせいで不快な思いをしていたメアリという存在が、魔法の世界では受け入れられるという事実でもあります。

世阿弥の描く能の世界においては「歓待」という概念が存在します。これは世阿弥の物語において旅に出る人間が決まって、苦境に立たされた者、罪を犯した者、異形の者と「排除される側」の存在であり、そんな彼らの罪や苦しみを癒すのが旅であるがゆえに取り沙汰される概念なんです。

そう考えると『メアリと魔女の花』にはこの世阿弥的な「歓待」の考え方が通底しているようにも考えられるわけです。

名作『鵺』に通ずる「歓待」を求める旅

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

『メアリと魔女の花』という映画作品が世阿弥が作り出した名作『鵺』に非常に通じる点が多いのは偶然なのでしょうか。それとも必然なのでしょうか。

まずは『鵺』という作品のあらすじを簡単に書いておきます。

日本全国を旅してまわっている一人の僧がいました。彼は熊野参詣からの帰り道に摂津国芦屋の里にさしかかった頃に日が暮れてしまったので、その夜はこの地に留まることにしました。

彼は宿を借りようと、里の人たちに声を掛けますが、その里には「よそ者を泊めてはならぬ」という規則があり、宿を貸すことはできないと言われてしまいます。里人は、「州崎の御堂ならば泊まることができるが、そこには化け物が夜な夜な現れるという噂である」と僧に教えます。

僧が御堂に泊まっていると、丸木舟に乗った怪しげな男が現れ、自分がかつて源頼政の弓に射られた鵺の亡霊であることを明かし、その時の様子を語ると、舟に乗って消え去ってしまいます。僧が弔っていると、ついには鵺の亡霊が姿を現し、自分を討った頼政が名を上げたこと、それに引き換え敗れた自分は迷いの道を彷徨っていることを語り始め、最後には自身の救済を希求しつつ夜の海の闇へと消えていきます。

さて、この物語のどこが『メアリと魔女の花』に共通しているのかという話になりますが、メアリはエンドア大学という魔法の世界から一見「歓待」されていたようなんですが、そこには変身の魔法に苦しむ動物たちが閉じ込められた金庫という場所がありました。

そして「夜間飛行」の事実が知れるや一転して、彼女は「歓待」される存在ではなく、むしろ虐げられる存在へとコンバートしていきます。つまり、『メアリと魔女の花』という作品は『鵺』という能の中に描かれた僧が感じている「歓待の欺瞞」をそのまま反映しているんです。

エンドア魔法学校はメアリの様な”赤毛の”女の子をも才能ある魔女だとして受け入れてくれるような「歓待」の場でありながら、余所者を変身魔法の刑に処すという「隔離」の側面も持ち合わせているわけです。この点で、『鵺』に登場する村と『メアリと魔女の花』のエンドア大学は似たような性質を持っています。

さて次に鵺の亡霊に視点を移していくわけですが、世阿弥の物語の鉄則として、既存の物語を解体してそこから「私」という存在を移植するというアプローチがあります。これはどういうことかと言いますと、もともと源頼政の弓に射られた鵺というのは「平家物語」に登場するエピソードなんです。ただ、「平家物語」ではあくまでも源頼政に主眼がありますから、鵺には「語る」ことは許されません。

そういった虐げられた存在を既存の物語から抜き出し、能の舞台で「私」という存在意義を付与した上で「語らせる」というのが世阿弥の手法なんですね。だからこそ「平家物語」では語ることが許されなかった鵺は、世阿弥の物語の中で「語る」ことを許されるわけです。

『メアリと魔女の花』に話を戻しましょう。この映画の中でマダムマンブルチュークたちの物語の中で虐げられ、金庫に閉じ込められたことで「語る」権利を奪われてしまったのは、動物たちであり、ピーターであり、メアリであるわけです。

映画の終盤では、メアリが箒と「夜間飛行」の力に頼らずにピーターの救出に向かうことを決意します。この瞬間にメアリはマダムマンブルチュークやシャーロットおばさんによって構築された因果や世界から解き放たれ、自分の物語を「語る」ことを許された文字通り「主人公」へと変わります。

そしてメアリが目指すのはシャーロットおばさんたちが待つ「赤い家」です。そこはメアリにとっての「歓待」の場所なんです。つまり、誰かの物語を解体することで剥き出しになった存在が「歓待」の場所を求めて「語る」姿を描いた点で、「鵺」という作品に代表される世阿弥の思想が『メアリと魔女の花』に大きく関係しているのではないかということは指摘出来てしまうわけです。

時分の花とまことの花

(C)「メアリと魔女の花」製作委員会

世阿弥が「風姿花伝」の中で印象的に描いたのが2つの「花」なんです。これが時分の花とまことの花であるわけです。「風姿花伝」は世阿弥の人生論でもあり、能の稽古の指南書という側面も持ち合わせています。

まず、「時分の花」についてですが、これは読んで字の如くで、一時的にしか咲かない花のことを表しています。これは幼少期の人間は誰でも美しく、幼いがゆえに幽玄(能において追及される最大の美)であるということを指しています。幼い子供というのは、それだけで美しく花のようである、しかし成長と共にその「時分の花」は衰えていくものであるから一時的であると言っているわけです。

付け加えるなれば、「時分の花」の美しさというのは、極めて外見的なものによるところが大きいということです。つまり目に見える美しさのことを指して「時分の花」という言葉を使っているのです。

一方の「まことの花」というのは、「時分の花」がすっかり枯れて無くなってしまった後に、本気で稽古に打ち込んだ者だけが咲かせることのできる能役者の極致にあるものです。

さらに言うと「まことの花」というのは、見えない花なんです。外見的な美しさではなく、そういった美しさが枯れ果ててしまった後に宿る「幽玄」的な美しさを表しているわけです。これは花が散ってしまった老木を見た時に、思わずその老木に花が咲き誇っていたかつての姿を想像してしまうというイメージです。

つまり世阿弥の考える能の世界においては、見える美しさである「時分の花」が無くなった後に、自分が懸命に努力することで手に入れられる「まことの花」を咲かせられるかどうかに能役者の肝要があると考えられていたんですね。

『メアリと魔女の花』に話を戻しましょう。メアリは冒頭から「見えるもの」に何でも好奇心を示し、そして「見える力」である「夜間飛行」に傾倒している節がありました。これはまさしくあの青い花が「時分の花」であることを示しています。

しかし冒険の果てに、メアリは一人の人間として成長しその「時分の花」である青い花を投げ捨てます。これはまさしく彼女の成長なんですよ。目に見える力や美しさではなく、目に見えないものの力を知った、魔法以上の力を彼女は知ったのです。

ハリーポッターシリーズの作者として知られるJ・K・ローリングがかつてハーバード大学の卒業式でこんな演説をしていました。確かに我々の世界には「ハリーポッター」の世界のように魔法は存在しませんが、我々人間は魔法よりもずっと優れた「想像力」という力を持っていますと。

まさしくメアリはそういう「見えないもの」を想像する力を手に入れたわけですよ。花の無くなった手と、壊れてしまった箒を彼女が見つめるシーン。彼女には「見える」力は無くなってしまいました。それでも彼女は今自分がどう行動すればよいのか「想像」することが出来ました。ピーターを救う最終局面に至って、彼女が「夜間飛行」という目に見える力に頼るのではなく、目に見えない解決策を頭の中から捻り出し、事態を収束させたところにもそんなメアリの成長が見え隠れしています。

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幽玄とセカオワの「RAIN」

本作の主題歌はSEKAI NO OWARIの『RAIN』という楽曲なんですが、この曲の歌詞を見てみると、いかに彼らが『メアリと魔女の花』の世界を深く理解し、この歌詞を書いたのかが見えてきます。

虹が架かる空には雨が降ってたんだ
虹はいずれ消えるけど雨は草木を育てていくんだ
虹が架かる空には雨が降ってたんだ
いつか虹が消えてもずっと僕らは空を見上げる

サビの部分の歌詞を引用してみましたが、特に注目してほしいのが、赤色で染色した部分の歌詞なんですよ。

世阿弥が唱えた「幽玄」の美しさを紐解いていきますと、つまりは「幽」であるがために実体がなく捉え難い上に、「玄」(暗い)がために見えにくい、そんな美しさのことを指していたのではないかと考えています。彼女は老人(老木)にも、花が散り塩れた様が美しいと評するのはそのためだと考えられます。

つまり単純に見えているものの美しさというよりもっと捉え難く、見えにくい、余情の美を表現しているんですね。

この「幽玄」の美というのは、まさに人間が「想像力」という目には見えないものを作り出す力を持っているからこそ存在しうる能の世界における最高級の美のイメージなんです。そして本作『メアリと魔女の花』では、主人公のメアリが「想像力」という力を獲得するまでの物語が描かれました。

ここで『RAIN』の「いつか虹が消えてもずっと僕らは空を見上げる」という歌詞に話を戻しますと、この一節が極めて「幽玄」的な美しさに裏打ちされた光景を表していることが分かります。

虹がある空を見て、虹が綺麗だと評することは子供にもできます。しかし、虹が消えてなくなった空を見て、虹がある様を想像してその余情の美を楽しむということは「想像力」が備わっていない子供にはできないことなんです。

だからこそ「虹が消えても空を見続ける僕ら」という歌詞は極めてメアリのことを指しているように取れますし、そういう見えないものを「想像」できるようになったメアリの成長と世阿弥的な「幽玄」がこの歌詞に込められているわけです。

私が主題歌として『RAIN』に100点満点を上げたいのは、こういう作品の深い部分を理解しているのではないかと思わせてくれるところなんですね。

おわりに

さて、ここまで長々と語ってきましたが、結局何が言いたかったのかと言いますと、メアリは「魔法」を捨てたわけじゃないということですよ。この映画は「魔法」との決別を描いたわけではないんです。

メアリが「魔法」という目に見える強さや力から脱却し、それよりももっと強い「想像力」という人間特有の力を手に入れるまでの物語なんです。

私はあまり好きな視点ではないのですが、この映画を米林監督の映画だと見ている方の主張にも、この見方の方が合理的だと思うんですがいかがでしょうか。だって「魔法」を捨てるってある意味「フィクション」を捨てることですからね。「捨てた」のではなく、より強い力を手に入れたと見た方が自然かと思います。

そしてこの「想像力」獲得物語は誰にも起こりうるものです。誰しもが「見えないもの」を想像する力を獲得して、社会性というものを身につけていくわけです。それが人間の社会の根底にありますからね。

メアリという少女に起こったつかの間の「夜間飛行」が彼女を成長させました。

やはり私としては『メアリと魔女の花』という作品はメアリの物語として読み解きたかったのです。ジブリからの決別を示した米林監督の物語としてではなくです。

皆さんはこの『メアリと魔女の花』をどう捉えましたか??公開から1年が経過しましたが、スタジオポノック最新作の公開に合わせて、地上波でも放送されることが決まったようです。

またこの作品について熱い議論が巻き起こると良いなぁなんてことを思いながら、この記事を締めくくらせていただきます。

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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