【ネタバレなし感想】映画「沈黙/サイレンス」解説:マーティンスコセッシは何を描こうとしたのか?

アイキャッチ画像:©2016 FM FILMS LLC. 映画「沈黙/サイレンス」予告編より引用

はじめに

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『沈黙 サイレンス』についてお話していこうと思います。

良かったら最後までお付き合いください。

イントロ

1月21日より、日本全国の劇場で、マーティン・スコセッシ監督の最新作「沈黙/サイレンス」が封切られました。この作品は遠藤周作が著した不朽の名作「沈黙」を原作として作り上げられた映画になっています。

公開から2日が経過し、いわゆる初動興行成績と呼ばれる最初の週末の興行成績が上がってきました。おそらく2日間で1億5千万円ほどでした。これは、ヒットとは程遠い厳しい出だしと見て間違いないと思います。確かに題材が重く難解で、上映時間も長い興行泣かせな作品であることは否めません。

しかし、名監督マーティン・スコセッシが28年間の構想を経て、ようやく世に放たれた作品なのです。日本人のために撮ってくれたといっても過言ではないかと思います。今作品は北米の興業でも厳しい状況にあります。拡大公開から10日が経とうかという頃ですが、いまだ興行収入が日本円にして6億円ほどです。北米でも日本でも興行的に非常に苦しい状況にあります。

しかし映画の内容は近年まれに見る傑作です。「タクシードライバー」や「ウルフ・オブ・ウォールストリート」を手掛けてきた、名監督マーティン・スコセッシの最高傑作といっても過言では無い出来であります。

そんな傑作を一人でも多くの日本人に見ていただきたい。その一心で今回の記事を書くに至りました。そのため、あくまで本編の物語の展開に触れてしまうような内容は書かないよう細心の注意を払いつつ、この作品を見たいと思っていただけるような内容にしていきたいと思います。読んでいただき、この「沈黙/サイレンス」という映画に関心を持っていただけると幸いです。

『沈黙』の物語や歴史背景について紹介

まず、この「沈黙/サイレンス」という作品を耳にすると難解な作品なのだろうと尻込みされる方も多くいらっしゃると思います。しかし、この作品は皆さまが考えているほど難解な作品ではないと言う事を最初に言っておきたいと思います。

確かに遠藤周作思想の深くまでを読み取ろうとするといくらでも難解になりうる作品ではありますが、そのプロット自体はいたってシンプルな作品です。その点をまずわかっていただけたらと思います。

みなさん、中学校や高等学校で「日本史」の授業は受けてきたことと思います。その中で中世の歴史を思い出してみてください。フランシスコザビエルという面白い肖像画の宣教師が1549年に日本にやって来たという出来事は覚えていらっしゃいますでしょうか?

そう!この顔です!特徴的な名前も相まって覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?

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このザビエルはイエズス会というキリスト教修道会に所属しているキリスト教の宣教師なんです。この方はポルトガルの王の命令で最初はインドのゴアにやってきて、そこから日本へとやって来ます。そしてザビエルは日本でキリスト教の布教を始めます。

ここからキリスト教は日本でどうなっていくのでしょうか?そうです。順調に布教は進んでいくのです。キリスト教は当初、仏教用語を布教に用いたため、仏教の一派と勘違いされてしまいます。しかし、キリスト教に概念のない土地で布教をしていかなければならないと言う事で2つの方針が定められます。これが「原語主義」と「インカルチュレーション」という柱です。

簡単に説明すると、前者が仏教用語ではなくキリスト教の元来の言葉で布教しなければならないと言う事、そして後者は馴染みのない宗教を布教するために、布教は日本の文化や習慣に合わせたやり方で行うということです。

そして時代は戦国時代。大名も積極的にキリスト教に改宗するようになります。純粋にキリスト教の考え方に共感したから?それもありますが、それだけではありません。日本はこのころ南蛮貿易と呼ばれる貿易をしていました。名前を覚えていますでしょうか?そう日本とスペインやポルトガルと言った国の間で行われた貿易ですね。戦国時代は弱肉強食の時代ですよね。

有力武将は自分の領地の発展のために南蛮貿易を盛んに行いたいわけです。また西洋の進んだ技術や文化を取り入れたいのです。そうなると、キリスト教に改宗してしまうというのは幾分都合がいいわけです。こういった理由もあって武将の間にもキリスト教は広まりました。

そして戦国の世を一時統一したのは、ご存じ織田信長。織田信長も宣教師たちに布教を奨励しました。そして信長の死後、日本を治めた豊臣秀吉は?というと彼も宣教師たちに布教を奨励しました。

原因は諸説あるので、ここでは明言を避けますが、豊臣秀吉は宣教師と何らかのトラブルがあり、突如キリスト教に否定的になります。それがバテレン追放令という法令の発布ですね。この法令により、宣教師の国外退去と布教の制限が定められるんですね。

しかし、この法令は形式的なもので、宣教師たちに迫害が及ぶことはなく、その後も布教は変わらず続けられます。しかしこのころからさまざまな修道会が日本に進出してくるようになります。少しずつ日本におけるキリスト教布教事情が変わっていきます。

そんな中で、1596年にサン=フェリペ号事件という出来事が起こります。南蛮貿易のスペイン船が日本に難破してきます。この時のスペイン人船長の発言が豊臣秀吉の耳に入ったことが問題だったとされているのですが、その内容は諸説あるので割愛します。(キリスト教布教がスペインの植民地政策に関連しているという趣旨のものだったとされている)この事件がきっかけになり、秀吉はフランシスコ会系の宣教師を捉えるよう命じ、司祭や信徒を合わせると26人が処刑されたとされています。これが日本の歴史における初めての国主導のキリスト教迫害となります。

さてここから江戸時代に突入していきます。徳川家康はキリスト教の布教を黙認します。貿易の利益を優先しており、宗教に関しては無関心だったと言われています。しかし、1612年に起こったキリシタン藩主による事件が起こると、家康は、キリスト教が幕府の国家統治に有害なものであると認知して、キリスト教の禁止に動き出します。ここからキリスト教の迫害が始まり、殉教(司祭や信徒の処刑)する人数も増えていきます。そして有名な事件が起きます。1637年の島原の乱です。多くのキリシタンが参加したこの乱がきっかけとなり、幕府は禁教の徹底へと動き出します。そしてポルトガルとの国交断絶などもあり、1641年にはみなさんご存知の「鎖国」状態が完成します。

しかし、依然としてキリスト教を密かに信仰する人たちは日本に残っていて、その人たちは隠れキリシタンと呼ばれました。そしてヨーロッパから何とか布教しようと上陸した宣教師もいたと言う事です。

この「沈黙/サイレンス」は日本におけるキリスト教の信仰が禁止された江戸時代の物語になります。ここまで解説してきた内容は、皆さんが学校で学んできたものだと思います。そのため非常に馴染みのある内容ではないでしょうか?そう。江戸時代、日本ではキリスト教は激しく弾圧されていたんですね。でも、恋愛も困難な状況にあればあるほど燃え上がると言いますよね。

日本におけるキリスト教もそうで、いつかキリスト教が進行できるようになる日を夢見て、隠れキリシタンと呼ばれる人たちは密かに信仰をつづけました。そして情熱ある西洋の宣教師は何とかして日本にキリスト教を伝えようと渡航してくるのですが、つかまって処刑されてしまいます。

「沈黙/サイレンス」の舞台は江戸時代初頭の日本・長崎です。そしてロドリゴとガルぺの2人の宣教師がポルトガルから宗教的情熱から修道会の反対を押し切って日本へと渡ります。そして日本の隠れキリシタンたちの希望になろうと奮闘するんですね。しかし、激しい禁教の時代。果たして司祭ロドリゴとガルぺはどのような運命をたどるのでしょうか?こういう物語なんですよ。

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©2016 FM FILMS LLC. 映画「沈黙/サイレンス」予告編より引用

日本人なら誰でも聞いたことがあるような歴史に非常に深く関係しているので、思ったよりもその物語自体は理解しやすいのではないかと思います。

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鑑賞に役立つ事前知識

ここから、少し事前知識として知っておくと作品がより面白くなることをいくつか解説してみたいと思います。

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映画「最後の誘惑」より引用

マーティン・スコセッシ監督は1988年に「最後の誘惑」という作品を撮っているんですね。これは、イエスキリストが超人的な神の使いとしてではなく、あくまで普通に人生に悩める一人の人間として描いた作品です。最後の誘惑というのは、一人の普通の人間としての幸せを享受することです。

そして、作品の終盤、ユダの裏切りによって自らが処刑されることで真の救世主として蘇ることが神の意志であることを悟るのですが、彼はひとりの人間として葛藤します。ここで描かれたのは、絶対的で超人的な存在としてのイエスではなく、ただの人間なんですね。

これは既存のキリスト教の在り方に、聖書の在り方に疑問を呈する問題作として扱われてしまいます。マーティン・スコセッシ監督はこの作品を撮り終えたころから、今回の映画「沈黙/サイレンス」の構想を練り始めたと言います。彼はアメリカのイタリア移民社会に生まれました。マフィアがはびこる社会に生きる中で彼は既存社会への疑問を募らせていきます。そんな既存の権威に対する疑問は彼の映画作品に大きく反映されています。

そしてそれが一つの形になっているのが、この「最後の誘惑」という作品なんですよ。マーティン・スコセッシはこの作品で、一人の人間として苦悩する、人間に寄り添ってともに苦しむキリスト像というものを描いたんですね。ここに遠藤周作の「沈黙」との連結点があるんですよ。

遠藤周作は幼少期に両親が離婚し、母方に引き取られます。そして母親の姉の影響で教会に通うようになり、そこで洗礼を受けます。遠藤周作は自分の意志ではなく「衣服を着せられるかのように無意識的に」キリスト教信徒になるんですよ。

そして彼は学生時代にフランスへと留学します。その時に彼は日本が戦争犯罪国であると言う事、西洋の価値観によると白人以外はすべて劣等人種なのだということを痛感させられます。この時、彼は初めて日本というものの現在地を知り、そして自分が着ていたキリスト教という衣服に疑問を持つわけです。西洋のキリスト教では神は唯一のもので、人間を超越したところにいて、「怒り、裁き、罰する」存在なのです。ゆえに子に規範的な生き方を求めるのです。

しかし、日本における神の在り方というのは、人に寄り添う母のような存在なのです。万物に宿る神、八百万の神などともいわれるように神は自然の万物に宿るのです。つまり日本における信仰というのは神が複数いて、神は人間に寄り添う母親のような存在であるという考え方が根底にあるのです。遠藤周作はこの西洋と日本の信仰の「距離感」に興味を持ち、日本にキリスト教が馴染まない理由を文学作品の中で描き、その隙間を埋めようと尽力します。そしてそんな彼がその「距離感」を埋める一つの答えとして著したのがこの「沈黙」という小説なのです。

つまり、マーティン・スコセッシと遠藤周作は既存の権威に疑問を投げかけ、自分なりの答えを模索してきたという点で共通している人物なんですね。そしてマーティン・スコセッシという人物が「最後の誘惑」で西洋のキリスト像に疑問を投げかけたことで、遠藤周作が西洋における父性的なキリスト像に疑問を投げかけたことで、二人の思想が連結します。その二人の思いの結合から28年。ようやく「沈黙/サイレンス」として彼らの思いが形になったのです。

ゆえにこの作品は、マーティン・スコセッシと遠藤周作が投げかけた「キリスト教」の在り方は何ぞやという疑問に対する答えを、江戸時代の禁教下の司祭とキリシタンたちを題材として描きだした作品なのです。

この点を理解しておくと、作品にスムーズに入っていけるかと思います。

なぜ今『沈黙』なのか?

最後に、なぜ、この作品を今見るべきなのか?という点に私なりの見解を書いてこの記事を締めくくらせていただきたいとおもいます。

物事には絶対的な善と悪と言われたら皆さんはどう思われますか?例えば戦争は絶対悪です!と言われたら皆さんはどう答えますか?私の答えはいいえです。

皆さま、「この世界の片隅に」という作品はご覧になられましたか?あの作品は序盤に戦争により技術が発展し、戦争に勝利したことで繁栄した戦争のポジティブな面を描きながら、同時に人々の暮らしを命を一瞬で奪い去ってしまう戦争のネガティブで残酷な面も描き出していますよね。戦争というものをあまりにもネガティブな面からだけ捉えてしまうと、実はその本質を見逃してしまうんですね。沖縄の基地問題もアメリカ兵による犯罪や訓練による事故の問題や騒音の問題が否定的な問題として扱われます。

しかし一方では基地があることで、アメリカ兵たちがいてくれることで生計を立てている人たちもいるわけです。そして近年問題となっている原子力発電所の問題があります。これも事故が起こったことで否定的な面だけがクローズアップされてしまいましたが、環境問題のことや電力コストによる経済的な利益といったポジティブな面も同時に捉えなければなりません。

物事を絶対的な善か悪かで語ることなんてできないんですね。これはまさにフランス留学中に、遠藤周作が持った疑問に重なります。自分たちが正義の名の下に行ってきた必要悪を棚に上げて、自分たちは絶対的な善であると自称し、戦争犯罪国である日本を絶対的な悪だとして裁く立場にあると驕った西洋のキリスト教的価値観に対する疑問です。西洋のキリスト教価値観では物事は白か黒、善か悪だったのです。しかし、物事はそんなに単純なことではない。そこに一石を投じんとしたところに遠藤周作の作家としてのルーツがあります。

その、物事には常にいろいろな面があるんだという見方をこの「沈黙」という作品は改めて考えさせてくれるんですね。そして今、数々の問題に直面する世界、ないし日本に住む一人の人間としてこの作品を今見るべきだと思うのです。この作品は50年近く昔に書かれたものですが、マーティン・スコセッシの手によって鮮やかに、今を生きる我々へのメッセンジャーとして蘇ったのです。これが私の考えるこの作品を今見て欲しい理由です。

日本人なら誰もが聞いたことがある日本の史実を題材にしている作品で、その物語もシンプルです。確かにキリスト教について深く突っ込もうとすると難解な作品になってしまいますが、もっとシンプルに「善と悪」の何たるかという普遍的な命題にすり替えてみても、面白いのではないかと思うし、理解しやすいのではないかと思います。

日本人はどうしても宗教と聞くと無関心だし、理解できないと尻込みしてしまう傾向にあります。だが、難しく考えないでほしいのです。作品には百人が見れば、百通りの感じ方があります。自分なりに、今を生きる一人の人間として何かこの作品から感じ取れるものは間違いなくあると思うのです。作品を完全に理解してやろうと意気込む必要はありません。

この記事を読んだ人が1人でも、この作品を見たい、見てみようかなと思ってくれたなら、私がこの記事を書いた意義はあったのだと思います。

最後に私のブログに書いた「沈黙/サイレンス」に関するもう一つの記事を紹介しておきます。こちらは作品の内容に深く踏み込んだものになりますので、作品を見た後に読んでいただけると幸いです。

参考:【ネタバレ】マーティン・スコセッシ「沈黙」<10のポイントから語る12000字レビュー

 

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