みなさんこんにちは。ナガと申します。
今回はですね映画『二ノ国』についてお話していこうと思います。
前情報では絵がジブリに似てるってことでも話題になっていた作品ですが、それもそのはずで本作はゲーム原作なのですが、ゲームの方についてはスタジオジブリが製作協力しています。
そして監督には、ゲーム版でアニメーションを担当し、スタジオジブリでも作画監督を歴任した経験を持つ百瀬義行さんを据えました。
加えて、ゲーム版から引き続き劇伴音楽については久石譲さんが担当ということでこの時点でジブリ臭が凄いですよね。
というよりも、そもそも『二ノ国』というゲームの企画がプレイヤーが自分でジブリのアニメーションを動かしているような感覚になれるというのを大きな売りにしていた作品だったんですよ。
また今回はゲーム版と世界観を共有するものの、完全オリジナルプロットということだったので、ゲームとは違う展開も期待しつつ公開を心待ちにしていました。
ということで早速鑑賞してきましたので、作品について語っていきたいと思います。
本記事は作品のネタバレになるような内容を含む感想・解説記事となっております。
作品を未鑑賞の方はお気をつけください。
良かったら最後までお付き合いください。
目次
映画『二ノ国』
あらすじ
車椅子生活を送る高校生ユウは、学校でトップクラスの成績を誇る秀才である。
一方のバスケ部のエースで人気者ハルは彼の幼馴染だ。
そして、ハルはユウの幼馴染でもあるコトナと付き合っているのだが、ユウもそんな彼女に密かに好意を寄せていた。
ある日の夕方、コトナは謎の男に後をつけられ、2人に助けを求める。
先に彼女のもとに辿り着いたのは、ユウだったが既に彼女は謎の男にナイフを突き立てられ、意識を失っていた。
ハルは到着するや否や、ユウの静止を振り切り、彼女を病院まで運びこもうとするが、大通りで3人はトラックに轢かれそうになる。
その時、ハルとユウは突然「二ノ国」と呼ばれる異世界へと飛ばされてしまう。
一緒にこの世界に迷い込んでしまったであろうコトナを探して、街をうろうろとする2人。
すると偶然立ち寄った酒場に貼られていた張り紙にコトナにそっくりな少女の姿が映し出されていた。
何と、彼女は「二ノ国」にあるエスタバニア王国の王女だったのである。
スタッフ・キャスト
- 監督:百瀬義行
- 原案:日野晃博
- 脚本:日野晃博
- 製作総指揮:日野晃博
- 演出:森田宏幸 大和田淳 松永昌弘 室谷靖 高橋ナオヒト 中田誠
- 美術監督:志和史織
- 色彩設計:谷本千絵
- 撮影監督:鯨井亮
- 編集:野川仁
- 音響監督:久保宗一郎
- 音楽:久石譲
さて、まずは原案・監督・製作総指揮を担当したのがご存知、日野晃博さんなわけですが、案の定な内容だったと思います。
彼は、設定的にぶっ飛んでいて比較的王道のストーリーを書かせれば、比較的面白いものを仕上げてくる印象があります。
ですので、『イナズマイレブン』の映画版や『妖怪ウォッチ』の劇場版(ものによりけりですが)はとかは個人的にそんなに嫌いでは無かった印象なんです。
ただ、彼がシリーズ構成・脚本を担当した『機動戦士ガンダムAGE』はもうシリーズ史上最もひどい出来栄えと言っても過言ではない内容でした。
とにかく放送当時から設定や脚本、演出の詰めの甘さが視聴者から徹底的に指摘され、「強いられているんだ!」に代表される謎のセリフ・謎演出たちはネタにされてしまっていました。
しかも余計な展開やエピソードを詰め込みすぎて、メインプロットが完全に消化不足に終わり、さらには女性を「産む機会」としか見ていないような残念な扱いも批判されました。
そういった日野晃博さん脚本・構成の悪いところが全部出ているのが映画『二ノ国』なんだという見方もできると思います。
監督を務めたのが、昨年スタジオポノックの短編集の中で『サムライエッグ』の監督を務めていたことでも知られる百瀬義行さんです。
人物の動きをダイナミックに表現することに長けていて、アングルや構図にもすごく挑戦的な姿勢が垣間見える素晴らしいアニメーターだと思っていたんですが、如何せん今作『二ノ国』についてはすべてが平凡でした。
アニメーションスタジオは、ポケモンやレベルファイブ作品のアニメーションを手掛けることが多いオー・エル・エムでした。
撮影や編集あたりは、正直かなりひどくて、映画としては見てたものじゃないな・・・って印象です。
音楽には久石譲さんが参加し、ここはしっかりとした美しい音色で作品を辛うじて纏めてくれています。
- ユウ:山崎賢人
- ハル:新田真剣佑
- コトナ/アーシャ:永野芽郁
- ヨキ:宮野真守
- サキ/ヴェルサ:坂本真綾
- ダンパ:梶裕貴
- ガバラス:津田健次郎
- バルトン:山寺宏一
- フランダー:伊武雅刀
- お爺さん:ムロツヨシ
まあメインの2人は良いですよ、ただ製作陣も良く『キングオブエジプト』の吹き替え版で放送事故級のトンデモボイスアクトを披露していた永野芽郁さんを起用する気になりましたね。
永野芽郁さんは個人的には好きな女優ですし、演技面については朝ドラの主役を張ったこともあり、かなり幅も広がってきてはいるんですが、ボイスアクトについては「永野芽郁」以外のキャラクターを演じられてないんですよね・・・。
キャラクターにその声のボリューム、トーン、雰囲気があっているかどうかは関係なく、とにかく「永野芽郁」でしかないのです(笑)
今回もコトナとアーシャ姫という2つの役を1人で演じたわけですが、全く演じ分けられておらず、ここについは本職の声優を使うべきだったと思いますよ。
その他の声優陣は豪華な顔ぶれで、ヴィランであるガバラス役には「悪役と言えばこの人」とも言える津田健次郎さんが起用されています。
より詳しい情報を知りたいという方は、映画公式サイトへどうぞ!!
映画『二ノ国』感想・解説(ネタバレあり)
命を選ぶより前に、セリフを選べ!
映画を見に行く前からSNS上などで酷評意見をさんざん目にしてから、劇場に向かったので、正直それほど期待値は下がってました。
ということもあってかストーリーそのものがそれほど悪いとは思いませんでした。
日野さん脚本特有のメインプロットの風呂敷を広げすぎて畳み切れていない感じや絶対要らないだろってシーンをガンガンに盛り込んでくるあたりは確かに相変わらずでした。
ただ、今回特に酷かったのは「セリフ」ですよ。
『機動戦士ガンダムAGE』の時も、不思議なセリフが見ていたアニメファンの間で話題になるほどでしたが、今回の『二ノ国』もとにかくセリフの言葉選びにセンスを感じませんでした。
みなさんがどう感じられたのかは分かりませんが、個人的に
ユウ「サキ姉をサキ姉と呼んだ。」
というセリフが一番面白くて、笑い転げそうになったんですよね。
これは本作の隠れヴィラン(だけどあんまり隠れていない)であるヨキに対して、ユウがなぜ怪しんだのかを「探偵の推理解説」的なノリで語り始めるシーンで使われるセリフです。
ユウが自分のお姉さんに対して、謎の男が「サキ姉」と呼んだことからヒントを得て、その事実を知っているのはヨキだからという推理構造でして、それを盛大に指摘する時のセリフが上記のものです。
普通であれば、「俺の姉をサキ姉と呼んだ。」といったセリフにしませんか。「AをBと呼ぶ。」という日本語を使う際にAとBが同じ言葉ってそりゃあんまりでしょうに。
他にも、今作では「仮説」という言葉を都合よく使いすぎだと思いました。
というのも登場人物が特に「二ノ国」の世界について確固たる証拠を持って把握したわけでもないのに、「仮説」という言葉を利用しているのを良いことに、好き勝手に解説していくスタイルは見るに耐えないものがあります。
「これは仮説だが、ここは異世界だ。」
「これは仮説だが、この世界では勝手に役が振られるみたいだ。」
と、叫びたくなるくらいにセリフが支離滅裂ですし、登場人物の心情に一貫性のないセリフばかりでこれでは演じても厳しいだろうと思います。
個人的に一番気になったのは、ハルとユウの2人が海辺で口論していて、その時に「二ノ国なんか夢の話だろ。」といったニュアンスのセリフで激高したハルが、その後二ノ国に飛ばされた時の第一声が「ここは・・・二ノ国か。」という非常に冷静なものだったところですね。
ついさっきまで夢とか妄想とか言い張っていた人間が、再び異世界に飛ばされて、驚かないってどういうことです・・・?
こんな具合にとにかく登場人物の感情を表現するセリフとして一貫性に欠けているので、キャラクター像を掴みにくいのはもちろんとして、心情を声に乗せるのも難しかったのではないでしょうか。
そんななかでもきちんとキャラクターに命を吹き込んできた本職の声優陣は流石だと思いましたし、逆に永野さんには同情の余地はあるかなと思いました。
なぜ車いすを使わなければならなかったのか?
(C)2019 映画「二ノ国」製作委員会
SNSなどでも車いすの描写についてかなり批判的な意見があるようですが、個人的には、大前提としてこの『二ノ国』においてユウが車いすを使っている設定にする意味が分からないんですよね。
まず、冒頭の彼が車いすであるが故に、ハルとコトナと一緒に階段の上のカフェに行けないという描写は本当に酷いと思います。
それだけにとどまらず、ユウに「俺はお邪魔だろうからあとは2人でどうぞ。」みたいなセリフを吐かせて、身を引かせる始末ですからね。
あとは、既にほかの方も指摘していましたが、電動車いすの設計が甘すぎますよね。
明らかに実物を見て、作画したものではないと思いますし、あんな電動車いすが使えると思っているなら、少し勉強しなおした方が良いと思います。
冒頭のパートを見ていて、個人的には、ユウが自分の足で歩けない設定の意味って、彼の劣等感を浮き彫りにさせるためのものでしかないんじゃないかと思いました。
もっと作品の展開上重要な意味があるのであれば、全然良いと思うんですが、ただ足に障がいを抱えているために行動に制約があり、好きな人にも振り向いてもらえないというコンテクストを描きたいだけなのであれば、不誠実すぎます。
しかも物語の後半に、花屋にサキ姉を助けに行ったシーンで、突然謎の男が巨大なクモに変身して彼らに襲いかかってきます。
このシーンでハルたちはサキ姉の車で逃げることになるのですが、最大の疑問は「いつ車いすを後部座席に積む暇があったんだよ!」という点です。
すぐにでも逃げないと追いつかれるという状況で、車いすを装置を使って車内に積み込んでいる暇はないはずですよね。
何か社会的なメッセージを組み込めると思い、障がいのあるキャラクターを用意するという方法だけが先行してしまい、結果的に製作陣は途中でその設定が邪魔に思えてきたんでしょうね。
それくらいにこのシーンにおけるユウの扱いは残念過ぎたと思います。
そして極めつけはラストシーンですよ。
私は冒頭にユウが車いすで階段を上れずに身を引いた場面を経て、ハルが「また今度ユウ遠回りして一緒に行けば良いじゃん」的なセリフを言っていたのは、一応伏線で、回収されるものだと思っていたんです。
だからこそエピローグのシーンで、ユウはいなくなってしまいましたが、ハル(二ノ国のユウと繋がっている)とコトナは2人(3人)で約束のカフェに遠回りして行くという展開が描かれるんだと思っていました。
そこで、今作が描いたのは、まさかの「あの階段」を2人が上ってあのカフェの方角へと向かって行くという描写なんです・・・。
一番ダメなラストシーンにしてしまったと思いますし、このラストシーンにするなら絶対にユウを足が不自由な青年として描くべきではなかったと思います。
そういった描写から感じられる誠実さが一切ないために、すごく障がいを抱えて生きている方々に対して失礼な映画になってしまっているとも感じられました。
このあたりはいくら何でも擁護のしようがないのかなと思います。
伏線とネタバラシを全部セリフでやりくりするな!
最初に本作のセリフの内容が酷いということは書きましたが、それと共に書いておきたいのは、とにかくセリフで物語の世界観から設定から、ルールまで何でも話してしまう異常性です。
しかも、登場人物が大して情報もない状態で勝手に仮説を立てて、物語を進めていくという雑さなので、見ている我々は完全に置いていかれてしまうんですよね。
そして一番酷かったのが、本作の最大の伏線となるとある設定をセリフだけで強引に観客に伝えようとしたところですよ(笑)
今作最大のサプライズと言えば、やはり「ユウ=二ノ国にいるハルと繋がった存在」という点になるでしょう。
そのサプライズにたどり着くために観客が得ておかなければならない情報というのは、ユウとハルが似た者同士であるということです。
ただ『二ノ国』という映画の驚くべきところは、この伏線をある種の「恫喝まがい」の方法で張っているところですよ(笑)
幼少期に2人が野犬に襲われた時の回想シーンで、ユウとハルが似た者同士であることを観客に伝えようとしているシーンがありました。
このシーンの2人の会話がそれにしても面白すぎました。(以下イメージで再現します。)
「俺たち似た者同士だよね?」
「そうかなぁ。」
「俺たち似た者同士だよね?」
「そうかぁ?」
「俺たち似た者同士だろ!」
「は、はい。確かにそうです!」
大体、サキ姉やコトナとつながった二ノ国の人物は容姿までしっかりと似ているのに、ユウとハルに関しては全く似てませんからね。
その辺りの設定や展開の荒唐無稽さにはドン引きでした。
さらに言うと、本作の最後のネタバラシって全てハルの独白なんですよね。しかもここでも「仮説」という便利ワードを使用して、絶妙にぼやかしています。
映画なんだから映像で勝負しろよ!セリフでごまかしてんじゃねえ!と思わず怒鳴りたくなってしまう作品でした。
映画は視点が必要だ
(C)2019 映画「二ノ国」製作委員会
これって日野晃博さんがゲームプロットなんかを書いているからこその長所であり、短所なのかもしれませんが、映画『二ノ国』ってとにかく中心となる視点が1人の人物に定まっていません。
ゲームであれば、この問題は基本的に生じません。
なぜならどんな物語であっても、ゲームにはユーザーがいて、彼らが主体となるからです。
ゲームのプロットはその中にキャラクターを内包していても、個々のキャラクターに視点があるわけではなく、それを扱うユーザーの視点で物語を見ることになるので、視点を明確にする必要はあまりありません。
ただ、そのメソッドを映画に持ち込んでしまうと当然のように破綻します。
なぜなら、映画とは観客が他人の物語を追体験するメディアであり、観客が視点になることはできないからです。
今作『二ノ国』はユウとハルをある種のW主人公的に据えてはいるんですが、とにかくどちらの視点から物語を描くという点に一貫性がないので、見ている方としても混乱するんですよね。
例えば、冒頭のシーンは明らかにハルを主人公にする意図が感じられるような視点になっていましたが、二ノ国に行った途端にユウが主人公化のように物語が切り替わります。
本作は作中で2人の視点の入れ替わりが頻繁に起きるので、非常に物語を追いづらい構成になってしまっています。
『ブレイブストーリー』という宮部みゆきの小説の映画版がありましたが、これが本作『二ノ国』に近い構成です。
ただ同作は、ワタルとミツルというW主人公チックな作劇ながら、あくまでも主人公の視点をワタル1人の視点に絞ってあるので、非常にストーリーテーリングはまとまっています。
このように本作も、予めユウの視点かハルの視点かどちらかに主導権を握らせることを明白にして、その上でストーリーを作り上げていくべきだったと思います。
『二ノ国』は映画というメディアが視点が曖昧になると、これほどまでに見にくいものになるという非常に良い例だったと思います。
ファンタジー映画としてダメダメ
まず『二ノ国』という作品は、一ノ国と二ノ国を行き来するところが1つ特徴的なポイントで、そこが他の異世界ファンタジーとは違うところとも言えます。
脚本・原案の日野晃博さんもインタビューの中でこう答えています。
脚本にした状態で久石さんのところに持っていったら、久石さんから「今まで『二ノ国』のゲームを一緒に作ってきて、『二ノ国』って一ノ国と二ノ国を行ったり来たりするところが魅力じゃなかったっけ?」と言われたんですよ。面白ければ、一ノ国が関係のないファンタジー世界の作品を作っちゃっていいのかという。それが「二ノ国」と言えるのかということなんです。そこで気付かされて、ワーナーのプロデューサーさんに頼んで、書き直しをさせていただきました。
まあそこは良いんですが、やはりこの設定ってゲームというユーザーありきのものだったんじゃないかなとは思うんです。
2つの世界を選択でき、それを行き来しながら物語を進行させていくという構造は、ユーザー視点で見ると、ワクワクしますし、自分で物語を選択し切り開いているかのような感覚を味わえます。
ただ、この設定を映画に持ち込むと、ユウとハルは命の危機にさらされたら、一ノ国に戻されるだけじゃん!となってしまいますし、いつでも戻れるということで異世界感も薄まってしまいます。
ゲームでは強みとなる自由度の高さが、ユーザーが参与できない映画というメディアになると、途端に緊迫感の欠如に繋がってしまうということですね。
それに加えて、この映画は現実世界と異世界を行き来するという構造にも関わらず、現実世界の描写が明らかに甘いんですよね。
『千と千尋の神隠し』のように、開始すぐに異世界に足を踏み入れて、映画のラストまで戻ってこないような構成にするなら問題ありません。
しかし、今作『二ノ国』のように現実世界と異世界を行き来できる構造にしたのであれば、絶対に現実世界の世界観やそこでのユウとハル、コトナの関係性はもっと掘り下げておく必要があるでしょう。
加えて異世界側である二ノ国についても大半が王宮のシーンであり、そこで人々がどんな生活をしているのかやどんな街並みが広がっているのかなどの情報をあまり提示してくれないため、何というか異世界に感じる高揚感やワクワク感がまるでないのです。
せっかく2つの世界を行き来するというスケールの大きな物語なのに、世界観がこじんまりとしていて、広がりに欠けるのが勿体ないですね。
いまどきトロフィーヒロインは古いような・・・。
『機動戦士ガンダムAGE』の時に、女性を「子供を産む機械」のような扱いで登場させ、批判を浴びていた脚本の日野さん。
今作『二ノ国』を見て、確信に近づいたんですが、ジェンダー観が古いんじゃないかと思います。
未だにステレオタイプ的な女性ヒロインの扱い方をしているのも何となく腑に落ちないですし、女性側に主導権はなくて、勝手にユウとハルがコトナをどうするかで争っているという少し滑稽な光景が広がっていました。
スーパーマリオのピーチ姫のような扱いで、コトナやアーシャ姫を扱うのは、明らかに時代遅れな印象を受けます。
前時代のプリンセス映画を見せられているような感覚でした。
悪役の扱いも酷すぎないか?
今作の悪役であるヨキはフランダー王の兄でかつ両親に捨てられたという設定なんです。
最近見た映画だと『ブラックパンサー』の悪役キルモンガーを思い出すような哀しき宿命を背負った人物ですね。
そして自分が愛されなかったからこそ、愛された兄が統治する国に恨みを抱き、攻撃するに至りました。
確かにヨキの取っている行動は、多くの人を危険に陥れているという点でもちろん「ヴィラン」的ではあるんですが、ただ彼が背負っている背景があるために「絶対悪」とは言えません。
そういう状況を作り出しておきながら、この映画は主人公たちが「愛する人を守るために」単純に勧善懲悪してしまうんですよね。
「愛する人を守るために誰かを殺すのが戦争」というセリフをヨキ(ガバラス)が言っていましたが、それを否定するのが今作の気着点になるべきだったような気がするんですよね。
今作のラストバトルって単純にユウとハルが標的を変えて「愛する人を守るために誰かを殺す」をやってしまっただけになっていて、全くオチがつけられていません。
『ブラックパンサー』のキルモンガーについてはある程度「救い」が示される結末になっているので、納得だったのですが、『二ノ国』はその辺りの描写がとことん雑なので、そこは非常に残念ですね・・・。
近年、どんどんと「悪役」の描写の仕方が世界的に見ても変わりつつあるのに、いつまでこんなことをやっているんだろう・・・と感じずにはいられませんでした。
おわりに
いかがだったでしょうか。
今回は映画『二ノ国』についてお話してきました。
題材はかなり良かったと思いますし、個人的には「戦争」というテーマにファンタジーとして切り込んでいったのは、素晴らしかったと思います。
「愛する人を守るために守るために戦うのが戦争」という言葉も強く心に響きましたし、ユウとハルが互いに異なるコトナを救う方法を吹き込まれ、戦うという構図は、昨今問題となっている「宗教の違いと戦争」の結びつきを反映させたようでもあります。
素材はとにかく素晴らしかったんですが、幾分その調理方法に問題がありすぎて、食べるに耐えない料理になっていたような感じですね。
2019年はアニメ映画が豊作の年だったので、今作のダメっぷりが余計に際立ってしまう節はあります。
酷評したい点を挙げていくとキリがないですね・・・(笑)
- 登場人物が全員IQ2くらいの頭脳
- 通常の作画は良いのだが、CGが鬼のように雑な処理
- ラスボスのあまりの分かりやすさと小物臭
今回も読んでくださった方、ありがとうございました。