【緊急特集】映画のパロディAVを見る意義について語りたい。

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね表題の通り映画のパロディAVの存在意義、鑑賞意義について語っていこうと思います。

もちろんこのようなテーマですので、下ネタを含むことが前提となります。下ネタが苦手な方にも配慮して書いていくつもりですが、苦手な方には読むことをお勧めしません。

良かったら最後までお付き合いください。

 

映画のパロディAVとは?

映画というものが光であれば、パロディAVというのはその対になる存在。別の例えをするなれば、映画は太陽、パロディAVは月である。

パロディAVは自ら輝きを放つことはできない。というのもそれだけを見て評価するなれば、B級AV、いやC級にも満たないAVという評価を下さざるを得ないだろう。

だが、元ネタになった映画と相互に比較しながら見ることで、その価値や評価は大きく高まる上に、元ネタになった映画そのものにも新たな視点や価値観を付与することすらあるのだ。

パロディAVは映画があるから存在している。しかし同時にパロディAVは映画をよりいっそう輝かせることもできる。両者は一見相反するように見えて、実は相互補完関係にあるということを忘れてはいけない。

パロディAVを馬鹿にする者は、パロディAVでヌく・・・・あ、間違えました。パロディAVを馬鹿にする者は、パロディAVに泣くのだ。

今回は、そんなパロディAVの素晴らしさを語らせていただこうと思う。

 

当ブログパロディAV記事のバックナンバー

・チンコジラ(映画「シンゴジラ」パロディ)

・君の縄(映画「君の名は」パロディ)

 

パロディAVを見る意義を考える

今回、私が論じたいのは「パロディAVのパラドックス」についてである。ということで私が今回導き出したい結論を先に述べておくこととする。

パロディAVは映画である。

これが今回私が導き出したい至上命題である。ただこの結論は現時点では、どう考えても正しいとは思えないだろう。というのもパロディAVというのは映画ありきの存在であるからだ。

映画が存在しなければ、パロディAVは存在できない。その上、そもそもパロディAVというのは男性のための娯楽として世の中に提供されている逸品である。そう考えた時に、パロディAVはどこまでいってAVの範疇から脱出できないことは自明であろう。

私自身もこう考えていた。私は「チンコジラ」で華々しいパロディAVデビューを飾ったのだが、これを買った時は正直ネタのつもりだったと言わざるを得ない。興味本位、好奇心の主導で購入に至ったことを否定するつもりはない。

ただこんな私のパロディAVに対する視線を変えてくれたのは、他でもない「君の縄。」という作品だった。

この作品は確かにパロディAVなのだが、それ以上に本編「君の名は。」のアナザールート、アナザーエンディングストーリーとして仕上がっているのである。つまりこの「君の縄。」という作品は、映画「君の名は。」の一部であり、並べて批評されうる対象なのだ。

さらに言うなれば、その後に購入した「ワンダーヤリマン」が私に与えてくれた影響も計り知れない。この作品は正直AVとしては最低の駄作である。アメコミヒーローがスーツを着たままでしょうもないセックス描写を展開するためにAV本来の役割は果たせないだろう。

しかし、映画「ワンダーウーマン」と合わせて見ることで本作はより一層輝きを増すのだ。DCEUが問い続ける神話のモチーフを継承している点はさすがと言える。

ただそれ以上に注目したいのが、この「ワンダーヤリマン」がパロディAVにも関わらず、全くエロくないということである。全くエロくないのである。大切なことなので2回申し上げた。

これが何を意味するかというと、この「ワンダーヤリマン」が映画とパロディAVの境界を覆そうとすらしていることだ。

AVがエロいものであるという認識は社会一般的なことだと思う。だが、考えて見て欲しのだ。パロディAVはAVのカテゴリーの中では最低ランクのエロさしか持ち合わせていないのである。

つまりパロディAVはエロくないのである。

そう考えていくと、パロディAVというものをAVの範疇に収めておくことにすらもはや疑問符をつけざるを得ないのだ。

さらに言うなれば、パロディAVを見ることで、目が性的な描写になれてしまう。あまりにも「見えすぎる」と人は慣れてしまって、快楽を感じなくなるのである。そういう心理状態になった時に、映画本編を見返してみると面白い現象が起きる。

なんと映画本編がどうしようもなくエロく見えてくるのである。「シンゴジラ」も「君の名は。」も「ワンダーウーマン」もどうしようもなくエロく見えてくるのだ。

「見えないものを見ようとして望遠鏡をのぞき込む」かのようにして我々は、パロディAVでは晒されていたが、映画では隠されている不可視の領域に何とか侵入しようと無意識に働きかけてしまう。そのプロセスにエロスを感じてしまうのは私だけだろうか?いやそんなことはなはずだ。

つまりパロディAVを見ることで、映画は単体で見た時以上にエロいものとして見えるようになるのだ。

では、もう一度考えてみよう。AVとは、性的快楽を得るための媒体であり、エロい映像メディアの総称であったはずだ。ただ、ここまでの主張でもはやその定義がパロディAVに適応されうるものであるかは雲行きが怪しくなってきている。なぜならパロディAVよりも映画の方がエロいという状況が現に生まれてしまっているからだ。

つまりパロディAVこそが映画であり、映画こそがパロディAVなのではないか?と錯覚してしまうほどなのだ。

さらに言うなれば、私は映画というものは、「記録」であるという認識が強い。それはフランスのリュミエール兄弟が開発したシネマトグラフに付随する映画の原初的な在り方だ。

近年、映画というメディアは本来の意義からは離れ、娯楽として確立されつつあるように思う。カットの連続やCG、VFXの登場もあって、「記録」という側面は薄まってきている。

だが、パロディAVないしAVというのは、「記録」という側面から考えると最も近似的なものではないだろうか?というのもAVというのは、性行為描写の「記録」なのだ。だからこそあまりカットが存在していないし、余計な視覚効果も存在しない。

これまでの主張を踏まえて考えてみると、今や映画とパロディAVのボーダーラインは実に曖昧なものになってきていることがお分かりいただけるだろうか?

現代の映像メディアを考えるに当たって、パロディAVはAVであるなんてステレオタイプはもはやアウトオブデイトな主張なのかもしれない。

パロディAVは映画なのである。

そして今や映画はAVなのかもしれない。

これからの映画とパロディAVを取り巻く環境について注視していく必要があるだろう。

その調査と研究のためと称して、私はこれからもパロディAVのDVDを購入するのである。

 

おわりに

いかがだったでしょうか?

今回の記事を読んで、1人でも多くの方がパロディAVに興味を持っていただけたとあらば、私は嬉しいです。

入門編として「チンコジラ」は特にお勧めです。「シンゴジラ」を鑑賞した人であれば、間違いなく楽しめる作品になっています。

水城りの
株式会社トップ・マーシャル / メーカー:ケイ・エム・プロデュース / レーベル:REAL
2016-12-09

 

 

これからの映画パロディAV業界には注目ですよ!!

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

 

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