映画『キリエのうた』感想と考察:有限性がもたらす罪の意識、あるいはその贖罪の物語として

本記事は一部、作品のネタバレになるような内容を含みますので、鑑賞後に読んでいただくことを推奨します。

作品情報

キリエのうた

<スタッフ>

  • 監督・原作・脚本:岩井俊二
  • 音楽:小林武史
  • 主題歌:Kyrie

<キャスト>

  • キリエ(路花):アイナ・ジ・エンド
  • 潮見夏彦:松村北斗
  • 寺石風美:黒木華
  • 一条逸子(真緒里):広瀬すず

映画『キリエのうた』感想と考察

①震災と人間の有限性
②贖罪と赦し、限界への諦念
③有限性への抵抗としての「キリエのうた」

①震災と人間の有限性

©2023 Kyrie Film Band

「永遠には続かないよ、そういう時間は。」

映画『キリエのうた』の劇中に登場する音楽プロデューサーの男性が、路花に告げたこの言葉は、映画の世界に没頭している私たちをふと現実に立ち返らせる。

2011年3月11日。あの日、私たちの当たり前の日常が音を立てて崩れていった。

あの震災は、私たち日本人に、人間という存在の有限性と私たちが生きる時間の刹那性をまざまざと突きつけたのだ。

当たり前のように続くのだと誰もが信じて疑わなかった日々の営みが、いかに尊いものであり、同時に脆いものであったのかを、私たちは理解した。

そして、何よりあの震災は私たちに残したのは、人間にはどうしようもないことがこの世界にはあるという諦念に裏打ちされた絶望感だったのかもしれない。

しかし、それでも人間は「あのとき、自分がこうしていれば」「自分が何かしてあげられたかもしれない」という後悔を捨てられない生き物だ。

ゆえに苦しい。限界を自覚し、「自分には何もできなかったのだ」と理屈ではわかっているのに、それでもそうした後悔を捨て切れない。そのチグハグさが私たちの心を蝕んでいく。

そんな中で、2011年以降のフィクションあるいは物語は、何らかの形で震災と向き合おうと試みたものが多くなった。

2016年に公開された新海誠監督の『君の名は。』はその象徴的な作品の1つであり、人間の限界の超越を描くことで、フィクションないし物語の立場を明確にし、私たちの抱える後悔の受け皿となったとも言えるだろう。

映画『キリエのうた』もそうした系譜にある作品であり、この物語を震災と切り離して語ることは難しい。岩井俊二監督自身が宮城県出身であることもあり、彼の思いが強く投影された作品である。

ただ、この作品は、フィクション性によって、人間の限界の超越を演出するどころか、それとは真逆の立場をとっていると言える。むしろ私たちの「限界」を強く自覚させる。

「限界」の2文字は、本作のさまざまな登場人物の人生に影を落としている。

夏彦は、震災で命を落とした恋人のキリエを助けられなかったことを今も悔い続けていた。離れていた自分にはどうしようもなかった、それでも何かしてあげられたのではないかと。

逸子は、家庭の経済状況によって自分の「限界」を決められてしまった人物だ。学費を支援してくれる男性が現れたが、その男性にも逃げられてしまい、結果的に進学するはずだった大学に通うことはできず、東京という街に飲み込まれた。

そんな過去への当てつけのように、彼女は男性から金銭を搾取して、生計を立てている。その行為は、自分の未来を奪ったお金という「限界」を何とかして壊し、過去の自分を救おうとする試みにも見える。

風美は、かつてまだ幼かった路花を行政に引き取られてしまい、彼女の人生に関わってあげられなかったことを悔いている。赤の他人であるにも関わらず、自分にも何かしてあげられたのではないかという負い目を感じているのだ。

こうした登場人物たちの状況を踏まえると、限界という言葉を巡って、本作を通底するもう一つのキーワードが見えてくる。

それは「罪」だ。

夏彦も、逸子も、風美も。彼らは「限界」がもたらす罪悪感に苛まれている。

自分にはどうしようもなかったのだとどこかで分かっていても、誰かのためにあるいは自分のために何かしてあげられたのではないかと思わずにはいられない。

『キリエのうた』はそんな罪に対する贖罪の物語であり、赦しの物語なのだ。

②贖罪と赦し、限界への諦念

©2023 Kyrie Film Band

『キリエのうた』における主人公の路花は、「キリエ」という名義で音楽活動をしているが、これは亡くなった姉の名前を継承したものだ。

「復活」のコンテクストを内包していることも重要だが、そもそも「キリエ」というのは「主よ」という意味だと岩井俊二監督もインタビューで語っている。

そうですね、「キリエ」だけだと「主よ」という意味らしいです。
TV Bros. Web 岩井俊二×小林武史×アイナ・ジ・エンド鼎談「感動したのは、アイナさんの歌」 【音楽映画『キリエのうた』最速インタビュー】

劇中でも修道院が何度か登場していたし、讃美歌を歌うシーンも描かれていた。加えて、路花の家系はキリスト教系だった。

こうした状況から考えて、路花ないし「キリエ」が救世主イエス・キリスト的な描かれ方をしているのは間違いない。

そんな彼女の救世主としての、劇中での重要な役割は、登場人物たちに赦しを与えることであった。

夏彦は姉と瓜二つの容姿をした路花に、キリエを重ね、震災の時に、自分が何もしてあげられなかったことに対する赦しを請う。そして、キリエはそんな夏彦の思いを受け止め、彼の「限界」を肯定し、赦しを与えるのである。

逸子もまた、路花に赦しを求めていたような気がする。

彼女は、男性から搾取したお金や居住スペースを路花に無償で与えていた。貧困下に置かれている人に金銭的な援助をする行為は、キリスト教的な考え方で言うところの喜捨であり、贖罪行為に当たる。

あるいは、ここにはもっと複雑な感情が重なっているのかもしれない。

逸子と路花は、同郷の育ちであり、高校時代を共にした。そして、共に経済的な「限界」に直面しながら東京という街に身を置いている。

東京という街に染まり、汚い金に手を染めた逸子は、路上で貧困に耐えながら音楽活動をしている路花に、まだ東京に出てきたばかりの純粋だったあの頃の自分を重ねたのではないだろうか。

つまり、逸子にとっては、路花を援助するという行為が、そのまま過去の自分への救済だったのだと思う。

しかし、逸子への赦しは、残酷にも復讐という形でもたらされることとなる。

白いコートに付着した赤い血のコントラストは、ラストシーンの雪景色と対照的だ。

白と赤の強烈なコントラストはコーエン兄弟『ファーゴ』を想起させる色遣いである。

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赤はキリスト教の世界観においては、イエス・キリストが流した血を表す色であり、いわば「贖罪」を象徴する色である。

そして、薄れゆく意識の中で逸子は、雪景色の中で路花と過ごした時間に思いを馳せる。そこはどこまでも真っ白で美しい景色だった。

白は純潔を象徴する色であり、この世から意識が途切れてしまうその直前に、白に包まれた空間で広澤真緒里に戻ることができた彼女は、赦しを得ることができたのではないだろうか。

ここまで述べてきたことからも分かるように、『キリエのうた』は、「キリエ」という救世主による赦しと救済の物語である。

そして、彼女が与える赦しは、「あのとき、自分がこうしていれば」「自分が何かしてあげられたかもしれない」という思いたちの昇華という形でもたらされる。

それは、3月11日のあの日、震災の中で生き残った人たちの、そしてテレビの向こうに広がる恐ろしい光景に目を奪われた人たちの心を漠然と蝕み続けた思いに対する岩井俊二監督なりのアンサーなのだと思う。

私たちには結局のところ何もできなかった。それを受け入れて前に進むこと。

10年以上が経過した今だからこそできる、震災との向き合い方を示してくれたような気がする。

③有限性への抵抗としての「キリエのうた」

©2023 Kyrie Film Band

最後に、本作の中心にあるアイナ・ジ・エンドが演じる路花ないしキリエの歌について触れておこうと思う。

先ほどまで、さまざまなキャラクターたちの罪と赦しについて言及してきたが、路花自身も罪を背負って生きている人間の1人であることは忘れてはならない。

彼女は、自分を助けるために目の前で姉が命を落とす様を目撃している。

路花が、姉の名前である「キリエ」名義で音楽活動をするのは、彼女なりの贖罪の意識が幾ばくか絡んでいるからであろうことは想像に難くない。

ただ、路花が「キリエ」という名前を背負うのは、それ以上に、自分が姉の名前を背負って活動を続けることで、彼女をこの世界に生かし続けることができると考えているからではないだろうか。

つまり、「キリエのうた」というのは、人間の有限性あるいは刹那性に対するささやかな、されど力強い抵抗なのである。

逸子が、あれだけ路花に入れ込んだのも、彼女の歌声に、自分が感じていた「限界」を飛び越えていく何かを感じたからなのかもしれない。

本作は、物語的には全体的に緩く、どこか散漫としており、アイナ・ジ・エンドが演じる路花ないしキリエの歌がスタンドプレー的に独り歩きしている側面があった。

それは翻せば、それだけ岩井俊二監督が彼女の歌声に多くを託したということに他ならない。

監督自身もまた、震災を巡る諦念と赦しの物語を作りながら、どこかでその「限界」を否定して欲しかったのかもしれない。

「永遠には続かないよ、そういう時間は。」

分かっている。分かっている。それでも…。