【ネタバレ考察】映画『呪術廻戦0』自分と他者、その境界線を巡る呪いの物語の原点!

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『呪術廻戦0』についてお話していこうと思います。

ナガ
MAPPAさんの本気が垣間見える映画だったね!

ここのところ『チェーンソーマン』『地獄楽』などのジャンプ系の人気作のアニメ化を手がけることが立て続けに発表され、話題になっているMAPPA。

個人的に、MAPPAさんの本気のアニメを見たいということであれば、『神撃のバハムート』シリーズを見ることを推奨しています。

『神撃のバハムート』シリーズは、業界屈指の作画力を誇るMAPPAに、Cygamesのソシャゲマネーによる潤沢な予算が加わることで、テレビシリーズとは思えないとんでもクオリティに仕上がっていると当時話題になりました。

そして、今回お話する『呪術廻戦0』ですが、基本的に本編の主人公である虎杖 悠仁らが登場しない「前日譚」「オリジンストーリー」の位置づけですので、昨年公開された『鬼滅の刃 無限列車編』以上に予習なしでも楽しめる内容だと思います。

ナガ
初日の時点で興行収入100億円を伺うなんて景気の良い速報も出てきていますから、もう乗るしかないでしょ、このビッグウェーブに!って感じですよね(笑)

ということで、ここからはそんな『呪術廻戦0』をもう少し掘り下げてお話していきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。




あらすじ

高校生の乙骨憂太は、幼い頃、結婚を約束した幼なじみの祈本里香を交通事故により目の前で亡くしていた。それ以来、呪霊化した里香に取り憑かれるようになった乙骨は、暴走する彼女に周囲の人々を傷つけられ苦悩していた。そんな中、呪霊を祓う“呪術師”を育成する教育機関・東京都立呪術高等専門学校の教師にして最強の呪術師・五条悟に導かれ、乙骨は同校に転入することに。自身の手で里香の呪いを解くことを決意した乙骨は、同級生の禪院真希や狗巻棘、パンダと共に呪術師として歩みだすが……。

映画com.より引用)

 

スタッフ

スタッフ
  • 監督:朴性厚
  • 原作:芥見下々
  • 脚本:瀬古浩司
  • キャラクターデザイン:平松禎史
  • 撮影監督:伊藤哲平
  • 編集:柳圭介
  • 音響監督:藤田亜紀子
  • 音楽:堤博明 照井順政 桶狭間ありさ
  • 主題歌:King Gnu
  • 音楽プロデューサー:小林建樹
  • アニメーションプロデューサー:瀬下恵介
  • 制作:MAPPA
ナガ
やっぱりMAPPA最強の布陣って感じですよね!

監督には『ゴッド・オブ・ハイスクール』などで知られ、アクション描写に定評のある朴性厚さん、脚本には『ドロヘドロ』などで知られる瀬古浩司さんがテレビシリーズから続投です。

キャラクターデザインには『ユーリ!!! on ICE』でも高く評価され、MAPPAに参加した平松禎史さんがこちらも同じくテレビシリーズから引き続きですね。

音響には『同級生』『海辺のエトランゼ』藤田亜紀子さん、劇伴音楽にはテレビシリーズのスタッフがそのまま携わっているようです。

ナガ
なお、『呪術廻戦』は劇伴音楽にもかなりこだわって作られていることでも有名なので、ぜひサウンドトラックの方もチェックしてみてください。

映画版の主題歌には人気グループKing Gnuが抜擢され、『一途』『逆夢』の2曲を提供しています。

特に『一途』の方はかなり物語との親和性が高い楽曲なので、映画鑑賞後に聴くと、グッとくるものがありました。

 

キャスト

キャスト
  • 乙骨憂太:緒方恵美
  • 祈本里香:花澤香菜
  • 禪院真希:小松未可子
  • 狗巻棘:内山昂輝
  • パンダ:関智一
  • 五条悟:中村悠一
  • 夏油傑:櫻井孝宏
  • ミゲル:山寺宏一
  • 枷場美々子:松田利冴
  • 枷場菜々子:松田颯水
  • ラルゥ:速水奨
  • 菅田真奈美:伊藤静
ナガ
乙骨くんの声優起用は賛否あるだろうね…。

個人的には乙骨くんに緒方恵美さんを起用したのが、あんまり良かったとは思いません。

もちろん緒方さんの演技は素晴らしいのですが、どうしても『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズのシンジのイメージが強すぎて、ダブるんですよね。

しかも単に声が似ているだけではなくて、キャラクター性まで似ていて、挙句の果てには「逃げちゃだめだ」のオマージュネタまで入れてたりするので、これはちょっとやりすぎだと思いました。

「乙骨憂太」というキャラクターのパーソナリティが見る側にほとんど確立されていない状態で、すでに確立された緒方さんの声が持つ強烈なアイデンティティを上書きしてしまったことで、キャラがあんまり立ってないんですよね。

その他、テレビシリーズからの続投が目立ちつつ、ヒロインポジションの祈本里香役には花澤香菜さんが起用されています。

花澤さんはやっぱ『物語』シリーズ千石撫子役を演じていたこともあって、ちょっとヤンデレチックなボイスアクトが抜群だなと思いました。

恐怖を煽るような迫力がありつつも、どこかに優しさや慈愛を感じるような声で、間違いなく最適なキャスティングだったと言えるでしょう。



『呪術廻戦0』ネタバレ解説・考察

「呪い」の本質を描いた作品である

©2021「劇場版 呪術廻戦0」製作委員会 (C)芥見下々/集英社

さて、この『呪術廻戦』シリーズと切っても切り離せないのが、やはり「呪い」という言葉です。

みなさんは「呪い」と聞くと、どんなイメージを持ちますか?おそらくネガティブなイメージを持つ人が多いのではないでしょうか。

一方で、「呪い」という言葉を巡ってしばしば言及されるのが、「祈り」や「願い」といった言葉との関係性です。

劇場版『魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語』の劇中でこんなことをキャラクターが言っていたのをふと思い出しました。

「祈り」や「願い」と「呪い」と言うのは表裏一体である。

要は「祈り」や「願い」があるからこそ、「呪い」が生まれのだという視点ですね。

例えば、大学受験などの「合格祈願」も「祈り」の一種であり、これは当人の「合格=幸福」を願うものですよね。

しかし、少し客観的に考えていただきたいのですが、当人の合格を「祈る」のはすなわち、当人以外の合格を望まないのと同義だということです。

つまり、当人の合格を「祈る」かたわらで、あなたは当人以外が合格しないように「呪い」をかけているなんて見方もできるんですね。

そうして、「呪い」そして「祈り」や「願い」の本質とは何か?と改めて考えてみたときに、私はどちらも「境界線を引くこと」だと思ったんです。

「呪い」は周囲の人間と対象の人間の間に境界線を引き、特定の人間を世界から、社会から、組織から、関係性から排除しようとする試みとも言えます。

一方で、「祈り」や「願い」も、同様に周囲の人間と対象の人間の間に境界線を引き、特定の人間に幸福や幸運が訪れるよう請う行為です。

境界の内側の人間に「祈る」ということは、反転して境界の外側の人間を「呪う」ということでもあります。

そして、『呪術廻戦0』はまさしく「呪い」の始まりの物語として、この「境界線を引く」という部分に向き合った内容になっているのです。

 

なぜ「愛ほど歪んだ呪いはない」のか?

©2021「劇場版 呪術廻戦0」製作委員会 (C)芥見下々/集英社

『呪術廻戦0』は極論を言ってしまうと「どんなに困難で~くじけそうでも~信じることさ ~必ず最後に愛は勝つ!」みたいな物語です。

こんな風に要約できてしまうほどに、乙骨憂太の祈本里香への「愛」というものが本作の軸に据えられています。

乙骨憂太は幼少期に祈本里香から指輪のプレゼントを渡され、「大人になったら結婚しよう」と告げられました。

それに対して彼も「僕と里香ちゃんはずっと一緒だね。」と返答するのですが、それからしばらくして彼女は交通事故で命を落とします。

ここで、特級過呪怨霊・祈本里香が生まれ、憂太に憑りつくという流れになっていますが、彼はもちろん意図して彼女を「呪った」わけではありません。

いや、むしろ「祈った」という方が正しいのではないでしょうか。

乙骨憂太は、大切な人との死ないし別離という極限状態に際して、祈本里香と他の人間の間にまさしく「境界線」を引いたのです。

彼女を「死」から解放して欲しい、彼女を僕から分かれる運命から解放して欲しい。

祈本里香を彼が決めた「境界線」の内側に置くことで、降りかかる様々なものから守ろうとしたわけで、これは言わば「祈り」なのです。

ただ、ここには五条先生が言っていた「愛ほど歪んだ呪いはない」という言葉の意図も見え隠れしています。

この広い世界の中で、そしてたくさんの人間がいる中で、たった1人だけを「境界線」の内側に置く行為こそが「愛」なのです。

誰か1人を愛する行為は反転して、その他大勢を「愛さない」という選択でもあり、だからこそ「歪んでいる」と五条先生は評するわけですね。

そして、乙骨憂太の場合は、祈本里香に対してあまりにも極端な「境界線」を引き、強い「祈り」を込めてしまったがために、それが「呪い」に転じ、歪みがその姿として可視化されてしまいました。

劇中で、なぜごく普通の少女の呪いが「特級過呪怨霊」にまでなってしまったのかについては劇中でも話題になっており、とりわけ乙骨憂太が菅原道真の末裔だったからと結論づけられています。

ただ、個人的に「呪い」の強さやその姿の歪みは、「境界線」の内と外にどれだけ「屈折」が生じたのかに由来するのではないかと感じました。

例えば、あなたが「宝くじで3000円当たってほしい」と祈り、転じて自分以外の人間に3000円が当たらないように「呪い」をかけたとしましょう。

このケースだと、あなたと周囲の世界の「歪み」って、たかだか3000円程度のものなので、あまり大きいとは言えません。

しかし、あなたが「世界が滅んで、周囲の人が大勢死んでも、自分だけは生き残らせて欲しい」と祈ったとしましょう。

この場合は、言うまでもなく「歪み」が大きいですよね。なぜなら境界線の内と外で天秤にかけられている命の数に途方もない差があるからです。

乙骨憂太は、「愛」ゆえに「人間という生き物の生と死の理」と祈本里香の間に境界線を引き、彼女を「死」から解放しようと祈ったとも言えるわけで、これは当然計り知れない「歪み」を孕んでいます。

そしてその内と外の「屈折」の大きさ、あるいは「歪み」の大きさが特級過呪怨霊・祈本里香の強大な呪力に還元されているのでしょう。

だからこそ、「愛ほど歪んだ呪いはない」のだと改めて言うことができるわけです。

 

『呪術廻戦0』は「境界線」を引く物語である

©2021「劇場版 呪術廻戦0」製作委員会 (C)芥見下々/集英社

ここまで、「呪い」とそして「愛」について言及しながら、それらが内包する「境界線を引く」というイメージについて考えてきました。

そして、『呪術廻戦0』は主人公の乙骨憂太にとってだけではなく、五条悟や夏油傑にとっても「境界線を引く」物語になっているのです。

物語の冒頭、夜の学校での一幕が描かれます。

乙骨憂太と彼をいじめる学生数名が登場し、後者が前者に危害を加えようと迫ってくるというものでした。

この時、憂太の内から祈本里香が発現し、いじめようとした学生たちをぐちゃぐちゃにして教室の隅のロッカーに閉じ込めてしまいます。

思えば、この教室のショットないし光景が「呪い」というものを体現した全ての始まりにふさわしいショットなのです。

乙骨憂太は口では自分はこの世界にいなくても良いと言い、周囲と自分との間に「境界線」を引いて、他の人たちを傷つけないよう試みています。

しかし、物語を追うごとに明らかになったように、憂太は誰よりも孤独を恐れており、誰よりも他人と関わりたいという思いを持っている人間なんですよね。

彼の「祈り」は呪霊の体内で真希に促されて語ったように「誰かと関わりたい、誰かに必要とされて、生きてていいって自身が欲しいんだ」です。

この発言を踏まえて考えると、冒頭の教室での一幕はその見え方が変わってきませんか?

憂太はあくまでも「この世界にいたい」わけで、そうあることを「祈って」います。

ただ、これは憂太がこの世界にいることを否定する人間を「呪う」こととほとんど同義であり、だからこそ彼は自分の存在を否定する人間を自分の引いた「境界線」の内側から排除するわけです。

教室という空間はアレゴリー化された憂太の心的空間であり、その内と外を隔てるモチーフとして本作では「ロッカー」が採用されています。

(『呪術廻戦0』より)

扉や窓ではなく、あえていじめのアイコン的なコンテクストを内包する「ロッカー」を用いたのは、作者のこだわりでしょう。

そんな憂太が呪術高専に入学して、どう変化していくのか。

もちろん身体能力の向上や前向きな性格への変化、呪術の扱いの上達もありますが、それ以上に彼の中で変化したのは「境界線」なんですよ。

夏油 傑が乙骨憂太と言う人間を「自己中心的」と言及する一幕がありますが、まさしくそうで、彼の「境界線」の引き方は「自分」と「他人」でしかありませんでした。

つまり、彼の「境界線」の内には乙骨憂太彼自身しかおらず、そこに他の人間が踏み入る余地がないのです。

もっと言うなれば、彼は自分の「境界線」の内側に踏み入った人間をロッカーに閉じ込めて排除してしまうんですね。

しかし、呪術高専での日々の中で、彼は禪院 真希、狗巻 棘、パンダという大切な友人に出会います。

そして彼らの温かさに触れ、徐々に他者を受け入れ、向き合おうとし始めたのです。

こうして憂太にとっての「境界線」の線引きが少しずつ変化し始め、その変化が明確になるのが、夏油 傑による呪術高専奇襲の際の教室での一幕でした。

ここで、ぜひとも注目していただきたいのが、呪術高専の憂太のいる教室の窓側の角に「ロッカー」が置かれている点です。

実は、この「ロッカー」は原作では描かれていないもので、アニメ映画が演出として意図的に描きこんだものなのでしょう。

この「ロッカー」は物語の冒頭の光景のアトリビュートとして機能しており、教室をアレゴリー化された憂太の心的空間という文脈に一致させます。

夏油 傑の奇襲に伴い、教室の外では真希たちが死闘を繰り広げているわけですが、彼のいる教室はまだ平穏を保っていました。

自分だけがいる空間。自分以外の他人は「境界線」の外側にいる人間なのだと線引きする物語の冒頭の彼であれば、教室に座り込んだまま動けなかったでしょう。

しかし、この時、彼の「境界線」の内側には既に、禪院 真希、狗巻 棘、パンダというかけがえのない友人がいます。

夏油 傑と対峙した際の発言からも、彼の考え方の中心にあるのは、あくまでも自分を守ることであり、自分の存在を肯定することであると分かりますし、それは徹頭徹尾変わっていません。

そして、自分の存在を脅かす夏油に対して「オマエは殺さなきゃいけないんだ」と告げる論理は、冒頭にいじめっ子たちをロッカーに詰め込んだ時の論理と何ら変わっていません。

では、何が変わったのか。

それは「自分」という概念の「境界線」と「領域」なんですよね。

冒頭時点では「自分」という「境界線」の内側に憂太ただ1人しかいなかったのに対して、終盤に夏油との対峙を決意する彼の「境界線」の内側には真希、棘、パンダがいます。

彼らはもう憂太にとって「自分」なんですね。

つまり、『呪術廻戦0』は物語を通じて、乙骨 憂太という人間にとっての「自分」という領域の展開を描いてきたことになるわけです。

そして、これは「自分」の内にあるもののために祈り、それが転じて外にいるものに対する「呪い」になるという本質を突くものにもなっています。

テレビシリーズの主人公である虎杖 悠仁は初めからそうした「自分」の領域が広い人間です。

そう考えたときに、「呪い」を描く『呪術廻戦』の始まりの物語として、「自分」という領域が極端に狭い人間である乙骨 憂太を据えたことにも意味があったと、そう思いました。



夏油 傑と五条 悟が向き合う「自分」を排除できないジレンマ

ここまでは乙骨 憂太にとっての「呪い」と「境界線」の話をしてきました。

この章では、夏油 傑と五条 悟にとっての「呪い」と「境界線」の話をしようと思います。

まず、夏油 傑は、呪術高専時代の経験から、「非術師を淘汰し、呪術師だけの世界をつくる」という野望を掲げ、行動に移している呪詛師です。

彼の野望は、すごく「境界線」が見えやすいですよね。

つまり、彼の世界において呪術師は「自分」の「境界線」の内側にいる存在であり、逆にそうではない被術師は「猿」として「境界線」の外側に排除されます。

彼が憂太や棘、パンダといった若い呪術師には、例え敵対関係であっても柔和な表情を見せるのは、夏油特有の「自分」の線引きに由来するものです。

彼らに優しく接するのは、彼らが「自分」だからなんですね。

しかし、こうした「線引き」を五条 悟に見透かされ、利用されてしまいます。

五条 悟は夏油が若い術師をむやみに殺したりはしないと見透かした上で、棘とパンダを呪術高専へと転送したわけです。

夏油にとって呪術師との対峙は、ある種の「自分」との対峙であり、それが大きなジレンマにもなっています。

「自分」を守るために「自分」を殺さなければならない、排除しなければならない。

そして、これと全く同じジレンマに苛まれていたのが、他でもない五条 悟なのだと思います。

アニメ映画版の中の原作にはなかったカットの1つに、五条 悟が街の雑踏の中に消えていく夏油を処分することを躊躇う描写がありました。

五条 悟にとって夏油 傑は紛れもなく「親友」です。劇中の言葉を借りるのであれば、「たった一人の親友」となります。

つまり、五条 悟にとっての夏油 傑は「自分」という「境界線」の内側にいる人間なんですよね。

そんな彼が「街の雑踏の中に消えていく」というイメージは、夏油が五条 悟の「自分」の境界を超えて、「他者」へと戻っていくという心理を表しています。

このイメージに、今回のアニメ映画版『呪術廻戦0』は、五条 悟の躊躇い交じりの手を重ねてフレームに収めていました。

つまり、五条 悟は夏油を「他者」にできなかったんですよね。あるいは彼が「他者」になることを受け入れられなかったとも言えるでしょうか。

しかし、そうした自分の甘い決断が、今度は大切にしている教え子たちの命を脅かすという状況を招いてしまい、彼は再び夏油を巡る決断を迫られます。

では、五条 悟は一体、どんな決断を下したのか。

ラストに彼が夏油について「たった一人の親友」と改めて言及していることからも、「他者」にしなかったことは明白です。

五条 悟は夏油 傑にはできなかった「自分」殺しをやってのけたのだと私は思います。

原作でも、映画でも五条 悟が夏油 傑にかけた最後の言葉は空白になっていました。

しかし、その言葉を聞いた夏油の反応は「最期くらい呪いの言葉を吐けよ」でしたよね。

この記事の冒頭から定義してきたように、「呪い」と「祈り」が表裏一体なのであったとすると、彼が最期にかけた言葉は「祈り」あるいは「願い」だったのかもしれません。

つまり、五条 悟は夏油 傑を呪うのではなく、祈りを捧げ、彼を「境界線」の外側に排除して「他者」にするのではなく、あくまでもその内側にいる「自分」として殺したのではないでしょうか。

誰しも一たび「自分」という境界の内側に引き入れた人間を排除することは躊躇われるものです。

でも、「自分」という境界の内側にいる人間をその内側で葬ることは、もっと辛いことですし、それは自分自身の一部を殺すようなものでしょう。

それでも、五条 悟は夏油 傑のためにそのジレンマを乗り越えて重い決断を下したのであり、それは「たった一人の親友」を親友のまま逝かせたいという彼の優しくも歪んだ「祈り」だったのです。

 

眼と指輪が演出した、人と人が向き合うということ

©2021「劇場版 呪術廻戦0」製作委員会 (C)芥見下々/集英社

最後に『呪術廻戦0』を総括して、全体のテーマ性を改めて考えてみたいと思います。

本作は「人と人が向き合うということ」を描いた作品であると個人的には考えています。

そして、その中心にあるのは、「乙骨憂太と祈本里香」そして「五条 悟と夏油 傑」を巡る2つのドラマです。

面白いのは、この2つのドラマの親和性の高さではないでしょうか。

乙骨憂太は、目の前で命を落とした祈本里香を何とかして救おうとした結果、彼を特級怨霊に変えてしまいました。

一方で、五条 悟は「五条悟にはなれなかった夏油 傑」を呪術高専から追い出してしまう結果となり、彼を特級の呪詛師に変えてしまったのです。

乙骨憂太も五条 悟も、そうした自分が作り出してしまった異形を直視することを恐れ、目を背けようとしてきました。

だからこそ、「愛」と「友情」という違いはあれど、『呪術廻戦0』で描かれた2つのドラマは自分が作り出してしまった「影」と向き合う物語としてリンクしているんですね。

そして、五条悟の六眼と乙骨憂太の持つ婚約指輪にあしらわれた青みがかった宝石が2つの物語をつなぐモチーフとして機能しています。

©2021「劇場版 呪術廻戦0」製作委員会 (C)芥見下々/集英社

実は、これも原作では描きこまれていなかったモチーフであり、今回のアニメ映画版が演出として落とし込んだ要素です。

六眼と指輪の宝石、2つの「青い眼」が大切な人と向き合うまでの過程を描く。アニメ映画版はこうした演出的な部分で、2つのドラマのリンクを視覚的に確立しました。

©2021「劇場版 呪術廻戦0」製作委員会 (C)芥見下々/集英社

この演出により、設定上、包帯で六眼を包帯で隠している五条悟の姿が、大切な人を「見る」ことを避けているように見えなくもないのが面白いところです。

ちなみに、原作同様、夏油 傑にとどめを刺すときの五条悟は眼に包帯を巻いていないので、これも対比の演出として効いてましたね。

また、アニメ映画版は、かなりこの「向き合う」を演出やアングル、登場人物の動線といったレイヤーに落とし込んでいるのが見て取れます。

物語の冒頭に憂太が真希、棘、パンダと呪術高専の廊下を歩いていくシーンがありました。

何気ないシーンですが、すごくアングルに配慮して作られているので、ぜひとも注目して欲しいです。

というのも、このシーンで4人は同じ方向を向いて歩いているはずなのですが、アングルの転換によって、作為的にそう見えないように作りこんであるのです。

憂太を映すときは、彼が画面の左から右に歩いていくように見え、逆に他の3人は画面の右から左に歩いていくように見えます。

つまり、この時点で憂太がクラスメイトの3人とまだ向き合うことができていないという状況の可視化になっているんですね。

この憂太の画面の左から右へという「動線」を強調したうえで、それを反転させるのが学校での真希との共闘の後のシーンでした。

祈本里香が呪霊と戦っている間に、真希と子どもたちを背負った憂太が学校の外を目指すのですが、この時の彼の動線は画面の右から左へと反転しています。

追い風の道を歩くことに慣れた彼が、突然方向を変え、向かい風の道を歩み始めたかのような「重力」を強く感じさせる演出が相まって、彼のターニングポイントを重く演出してあるのは非常に巧いなと思いました。

そして、この右から左へという歩みの方向が、冒頭のクラスメイトの3人と一致するようになっており、彼らが向き合って、そして同じ方向へ歩んでいく分岐点にもなっているのです。

さて、少しわき道にそれてしまいましたが、最後に改めて「乙骨憂太と祈本里香」そして「五条 悟と夏油 傑」を巡るドラマに視点を戻しましょう。

『呪術廻戦0』が眼を背けていた大切な人と向き合う物語であることはここまでも強調してきました。

では眼と眼で向き合うとは、何を意味するのでしょうか。

とある面白い言説を引用します。

要するに、サルトルによれば、眼差しの交差は、相手を対象と化す相互メドゥーサ的な営為にほかならない。目合いは、サルトルにあっては、永遠に実現不可能な愛の合体のメタファーとなる。

(谷川渥『鏡と皮膚――芸術のミュトロギア』)

「眼差しの交差」は「永遠に実現不可能な愛」を象徴するという視座が上記の一節では示されています。

『呪術廻戦0』のラストはまさにこの言説を体現するようなものだったと個人的には感じました。

乙骨憂太と祈本里香、そして五条 悟と夏油 傑は「眼差しの交差」を通じて、かけがえのない大切な人との別れを選択したのです。

もう戻れない。もう交わることはない。もう一緒にいられない。

それを受け入れて、前に進む。

乙骨憂太と五条 悟のオリジンに相応しい物語の幕切れであり、幕開けでした。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『呪術廻戦0』についてお話してきました。

ナガ
派手なアクションが目につきがちですが、実は小物や細かいモチーフの使い方が巧いんだよね!

記事の本編でも触れましたが、呪術高専の教室に「ロッカー」を冒頭のシーンのアトリビュートとして配置するというアニメオリジナルの演出は思わず拍手したくなりました。

基本的に物語の大筋が同じなので、見た人には「原作の再現だ」と言われてしまうかもしれません。

しかし、ディテールの変化は作品全体の印象を大きく変えるものなのです。

教室の隅のロッカー、指輪のセンターに青く輝く宝石、指切りげんまんと術式を発動できなかった指といったモチーフもそうですし、先ほども言及したアングルや動線もそうです。

大筋が同じでも、ディテールを変えることで、新鮮に感じられ、物語の違った側面が見えてくる。

これが『呪術廻戦0』を楽しむうえで1つのカギになってくるのではないかなと思います。

ナガ
ぜひ、映画と原作を併せて、そして細かいところまで比較しながら味わってみてくださいね。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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