【感想・考察】『ゆれる』『ディアドクター』の西川美和監督作品の魅力を考える

アイキャッチ画像:©2016 「永い言い訳」製作委員会 「永い言い訳」より引用

はじめに

10月14日から全国でロードショーとなる西川美和監督の待望の新作、「永い言い訳」。主演は本木雅弘が務め、その妻の役を深津絵里が務める。以下映画comのあらすじを引用させていただく。

人気作家の津村啓こと衣笠幸夫は、突然のバス事故により、長年連れ添った妻を失うが、妻の間にはすでに愛情と呼べるようなものは存在せず、妻を亡くして悲しみにくれる夫を演じることしかできなかった。そんなある時、幸夫は同じ事故で亡くなった妻の親友の遺族と出会う。幸夫と同じように妻を亡くしたトラック運転手の大宮は、幼い2人の子どもを遺して旅立った妻の死に憔悴していた。その様子を目にした幸夫は、大宮家へ通い、兄妹の面倒を見ることを申し出る。なぜそのようなことを口にしたのか、その理由は幸夫自身にもよくわかっていなかったが……。(映画comより引用)

 

上記の内容の作品で、監督だけでなく、原作・脚本をも西川美和さんが務めている。

私も個人的にこの作品を非常にたのしみにしている。というのも予告を見ただけで、そのストーリーの大枠を聞いただけでも、この作品から漂う西川美和監督の香りが非常に特徴的であり、また今回の作品では、そんな彼女の持ち味がさらにパワーアップしてくることを予感させてくれるからである。

彼女は今まで4作品の監督を務めており、今回の新作のように監督・脚本・原作を務めるのは本作で4作品目となる。彼女の作品はいつも題材こそ異なるが、常に一貫した視座と思想、演出が反映されている。つまり、「永い言い訳」という彼女の新作を見る前に、彼女のこれまでの作品を知っておくことは、作品に、彼女の世界観にスムーズに入っていくために非常に役立つことだと思う。

そのため今回は彼女の過去の作品の中でも特に、西川美和監督・脚本・原作の三拍子がそろっている3作品を取り上げて、私の考える西川美和監督の魅力について語っていきたいと思う。

『ゆれる』

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©2006 「ゆれる」製作委員会 「ゆれる」より引用

まずは2006年に公開された作品「ゆれる」。西川監督と聞くとおそらく多くの人がこの作品を思い浮かべることだろう。以下あらすじを映画com.の方から引用させていただく。

東京で写真家として気ままに暮らす猛(オダギリジョー)が、母親の一周忌で久しぶりに帰郷。猛は家業を継いだ兄の稔(香川照之)と幼なじみの智恵子とともに近くの渓谷へ行くが、智恵子が吊り橋から転落してしまう。智恵子の近くにいた稔が逮捕され裁判となるが、そこで猛は今まで見たことのない兄の姿を目の当たりにする……。(https://eiga.com/movie/1759/より引用)

 

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この作品では、香川照之とオダギリジョーが演じる猛と稔の兄弟関係が一つの事件をきっかけに崩壊し、そして再生していく。そんな物語である。この作品はまさに登場人物たちの「ゆれる」心情を繊細に描き出した傑作である。ちょっとした思い込み、心情のズレ、兄弟意識、先入観、自己防衛本能、微妙な距離感。そのすべてが登場人物たちの行動や発言に影響していき、物語を動かしていく。その物語自体が素晴らしいことに加えて、脚本の力もあいまって印象的な作品に仕上がっている。またドキュメンタリーを思わせるような、流れるようなリアル感あふれる自然なカメラワークにも注目である。

『ディア・ドクター』

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©2009 「ディアドクター」製作委員会 「ディアドクター」より引用

次は2009年に公開された「ディア・ドクター」という作品である。以下あらすじを映画com.より引用させていただく。

都会の医大を出た若い研修医・相馬が赴任してきた山間の僻村には、中年医師の伊野がいるのみ。高血圧、心臓蘇生、痴呆老人の話し相手まで一手に引きうける伊野は村人から大きな信頼を寄せられていたが、ある日、かづ子という独り暮らしの未亡人から頼まれた嘘を突き通すことにしたことから、伊野自身が抱えいたある秘密が明らかになっていく……。https://eiga.com/movie/53838/より引用

  

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この作品はいわゆる僻地医療という非常に現代社会に根差した題材を取り上げている。しかし、そういった社会批判的作品であるかと問われればそうではない。あくまで中年医師の伊野と彼と取り巻く人間模様を描き出す。

自分が絶対的に信用していたものというものが崩壊していくことの容易さを描き出しながら、真実を知ることと、嘘を信じ続けることのどちらが幸せだったのだろうかという究極の二択を提示する。その一方で伊野という人物の心情と行動の変化を絶妙に演出し、最高のラストシーンへとつながっていく。非常に西川監督の信条や思想が反映された作品だと思う。

『夢売るふたり』

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©2012 「夢売るふたり」製作委員会 「夢売るふたり」より引用

最後に2012年に公開された「夢売るふたり」。以下映画comからあらすじを引用させていただく。

料理人の貫也と妻の里子は東京の片隅で小料理屋を営んでいたが、調理場からの失火が原因で店が全焼。すべてを失ってしまう。絶望して酒びたりの日々を送っていた貴也はある日、店の常連客だった玲子と再会。酔った勢いで一夜をともにする。そのことを知った里子は、夫を女たちの心の隙に忍び込ませて金を騙し取る結婚詐欺を思いつき、店の再開資金を得るため、夫婦は共謀して詐欺を働く。しかし嘘で塗り固められた2人は、次第に歯車が狂い始めていき……。(https://eiga.com/movie/57050/より引用)

この作品では、ひたすらに松たか子演じる里子が夫の阿部サダヲ演じる貫也をコントロールしていく。都会の雑踏の中で輝けない星たちの太陽になり、輝かせてあげなさいと述べる里子自身の内面に巣食うどす黒い感情の正体はいったい何なのか?怒りなのか嫉妬なのか復讐なのか愛なのか?ひたすら得体のしれない感情に動かされる里子という人物を松たか子が絶妙に演じている。また映画として過激なシーンもありながら、非常に笑える内容ともなっている。

ここまで西川美和監督作品を3つ取り上げ、その概要と簡単な講評を述べてきた。 ここから彼女の作品に通ずる信条、思想や魅力について語っていきたいと思う。


「死」の扱い方について

まず第一に彼女の作品に通じるのは、「死」というものの軽さである。

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©2009 「ディアドクター」製作委員会 「ディアドクター」より引用

彼女の作品においては基本的に「死」というものが軽く描かれる。「ゆれる」においてはオダギリジョー演じる猛が親戚の葬式にど派手な衣装で現れたり、智恵子の転落死は何度もリピートされあくまで兄弟の人間関係の崩壊を象徴する記号かのごとく描かれる。

「ディア・ドクター」では中年医師の伊野が無免許にもかかわらず、村のガン患者の治療をしない、つまり死を選ぶという結託に安易に加担してしまう。

「夢売るふたり」では、登場する女性たちの夫の死はあくまでお金や生命保険といった媒体で登場し、また問い詰めてきた探偵を子供が包丁で刺してしまうシーンも実に軽さが付きまとう。

彼女の作品においては「死」というものが軽い。しかしよく考えてみてほしい。これは現代の社会の状況に他ならない。ニュースで毎日のように殺害されたやら亡くなったやらと報じられる。身近な人が死んだとなると話が変わって来るが、ニュースや新聞で報じられる死というものは非常に軽いものに感じられるだろう。それを見たときに恐ろしい事件だとか悲しいだと思ったとしても、おそらくまたすぐに忘れてしまう。なぜならまた別の死が次々に取り上げられていくからだ。

また小説や映画なんかでもそうである。死というものは記号的に扱われ、ミステリー小説なんかでは死は弄ばれ、娯楽と化している。つまり我々は無意識のうちに「死」というものを消費しているのである。だからこそ、西川美和監督作品のような明確に死を軽く扱った作品に若干の嫌悪感を覚える。しかしそれは普段我々が目をそらし続けている現実を突きつけられるからである。我々は意識のうちでは、死というものは重大なものであるとわかっている。わかったつもりになっている。それゆえに死を軽く扱ってはならないと考える。当然だ。

しかし、ふと考えてみる。すると自分が普段、無意識のうちに「死」を消費しているのだと気づかされる。西川美和監督の作品はそんな無意識の中にある我々の死生観を呼び覚ますのである。

劇中の登場人にもそんな監督の考え方が反映されている。「ゆれる」においてオダギリジョー演じる猛は冒頭の葬式ではど派手な服で登場するが、智恵子の葬式では正装で登場する。これは単に目の前で亡くなった知人の葬式だからなんて理由だけではない。明確に彼の中で「死」というものに対する捉え方が変化しているのだ。こんな映画の中の何気ない描写にも彼女の死生観は反映されている。

また「ディア・ドクター」では中年医師伊野は村の女性の「死」という選択にその家族の想いなども顧みず、安易に同意してしまうが、そのラストシーンで彼女の病室に現れる。それは彼女の「死」を最後まで見届ける覚悟をした、「死」の重みを知った人間の行動であった。

この辺りの詳細は作品を見てほしいのだが、このように彼女の作品は死というものが軽薄化した現代に死の尊厳と重みを取り戻そうとしているように感じ取れる。だからこそ意図的に「死」というものを軽く描き、「死」の重みを感じ取り、登場人物がどう変化していくのかを描くのである。つまり一見、死をぞんざいに扱っているように見えて、実は死をとても重く考えているのである。

彼女の作品を見て、自分の無意識と対話してみてほしい。果たして自分は「死」を軽く見てきたことはないだろうか?死というものを記号的に、娯楽的に消費してきてはいないだろうか?彼女の作品はそんな我々の無意識を意識させてくれるのである。

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©2012 「夢売るふたり」製作委員会 「夢売るふたり」より引用

「視線」のマジック

第二に彼女の作品では登場人物たちの視線が非常に重要な要素となっている。「夢売るふたり」では特にその演出が重要な役割を果たしている。不倫をして帰って来た夫貫也を見つめる視線、一人風呂場で虚空を見つめる視線、厨房に現れたドブネズミを見つめる視線。

その視線の先に何が見えているのだろうか?そんな転移注目し、考察しながら作品を見るのも面白い。この作品だけでなく、他の作品にも印象的な視線か数々登場する。だからこそ、彼女の作品において登場人物たちの視線にはぜひ注意を払っておいてほしい。

また彼女の作品はそのラストシーンで特徴的な視線が登場する。これは三作品に共通しているが、すべての作品で登場人物が観客の方に視線を向けるのである。これがどういう意味を持つのか、どういう意図でこういう演出を取り入れているのかはわからない。しかしすべての作品に共通するということは確実に意図的な犯行である。

私の解釈では、これは登場人物たちの目を借りて監督自身が我々観客を見つめているのではないだろうかと考えている。彼女の作品はいわゆる一つの問いかけでもある。だからこそ、物語のラストで監督自身が観客に問いかけるという演出なのかもしれない。

また、この演出は映画を見ていた我々が突如として映画の中に引きずり込まれる一瞬でもある。傍観者であった我々観客が、一瞬だけ当事者、参加者になるのである。これを意図して演出しているのだとしたら、彼女は天才的だと思う。

新作「永い言い訳」でもこのラストシーンのこの特徴的な視線が登場するのかは要注目である。

メタファーによる演出

最後に挙げたいのは、モノや生き物を使ったメタファー的な表現の仕方である。これは今回挙げた三作品の随所で散見される。ぜひ注目しながら見てほしい。洗面台に張られた水、扇風機、シンクで溶けだすアイスバー、階段から落ちていく包丁、厨房に現れるドブネズミ。

すべての一見意味の無さそうな挿入描写が語らずとも登場人物たちの未来を暗示し、またその心の内を表現しているようである。こういった演出を簡単にやってのける監督というのは本当にわずかだと思う。意図的に挿入しているのだが、わざとらしく見えない。しかし、何か意味があるのだと思わせる。これは決して容易なことではない。

私が大好きなインド映画の巨匠サタジット・レイ監督やジャン・ルノワール監督はこういった演出を得意としている監督である。「大樹のうた」のアポーと妻が部屋で過ごす何気ないシーン、「大いなる幻影」の有名な食事シーンをぜひ見てほしい。決して語られることはないが、観客に何かを思わせる、感じさせる演出にあふれている。画面のいたるところに情報が見え隠れしている。

西川監督も粗削りながら、そういう演出をやってのける偉大な監督の一人である。だから彼女の作品を見るとき、ただぼーっと眺めるのではなく、画面のさまざまなところに注意を払ってほしい。言語化される前の重要な情報が隠されているのである。

ここまで3つの西川美和監督作品の特徴と魅力を挙げてきた。おそらく新作の「永い言い訳」にも今回挙げた点は少なからず関わって来るだろう。だからこそ、新作を見る際にこれらの点に少し注目してみてほしい。

また西川監督の過去作を1つからでも見ておくと、それと関連付けながら作品を見ることができ、より楽しめるのではないかと思う。

おわりに

最後にはなりますが、映画「永い言い訳」は10月14日から公開されます。ぜひ劇場でご覧になってください。私も言うまでもなく見に行きますので!!

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