【ネタバレ感想】『君愛』と『僕愛』は見る順で何が変わるか?ミクロとマクロの視点で向き合う「可能性」

2022年10月7日に2つのアニメーション映画が同日公開された。

『僕が愛したすべての君へ』(以下、『僕愛』)『君を愛したひとりの僕へ』(以下、『君愛』)という作品なのだが、この2つの作品は同じキャラクター、同じ世界観、同じ設定によって構築されている。

そんな本作だが、制作サイドは「見る順番で結末が変わる」という触れ込みで、公開の少し前から大々的に宣伝をしていた。

映画館のウェブサイトを見ても、同一スクリーンで2つの作品を交互に上映するような上映スケジュールになっているところが大半であり、2作品を続けて鑑賞しやすいような配慮がなされている。

さて、私は既に本作を2作品とも鑑賞してきたわけだが、これから作品を見る人に1つアドバイスできることがある。

必ず2作品のチケットを同時に鑑賞前に購入して、退路を断ちなさい。

はっきりと言ってしまうのだが、『君愛』『僕愛』は単体のアニメーション作品としてのクオリティが、劇場アニメとしては近年稀に見る低さだ。

単純に作画が劇場アニメとしては稀に見る酷さなのもそうだが、演出による小説からの視覚的な「上積み」が少なく、画と声優陣の演技もチグハグで感情移入しづらい。

その上で、本作は2つの作品を鑑賞して初めて物語の全貌が見え、クライマックスに到達できるという構造になっているため、1つの作品だけで見ると、物語の推進力もカタルシスも驚くほどに弱い。

問題点を挙げていくとキリがないので、このあたりにしておこう。

つまり、私が言いたいのは、『君愛』にしても『僕愛』にしてもどちらか1本を見て、そのクオリティにひとたび触れてしまうと、そこからもう1本のチケットを買おうというモチベーションが湧きづらいということだ。

そのため、2作品とも見ようと、少なくとも鑑賞前のあなたが思っているのであれば、ネット予約、あるいは映画館に着いたらすぐに2作品分のチケットを買うことをおすすめする。「鉄は熱いうちに打て」案件である。

もう1つ、これは少し作品を鑑賞するうえで、余計な先入観になってしまうかもしれないが、本作は青春映画(あるいは恋愛映画)の要素を全面に押し出した宣伝をしているが、作品を鑑賞してみると、思ったよりも多元世界SFの趣が強い。

そのため、普段こういう類のSF設定が登場する作品に触れる機会が少ない人にとっては、情報量と専門用語が多すぎて脳がパンクしてしまう可能性も懸念される。

ナガ
「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」的なやつである。

こうした理解の超越を少しでも防ぐためには、物語を順序立てて整然と追えるのが望ましいと考えており、そのためには『君愛』つまり『君を愛したひとりの僕へ』の方から鑑賞するのが良いと思う。

この理由については後ほど詳しく解説を加えるが、『僕愛』『君愛』で説明されるSF設定がおおよそ頭に入っている前提で物語が展開されるため、最初から置いていかれる可能性があるからだ。

SF設定の理解に自信がないけれど、とりあえず2つともチェックしてみようかなという方は、「2作品一気に予約すること」そして「『君愛』から見ること」の2点を意識しておくのがおすすめである。

なお、これはあくまでも私の主観なので、どちらから見ても違った楽しみ方ができるという点は強調しておきたい。

さて、ここからはもう少し物語の内容に踏み込みながら、『君愛』『僕愛』についてあれこれと書き綴っていく。

本記事は内容の都合上、一部作品のネタバレになるような要素を含みます。作品を未鑑賞の方はお気をつけください。




『僕が愛したすべての君へ』『君を愛したひとりの僕へ』感想(ネタバレあり)

映像化した意義やアドバンテージが見出しづらい

作品に好意的な評と批判的な評を1つの記事に混在させる際、どちらから書くかは永遠の悩みなのだが、今回は後者を先に書いておこうと思う。

まず、大前提として私は『君愛』『僕愛』の物語そのもの、そして2つの物語が相補的に存在しているというコンセプトに対して好意的な立場である。

とりわけ「虚質科学」を軸にした本格的なSF設定と青春譚(あるいはラブストーリー)を両立させ、どちらが好きな人にとっても楽しめる作品に落とし込んだバランス感覚は驚異的であると言える。

並行世界(パラレルワールド)を取り扱った作品は多くあるし、これはラブストーリーとも相性の良い設定であるわけだが、そうした作品群が曖昧に処理してきた領域に、本格SFの視点から切り込んでいき、言語化していくアプローチは痛快だ。

ラブストーリーでしばしば持ち出される運命論に対する向き合い方も独特で興味深いものだと思う。

一方で、こうした面白さを内包している乙野四方字さんの原作を映像化した今回のアニメ映画版が個人的に上手くいっているように見えなかった点が大きく分けて2つある。

1つは「原作の本格派路線が映像化の『足枷』のようになってしまったこと」、もう1つは「映像作品として原作に視覚的な『上積み』を提供できなかったこと」だ。

 

原作の本格派路線が映像化の『足枷』になってしまった?

©2022 「僕愛」「君愛」製作委員会

まず、前者について述べていくことにする。

前述したように、本作は王道の青春譚ないしラブストーリーでありながら、そこに本格SF設定が絡んでくるというのが特徴の作品である。

原作では、活字メディア(小説)の特性が生かされ、難解な設定や専門用語の羅列も違和感を抱くことなく、何とかついていくことができた。

一方で、これを映像化した今回のアニメ映画版は、そうした設定や専門用語の連続をある程度省略しつつも、そのまま持ち込んでしまっている。

とりわけ『君愛』の方で本作の設定、虚質科学ないし並行世界に関する説明が為されるのだが、途中から大学の抗議でも聞かされているのかという具合に、止め画でひたすらにセリフが流れ続けるだけのシーンが多い。

映像メディアという視覚志向のメディアであるにも関わらず、設定の羅列を言葉で済ませてしまうなら、それはもはやオーディオブックである。

また、小説であれば、自分で読む速度を調整したり、立ち止まって同じ部分を読み直してみたりといった工夫ができるのだが、映画だとノンストップで設定や専門用語が流れていってしまう。

そのため、登場人物たちが「実に面白い!」している様を見せられ、それを何とか理解しようとしている間に物語がどんどんと進行していき、理解が追いつく前に次の設定や専門用語が飛んできて、意味が分からなくなる可能性が容易に想像できる。

加えて、『君愛』『僕愛』のアニメ映画版はカタルシスをSF設定に依存している部分がある。原作から要素を省略し、コンパクトな物語に再構成しようとした結果、ドラマ部分よりもSF設定への言及に重きを置いたというところだろうか。

ナガ
他のボーイミーツガールものと比べてもドラマ性の描き込みはかなり薄いね…。

一般的な青春譚(ラブストーリー)では、出来事や感情といったドラマ要素を積み重ねて、物語のクライマックスに訪れるカタルシスを導いていく。

原作の『君愛』『僕愛』には、SF設定を理解できなくても、こうした一般的な青春譚(ラブストーリー)として十分に楽しめるバランス感覚があったはずだ。

しかし、アニメ映画版では、物語をコンパクトにした影響で難解なSF設定の理解に対する重要度が高くなっている。SF設定とクライマックスに訪れるカタルシスがかなり強く絡み合っているのだ。

特に映画版の『君愛』は、2作品のうちの設定の開示等の役割を背負わされたからか、主人公が研究していることは何なのか、それに伴いどんなことが起きるのかといった部分を比較的的確に理解しておかないと、終盤の主人公の選択の重みが理解しづらく、感情移入もしづらい作りになっている。

それにも関わらず、「パルスのファルシのルシがパージでコクーン」的な解説が視覚的な面白味もなく、淡々と言語情報主体で流れていくので、いくら何でも厳しい。

物語のクライマックスに本来であれば溢れてくるはずの感情が、設定への理解不足が原因で損なわれてしまうというのは、原作の持つバランス感覚に反するものではないだろうか。

SF色を弱めれば、もう少し情報量が抑えられ、映像映えする作品にはなったと思うが、それだと乙野四方字さんの原作の良さや作品のコンセプトが死んでしまう。

だからこそ、原作の再構成にあたって犠牲になったのがドラマ部分(出来事や感情など)なのだとは思うが、『Hello World』のような映像表現の豊かさと本格SFの世界観の両立が比較的上手くいっている前例もあるので、もう少し何とかならなかったのか?とも思ってしまう。

 

映像メディアとしての「上積み」を提供できなかった?

©2022 「僕愛」「君愛」製作委員会

もう1つ挙げていた「視覚的な『上積み』を提供できなかったこと」について言及しよう。

2022年9月に『夏へのトンネル、さよならの出口』という八目迷さんの小説のアニメ映画版が公開された。

こちらも原作、アニメ映画版ともに鑑賞させていただいたのだが、とにかく映像作品としての視覚的な「上積み」が大きかった作品だと個人的には考えている。

季節感を活かした描写、色彩感覚、アングルや構図の巧さなどが光り、原作から物語的には多くが省略されたにも関わらず、原作とは違った豊かさに溢れていた。

こうした事例と比較すると、どうしても『君愛』と『僕愛』では、映像だからこその見せ場、映像メディアだからできた表現がほとんど見られなかったように思う。

泡の説明をするシーンでは泡の視覚イメージが提示される。ギネスビールの説明をするシーンではグラスに注がれたギネスビールの視覚イメージが提示される。あっ、ギネスビールって黒ビールなんだ…。

それくらいのレベルでしか、視覚イメージがあることの「上積み」を感じられず、そのプラス分がSF設定の言葉による羅列の印象で悠々とマイナスになっているように感じられた。

また、映像化することによる大きなアドバンテージの1つとして、声優によるボイスアクトとそれにシンクロしたアニメーションが提示されることで、感情移入しやすくなるという点も挙げられる。

しかし、今作はボイスアクトとアニメーションが絶妙に噛み合っていない。

レビューサイトやSNS等では声優陣の演技力を指摘する声が散見されるが、その噛み合わなさの責任を声優陣だけに押しつけるのは、個人的に正確ではないかなとも思う。

というのも、『君愛』『僕愛』に関していえば、登場人物の表情や挙動のアニメーションが全体的に固く、声優陣の表現との歩調が揃っていないような印象を受けるからだ。

今作の声優陣の演技も「朗読劇」として、その音声だけを聞いたとしたら、ここまで違和感を抱くことはなかったかもしれない。ただ、映像が重なることで「そう言っているようには聞こえない」という感覚が生じてしまう。

アニメーションを見ていると、淡々と喋っているように見えるのに、声は妙に感情的だったり、逆に声は淡々としているのに、表情はあんまり動いていなかったり。

映画を見ただけでは、どちらが悪いということはできないが、一つ言えるのは両者の歩調が揃っていないということなのだろう。

こうした本来であれば、映像化のアドバンテージになるようなところが、チグハグになっており、「上積み」になり得なかったのも大きい。

また、小説であれば、同じ描写を描いていたとしても、言葉ひとつ、表現ひとつで読み手に想像させる光景をガラリと変えることができる。イメージが空白になっており、その空白を読み手が思うがままに埋められる小説だからこそ、同じ展開や物語の反芻はイメージの乏しさや退屈さに直結しないのだ。

しかし、これがアニメないし映画という視覚メディアになると、視覚情報という観客の想像の幅をある程度埋めてしまう強いイメージが提示される。

それは良いのだが、本作はその視覚情報を2つの作品の大部分で使い回しているのだ。

小説では想像力による余白の埋め方次第で「1粒で2度おいしい」的な楽しみ方ができていたが、全く同じ視覚的イメージの使いまわしになると、途端に「既視感」に苛まれる。

使い回しになったのは予算の都合だとは思われるが、構図や演出でもう少し違った提示の仕方ができていれば、2作品目を見るときの徒労感は軽減されただろうと思われる。

しかも、両方の作品を1つの作品としてある程度完結させようとしたのか、『君愛』には『僕愛』のダイジェスト、『僕愛』には『君愛』のダイジェストがたっぷり尺を取って流れるのだが、これがホントに酷い。

ただでさえ拭いきれない「既視感」を作品自ら加速させていると言っても過言ではないだろう。

長々と述べてきたが、まとめると物語も題材もコンセプトも面白いが、それを映像化する(アニメ化する)意義が感じられなかったという点に集約されるだろうか。

ナガ
あとは自転車の作画が近年まれにみる酷さだった…。

(おそらく2つの車輪がチェーンで絡み合って前に進むという自転車の構造そのものが本作の主題や物語を象徴しているように思える。それだけに大切に描いてほしかったが…。)

©2022 「僕愛」「君愛」製作委員会



「因」と「果」のどちらを先に見るのか?という面白さ

©2022 「僕愛」「君愛」製作委員会

『君愛』『僕愛』について「見る順番で結末が変わる」という宣伝文句がたびたび繰り返されているが、これは半分正解で、半分は誤りである。というより「結末が変わる」は言い過ぎである。

『君愛』と『僕愛』の関係性は端的に言うと、因果関係の蹴る「因」と「果」に近い。(これも正確ではないが)

『君愛』の物語が「因」に当たる内容を描いており、それを受けて『僕愛』が「果」に当たる内容を描いていると考えるとイメージがしやすいと思う。

記事の冒頭で、私が『君愛』『僕愛』の順番で見ることをおすすめしたのは、これが理由である。

人間の思考回路として、原因があって結果があるというのが自然な論理であり、その流れに沿って物語をインプットしていくのが最も分かりやすいのは自明だ。

とりわけ今作は「因」の部分に本格的なSF設定を持ち込んでいるため、それらがすべて下敷きとなって現れている「果」の方を先に見てしまうと、理解が追いつかなくても何ら不思議ではない。

とは言え、どちらから見ても面白いのが本作であり、もちろん『僕愛』『君愛』の順番で見ても楽しめるのは事実である。

「果」→「因」の順番で物語や出来事を辿るというベクトルは、ミステリや探偵小説のそれに近い。

そのため、謎解きや考察が好きな方、その上で本格的なSF設定の連続、専門用語の羅列にもある程度耐性のある方は『僕愛』『君愛』の順番もアリだろう。

ナガ
また、本作が面白いのは、この順番というギミックで作品の主題を表現している点だ。

本作では、離婚する両親の父親と母親のどちらについていくか、あるいはみそ汁の具を何にするかといったさまざまな選択により分岐した世界線が生じる様を描いている。

そう考えると、『君愛』から見るか、あるいは『僕愛』から見るかというのもまた人生における1つの選択であり、分岐点である。

『君愛』から読んでしまった人は、『僕愛』から読んだ場合の本作のイメージを正確に掴むことはできないし、逆に『僕愛』から読んだ人は『君愛』から読んだ場合のイメージを掴むことは難しい。

物語のフォーマットによって、読者に選択をさせ、それと同時に自分がしなかった選択に基づく世界線を意識させる作りになっているのが面白いのだ。

先ほども述べたように『君愛』『僕愛』の関係性は「因」と「果」に近く、それ故にどちらから先に見ても描かれている事実が変わることはない。あくまでも提示される情報の順番だけである。

しかし、「因」を知った人が見る「果」と、「因」を知らない人が見る「果」が本当に同じ見え方をしているのかというとそれは否である。同様に「果」を知った人が見る「因」と、「果」を知らない人が見る「因」もまた見え方が異なる。

それは描かれている事実ではなく、見え方や感触、手触りといったもっと抽象的な、あるいは言語化しにくい何かだ。

映画ファン界隈でも、しばしば「あの作品を、記憶を消してもう1回見たい」という趣旨の発言をしているのを目にする。

もちろん知ってしまった人は二度とそれを知らない状態には戻ることはできない。

だからこそ、『君愛』『僕愛』の映画体験は一度きりなのであり、先にどちらかを見るという選択をした時点で、もう一つの順番を選んだ場合の体験を永遠に手放してしまうことになる。

しかし、逆に言うと、手放した選択があったからこそ、今自分が選んだ方の順番における映画体験が残されたのだと考えることもできるだろう。

映画を見る際に内容だけでなく、映画を見るという行為そのものについてこれほどまでに考えさせる作品は他にないのではないだろうか。

だからこそ、2つの作品を連続で見やすくなっている公開から間もないタイミングで、本作を鑑賞しておく価値はあるのだと思う。



ミクロとマクロの視点で向き合う「可能性」へのアンサー

©2022 「僕愛」「君愛」製作委員会

本作の中で何度か「ミクロ」と「マクロ」という言葉が登場したと思う。

簡単に言うとミクロとはより小さな世界を捉える視点のことであり、対照的にマクロはより大きな世界を捉える視点だ。

今目の前に存在している人について考える、あるいは今自分が存在している世界線のことにフォーカスして考える。これが本作の世界観におけるミクロの視点だろう。

一方で、今目の前に存在している人のさまざまな分岐とその先にいるその人であってその人でない人について考える、あるいは自分の世界を分岐した無数の世界線の束として考える。これが本作におけるマクロの視点だ。

『君愛』と『僕愛』は、タイトルからも分かるように、このミクロとマクロに対応している側面もある。

『君を愛したひとりの僕へ』は、ミクロの視点で、主人公が自分の大切な人を救うために奔走する物語である。主人公は彼女を救うためだけに行動しており、自分や自分の周囲の人あるいは他の世界線を含めた大きな世界観で物事を捉えようとはしていない。

あくまでも、交差点の幽霊と化した大切な人を救うというそれだけの目的を見据えて行動しているのだ。

対照的に『僕が愛したすべての君へ』は、そんな主人公が長い物語を経て、マクロの視点で世界を捉えられるようになる境地へと到達する様を描いている。

目の前にいる大切な人の存在すら不安定な世界の中で、その人の「揺らぎ」を含めたすべての可能性を包み込んで愛するという究極の愛のカタチを提示しているわけだ。

そして、どちらが重要かという話ではなく、どちらも重要であるとして肯定しているのが『君愛』と『僕愛』の物語なのだと思う。

なぜなら、この2つの作品はいずれも「可能性」を愛する物語だからだ。

『君愛』は、主人公があらゆるものを顧みず、たった一人の少女の失われてしまった「可能性」を愛し、取り戻そうとする物語である。

一方で、『僕愛』は主人公が最愛の女性の無数に存在する「可能性」の揺らぎに直面しながらも、そのすべての「可能性」を愛そうとする物語である。

それぞれがミクロの視点、マクロの視点で「可能性」という主題に向き合った物語になっているわけだ。

2つの物語が単に相補性があるというだけでなく、主題の面で対を成し、そのどちらもを肯定して見せるという構造になっているのが、『君愛』『僕愛』の大きな魅力ではないかと思う。

ぜひ今作を鑑賞して「選択」とそして「可能性」について、少し思索を巡らせて見て欲しい。