【ネタバレ】『ブラックウィドウ』感想・解説:可もなく不可もなくのMCU新章の幕開け

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ブラックウィドウ』についてお話していこうと思います。

ナガ
ついにMCUが映画館に帰って来たという事実が感慨深いですよね…。

現在『ワンダヴィジョン』『ファルコン&ウィンターソルジャー』そして『ロキ』といったMCUのドラマシリーズが配信で展開されていますが、やはり映画という形で、そして映画館で見たいというのが個人的な思いではありました。

ですので、上記の3作を見ながら徐々に冷めつつあったMCUへの熱も今作を劇場で見れば、戻って来るんじゃないだろうかと思いつつ、初日に鑑賞してきました。

ただ、この『ブラックウィドウ』ですが、MCUが当初フェーズ4の最初の作品として位置づけていた割には、かなり地味な内容で、印象に残るものが少ない作品だったような気がしています。

133分もある割には物語やキャラクター描写が薄く、それでいてアクションが秀でた作品でもなく、ただ全体としてはほどほどにまとまっているという何とも言えない出来栄えでした。

先ほども書きましたが「久しぶりの映画館でのMCU」という気持ちの高ぶりもあり、誤魔化されている部分はありますが、おそらくこれが『スパイダーマン ファーフロムホーム』の次に見るMCUだったのだとすると、かなり世間的にもシビアな評価になっていたと思います。

今作は、ナターシャ・ロマノフの知られざる「過去」にスポットを当てる内容であり、彼女の暗い「影」の部分を払拭し、未来へと進もうとする物語です。

そのため、何かMCU全体にとって大きな影響を与える物語ではないのですが、それだけにあまりMCUに詳しくなくても問題なく見られるという参入ハードルの低さは見受けられます。

ただ、『キャプテンアメリカ シビルウォー』くらいは見ておいた方が良いかなとは思いますので、お時間があれば。

ナガ
あと、何となく今回の映画に「ラピュタみ」を感じたのは私だけでしょうか…(笑)

ナガ
正直、レッドルームを見た時に「いや、ラピュタやん…。」と思ってしまいましたし、ドレイコフを見た時に、「いや、ムスカやん…」と思ってしまいました(笑)

では、ここからは本作『ブラックウィドウ』について個人的に感じたことや考えたことをお話していこうと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ブラックウィドウ』感想・解説(ネタバレあり)

MCUにおける時系列の整理

本作『ブラックウィドウ』のMCUの時系列における位置づけは、『キャプテンアメリカ シビルウォー』の直後ということになると思います。

劇中でも「ソコヴィア協定」が何度も話題に挙がり、スティーブ・ロジャースとナターシャ・ロマノフがロス長官から追われていることが明らかになっていました。

その上で、『ブラックウィドウ』のラストでは、ナターシャがブロンドヘアにイメチェンし、見覚えのある飛行機で飛び立っていく様が描かれていましたよね。

この飛行機は、おそらく『キャプテンアメリカ シビルウォー』のポストクレジットでラフト刑務所にスティーブが来た時に乗っていた機体と同様ではないかと思われます。

まあ『ブラックウィドウ』の本編でも、ナターシャが捕まっている「家族」を何人か引っ張り出してくるというような話をしていたので、そこは間違いないのではないでしょうか。

そして、ブロンドヘアにイメチェンした彼女が戻って来るのが、『アベンジャーズ インフィニティウォー』ですね。

多くの人がなぜ髪型や髪色を変えて戻ってきたのかと疑問に思ったと思いますが、その経緯が今回の『ブラックウィドウ』で描かれた形となります。

彼女の赤い髪は「レッドルーム」に今だ囚われていることの象徴であり、だからこそそれを払拭した彼女は髪色を変えたということなのでしょう。

このように物語的に何かMCUに大きな影響があったというわけではないのですが、キャラクターの描写の部分で、空白を埋めてくれる作品であったことは間違いないと思います。

 

ポストクレジットシーンについて

本作『ブラックウィドウ』のエンドロールの後に、今後のMCUに大きな影響を与えるであろう興味深い描写がありました。

ナガ
これは製作サイドからのドラマシリーズも見ておけよ!というメッセージでもあるんだろうね…。

今回のポストクレジットシーンに登場したのは、ヴァレンティーナ・アレグラ・デ・フォンテーヌという女性で、「ヴァル」を自称しています。

この人物は原作のコミックスシリーズでは「マダム・ヒドラ」なんて呼ばれていて、ダークなニックフューリー的な位置づけのキャラクターです。

ちなみにこの女性が初めてMCUに登場したのが、現在もディズニー+で配信されている『ファルコン&ウィンターソルジャー』の第5話になります。

今作のポストクレジットシーンでは、「ダークなニックフューリー」という位置づけに違わぬ行動を取っていました。

ナターシャという「姉」を失って悲嘆にくれるエレーナを、ホークアイ殺害のために利用しようと勧誘していたのです。

エレーナは次の世代の「ナターシャ・ロマノフ」だと思われていたわけですが、このポストクレジットシーンがあることによってヴィラン側に傾きかけていることが判明しています。

ちなみにディズニーはホークアイの単独作品を制作予定なので、エレーナはそこに登場して、何らかの重要な役割を果たすことが期待されますね。

まさしく『ブラックウィドウ』はこれまでの物語を締め、そして次の世代のキャラクターを送り出す「フェーズ4の幕開け」にふさわしい内容だったと言えるでしょう。

 

虐げられてきた女性たちを解放する女性ヒーロー

(C)Marvel Studios 2021

今回の『ブラックウィドウ』の主題的な力点は、やはりレッドルームという女性が意志を奪われて搾取される環境を設定したところにあります。

レッドルームには、ドレイコフという男性の支配者が君臨しており、女性たちは脳を改造され、自由意思を奪われ、彼に命じられるがままに行動することしかできません。

しかし、ドレイコフ自身は、「何の価値もない少女たちに私が生きる目的を与えた」のだと語る傲慢っぷりで、自分が女性を搾取してきたことに対する罪の意識は微塵も感じていない様でした。

そうしたレッドルームの存在に対して、『ブラックウィドウ』という作品では、ナターシャ・ロマノフそしてメリーナという少し違ったスタンスで関わろうとする女性の姿を描いています。

まず、ナターシャ・ロマノフは、レッドルームから逃れることができた言わば選ばれし存在なわけで、搾取・被搾取の構造から抜け出した存在とも言えますね。

しかし、彼女がレッドルームを抜けたことが、残された女性たちの「意志を奪う」強力な支配体制の確立に寄与したという事実もあり、実は彼女も見えない形で女性の搾取構造に加担してしまっていたことが明らかになります。

一方のメリーナは、レッドルームの支配者であるドレイコフに気に入られることで、彼の支配構造・搾取構造を支える側に回っている女性です。

つまり、自分の地位を確保するために、自らを滅し、男性に取り入ることで、男性至上社会に適応しようと試みてきた女性像を体現しているとも言えます。

そんなそれぞれの方法で、レッドルームという歪な女性搾取構造から目を背け、時に自らが加担してきたナターシャやメリーナといった存在が先導し、意志を奪われた女性たちを解放していくというのが『ブラックウィドウ』という作品の1つのハイライトでした。

誰かに求められるように、誰かに命じられるがままに生きなくとも、あなたたちには自分の選択と生き方を求める権利があるのだと高らかに宣言するような本作は女性単独ヒーロー映画としても傑出したテーマ性を持っていたように思います。

こうしたテーマ性を実現できたのは、『さよなら、アドルフ』『ベルリンシンドローム』などで過酷な環境に身を置く女性たちにスポットを当ててきたケイト・ショートランド監督の功績が大きいですね。



「家族」という枠組みを描くラフな視点

(C)Marvel Studios 2021

もう1つ『ブラックウィドウ』が非常に優れていたと感じるのは、ナターシャの過去でもある「家族」の描き方でしょう。

ナターシャの「家族」は、あくまでも諜報活動の一環で形成された一時的なものに過ぎなかったわけで、そこには本当の家族の繋がりは存在しないとされていました。

それ故に、アレクセイやメリーナ、エレーナそしてナターシャは久しぶりに再会してもどこか険悪なムードを漂わせているわけです。

全てが偽装だった「家族」。しかしそんな「家族」であってもエレーナは自分にとっては本物だったと信じていますし、ナターシャもまた心のどこかで本物だったと信じていました。

また、ナターシャにとってはアベンジャーズがもう1つの「家族」だったわけですが、こちらについてもソコヴィア協定を巡って決裂し、関係が壊れてしまいましたよね。

このように、『ブラックウィドウ』という作品では「家族」という枠組みが堅苦しく縛りつけるものというよりは、もう少しラフなものとして描こうという視座が伺えるのです。

ナガ
肩の力抜こうよ!って方向性が見えるよね!

レッドルームの支配者であるドレイコフは女性たちを縛りつけて支配し、さらには自分の娘にもチップを埋め込み、自分の従順な人形へと変えてしまいました。

そういう意味では、ドレイコフはある種の前時代的な家父長制の権化として描かれていたような気もします。

そんなドレイコフの強い繋がりに対して、ナターシャたち「家族」はひどく曖昧で、弱く、不確かな繋がりとも呼べない何かに導かれて連帯し、共に立ち上がりました。

物語の冒頭時点で、アベンジャーズが崩壊してしまったことはナターシャにとって、「家族」を失うという非常にショッキングな出来事だったのだと思います。

しかし、例え偽物の家族だったとしても、こうしてまた集まって、心を通わせることができるのだという経験が、彼女の不安を取り除いてくれたことは言うまでもないでしょう。

だからこそ、彼女は本作のラストで、今度は自らの手でアベンジャーズという「家族」を再び繋げようと考えるわけです。

それは、例え壊れてしまっても、偽物だったとしても、何度だって心を通わせ、繋がれることを知っているナターシャにしかできない仕事なんですよね。

そういう意味でも、本作『ブラックウィドウ』『アベンジャーズ インフィニティウォー』に向けて、チームが再び集結するためのハブ的位置づけのキーマンとしてナターシャを成長させるための物語だったという見方もできるのではないでしょうか。

 

しかし全体としては可もなく不可もなくな出来栄えに…

ここまで『ブラックウィドウ』の物語的な良さに触れてきましたが、その一方で不満も多く残った作品ではありました。

まず、133分もある割にナターシャとエレーナ以外のキャラクターの掘り下げが甘すぎるのは問題でしょう。

まずレッドガーディアンことアレクセイですが、超人血清を打ったキャプテンアメリカに近しい存在であるという事実が明かされているのに、その設定が何一つ物語に還元されないのは、一体どういうことなのでしょうか。

その設定が唯一役立っていたのは、刑務所で彼がアームレスリングで屈強な男たちを次々に倒していた描写くらいでしたし、特にレッドルームに侵入してからは見せ場がほとんどなく何とも残念でした。

加えて『ブラックウィドウ』で最も描写不足を感じたのは、タスクマスターですね。

(C)Marvel Studios 2021

彼女は今回ナターシャの「罪の象徴」として登場していたわけですが、何と言うかナターシャの「贖罪」を演出するための舞台装置としての役割に終始させられた印象が強いですね。

とりわけタスクマスターには、相手の動きを完コピするという能力があり、それが戦闘シーンで絶大な力を発揮するギミックであるとドレイコフが明かしていました。

ナガ
にも関わらず、その設定が活きる展開や演出が一切ないんだよ!(笑)

「いや、その設定何のためにあったんだよ!」と思わずツッコミを入れたくなってしまいますし、こうしたキャラクターの設定を活かしきれないのは、脚本として致命的です。

タスクマスターが誕生したバックグラウンドの説明はもう少し細かくなされるべきでしたし、もう少し彼女自身の感情も描いて欲しかったと思います。

それが出来ていないので、『ブラックウィドウ』の物語的な力点でもある、ナターシャがタスクマスターを救おうとするという展開が、ナターシャの独りよがりにしか見えず、イマイチ気持ちが乗ってきませんでした。

また、こうした物語の「浅さ」が目立つにもかかわらず、アクションシーンについてもそれほど優れた部分を見出せないのが、非常に残念でした。

(C)Marvel Studios 2021

『ブラックウィドウ』はMCUの中では、『キャプテンアメリカ ウィンターソルジャー』に近いタッチの作品で、スパイ映画に近い色を持っています。

『キャプテンアメリカ ウィンターソルジャー』はアクションの面で、ヒーロー映画の常識を覆したとも言われるエポックメイキングな作品でしたが、その恩恵にあずかろうとした今作は足元にも及ばない内容に終始していました。

『ブラックウィドウ』のアクションシーンは、全体的にもっさりしていて、2021年のアクション映画とは思えないような古めかしい作りが目立ちました。

その原因として挙げられるのは、過去のスパイ映画で見たことがあるような画のパッチワークをやってしまったことではないかと思います。

飛行機の描写、カーチェイス、接近戦闘。その大半が『ミッションインポッシブル』『ジェイソンボーン』シリーズ『007』シリーズを参照すれば、類似のものを見つけてこられそうなものばかりで、全く目新しさがないんですよね。

『ブラックウィドウ』ならではのアクション描写があまりにも乏しく、過去の優れたスパイ映画の背中を追うことに終始してしまい、非常に凡庸な出来に留まってしまった感があります。

『キャプテンアメリカ ウィンターソルジャー』を支えていたのは、ヒーローという存在をリアルベースに落とし込む技術と、スマートで洗練された人物のモーションです。

『ブラックウィドウ』は、一昔前のスパイ映画を思わせるかのような中途半端なリアリティラインともっさりとしたアクションに裏打ちされた作品になっていました。

本作『ブラックウィドウ』がアクションに力点を置いた作品なのかどうかは分かりませんが、もしそうなのだとしたら、これでは厳しいでしょうというのが本音です。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ブラックウィドウ』についてお話してきました。

ナガ
本当にMCUでは珍しい可もなく不可もなくな作品だった気がするね…。

物語、キャラクター、アクション、演出。どれをとっても印象に残るものがなく、全てが及第点付近でほどほどにまとまった作品。

それで良いと言えば良いのかもしれませんが、『アベンジャーズ エンドゲーム』が公開され、フェーズ3がひと段落して、MCUから心が離れかけている映画ファンが私も含めて少なからずいる中で、この何とも言えない映画を見せられるのは、正直厳しいものがあります。

キャラクター描写を犠牲にするのであれば、もっとアクション的な見せ場が欲しかったですし、それが出来ないのであればアレクセイやタスクマスターと言ったキーパーソンをもう少ししっかりと描いて欲しかったです。

人間ドラマもほどほど、アクションもほどほど、では厳しい。これが本音です。

みなさんは久しぶりの映画館で見られるMCU『ブラックウィドウ』についてどう感じましたか。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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