2017年の個人的ワースト映画候補について語りたい。

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

当ブログをいつも読んでくださっている方はご存知かと思うのですが、私、あまり否定的なレビューをこのブログに書きませんよね?というかほとんど書いたことがありません。

ただ1度だけ、作品を全力で批判するレビュー記事を書いたことがあります。昨年の年末に公開された「ポッピンQ」というアニメ映画の感想記事ですね。これを書いた時にですね、作品の肯定派からさんざん苦言を呈されまして、ちょっとしたボヤ騒ぎになってしまったんですね。

参考:【ネタバレ感想】『ポッピンQ』は一体何がしたかったのか?

これを経験してからというものの、否定的なレビューを書くと、作品の肯定派からまたいろいろと批判を浴びるのではないか?とビビりにビビっておりまして、結局それ以来、作品を批判する記事を書いていません。

「このブログいつも作品を絶賛してんなあ・・・。」と思っていた方もいるかもしれません。

実はその裏には、私の崇高なポリシーがあったんですね・・・嘘です、ただビビって書けなかっただけです(笑)。

絶賛記事ばかりを書いていますが、全ての作品が好きなのか?と問われると、私も人間ですので、決してそんなことはありません。今年は映画館で実に40作品以上の映画を見ていますが、その中にはもちろん気に入らなかったものもあります。

今回は私が今年映画館で見た作品で、特に気に入らなかった作品2つを取り上げて、その不満点を語ると共に、自分の映画の評価基準みたいなものも話していけたらと考えています。

当ブログ管理人が気に入らなかった映画2作品

まずは、当ブログ管理人のナガが気に入らなかった2作品を紹介しておきたいと思います。

1作品目が、映画「LION ライオン 25年目のただいま」ですね。

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(C)2016 Long Way Home Holdings Pty Ltd and Screen Australia 映画「LIONライオン25年目のただいま」予告編より引用

2作品目が、映画「新感染 ファイナル・エクスプレス」ですね。

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(C)2016 NEXT ENTERTAINMENT WORLD & REDPETER FILM. All Rights Reserved. 映画「新感染ファイナル・エクスプレス」予告編より引用

作品の紹介

もちろん作品を見ていない人もいるかとは思いますので、できるだけネタバレは避けるようにしたいと思います。それに加えて、最初に簡単にではありますが、作品を紹介してから本論を進めていこうと思います。

「LION ライオン 25年目のただいま」

 インドで迷子になった5歳の少年が、25年後にGoogle Earthで故郷を探し出したという実話を、「スラムドッグ$ミリオネア」のデブ・パテル、「キャロル」のルーニー・マーラ、ニコール・キッドマンら豪華キャスト共演で映画化したヒューマンドラマ。1986年、インドのスラム街で暮らす5歳の少年サルーは、兄と仕事を探しにでかけた先で停車中の電車で眠り込んでしまい、家から遠く離れた大都市カルカッタ(コルカタ)まで来てしまう。そのまま迷子になったサルーは、やがて養子に出されオーストラリアで成長。25年後、友人のひとりから、Google Earthなら地球上のどこへでも行くことができると教えられたサルーは、おぼろげな記憶とGoogle Earthを頼りに、本当の母や兄が暮らす故郷を探しはじめる。
映画com.より引用)

「新感染 ファイナル・エクスプレス」

 ソウルとプサンを結ぶ高速鉄道の中で突如として発生した、謎のウィルスの感染拡大によって引き起こされる恐怖と混沌を描いた韓国製サバイバルパニックアクション。ソウルでファンドマネージャーとして働くソグは妻と別居中で、まだ幼いひとり娘のスアンと暮らしている。スアンは誕生日にプサンにいる母親にひとりで会いにいくと言い出し、ソグは仕方なく娘をプサンまで送り届けることに。ソウルを出発してプサンに向かう高速鉄道KTXに乗車したソグとスアンだったが、直前にソウル駅周辺で不審な騒ぎが起こっていた。そして2人の乗ったKTX101号にも、謎のウィルスに感染したひとりの女が転がり込んでいた。主人公のソグ親子のほか、妊婦と夫、野球部の高校生たち、身勝手な中年サラリーマンなど、さまざまな乗客たちが、感染者に捕らわれれば死が待ち受けるという極限状態の中で、生き残りをかけて決死の戦いに挑み、それぞれの人間ドラマが描かれる。韓国のアニメーション界で注目を集めてきた新鋭ヨン・サンホ監督が初めて手がけた実写長編映画で、今作の前日譚となる物語が長編アニメ「ソウル・ステーション パンデミック」で明らかにされている。
映画com.より引用)

なぜ否定的なの?

この2作品って映画ファンの間でもすごく評判の良かった2作品なんですよね。それだけに、ブログでもTwitterでもあまり否定的な意見を書きづらかったんですよね。たくさんの人が高評価をして盛り上がっているところに、あんまり水を差したくないなあという思いが強かったんですね。

ただ、2作品とも公開から少し間も空いて、だんだんと落ち着いてきたかな?という頃合いですので、当ブログとしては久々の少し否定的なレビュー記事を書かせていただこうという風に思いました。

で、なぜこの2作品に否定的なの?という本質的な部分をまずは説明しておこうと思うのですが、この2作品の不満点は共通しています。

それは、エモさを出そうとする露骨な演出なんですね。

映画「LION ライオン 25年目のただいま」なんかはもう終始、観客の涙を誘おうとする過剰な演出が散見されました。

また、「新感染 ファイナル・エクスプレス」に関しては、割とその点を踏まえた演出になっていたのに、終盤になって急に、エモさを出そうとする露骨な演出の連続になり、正直冷めました。

このいわゆる「お涙頂戴」演出って邦画に多い印象だったんですよね。もちろん邦画総じてというわけではありません。しかし、邦画に比較的多いのではないか?というのは感じずにはいられませんでした。

昨年、2016年の個人的ワースト映画候補には、「四月は君の嘘」「人生の約束」という作品が入っていました。この2作品も、いわゆる「お涙頂戴」演出が露骨すぎて、すっかり白けてしまった作品なんですよね。

しかし、今年は、日本国外の作品にそういった演出を見つけてしまい、すごく失望してしまいました。

「お涙頂戴」演出の何が嫌なの?

ここからは、私の映画評価観のようなものをお話ししたいと思います。

まず、最近の記事でもたびたび名前を挙げていると思うのですが、私の一番好きな映画監督はヴィムヴェンダースというドイツ人の方なんですね。おそらく有名なのは、「パリ、テキサス」と「ベルリン・天使の詩」の2作品だと思います。他にもロードムービーの名手として有名で、「都会のアリス」・「まわり道」・「さすらい」といったロードムービーの傑作を数多く世に送り出しています。

そして彼の作品を敬愛するがために、映画評価観は、彼の影響を大きく受けています。

ヴィムヴェンダース監督という人は、徹底的に映像と物語の対立関係に挑み続けている映画監督なんですよね。

ヴィムヴェンダース監督は元々画家だったんですよね。それである時、思い立って風景を映像に収めようとしました。線路の見える無人の風景をただ16ミリフィルムに焼き付けるだけ、そんな作業をしていた時に、1人の男が線路に走りこんできました。そして画面の右側から突如として電車が走りこんできたんですね。結局その男は列車の通過直前に線路を渡り切っていたようです。しかし、このことが、ヴィムヴェンダース監督が映画を撮ることの原点になったと言われています。

ただの「線路の見える風景」に、1人の男が走りこんできただけで、そこには「物語」が生まれたんですよね。その男は追われていたのだろうか?はたまた自殺しようとしていたのだろうか?と無限に想像を膨らませ、そこに物語を見出すことができます。物語というものは作為的に作ろうとせずとも、そこに生まれるものなんですね。もっと言うなれば、映像を見た者が無限の物語を創造することも可能であるわけです。

しかし、映像と物語というものは対立関係にあるんですね。というのも映像を映画として編集しようとすると、映像は独りでに物語を語ろうとするのです。そしてその過程で、映画監督は或る一つの終着点へとその物語を帰着させようとするわけです。

一方で、ヴィムヴェンダース監督は、映像と物語はそれぞれ独立したものであると考えています。そして映像を映画として一つの物語に詰め込んでしまうような操作をしないんですね。

それは物語を否定しているというのとは少し違います。彼は物語を「旅行のコース」のようなものであると評しています。つまり、物語というものは、地図の中に進むべき方向を指し示してくれるものだということですね。そしてこれはある意味で、鑑賞する側のためのものなんですよね。

ヴィムヴェンダース監督の作品には、脚本をほとんど書かずに製作されたものも多くあります。つまり、彼は映像というものの魅力を心から信じていた人なんです。だからこそ彼は、彼の撮りたいと思った映像を積み重ねていき、最後の最後でようやく自分の目指していた場所が分かるんだと言います。

ヴィムヴェンダース監督は、物語は「嘘をつくもの」であると指摘します。しかし、映画というものはその嘘である物語なしには作り上げる事ができません。このどうしようもない矛盾を抱えながら、彼は映画作りに葛藤していました。

しかし、彼の作品を見ると、作為性を持って作られた映像だなんてことを微塵も感じないんですよね。ただそこには映像があるだけなんです。しかし、映画を見終わってみると、確かにそれは一つの物語だったと感じるのです。

私にとって良い映画というのは、こういう映画のことなのです。逆に言うなれば、映像を物語の中に押し込んで、暴力的に物語をコントロールして作り上げられた、作為的な映画には何の魅力も感じないのです。

映画を見ている間はただ映像に没頭していて、我々はただの観察者でしかありません。しかし、その一連の映像を見終えた後で、初めてそこに物語性を付与することができます。だからこそ、映画を見ている最中に、映画の製作側の物語を収束させようとする作為性が見え透いた瞬間に、私は急に白けてしまうんですよね。

そしてその最たるものが、いわゆるあの「お涙頂戴」演出ということです。これは特定の物語ないし特定の感情に見る者を導こうとして、作為的に映画に取り入れられるものです。確かに作為性の無い映画なんてものは存在しえませんが、良い映画は製作側の作為性を見る者に感じさせません。

だからこそ私にとって映画の最大の評価ポイントは、映像と物語が独立しているかどうか、これなんですよね。ゆえに、物語の奴隷になった映像なんて見たくないのです。

参考:【ネタバレ】『パリ、テキサス』イメージの魔術師ヴェンダースの真骨頂!!

映画「LION ライオン 25年目のただいま」と映画「新感染ファイナル・エクスプレス」(の終盤)にはそういった作為性が嫌というほど滲み出ていました。この2作品には、個人的に「映像」というものへのリスペクトが感じられないのです。

他の方がこの2作品にどういった意見をお持ちかは分かりませんが、個人的にはどうも苦手な作品となってしまいました・・・。

おわりに

これを言っておかないとまた荒れるんですよね。

今回の記事の内容は、あくまで個人の意見であり、作品に対しての批判です。この作品に対する他の方の意見や感想を批判するものではございません。

みなさんは、普段どんな観点で映画を評価していますでしょうか?

もちろん1つの観点だけで映画を評価するなんてことはないでしょう。しかし、これを満たしていなければ、受け入れがたいという絶対命題みたいなものが自分の中にあると思うんですよ。私にとっては、今回の記事で述べてきたことが映画に求めている絶対命題なんです。

だからこそ、そこを満たしていない作品は、どうしても評価が低くなってしまいます。

皆さんも自身の映画評価観について、じっくり考えてみてはいかがでしょうか?

今回も読んでくださった方ありがとうございました。

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