【ネタバレ感想・解説】映画「PK」:完全無欠の脚本をここに見たり!

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『PK』についてお話していこうと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

作品概要

今回記事を書く作品は日本で現在公開中の「PK」である。この作品はラージクマール・ヒラーニ監督と俳優アーミルカーンがタッグを組んで製作されたインド映画である。

インド本国では、2014年に公開され大ヒットしたという本作品だが、日本では遅れること2年、ようやく公開という運びとなった。

メインキャラクターはこの2人。

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©RAJKUMAR HIRANI FILMS PRIVATE LIMITED 「PK」より引用

左が今作の男性主人公となるPKである。彼は宇宙の遠くかなたの星からやって来た人間である。地球にいる人間とは異なる発展を遂げているようで、目や耳が大きく、言語を用いないコミュニケーション形態を取る。地球に調査にやって来たが、たまたま出会った男性に宇宙船のリモコンを盗難され、故郷の惑星に帰還できなくなってしまう。そして彼はリモコンを取り戻すために奮闘するのであった。

そして右が今作の男性主人公となるジャグーである。彼女はベルギーに留学中にパキスタン人の男性サルファラーズに失恋し、今はインドのテレビ局で働いている。

今作の簡単なあらすじを映画COMの方から引用させていただく。

 留学先のベルギーで大きな失恋を経験したジャグーは、いまは母国インドのテレビ局で働いている。そんなある日、ジャグーは、地下鉄で黄色いヘルメットを被って大きなラジカセを持ち、あらゆる宗教の装飾を身に付けてチラシを配る奇妙な男を見かける。男は「PK」と呼ばれ、神様を探しているということを知ったジャグーは、男になぜ神様を探しているのか話を聞くのだが……。

私はインド映画を古いものから新しいものまでいくつかチェックしているが、最近のインド映画は「歌って、踊って、恋をする」がメインストリームになっている。作中で急に歌いだしたり、切れの良いダンスを始めたりと他の国の作品には無い一風変わった特徴を持っている。

しかしこの作品はそんな典型的インド映画のテイストを残しつつ、「宗教」というテーマを盛り込んだ非常に意欲的な作品となっている。

今回の記事では、この「PK」という作品を解説するとともに、魅力を存分に語りつくしたいと考えている。

作品解説・考察

インドとパキスタン

インドとパキスタンというのは、非常に歴史的に因縁深い関係性を持つ国である。

今作「PK」の序盤では、ベルギーでインド人のジャグーとパキスタン人のサルファラーズが出会う。そんなシーンの中で思い出してほしいのは、ジャグーが川辺でサルファラーズと詩について語り合っていたシーンとジャグーが家族に恋人ができたことを告げるシーン。

この2つのシーンを思い返すと、インドとパキスタンという2つの国の抱える深い因縁が見えてくるだろう。

前者のシーンでは、サルファラーズがジャグーに自分がパキスタン人であることを告げる。ジャグーはサルファラーズに好意を持っていたが、その告白に戸惑い、彼を一旦は諦めかける。

後者のシーンでは、ジャグーの家族が、彼女のボーイフレンドがパキスタン人であることを聞き、驚愕し、悲しむ。そして、イスラム教を卑下し、親子の縁を切るとまで言い始める。

Q:単にヒンヅー教とイスラム教という宗教的な差異だけでここまでの反応をするだろうか?

A:実はこの反応の裏には、2つの国の間の歴史的因縁が隠れているのである。

インドの植民地化とその支配

この問題の発端は18世紀に始まるイギリスによるインドの植民地化である。1757年のプラッシーの戦いに勝利したイギリスは、フランスを抑えて、インドを東インド会社を通じて植民地化する。

イギリスは対中国貿易にインドを利用したり、高い税金を搾取するなど、インドに負担を強いり、それが原因でインドの人々の生活は困窮していった。そして、その我慢が限界に達し、1857年にインド人傭兵シパーヒーによるインド大反乱が起こる。(直接の原因は銃の薬包にヒンヅー教徒にとって神聖な牛の脂やイスラム教徒にとって汚らわしいとされる豚の脂が塗られていたことだと言われている。)

この反乱の鎮圧にイギリスが乗り出し、ムガル帝国を滅ぼすと、インドはエリザベス女王の名の下にイギリスに直接統治されることとなった。これにより完全にインドはイギリスの植民地となった。

イギリスはインドを統治するにあたって、宗教的な対立を活用しようとした。つまり反英感情の融和のために、対抗宗教勢力への敵対感情を利用しようとしたのである。

インドには主にヒンズー教徒とイスラム教徒がいたが、1885年に前者を中心とした国民会議の場をイギリスが正式に認めた。そしてそれに対抗する組織として、1906年にムスリム中心の全インド・ムスリム連盟が作られた。この二つの組織は反英という観点では同じ方向性の考え方を持つが、その実現に向けて、徐々にその間に溝が生まれていく。

インドとパキスタンの独立

インド国民会議はガンディーを中心に、ヒンズー教徒とイスラム教徒で共に1つの統一国家を作る方向性であった一方で、全インド・ムスリム連盟はラホール決議でイスラム教徒だけの国家を作る方向性を明確にする。

この溝が解消されることはなく、結局1947年にヒンヅー教国家インドとムスリム国家パキスタンは別々にイギリスから独立する。

しかしこの独立の際の2つの国の国境線を、インド地理に明るくないラドクリフという人物が引いたことで(通称ラドクリフ・ライン)、大きな混乱を巻き起こすことになる。なんと、ヒンヅー教徒が多い地域がパキスタン領に、イスラム教徒が多い地域がインド領に組み込まれてしまうという現象が起こってしまうのだ。

これにより、2カ国の独立後、それぞれの地域で、インド領のイスラム教徒はパキスタンへ、パキスタン領のヒンヅー教徒はインドへと難民として移動を開始する。しかし、この移動は何千万人という規模の大移動に発展し、大きな混乱となる。そして、その混乱の最中で、両教徒による衝突や虐殺が横行し、インドとパキスタンの対立はますます深くなっていく。そしてそんな中でも両宗教信者の融和を説き続けたガンディは、過激派ヒンヅー教徒に暗殺される。

インドとパキスタンの衝突

その動乱は、インド北西部のカシミールで顕著となる。カシミール地方はインド領と定められたが、住民のほとんどはイスラム教徒であった。そのため、パキスタンはカシミール地方がパキスタン領であると主張して攻め込む。それにインドが応戦する形で印パ戦争が勃発する。結果的にカシミール地方は2カ国の分割統治となった。

パキスタンの中でも東西で民族が異なっており、そこにも対立関係が生まれつつあった。インドは東パキスタンの独立を支援する形で、西パキスタンと武力衝突する。その第三次印パ戦争で、パキスタンはインドに敗北する。そして東パキスタンがバングラデシュとして独立することとなる。

戦争に敗れたパキスタンは冷戦期に西側陣営に所属し、欧米からの援助を受けて富国強兵を進めていく。また、イスラム化政策を進めることで、国民の反インド感情を煽動した。

一方で、インドは東西陣営のどちらにも属さない路線を貫いたため、発展が停滞し、急速にパキスタンにその国力の差を詰められることとなる。

現在の状況

湾岸戦争以後、イスラム原理主義という考え方がパキスタン内にも台頭し、タリバンの影響でこの考え方が国民にも普及していく。イスラム原理主義によると、インドはジハード(聖戦)の対象と見なされた。

現在もパキスタン系組織によるテロ行為や武力衝突は続いている。またパキスタンは独自に核兵器を開発保持しているとされる。このような状況の中でありながら、両国の歩み寄りも見られるようになってきた。

実は、インドとパキスタンにはこのような暗い歴史があったのである。つまりこの暗い歴史が直接、この映画「PK」におけるジャグーとサルファラーズの運命に影響を与えることになるのである。

ジャグーがサルファラーズを信じきれなかった、あの手紙を鵜呑みにしてしまうのは、こういう歴史的要因が少なからず関係しているのである。


それゆえ、この作品において、ジャグーとサルファラーズが最終的に紆余曲折を経て結ばれるという展開には、監督の、インドとパキスタンの友好と平和への願いが込められているのだと思う。

こういう歴史的背景事情を知っておくことで、この映画はまた違った視点から見ることができるのである。


「神」の創造物の如く完成度の高い脚本

まず、脚本ということについて説明をしておきたい。

映画の感想を書く人の中にも、勘違いしている人がいるが、「脚本=ストーリー」という見方は誤りである。というのもストーリーというのは、原案や原作のことを意味しているのであり、脚本とはそれをどのようにして映画にするかといういわば設計図のようなものである。

つまり、単純にストーリが面白いからといって、それが脚本がいいという評価につながることは決してないのである。脚本の評価というのは、その映画をどのように組み立てて、どうコントロールしたかというあるのだから。

それが顕著だと最近感じたのは、現在公開中の「湯を沸かすほどの熱い愛」という映画である。この映画は映画ファンの中でも評価が高い。かくいう私も、余命モノにまた新しいアプローチを生み出した中野量太監督には脱帽である。

ただ、この映画の評価を見ていて、脚本が素晴らしいという評価をちらほら見かけるが、個人的にその点には疑問符がつく。この映画は確かに物語性やストーリー性はとても素晴らしい。だが、それがイコール脚本が素晴らしいということにはならないのである。

登場人物たちのセリフや演技のコントロール不足。展開を支えるための手段が稚拙すぎる点。顕著な登場人物の描写不足。

挙げていくときりがない。正直「湯を沸かすほどの熱い愛」に関して、原案は素晴らしいが、脚本はボロボロだ。

邦画は原案・原作が素晴らしいのに、脚本がダメにしているパターンが非常に多い。脚本、つまり映画の設計図をどれだけ緻密に製作するかは、映画の出来不出来に影響を与える最大のポイントの一つなのである。

では、話を今回の「PK」に戻そう。

私がこの作品に感じた最大の印象は、脚本がこの上なく素晴らしいという印象だ。

この作品はストーリーや世界観設定が非常に散らかっている。SF的要素もあれば、ラブロマンス要素あり、友情要素あり、ミステリー成分もあれば、社会派映画の側面も持ち合わせている。また先ほどとりあげたインドパキスタン間の国民意識、宗教問題やテロ問題などさまざまな今日の社会的問題をも取り入れている。

2時間30分という若干の長尺ながら、これだけの要素を取り入れて、映画の設計図を作り上げることは非常に難しい作業である。しかし、ラージクマールヒラーニ監督はそんな難しい仕事を神業ともいえるクオリティで仕上げて見せたのである。


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©RAJKUMAR HIRANI FILMS PRIVATE LIMITED 「PK」より引用

無駄のない洗練された仕上がり

を見ていてこれほどまでに無駄なく洗練された脚本は見たことがないんじゃないかと感じるほどに素晴らしい脚本だった。

すべての登場人物のセリフの一つ一つ、表情の一つ一つ、行動の一つ一つに作中での意義が存在し、無駄なものが一つとして存在していない。

序盤のラブロマンス、ベルギーパキスタン大使館、予言、別れ、手紙、インドパキスタン問題、PKとの出会い、宗教に対する疑問、PKの片思い、テロ行為による電車爆破、そのすべてがラストのジャグーとサルファラーズの電話での再会に寄与しているという物語の骨組みの精密さがまず衝撃的だった。映画を見終えた後、あまりの衝撃と完成度に開いた口が塞がらなかった。

また細かいところで言うならば、PKがジャグーと出会い、その後に、留置所でPKのこれまでの経緯を回想するシーンが素晴らしかった。最初に2人が出会った時、なぜPKが神を探していて、体中に数珠をつけているのかに関して何の説明も加えなかった。

そして2度目に出会ったとき、彼が数珠をすべて外してしまっていることに関して何の説明も加えなかった。しかし、その行動原理や理由を留置所での回想の中で自然な流れで観客に理解させてきた。あまりの自然さに思わずため息が出た。

意図的に挿入された「無駄」要素

さきほど、脚本の無駄のなさを褒めておきながら、この作品の「無駄」について語ることに疑問を感じるかもしれない。しかし、この作品における「無駄」というのは、計算されつくされ、完全に意図した上で存在している。いわば有用な無駄なのである。

以前の記事でも書いたが、映画において完成度があまりに高すぎると、観客が映画に入り込む入り口が閉ざされてしまう。また観客が自分の頭の中で映画を咀嚼できるだけの余白が無くなってしまうのである。

参考:映画『テラフォーマーズ』は無駄が多いからこそ輝いた!

ラージクマールヒラーニ監督はおそらくこのことも分かったうえで意図的に、完成度が高くなりすぎることを融和するために、インド映画を象徴する要素である、歌や踊りを取り入れているのである。

この映画はまさにインド映画だからこそ傑作になることができた作品なのである。緻密に計算され、ピンと張りつめた精巧な作品。しかし、時折挿入される歌や踊りが、その緊張を和らげてくれる。

映画的に考えたら一見、歌や踊りは、なくても成立する無駄要素なのかもしれないが、この作品において歌と踊りはむしろ確信犯的に挿入された無くてはならない「無駄」要素なのである。

こんな芸当をやってのけるとは、もう脱帽である。

宗教と価値観

この映画は観客の宗教観や価値観に深く根差した、見る人の思想や信条を映し出す鏡のような映画なのである。

日本人というのは世界の中でも極めて宗教的な意識が薄い国民である。それゆえ日本人のこの作品に対する見方は、PKに通じる部分も多いのではないだろうか?

日本人から見ると、イスラム教を信奉する人の思想や信条はなかなか理解しにくいし、キリスト教の考え方であってもなかなか容易に理解はできないだろう。

それは、宗教が人の手によって教義化され、形式化され、それを信仰する人に根差した一つの慣習や文化としての地位を確立してしまっているからである。

ましてや歴史的に見ても宗教は利益を得るための道具ともされてきた。

このようにして目的は神や仏といった信仰対象に祈りをささげるという共通の目的のはずなのに、いつの間にか、それが経典化され、複雑化し、もはやその目的すら薄れ形骸化しつつある。また、その目的のために過激な行為に走るものまで現れる始末である。

しかし、地球の概念や常識に縛られない新参者のPKは、そんな宗教に酔っ払った地球人を、極めて冷静な視点でとらえる。

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©RAJKUMAR HIRANI FILMS PRIVATE LIMITED 「PK」より引用

そして一つの答えにたどり着く。

神を信じているだけで、幸せな気持ちになれる。生きる希望と活力が得られる。それが宗教や信仰の本来の在り方ではないかと。

この考え方はこの映画の中で丁寧に紡ぎだされた非常に重みのある一つの結論であり、それ故に宗教が大きな問題となっている今日の世界に一石を投じるだけの説得力があるのである。

そしてこの物語が面白いのは、ジャグーが予言の影響を無意識のうちに受けて、手紙をサルファラーズからのものだと勘違いしてしまうシーンである。

この手紙のトリックはおそらくすべての人が騙されたと思う。そして宗教的意識の薄い日本人ももれなくこのトリックにかかったと思う。


このシーンはまさに、すべての人間のその心の内に息づく原初の信仰意識を引き出すためのトリガーなのである。

自分は胡散臭い宗教の長の予言など信じまいと、ジャグーも思っていたはずである。しかし無意識下でその言葉を信じてしまった、影響されてしまったのである。人間は神や自然という自分たちの存在を超越したものを引き合いに出されると弱い。無意識下でそういったものの存在やそれを代弁するものの意志や言葉を信頼してしまうのである。例えそれが間違っていたり、人間が作り出した虚構であってもだ。

このシーンはこのように、ある種の皮肉であると同時に、宗教というものの本来の在り方を導き出す。

人が作り出した神や信仰対象ではなく、ただ自分が信じれる何かを、自分の生きる支えになってくれるものを信じなさいと言うことだ。

これが何かを信仰するという行為の原初的在り方だったはずなのだ。

いつから人間は宗教という形式ばったものに「酔っ払い」、その本来の姿を見失ってしまったのであろうか?

果たして本当にPK(酔っ払い)なのはどちらだったのだろうか??

おわりに

これだけ社会的問題を大きく取り上げながら、ユーモアあり、歌とダンスあり、恋愛ありと盛りだくさんの映画ながら、丁寧に1つの映画作品としてまとめ上げた監督の手腕はもう言い表せないほどに素晴らしい。

インド映画界の巨匠はまたインド映画の新たな扉をまた一つ開いて見せたのである。

宗教的意識が薄い日本人だからこそ見てほしい作品であるし、インド映画と聞いて、「歌って踊って」というようなステレオタイプ的なイメージを持っている方にもぜひとも見ていただきたい。

これほどの傑作が2年遅れながらも、日本で公開の運びになったことに感謝を述べつつ、この記事をしめくらせていただく。




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