【ネタバレ】『きみの瞳が問いかけている』解説・考察:「椰子の実」の詩に込められた結末の本当の意味とは?

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『きみの瞳が問いかけている』についてお話していこうと思います。

ナガ
まずこの作品はある種のリメイクのリメイクなんですよね!

どういうことなのかと言いますと、この作品は2011年に公開された『ただ君だけ』という韓国映画のリメイクなんですよ。

プロットはどれくらいアレンジされているのかという点についてですが、基本的にはほとんど同じです。ただ、後程触れますが、ラストの展開が少し違っていました。

一方で、この『ただ君だけ』もまたチャップリンの名作『街の灯』にインスパイアされて作られた作品です。

映画の本編を見ていただけるとすぐに分かりますが、『ただ君だけ』『きみの瞳が問いかけている』も終盤直前までの展開は完全に『街の灯』でした。

ただ、この2つの作品は、どちらも『街の灯』に影響を受けながらも、その結末の先に独自のアンサーを用意しています。

ナガ
『ただ君だけ』はかなり明確にハッピーエンドを打ち出したと言えるでしょう。

一方で、今作『きみの瞳が問いかけている』は一見するとハッピーエンドなのですが、実はそうではないといったところでしょうか。

そんな本作の結末をより深く味わうためにも、作品の中で印象的に用いられている島崎藤村の『椰子の実』という詩について調べておくと良いでしょう。

この詩を知っているかどうかで、今作のラストの見え方は違ってくるはずです。

ということで、ここからは当ブログ管理人が作品について感じたことや考えたことを綴っていきます。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『きみの瞳が問いかけている』

あらすじ

不慮の交通事故により視力と両親を失ってしまった明香里

コールセンターで働きながら、ささやかな生活を維持していく毎日。そんな彼女の楽しみは仕事場からの帰り道に駐車場の管理人室で、管理人のおじさんとテレビドラマを見ることだった。

ある日、明香里はいつものように管理人のおじさんに声をかけ、夜食を手渡すのだが、異変に気がつく。

というのも、おじさんは既にアルバイトを辞めてしまっており、その代わりにという青年が管理人として働いていたのだ。

彼はかつてキックボクサーとして将来を有望視されていた青年だったが、暴力事件に加害者として関わってしまいその一件により、服役していた過去を持っていた。

出所すると、裏社会の人間とは縁を切り、キックボクシングからも遠ざかり、日雇いのアルバイトで食いつなぐ日々を送っていた。

明香里は最初こそ警戒したが、そんなにも明るく話しかけていき、もまたそんな彼女に次第に心を開いていくのだが…。

 

スタッフ・キャスト

スタッフ
  • 監督:三木孝浩
  • 原案:映画「ただ君だけ」
  • 脚本:登米裕一
  • 撮影:小宮山充
  • 照明:加藤あやこ
  • 編集:柳沢竜也
  • 音楽:mio-sotido
  • 主題歌:BTS
ナガ
監督を務めるのは、信頼できる「三木監督」だね!

邦画界には三木監督が、当ブログ管理人の知るところだけでも数人いるのですが、やはり個人的には三木孝浩さんの作品が一番好きですね。

三木孝浩監督は、『ぼくは明日、昨日のきみとデートする』『先生!』などの作品で知られていて、淡い光に包まれた優しい温度感の映像とそんな映像のトーンに融合する青春譚を1つの売りにしているクリエイターです。

当ブログ管理人のおすすめは広瀬すずさんと生田斗真さんが出演している『先生!』でして、こちらは本当に映像と演出の柔らかさ、温かさが素晴らしいので、ぜひ見ていただきたいです。

そして、そんな淡い光の使い方や主人公2人の関係性の描き方、撮り方における「三木監督らしさ」が『きみの瞳が問いかけている』でも如何なく発揮されています。

脚本には『チア男子』『くちびるに歌を』登米裕一さんが起用されました。

この2つの作品はどちらもプロットが良く出来ていて良作に分類できる作品でしたので、非常に期待が持てますね。

撮影には『ひるなかの流星』『坂道のアポロン』など数々の青春映画を手掛けてきた小宮山充さんが、照明には『駅までの道を教えて』加藤あやこさんがクレジットされています。

また、本作の素敵な劇伴音楽を手掛けたのは、『ホットロード』『先生!』も劇伴も手掛けたmio-sotidoです。

そして予告編でも印象的に使われている主題歌は今話題沸騰中のBTS『Your Eyes Tell』となっております。

キャスト
  • 柏木明香里:吉高由里子
  • 篠崎塁:横浜流星
  • 原田陣:やべきょうすけ
  • 大内会長:田山涼成
  • 尾崎隆文:野間口徹
  • 坂本晋:岡田義徳
ナガ
このメインキャストを見た時に『横道世之介』感があったんだよね!

吉高由里子さんはドンズバですが、パーマっ気のある横浜流星さんがどこか高良健吾さんに似ていて、最初は『横道世之介』の続編か何かと思いました。

さて、まずは吉高由里子さんですが、彼女の演技はやはり「自然体」な感じがして、すごく魅力がありますね。

良い意味で肩に力の入っていない演技を見せてくれるので、日常の描写にすごく親近感や安心感が湧きます。これが作品の空気を作る上でも非常に重要な役割を果たしていると思いますし、強みになっていますね。

そして、横浜流星さん演じる篠崎塁は本当に「不器用な」人間なんですよね。もっとうまく生きようと思えば、生きられるはずなのに、それができない…。

そんな葛藤と苦悩を抱えながら、明香里の存在に絆されていく彼の姿を見事に演じ切ってくれました。

他にも野間口徹さんや岡田義徳さんらが脇を固めています。

ナガ
ぜひぜひ劇場でご覧ください!



『きみの瞳が問いかけている』解説・考察(ネタバレあり)

地道に1を足し、飛躍させる2人の関係性

(C)2020「きみの瞳が問いかけている」製作委員会

恋愛映画における2人の関係性の描き方にも、もちろんシチュエーションによって様々なカタチがあります。

劇的な出会いを果たして、そのままの勢いと情熱で恋人関係に発展することもあれば、作品全体をかけて徐々に積み上げて、2人が意識し始めて、それが行為であると自覚し、思いを告白するプロセスを描写することもあるでしょう。

ただ、当ブログ管理人が個人的にすごくリアルだと感じる恋愛描写のアプローチって、「100」に到達したら2人が付き合う(告白する)と仮定して、「1+1+1+1+1+…」とひたすらに小さなことを積み上げて、その中でいきなり「70」のような数字を足して突然「100」を超えていくような「積み上げ方」なのです。

要は「好き」という感覚が、一緒に過ごす些細な出来事の中で加算されていって、それがある程度たまった段階で、自分の中で突然飛躍的に大きくなるような感覚なんですよね。

当ブログ管理人自身がこれまでリアルで誰かに対して抱いた「好意」も、基本的にこうした小さな積み重ねからの飛躍によって爆発し、告白するに至りました。

ナガ
まあ、悲しいことに玉砕するパターンの方が圧倒的に多いんですけどね(泣)

それはさておき、この『きみの瞳が問いかけている』という作品における恋愛描写は、そうした「1」の積み重ね方が非常に丁寧なんですよ。

例えば、冒頭においては明香里のいる駐車場の管理室を訪れてドラマを見るというある種のお決まりのパターンを何度も繰り返し描いています。

1度目は、お互いにぎこちなさがあった2人、そして2度目は明香里の靴の臭いを指摘、3度目はが靴を変え、2人の距離も少しずつ近づいていくという小さなステップアップを丁寧に描いていたわけです。

加えて、各シーンの2人の表情や仕草、言動や声色に注目してみると、微細な変化が見られ、同じシチュエーションだからこそ、そうした小さな変化に観客の目が向くように計算されているのが分かります。

そこからの関係性の発展も実に丁寧で、一緒にコンサート、デートと発展していき、ひょんなことから家を訪れることになり、家で頼まれごとを引き受けると言った具合に距離が本当に少しずつ近づいていく、恋愛初期の機微を見事に映し出しているんです。

そして、先ほど書いたように、恋愛の発展には「1」の積み重ねだったところに突如として「70」がドカンと積まれるような、何か劇的な瞬間が必要です。

『きみの瞳が問いかけている』では、それが上司に襲われかけた明香里が助けるという形で描いています。

ここまで少しずつ距離を縮めていた2人の距離感が大きく変化していくわけです。

また2人の行動範囲という視点から見ても、これまで家の近所で会ったり、出かけたりしていた2人が海へと遠出するという形で、空間的な閉塞感の打破がもたらされています。

最近の映画を見ていると、何と言うか印象的な場面やシーンばかりを切り出して「20+20+20+20+20=100」になるというようなアプローチも目立ちます。

しかし、それはあくまでも「物語的な」恋愛であって、人間の感情の面からリアルに恋愛を描くとなると、一目惚れは別としても、小さな積み重ねとそこに突如もたらされる飛躍が重要ではないでしょうか。

『きみの瞳が問いかけている』における主人公たちの関係性にすごく説得力があると感じたのは、こうした緻密で丁寧な描写の積み重ねを、時間を割いて実現できたからなのでしょう。

この「積み重ね」があったからこそ、少しフィクショナルだと鼻につきそうな、ヒロインが襲われるという劇的な展開も活かされたような気がしています。



聖書的な「赦し」が息づく物語

(C)2020「きみの瞳が問いかけている」製作委員会

さて、この『きみの瞳が問いかけている』という作品においては、主人公が修道院で孤児として育っていて、そこのシスターを親のように慕っているという描写があります。

ここからも伺える通りで、非常に聖書色ないしキリスト教色は強い作品になっていると感じました。

その中でも繰り返し登場するのが、キリスト教や聖書における「赦し」の考え方です。

あなたがたは、自分で注意していなさい。もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、彼をいさめなさい。そして悔い改めたら、ゆるしてやりなさい。

もしあなたに対して一日に七度罪を犯し、そして七度『悔い改めます』と言ってあなたのところへ帰ってくれば、ゆるしてやるがよい

(ルカによる福音書17章より引用)

キリスト教や聖書的な世界観においては、神による人間への「赦し」が存在しています。

『きみの瞳が問いかけている』において、明香里は両親を自分の運転中の過失によって失っており、それが故に視力を奪われている状況そのものが自分に課された「罰」なのであると考えています。

一方で、は自分の行動が1つの家族を壊してしまったことに加えて、明香里の交通事故を誘発してしまっていたことを知り、深い罪悪感に苛まれます。

そうして彼は、自分の身を削って、明香里の手術費用を捻出することに加え、最愛の彼女から距離を置くことで自分自身に「罰」を課そうとします。

ただ、キリスト教や聖書の世界観で言うと、人は罪を背負い続ける必要はなく、いつしか「赦し」が与えられるのだとされていますよね。

劇中のシスターの言葉での中にも、「あなたを赦していないのは、あなただけなのよ。」というものがありました。

ナガ
では、「赦される」というのはどういうことなのでしょうか。

個人的にすごく参考になったのは、カトリック教会の司祭としても活躍しておられる来住英俊さんの書籍における「赦し」についての考え方です。

罪の赦しは決して罪の結果を取り除いて、後の人生を気楽に歩ませてくれるものではありません。罪の結果も含めて、自分の重い人生を背負いながらも、しっかり頭を上げて歩むことを助けてくれるものなのです。

(来住英俊『目からウロコ ゆるしの秘跡』)

聖書を読んでいて、何でもかんでも「赦し」が与えられてしまうのであれば、人間は過ちを繰り返してしまうのではないかという疑問を持ったことがあります。

しかし、「赦し」とは罪を取り除くものではないのだというニュアンスが、この言葉から読み取れます。

「赦し」とは罪を喪失させてしまうというよりは、罪をも背負って前を向いて生きるための「支え」のようなものを得ることなんじゃないかなと個人的には解釈しました。

今作における明香里は、罪の意識から前を向いて歩くことを、生きることを諦めていました。

それでも共に過ごす時間の中で、明香里は目の手術を受けて、視力回復のために努めることを決意し、塁はラストシーンにて明香里の存在を受け入れます。

これはつまり、2人が自分自身に課していた「罪」に執着することを止めて、一緒に未来を見て生きようと決意することができたとも言えるでしょう。

本作は、2人の抱える罪悪感を恋愛関係の発展におけるある種の障がいとして機能させ、それぞれが自分自身に「赦し」を与えることで、2人の未来が顔を出すという構図の作り方が非常に巧かったと思っています。



本作のラストを島崎藤村の『椰子の実』から紐解く

(C)2020「きみの瞳が問いかけている」製作委員会

さて、この『きみの瞳が問いかけている』という作品において、多くの人が疑問に感じたのは、やはりそのラストシーンではないでしょうか。

このラストシーンを読み解く上で重要なのは、明香里がよく鼻歌で歌っていた楽曲であり、最終的にオルゴールにも込められた島崎藤村『椰子の実』です。

ナガ
その内容をまずは見ていきましょう!

名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ

故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる

われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ

實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)

海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ

(島崎藤村『椰子の實』より引用)

この詩は、簡単に言うと、遠い島から流れてきた椰子の実を手に取って、胸に当ててみると、思わず椰子の実の境遇に自分自身が重なったというものです。

椰子の実は遠くの島から海を経由して流れてきたわけですが、この詩を読んでいる自分自身もまた故郷を遠く離れて旅をしています。

だからこそ、そんな椰子の実に自分自身を重ね、それを胸に当てると、変えるべき故郷が懐かしく思えてきて、涙が止まらなくなるという情緒を見事に詩の中に込めてあるのです。

では、この詩がなぜ『きみの瞳が問いかけている』のラストを読み解く上で重要なのでしょうか。

おそらく多くの方が本作のラストは、ハッピーエンドだとほっと胸をなでおろしたことでしょう。

ナガ
しかし、果たして本当にそうだと言えるのでしょうか。

当ブログ管理人は、この作品を見ていて、町で2人がすれ違ったシーンから突然海辺での再会と関係性の修復のシーンに飛ばされ、ハッピーエンドがもたらされるラストの一連のシークエンスに違和感しか抱きませんでした。

なぜなら、あまりにもラストの海のシーンだけが作品から浮きすぎているからです。

普通、あのラストに持っていきたければ、そこに向けて助走をしっかりとつけていくはずなのですが、この映画はそれを一切せず、突然あのラストシーンにぶっ飛ばしているんですよね。

だからこそ、違和感が大きいわけですが、そこで私が考えたのは、あのラストシーンというのは2人の夢ないし理想を具現化した虚構なのではないかという説です。

そこで、思い出して欲しいのが本作に印象的に登場する2つのモチーフであり、それはシーグラスと鼻歌(ないしそれを収録したオルゴール)となります。

まず、この2つの共通点はどちらも2人が作品の中盤に海を訪れた時に観客に印象づけられたものであり、2人の間でも共有されたものであるという点です。

シーグラスの方は当然2人で、海で拾ったものであり、一方の明香里がしばしば口ずさんでいる鼻歌(『椰子の実』)も海に行くときの道中で話題に挙がったものでしたよね。そしてその曲はオルゴールの中に閉じ込められました。

つまり何が言いたいのかと言いますと、シーグラスとオルゴールというモチーフは、2人の思い出の場所であるあの海を強く感じさせるものであるということです。

塁はシーグラスを、明香里はオルゴールを持っており、それぞれがこれを胸に当てることであの海の光景を想像することができる…あれ、これってまさしく『椰子の実』の詩の通りじゃないですか?

そして、さらに思い出して見ると、ラストの海の場面へとジャンプする直前の描写で、塁はシーグラスを握りしめ、明香里はオルゴールを胸に当てていました。

この描写からも推察される通りで、本作のラストシーンはまさしく島崎藤村『椰子の実』の再現なんですよ。

2人は実際に再会を果たしたというよりは、お互いに「椰子の実」を胸に当てることで、思い出の場所へと思いを馳せ、そこで再会を「想像」したわけです。

今はまだ一緒にいられないけれども、いつの日か2人がお互いを、そして自分自身を赦し合って一緒にいられるだろうという漠然とした希望が確かに息づいているのですが、2人はおそらく現実に再会したわけではないので、もの悲しさも立ち込めています。

あくまでも、2人はシーグラスとオルゴールを胸に当てて、お互いの「帰るべき場所」に思いを馳せたに過ぎないのです。

ナガ
まさしく『椰子の実』の指し示す通りだ!

また、当ブログ管理人としては、本作のラストは2人がもう交わり得ないことを示しているのではないかとも解釈しています。

ラストシーンでは自分の命を断とうとしてか、海の方へと向かっていくわけですが、そこで明香里に呼び止められて、思い留まりました。

このやり取りとシチュエーションを見ていて、強く想起させられるのはオルフェウスの悲劇です。

オルフェウスは冥界に自分の愛するエウリュディケーを救いに行き、見事に救うことに成功するのですが、冥界を出るまでは振り返ってその姿を見てはいけないというルールを示されます。

その結果、冥界から出る直前にオルフェウスは後ろを振り返って、その姿を確認しようとしてしまい、エウリュディケーと二度と会うことが叶わなくなってしまうという悲劇がもたらされます。

つまり、「振り返る」という行為は実は「永遠の別れ」を内包しているとも解釈できるということです。

また、振り返った後に明香里が「私の目を見て」と告げて、に自分を見るように促す描写があります。

このシーンでは、まさしく2人の「目合い」を描いているわけですが、ここで少し触れておきたいのが次の点です。

要するに、サルトルによれば、眼差しの交差は、相手を対象と化す相互メドゥーサ的な営為にほかならない。目合いは、サルトルにあっては、永遠に実現不可能な愛の合体のメタファーとなる。

(谷川渥『鏡と皮膚――芸術のミュトロギア』)

この論においては、相手の眼に眼差しを向けると、相手の眼差しは眼という対象に変化してしまい、交わることができなくなるというジレンマが指摘されています。

そのため、この論に基づいてラストシーンを分析して見ると、2人の愛の合体は永遠に実現が不可能ということになるのかもしれません。

このように、本作『きみの瞳が問いかけている』のラストシーンは一見すると、混じり気のないハッピーエンドなのですが、少し裏を読んでいくと実はそうではないのだという側面も見えてきます。

このハッピーエンドとビターエンドの「二律背反」が存在している点は、オリジナルであるチャップリンの『街の灯』にも通じるところとも言えるでしょう。

ナガ
皆さんは、このラストをどう見ましたか?

ぜひ皆さまご自身でその意味を考えてみてくださいね。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『きみの瞳が問いかけている』についてお話してきました。

ナガ
正直期待値は低めの作品でしたが、引き込まれましたね!

確かにプロットそのものは『街の灯』の影響を強く受けていますし、どこか一昔前のケータイ小説のような雰囲気もあります。

ただ撮影や照明はもちろんのこと、演出や主人公たちの恋愛模様の描写の丁寧さ、緻密さにすごく好感が持てました。

それに加えて、人によって解釈が揺れる多層性のあるラストに心を鷲掴みにされましたね。

ハッピーエンドと解釈するも良し。2人が永遠に交わらないことを示唆しているビターエンドと解釈するも良し。

ぜひ、自分なりにあのラストについても考えてみてくださいね。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

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