みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回は『パラレルワールドラブストーリー』についてお話していこうと思います。
一応原作と映画版の両方を鑑賞してはいるんですが・・・。
2019年のワースト候補筆頭格の作品だと思います。
ミステリとしてというより映画としてここまで退屈な作品は久しぶりだったかもしれません。
ただ原作(ストーリー)そのものはなかなか面白いので、その魅力については掘り下げていけたらと思っています。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
『パラレルワールドラブストーリー』
あらすじ
敦賀崇史はある日、通勤電車の中で向かい側の電車に乗っている女性に一目惚れする。
日に日にその女性への思いが強まっていき、彼は何とか声をかけようと、ある朝向かい側の電車に乗ってみたが、彼女と話しかけることはできなかった。
崇史には、三輪智彦という親友がいた。彼とは中学時代の付き合いであったが、片足に障がいを抱えているという事情もあり、恋愛方面の話をあまり深くすることはなかった。
2人が社会人になってしばらくが経過した頃、智彦が崇史に恋人を紹介したいと申し出てきた。
親友の浮いた話に喜びを隠せない崇史だったが、智彦が紹介した女性というのが、何と崇史が電車で一目惚れした女性だったのだ。
津野麻由子という女性は智彦には不釣り合いなほどに美しく、ひそかに彼女に好意を寄せていた崇史は嫉妬の念を隠せなくなっていく。
現実では2人との関係を取り繕い、妄想や夢の中で崇史は麻由子を抱いた。
そんな情緒不安定な日々が続いたある日、彼は目覚めてみると麻由子と同棲しており、朝食を作っていた。
確かに彼女は自分の恋人なのだが、その一方でうっすらと彼女が親友である智彦の恋人ではなかっただろうかという思いが頭から離れない。
そして不可解にも彼の周りから同僚や知人、そして智彦までもが姿を消していた。
一体、彼の身に何が起こっているのだろうか!?
スタッフ・キャスト
- 監督:森義隆
- 原作:東野圭吾
- 脚本:一雫ライオン
- 撮影:灰原隆裕
- 照明:水野研一
- 編集:今井剛
- 音楽:安川午朗
- 主題歌:宇多田ヒカル
2017年から考えると、『ナミヤ雑貨店の奇蹟』『祈りの幕が下りる時』『ラプラスの魔女』『ラプラスの魔女』『人魚の眠る家』『マスカレードホテル』そして今作と実に7作品になります。
もちろん作家として人気があるわけですが、ここまで立て続けに原作が映画化される作家も他にはいないでしょうね。
そしてこれらの7作品に関して当ブログ管理人は全て原作を読破しておりますが、最も面白かったと感じたのが今作『パラレルワールドラブストーリー』です。
というよりも近年の東野圭吾ミステリへの転換期となった時期に書かれたのがこの作品なんだと思っております。
詳しくは後程書きますが、人間の存在論へと迫っていくポストモダニズムチックなミステリにラブと友情を絡めた作品であり、非常に完成度が高いと言えます。
さて、本作の監督を担当したのは、2016年に公開された映画『聖の青春』で高い評価を獲得した森義隆さんです。
徹底的な役作りに取り組んだ松山ケンイチさんにスポットが当たるのは当然ですが、映画としても非常にきれいにまとまっていて、良くできた作品だと思っております。
脚本を担当したのは、舞台作家としてデビューし、B級映画やドラマの脚本も手掛けている一雫ライオンさんです。
小説としてはかなり面白い『パラレルワールドラブストーリー』ですが、これを映画化するとなるとかなり難しいタスクになるだろうとは感じたので、どういう脚本に仕上げてくるのかはかなり予測がつきませんね。
撮影を担当した灰原隆裕さんは白石和彌監督作品でしばしば撮影を担当していて、『彼女がその名を知らない鳥たち』でもとにかく人物の感情を映像で浮き彫りにするのが巧いと感じました。
『パラレルワールドラブストーリー』も嫉妬や友情、恋愛、性愛など様々な人間の感情が渦巻く作品です。
そう考えると、彼がこの作品に参加したことで映像のグレードがワンランク上がるのではないかと期待してしまいます。
また、主題歌を宇多田ヒカルさんが担当しており、楽曲は「嫉妬されるべき人生」となっています。
『パラレルワールドラブストーリー』のキーになる言葉が「嫉妬」でもあるので、主題歌としての親和性は高そうですね。
- 玉森裕太:敦賀崇史
- 吉岡里帆:津野麻由子
- 染谷将太:三輪智彦
ファンの方には申し訳ないんですが、正直に申し上げると玉森さんと吉岡さんにあまり演技が巧いというイメージはありません。
玉森さんは『レインツリーの国』の時に演技を拝見しましたが、ヒロインの西内まりやさんが良くなかったのもありますが、拙い印象を受けました。
ですので『パラレルワールドラブストーリー』のこの難しい役どころで、一体どれくらいのパフォーマンスを見せてくれるのか楽しみでもありますね。
一方の吉岡さんもお美しいですし、原作を読んでいて、主人公がこれだけ性的な欲望を掻き立てられるんだから、それなりの配役にしてくれないと・・・とは思っていたのでイメージにはぴったりだとは思います。
ただやっぱり役どころとしては非常に難しいと思いますし、ここから彼女が本格的に女優の道に進めるのかどうかの試金石にもなる映画と言えるでしょう。
そして染谷翔太さんですが、智彦がおそらく一番演じるのが難しいキャラクターなので、ここにきちんと実力のあるキャストを持ってきたのは正解ですね。
また染谷さんって正統派2枚目とは少し外れていて、しかも『三月のライオン』のふくよかな体形の青年であっても難なく演じきっていたりすので非常に雰囲気をまとうのが上手い俳優だと思います。
ですので、原作ではルックスがあまりよくないと評されている智彦を演じるにあたっても、それほど違和感なく見れるのではないかと思います。
より詳しい作品情報を知りたい方は映画公式サイトへどうぞ!!
『パラレルワールドラブストーリー』解説・考察
東野圭吾作品の転換点の1つとして
東野圭吾さんってエドガー・アラン・ポーの影響を受けているとも言われますが、デビュー当初はトリック重視の正統派推理小説作家だったように思います。
とりわけ初期の『放課後』や『学生街の殺人』、『仮面山荘の殺人事件』などは、かなり凝ったギミックの技巧派ミステリでしたし、それが高く評価されていました。
彼の作品が転換していく傾向を見せ始めたのは、1991年に発表された『変身』という作品からでしょうね。
フランツ・カフカの同名の小説へのオマージュともとれる出だしから始まるこの小説は、成瀬純一という主人公が世界初の脳外科移植手術を受けたことで自分の意識が崩壊していく様を描いています。
脳を移植したことで自分のアイデンティティが壊れていき、自分の身体なのに意識だけが「分裂」していく様を鮮烈に描き出していきます。
この作品において東野圭吾さんが問うたのは、自分という存在を自分たらしめる根拠をどこに求めればよいのかという問いであり、その謎を解くところに新しいミステリの在り方を見出しました。
そして『変身』では、成瀬純一の意識が薄れていき、意識の上では絶命してしまってもなお、恋人の恵が彼のことを大切に思い、彼の書いてくれた1枚の絵を大切に持ち続けるという展開がアンサーになっています。
つまりあなたの存在をあなたたらしめてくれるのは、あなたのことを大切に思ってくれている人たちなのであると東野圭吾さんは考えたのです。
そして1993年に発表された『分身』という作品も実に興味深いものがあります。
この作品は、氏家鞠子と小林双葉という2人の少女に纏わる物語をクローン技術を絡めて描いたミステリです。
東野圭吾さんは、クローン技術により、全く同じ身体を持つ人間がこの世界に2人いて、そして自分の周囲の人は自分を見つめながら、世界のどこかにいるもう一人の「私」のことを思っているという恐ろしい状況を描き出しました。
これはクローン技術という先端技術を盛り込んで描かれたSFミステリのタッチではありますが、本質は先ほどの『変身』と同じく自己の「分裂」を描いた作品です。
この世界に2人の「自己」が存在し、お互いがお互いの存在を疎ましく、そして憎たらしく思い、拒絶し合います。
「自己」であり同時に「自己」ではないというお互いの存在に嫌悪感を覚えるのは当然でしょう。
それでもこの作品は、氏家鞠子と小林双葉はお互いの存在を受け入れて生きていこうとする展開を用意し、希望を描きました。
これはまさしく分裂した「自己」がそれぞれに自分のアイデンティティを持ち、独立した人間として生きていくということをも意味しています。
そして、1995年に今回映画化された『パラレルワールドラブストーリー』が発表されました。
この作品は人間の記憶にアクセスし、記憶を改ざんするという技術を題材にし描かれたSFミステリです。
そしてテーマは『変身』や『分身』と同じく自己の「分裂」です。
自分が信じてきたもの、見聞きしてきたものがあやふやになり、そして事実ではないかのように感じられ、自分のアイデンティティが崩壊していく中で確かな「自己」を探し求めるというのがこの作品の根幹にある主題です。
その後の東野圭吾さんの作品は初期の頃の本格ミステリというよりは、人間の「自己」についての問いを省察するような存在論的なミステリに舵を切っていきました。
仮死状態になった娘の身体に、死んでしまった妻の魂が宿るという衝撃の展開を描いた1998年発表の『秘密』も上記の3作品に通ずる作品です。
近年の作品を見てみても、昨年映画化された『人魚の眠る家』のような作品は、とりわけ「自己」や人間の存在論について深く掘り下げていくようなミステリに仕上がっていました。
『パラレルワールドラブストーリー』が気に入った方はこの章で挙げた作品は、ぜひぜひ読んでみてください。
ミステリと存在論
探偵小説の成り立ちはヴォルター・ベンヤミンの『パサージュ論』を紐解くと「群衆」の誕生にあるとされていました。
都市が生まれたことで、「群衆」が誕生し、それに伴って個人の足跡が消失したことで、その不可視化された足跡を辿る者としての「探偵」が生まれたというコンテクストが指摘されています。
例えばエドガー・アラン・ポーは史上初の推理小説と名高い『モルグ街の殺人』という作品を世に送り出しました。これが1841年のことです。
探偵そのものの歴史を紐解くと、実はその7年前に1834年パリにフランソワ・ヴィドックが世界初の探偵事務所を開設しているんですね。
この事実がポーが探偵小説最初の作品の舞台をパリに据えたことに通じていることは間違いないでしょう。
そして19世紀後半になるとコナンドイルの『シャーロックホームズ』シリーズが登場し、さらに20世紀に入ると探偵小説は黄金時代を迎えることとなります。
これに関しては探偵小説批評家の笠井潔氏は、かなり独自の論考ではありますが、非常に興味深い指摘をしています。
それは第1次世界大戦という人類の大惨禍が探偵小説の黄金時代の根底にあるという持論です。
笠井氏は、第1次世界大戦によって名も無い多くの人々の「記号としての死」、つまり大多数の中の1人として多くの人が戦争で命を落としたことが人々を探偵小説へと走らせたと考えたのです。
1人の1人の「死」というものがどんどんと軽んじられていく世の中にあって、探偵小説はそんな「死」に尊厳をもたらすものであるという側面を孕んでいたという背景があったのではないかという論を展開したんですね。
もちろんこの考え方は賛否ありますし、異端な考え方であると言われることも少なくはありません。
ただ探偵小説にこういうコンテクストがあったのだと解釈すると、探偵小説ないしミステリというものはそもそも「人間」が省察の中心にあるジャンルだったとも言えるのです。
とりわけシャーロックホームズなどのモダニズム探偵の時代を過ぎると、ポストモダニズム探偵小説が台頭していくこととなる。
その中でひと際輝きを放ったのが、ポールオースターという作家であることは間違いありません。
当ブログ管理人がオールタイムベスト書籍TOP10を選ぶならば外せない『幽霊たち』という作品はその典型とも言えるミステリです。
犯人やロジックがあるわけでもなく、主人公の男がひたすらに1人の男を監視し、その他人を監視するという行為が、「自己」を監視する行為に重なってきて、次第に彼が「自己」を省察しているように錯覚していく様を描いています。
もっと言うなれば、この作品はポールオースター自身の「自己」という存在への問いを反映させた作品です。
このようにミステリというジャンルには、とりわけ人間の存在論への問いかけが深く関わってきました。
東野圭吾さんの『パラレルワールドラブストーリー』という作品もまた、そんな「自己」を巡る旅を描いているんですよ。
人の存在を成立させるものとは?
(C)2019「パラレルワールド・ラブストーリー」製作委員会 (C)東野圭吾/講談社
『パラレルワールドラブストーリー』という作品はとりわけ東野圭吾さんが1991年に発表した『変身』とすごく繋がりの深い作品であり、発展形として作られた作品だと思います。
主人公の敦賀崇史はある朝目覚めると、親友の恋人だったはずの麻由子と恋人関係になっており、同棲しているという状況になっていました。
しかし、彼の記憶は「分裂」しており、脳内には2つの記憶が混線状態になっていて、もはや「自己」があやふやになっているというわけです。
それ故に、彼はそんな今の状況を打開しようと周囲の人たちに事情を聴いて回ろうとするのですが、親友が姿をくらませていたり、「恋人」であるはずの麻由子までもが消えてしまったりと、次々に彼の周りから人が消えていきます。
人間という生き物は自分が自分であると当たり前のように信じて生きていますが、それを何も不振に感じないのは、あなたの周りにはあなたがあなたであると認識してくれる人がいるからです。
これはある種の「はだかの王様」でして、自分が自分であると保証する確固たるものは曖昧なままで、私たちは人との関わりの中で「自己」を確かなものとしています。
ただ記憶が曖昧になり、さらには「自己」を保証してくれる他人がいなくなると、とたんにこれまで当たり前のように身に纏っていたはずの「自己」は消え失せてしまうんです。
『パラレルワールドラブストーリー』という作品が敦賀崇史という主人公に課すのは、そういう試練でした。
この作品において、崇史との友情を守るために、自分を愛してくれた麻由子という大切な存在からの愛情を記憶から消し去ろうとしたのが、三輪智彦でした。
そんな智彦に対して崇史は「強い人間」であると評しています。
それは、彼が自らの意思で能動的に、「自己」を保証してくれる大切な恋人との記憶を捨てるという決断ができたからです。
これは決して「逃げ」などではありません。
彼は、自分がこれまで共に生きてきた親友との関係を何よりも大切に思っていたのであり、彼がいたからこそ今の「自己」があると考えています。
それ故に、崇史という存在が離れていき、自分自身を失うということを何よりも恐れ、「自己」の担保とも言える記憶を改ざんするという行為に着手しました。
それに対して崇史は極めて受け身的に、ないしある種の逃亡手段として「記憶」を消すことで「卑劣な自己」を自らから切り離そうとしました。
愛と友情と、私自身が「自己」を保ち続けることができる根拠はどこにあるのか?
『パラレルワールドラブストーリー』という作品は、東野圭吾さんがその謎に挑んだミステリなのです。
また、この作品は先ほど紹介したポールオースターの『幽霊たち』から強く影響を受けています。
この時の俺に、自分の気持ちを見つめる冷静さなどなかった。愕然としているのは、この時の俺ではない。俺を見ているもう1人の『俺』だ。
俺は立ち止まり、周囲を見回した。
『俺』はどこにいる。ここはどこなのだ。
不意にすべてを理解した。
ここは過去だ。記憶の中にある世界だ。『俺』は記憶の中の俺自身を見つめている。
(東野圭吾『パラレルワールドラブストーリー』358-359ページより引用)
本作には時折「SCENE」という断章が記され、それが現在と過去を分岐させているのですが、とりわけ「SCENE」とは、俺自身が記憶の中の『俺』を見つめていることを表す叙述表現だったんです。
この物語構造は、まさしくポールオースターの『幽霊たち』に非常に似ており、そして自分自身が「犯人」であると思い至るところまでもが共通しています。
『幽霊たち』では、自分の観察対象が自分自身に重なり、そしてその観察対象が書いているのは「自分」についての著作であるという構造が構築されていました。
『パラレルワールドラブストーリー』では、崇史が無意識のうちに鑑賞していた人物が「俺」自身であると悟り、そしてそこに映る「俺」こそが今の「俺」を生み出した「犯人」であると知るのです。
このようにポストモダニズムミステリからの影響も強く感じられる作品ですが、そういった引用もありつつ、やはり「分裂」と「自己」を扱った東野圭吾作品は数あれど、この作品の出来は頭1つ抜けていると言えるのではないでしょうか。
あまりにも酷い映画版の結末
(C)2019「パラレルワールド・ラブストーリー」製作委員会 (C)東野圭吾/講談社
ここまでの部分でも書いてきましたが、原作を読んでいた時に、東野圭吾作品でもトップクラスで好きですという印象を抱いたんですよ。
ただ映画版を見終わった今、私は原作を読んでいた時の自分が信じられなくなってきました・・・。
もしかして、誰かが私の記憶を操作して「原作が面白かったという記憶」を植え付けているんじゃないかと(笑)
というのも今回の映画版は結末を除いては、基本的に原作通りなんですよ。それも愚直なほどに原作順守です。
もちろん尺の都合でカットしてあるエピソードや登場人物がいたりはするんですが、大筋は原作の流れを踏襲していて大きく脱線することもありません。
まず気になったのは、2019年の映画化作品にも関わらず、価値観やテイストがこの本が出版された1995年で止まっているように感じられるところでしょうか。
特に吉岡里帆さん演じる麻由子が実験のためとは言え、会社の業務命令で恋人でもない男性と恋人関係を装って同棲させるという展開が既にアウトオブデイトな設定でした。
ジェンダー的な側面から考えても、今の時代に適した描写ではないですね。逆にこの描写が何事もなく登場していた小説版が発売された1995年とは日本における社会的な価値観も大きく変化してきたなぁと感じさせられます。
後はメインキャストの3人が染谷翔太さんを除いて完全に演技の技量不足といったところでしょうか?
この作品は言わば東野圭吾さんが夏目漱石の『こころ』をSFミステリに持ち込んだようなタッチの味わいを持つ作品です。
- 先生→崇史
- K→智彦
- お嬢さん(静)→麻由子
そうなると、特に先生に当たる崇史を演じる玉森裕太さんのポジションには非常に高い演技力が求められるはずですし、もっと嫉妬で狂気に堕ちていく男を大胆に表現してほしかったと思っています。
その点で、彼の演技に殻を破り切れていない印象を受けました。
吉岡里帆さんの方も決して悪くないんですが、彼女のビジュアルが持っている力以上のものが作品内で引き出されていたような形跡がなく、インパクトに欠ける演技でした。
その一方で、染谷翔太さんが完全に孤軍奮闘状態で圧巻の演技を見せていたため、ギリギリ間がもっていた感じですが、玉森さんと吉岡さんだけのシーンになると途端にシーンに締まりが無くなっていくようでした。
あとは理系チックで理詰めな印象が強く、セリフの文字数も多い原作を映画映えする方向にアプローチできていなかったのも大きいですね。
ドゥニ・ヴィルヌーブ監督が『あなたのための物語』というSF小説を『メッセージ』として映画化した際に、理論チックな小説をかみ砕いて映像先行で実写化している様を目撃しました。
『パラレルワールドラブストーリー』もこれをそのまま映画化すれば、間延びして退屈に感じることは自明だったわけですから、もっと映画として工夫する必要があったと思います。
そして今回の映画版が最悪だったのが、そのラストシーンですよ。
あの原作を読んで、そしてこの原作が『こころ』の構造を踏襲していると分かっていて、なぜあのラストシーンを描けてしまうのかが私には不思議で仕方がありません。
『こころ』という作品は言わば、三角関係を巡る苦しみと罪悪感を背負って、死を選ぶ人間の悲恋の物語です。
『パラレルワールドラブストーリー』はそのプロットをSFミステリに持ち込み、記憶を失い大切な人の記憶を失うことをある種のポストモダニズム的な「死」として描きました。
私は原作を読んだときに、この作品の結末の後に崇史と麻由子が選ぶのは、記憶を消すことではなく、記憶を失う前の智彦が残した「遺書」に従い、自らの醜い部分や汚い部分と向き合いながらも生きていく道なのではないか?と考えました。
特に映画版は原作よりも麻由子が崇史に好意を抱いていたということを明確にしたわけですから、そうするのが最もこの作品の主題にも合うと思うのです。
しかし、映画版が描いたのは、2人が再び記憶を消し、自分の犯した「罪」を忘れた世界で再び出会うという「君の名は。」エンド。
これは考えられるべき選択肢の中でも最悪のものと言えるように思います。
なぜなら結局は、2人が智彦を裏切ったという事実を記憶から無くし、その良心の呵責と向き合うことからも逃げているからですよ。
それでいて2人は全くと他人として、再び出会い、恋に発展するかのような素振りを見せているわけですから最悪と言う他ありません。
映画版の『パラレルワールドラブストーリー』は、やはり「映画として見せる」という意識が欠如しているように思えましたね。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は『パラレルワールドラブストーリー』についてお話してきました。
東野圭吾作品はこれまでにも多く読んできましたが、個人的にはトップクラスに好きな作品です。
ポストモダニズム的な思想が根底にあるように感じられ、また存在論的な問いを省察していくミステリとして非常によくできていると思います。
それでいて変に話を難しくするわけでもなく、あくまでも万人に読んでもらえるような程良い娯楽性と物語としての面白さが損なわれていないのが素晴らしいですよね。
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。