【ネタバレ考察】『ノーシャーク』はなぜサメが登場しないにも関わらず「サメ映画」なのか?

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ノーシャーク』についてお話していこうと思います。

ナガ
サメが全く登場しないサメ映画ということで注目を集めている作品です!

「サメ映画」は、『ジョーズ』の1作目以外漏れなくB級なんて冗談が言われるくらいには、ぶっ飛んだ作品ばかりが存在するジャンルです。

双頭のサメが登場したり、お風呂にサメが登場したり、しまいにはトルネードの中にサメがいる、砂漠や丘にサメがいるなんて作品もあり、もはや何でもありの状態でした。

そんな中でコーディー・クラーク監督によって制作された『ノーシャーク』はついにサメが登場しないサメ映画となっており、ジャンル映画としても来るところまで来たな…という感じですよね。

「サメ映画」というジャンルがZ級作品に溢れていることもあり、多くの映画ファンは今作についても、「どうせまたぶっ飛んだZ級映画なんだろ?」とため息を漏らしながらスルーしてしまうのかもしれません。

しかし、『ノーシャーク』はサミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思わせるように作りの作品であり、それでいて「メタ・サメ映画」として非常に批評性の高い作品と言えます。

現在、本作をダウンロード配信しているAmazonの解説文を見てみると、こんなことが書かれていました。

ある種の苦悩を内面に抱えつつも、「サメに食べられる」という夢を叶えるためにニューヨークのビーチを放浪する女性・チェイス。そんな彼女の独白を12話から成るエピソードで綴ったダーク・コメディ。

ここに書かれてある通りで、本作は確かに主人公のチェイスがさまざまなビーチを訪れ、そこでサメがやって来るのを待ちながら、人間観察し、それについての自分なりの分析を心の声で話し続けるという風変わりな映画です。

加えて、タイトルが表している通りで、サメが登場するシーンは最後までありません。

また、上記の解説文に「ダーク・コメディ」という文言がありますが、本作はこれまでに存在する「サメ映画」というジャンルそのものにシニカルな視線を投げかける作品になっています。

そんな本作を見るにあたって、ぜひ考えていただきたいのは、「『サメに食べられる』はビーチにいる水着の美しい女性たちにとって何を意味するのか?」という問いです。

サメが登場しない映画において、サメに食べられたいと願い続ける女性。そんな女性にとって、サメにはどんな意味があるのか。

ここに注目しながら見ると、一見モノローグの羅列でしかない本作に込められたアイロニーが少しずつ顔を覗かせるはずです。

今回の記事では、そんな本作の「メタ・サメ映画」としての側面について、自分なりの解釈を書いてみようと思います。

記事の都合上、本作は作品のネタバレになるような内容を含みますので、作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ノーシャーク』解説・考察(ネタバレあり)

スコポフィリアとサメ映画の関係性

かつて、心理学者のフロイトは、自身の著書の中でスコポフィリアを性欲を構成する本能の1つとして位置づけました。

スコポフィリアとは、他者を対象として捉え、支配的で好奇心に満ちた視線に晒すことであり、典型的な例としては裸体や性器などに対する好奇心、あるいはその行為によって性的な快楽を得ることと言えるでしょうか。

このスコポフィリアと映画の関係性について論じたある有名な評論があります。

それがローラ・マルヴィ氏の「視覚的快楽と物語映画」であり、この評論では、映画における男女の「見る」「見られる」の非対称性が論じられ、「男性の視線」という重要な概念を生み出すに至りました。

その原文の一節を見てみましょう。

In a world ordered by sexual imbalance, pleasure in looking has been split between active/male and passive/female. The determining male gaze projets its fantasy onto the female figure, which is styled accordingly. In their traditional exhibitionist role women are simultaneously looked at and displayed, with their appearance coded for strong visual and erotic impact so that they can be said to connote to-be-looked-at-ness.

(ローラ・マルヴィ「視覚的快楽と物語映画」より)

ナガ
上記の内容を簡単に解説していきます。

ローラ・マルヴィ氏は、男性のキャラクターには「見る」という能動的役割が与えられ、女性キャラクターには「見られる」という受動的役割が与えられるという構造が映画内に存在することを指摘しています。

その上で、男性のキャラクターは女性のキャラクターに自身の幻想を投影し、女性キャラクターはその幻想に応じた姿にデザインされ、男性の幻想の体現者となる、端的に言えば、視覚的に強い性的興奮を与えるようなルックスになるということですね。

つまり、映画の中の女性キャラクターたちは「男性の視線」に晒されることによって、「自分」を奪われ、「男性の視線」が望むアイコンであることを要求されているのだと主張しているわけです。

また、彼の論文においては、そうした映画の女性キャラクターたちが、劇中のキャラクターだけでなく、私たち観客のエロティックな視線によっても対象化されていることを指摘しています。

このように、映画においては「見る」という行為、あるいはそれにより発せられる「視線」が女性を支配し、性的なアイコンであることを要求してきた側面があったわけですね。

こう考えたときに、「サメ映画」は、その典型的なジャンルと言えるのかもしれません。

サメ映画では、ビーチが舞台になることが多いため、女性は露出の多い衣服、あるいは水着を着用しており、そのルックスのままでサメに追われ、恐怖の表情を浮かべます。

これは、ジャパニーズホラーにおいて、今が旬の若手女優を起用して、恐怖におののく表情を映し出すという演出が定番化していることに似ているかもしれません。

つまり「定番」あるいは「お決まりのあれ」的なものなのであり、同時に観客の視線が望むものなんですよね。

観客が望むからこそ、同じシチュエーション、同じビジュアルが何度も何度も再生産され続け、定番化しているわけです。

このように深めていくと、ある考えが脳裏をよぎります。

もしかすると、サメ映画において、ビーチにいる女性キャラクターたちを苦しめているのは、捕食者のサメというよりもむしろ、彼女たちを視線によって対象化し、エロティックなアイコンであることを求め続ける「男性の視線」なのではないかと。

ここが『ノーシャーク』という作品について考えていくスタート地点になるのではないかと考えています。

 

主人公のチェイスはなぜサメに食べられたいのか?

さて、ここから『ノーシャーク』の内容に話を移していきます。

主人公のチェイスは記事の冒頭にも書いた通りで、サメに食べられることを熱望し、ニューヨーク各地のビーチを訪れている女性です。

劇中でもいろいろと理由は述べていますが、彼女がサメに食べられて、命を落としたいとまで考えている理由がイマイチ腑に落ちません。

ナガ
では、なぜ彼女は「サメ」に食べられたいのでしょうか?

この理由を考えるにあたって、先ほどまでお話していた「男性の視線」が重要になってくるのだと思います。

まず『ノーシャーク』の劇中には、ビーチにいる女性を性的な目で見ている男性の視線が無数に存在しています。

第2章の「マンハッタンビーチ」には、チェイスに言い寄ってくる男性が描かれていますし、第4章の「リースビーチ」では、背後から彼女をじっと見つめている中年男性が描かれていました。

彼らは主人公のチェイスに苦痛を与える存在であり、そうした視線にさらされた状況を彼女自身は「動けない。迷子で、寒くて、動けない。」と評しており、その視線を冷たくて不快であるとも評しています。

チェイスは「サメ映画の女性キャラクター」としての宿命を課されており、それ故にこの映画に登場する彼女はずっとビーチで水着姿のままです。

しかし、それは劇中の男性キャラクターからあるいはスクリーンの向こう側にいる私から向けられる「視線」によって投影された幻影を体現した姿に過ぎず、彼女はそうした「視線」を向けられることに苦痛や恐怖、息苦しさを感じていることが分かります。

では「サメ映画における女性キャラクター」がそうした「視線」から解放される瞬間はいつ訪れるのでしょうか。

それは、サメに食べられて命を落とし、物語から退場する瞬間なのです。

つまり、チェイスの「サメに食べられたい」という願いは、自分に向けられる「男性の視線」から解放されたいという願いに重なるのではないでしょうか。



モノローグと暗転が意味するものとは?

そして、本作のモノローグ主体の構成と時折インサートされる暗転の演出は、自身を対象化する視線に対し、チェイスが試みている抵抗と位置づけることができます。

ナガ
まず、モノローグですね。

その話題の大半を占めているのは、チェイス自身あるいはビーチにいる女性たちに対するコメントです。

趣旨としては、チェイスが自分自身の美について語るものであったり、ビーチにいる女性たちの美について語るものであったりします。

この映画の面白いところは、モノローグの内容と映像に映し出されている状況が合致しているようで、ズレているところなんですよね。

例えば、モノローグでチェイス自身が「会話が上手くいっている」と語っているのに、映像を見てみると、彼女の会話相手は早くその場から去りたそうな素振りを見せているなんてことがあります。

しかし、彼女のモノローグがあることによって、私たちは映像の印象をある程度誘導されて、次第にそうした違和感に鈍感になり、彼女の言っている通りに映像を受け取るようになっていくのです。

つまり、モノローグを介して、チェイスはキャラクターとして受動的に「見られる」ことに抵抗し、観客の「見る」という行為に積極的に干渉することで、自分たちがどう「見られる」かを能動的に定義しようとしているのです。

観客によって向けられる「男性の視線」がビーチにいる女性を対象化し、性的なシンボルにしてしまうのであれば、それよりも前の段階でチェイスの視線によって彼女たちを対象化してしまおうと試みています。

この行為は言わば、女性たちを「男性の視線」から解放するためのものです。

彼女が「900ページの小説のような女性」「男性が孫の代まで語り継ぐような女性」「これまでの人生で出会った中で最も美しい女性」なのかどうかは分かりません。

観客は劇中のチェイスを単なる「水着の女性」という性的なアイコンとしてしか捉えようとしないかもしれません。

しかし、彼女は自分を自分自身のまなざしでもって対象化し、「男性の視線」に晒されることから身を守ろうと試みています。

彼女は映画の中で自分が定義した自分であろうともがいているのです。

ナガ
そして、もう1つ特筆すべき演出が暗転です。

これについては、第2章のマンハッタンビーチが最も分かりやすい例になるでしょう。

チェイスはビーチにいた男性2人組にナンパされ、性的な視線を向けられます。ナンパしている男性の視線は彼女を対象化し、「都合の良い女性」あるいは「簡単に性的な関係を持てる女性」であって欲しいという幻想を投影します。

しかし、彼女はそうした「男性の視線」に応じることなく、話題を「フカヒレ業界のせいで苦境に立っているサメ」に移し、彼らの幻想の受け皿になることを拒絶しました。

この時、突然映像が暗転し、観客である私たちもチェイスに対して「視線」を注ぐことが困難になってしまうのです。

この描写から解釈すると、暗転はチェイスあるいは女性が唯一「視線」から解放され、自分として存在できる瞬間に思えます。

『ノーシャーク』における「カメラ」の主導権は、半ばチェイスに握られていますが、そんな彼女が主導権を行使し、提供される映像を遮断しているのです。

これにより、ビーチにいた男性2人組や私たち観客に投影される幻想から解放され、彼女は本来の自分として、誰にも望まれないフカヒレの話を続けることが可能になります。

本作は、モノローグとカメラの主導権が劇中のキャラクターであるチェイスに握られているような作りに意図的に演出してありました。

彼女は自分の持っている権利を行使し、自分や劇中の他の女性キャラクターに向けられる視線を遮断したり、あるいは観客の視線そのものに干渉したりしています。

チェイスは言わば「サメ映画」における女性キャラクターにとっての救世主なのです。

そして、彼女が救った女性の最たる例として描かれているのが、終盤のエピソードに登場するもう1人のサメに憧れる女性であるブランディなのです。

 

チェイスはなぜブランディを「救った」のか?

さて、いよいよ本作の終盤に描かれたブランディとのエピソードに言及していきます。

ブランディは、チェイスが独占していたモノローグとカメラの権利を一時奪って見せるなど、彼女と重なる存在として描かれています。

しかし、チェイスとブランディには決定的な違いがありました。

それは、ブランディがまだ20歳に満たない子どもであるという点です。

チェイスはサメに食べられることを望み、ニューヨークのビーチを転々としていますが、諦念と共に自分がサメに食べられるなんて日がないことを心のどこかで悟っています。彼女は大人だからです。

それは同時に、彼女が劇中の男性や観客に向けられる「男性の視線」から解放されることがないという絶望を表しており、それに対するささやかな抵抗がモノローグであり暗転だったのでしょう。

一方のブランディは違います。

彼女は子どもと大人の過渡期にいる女性であり、それ故にこれから成熟した大人の女性として「男性の視線」を浴びることになるであろう存在です。

そして、子どもの部分を残しているからこそ、サメに食べられるという無謀な夢が叶うのではないかとどこか信じているところがあります。

自分はサメ映画に登場するブロンドの女性に似ているから、他の人はサメに食べられずに一生を終えるけれど、自分なら「余裕でいける」なんて発言が飛び出しているわけですからね。

しかし、そんなブランディも過渡期を経て、大人になってしまえば、容赦ない「視線」に晒され、投影される幻想によって自己を奪われてしまいます。

その終わることのない地獄の中で、彼女はいつしか「サメに食べられる瞬間=解放」が訪れるのは、サメ映画の中だけの話なのだと悟り、絶望を深めるのでしょう。

チェイスはブランディのことを自分の「鏡」ではないかなんて言っていましたが、むしろブランディの未来の姿に近いのではないかと思います。

だからこそ、チェイスはブランディに自分と同じ経験をしてほしくない、するべきではないと考えたのかもしれません。

モノローグの内容をそのまま信じるのであれば、チェイスは疑似的に「サメ」と化し、ブランディの腹に噛みつき、命を奪い、ブランディがサメに噛まれて命を落としたという事実を作り上げます。

チェイスは、自らの身を呈してブランディの夢を叶え、同時に彼女を「男性の視線」から解放することに成功しました。

もちろんチェイスのモノローグの内容は全てが真実とは言い難いですから、ブランディの命を奪ったというのが、事実なのかどうかは定かではありません。

しかし『ノーシャーク』という映画に関して言うなれば、ブランディは「サメに襲われる」というノルマを達成し、キャラクターとしての役割から確かに解放されたのです。

サメ映画において、サメを表す代名詞は「he」であることが多いです。これは「サメ映画」の代表である『ジョーズ』でもそうでした。

一方の今作では、サメが不在のシチュエーションの中で、チェイスという「she」がサメの役割を担います。

彼女は捕食者として女性キャラクターたちの命を奪うのではなく、救世主として女性キャラクターたちを映画から退場させ「男性の視線」から解放します。

つまり『ノーシャーク』は「サメ映画」におけるサメという存在を再定義し、それを概念的な形で物語の中に落とし込んだという点で、サメ不在でありながら明確に「サメ映画」なのです。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ノーシャーク』についてお話してきました。

ナガ
サメは出てこないのに、ちゃんと「サメ映画」になってるのがすごいんだよね…。

『ジョーズ』に端を発し注目を集めるようになった「サメ映画」というジャンルはどんどんとビジュアルを奇抜にする方向へと発展していき、ある種の「インフレ」が加速していきました。

そんな中で「サメ映画」におけるサメを概念として掘り下げ、ビジュアルとしてのサメの一切を排しながら、「サメ映画」として成立させてしまった本作は驚くべき傑作です。

女性のモノローグが2時間弱にわたって続くという作品の概要だけを聴くと、退屈そうに思えるかもしれませんが、モノローグの内容もウィットに富んでおり、仕掛けのバリエーションも豊富なので、見ていて飽きることは全くありません。

Amazonでダウンロード販売をしてくれなかったら危うく見逃すところでしたが、本当に見ておいて良かったと心から思っています。

「サメ映画」が好きな人にはもちろん、「サメ映画」というジャンルに冷笑的な視線を投げかけている人にも見ていただきたい1本です。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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