映画『ひらいて』ネタバレ解説・考察:桜と折り鶴、少年少女を言語化する枠と逸脱する自己

みなさんこんにちは。ナガと申します。

今回はですね映画『ひらいて』についてお話していこうと思います。

ナガ
メインキャスト3人の魅力がとにかく爆発していた映画ですよね!

映画『ひらいて』綿矢りささんの小説を原作として制作された作品で、すごく独特の言語感覚に裏打ちされた作品です。

特に今回は「相反する2つの感情の同居」を演技で表現することが多く求められたのではないかと思います。

例えば、この映画には山田杏奈さん演じる愛と芋生悠さん演じる美雪のライトな性描写があるのですが、このシーンの感情表現は、原作を読んだ自分としては、よくここまで「可視化」できるな…と衝撃を受けました。

原作では愛の心情がこのように綴られています。

歯の浮く台詞を並べ立てながら再び美雪にキスした。なるべく相手が女だと考えないように苦労して唇や舌を動かしていると,突然美雪が反応を返してきて,私もしばらくその感触に夢中になった

(綿矢りさ『ひらいて』より)

その一方で、同じシーンの記述の中にこんなものがあります。

ゆるい吐き気に襲われた。……吐き気がして,空の嗚咽に喉がなり,舌が口から飛び出しそうになる

(綿矢りさ『ひらいて』より)

つまり、愛という少女が女性相手に性行為に及ぶことに対して、嫌悪感を抱きながらも、思わず夢中になってしまう瞬間があるという、まさに「相反するものの同居」が描かれているわけです。

これを山田杏奈さんは、表情やちょっとした仕草、台詞の間で絶妙に表現していて、ナレーションがなくても、原作特有のこの感覚が伝わってきました。

そんなメインキャスト3人の素晴らしい演技に裏打ちされた本作ですが、物語そのものが断片的でかつ明確な答えや結果を描かない作品であるが故に、見る人を混乱させるのではないかとも感じました。

そこで、この記事では『ひらいて』という作品に対する自分なりの考えを綴ってみたいと思います。

本記事は作品のネタバレになるような内容を含む解説・考察記事です。

作品を未鑑賞の方はお気をつけください。

良かったら最後までお付き合いください。




『ひらいて』解説・考察(ネタバレあり)

桜と折り鶴、相反するものの同居

『ひらいて』という作品を象徴するモチーフが1つあるとすれば、それは間違いなく主人公の愛のクラスが文化祭の展示物として製作した折り鶴で花びらを表した桜の木のオブジェでしょう。

(C)綿矢りさ・新潮社/「ひらいて」製作委員会

このオブジェを見ていると、美しいという感情と共に言いも知れぬ違和感が喉元に込み上げてくるのが分かります。

その違和感の正体を私なりに考えてみますと、このオブジェには「相反するものが同居」しているからではないかと思いました。

桜は一春の間に咲いては散っていく儚さの象徴ともいえるモチーフです。

対照的に折り鶴ないし鶴は、千年生きるとも言われることから、長寿を象徴するモチーフです。

このように桜と折り鶴という2つのモチーフは「時間」という軸で比較したときに、対照的な場所に位置づけられることが分かります。

しかし、その居心地の悪さこそが、どうにもかみ合わない揺れこそが、あのオブジェの美しさの根源にあるものではないかと思うのです。

そして、この桜のオブジェは、今作『ひらいて』に登場するキャラクターたちの像を可視化したものと言うこともできるでしょう。

なぜなら、愛、美雪、そしてたとえの3人は、それぞれに自身を閉じ込めるフレームとそこから逸脱する自分の本質との間で揺れ動く人物として描かれているからです。

記事の冒頭にも書きましたが、『ひらいて』では明確な答えであったり、出来事の顛末つまり結果であったりが描かれません。

あくまでも少年少女が「相反するもの」の間で揺れ動くカオスが映し出し、その揺れの途中で私たちの視線が”途切れる”に過ぎないのです。

しかし、その揺れや身の置き所の無さを少年少女たちの「美しさ」として描いたのが『ひらいて』という作品であり、だからこそ答えや結果を描く手前のあわいに物語を着地させたことに意味があるのだと私は思いました。



少年少女を言語化する枠と逸脱する自己

『ひらいて』という作品における愛、美雪、たとえという3人のキャラクターは、どこか記号的な側面を持っています。

例えば、愛は典型的な社会的強者と言えるのではないでしょうか。彼女は自分に魅力があることを自覚しており、その女性性を的確に活用して、たとえという意中の相手の気を引こうと試みていました。

(C)綿矢りさ・新潮社/「ひらいて」製作委員会

そうした行動の数々により、映画を見ている私たちもまた彼女を「典型的なスクールカースト上位」「クラスのアイドルでリーダー格」「女性らしさを用いた処世術を身につけたしたたかな女性」という印象で捉えようとしたのではないでしょうか。

つまり、私たちは今まで現実ないし虚構のレイヤーで目撃してきた数多の少女のステレオタイプに彼女を当てはめることで、愛という人間を理解しようとするのです。

人は他人を「区分け」することで安心感を得ようとする傾向があると以前に『愛がなんだ』などの著者としても知られる角田光代さんがインタビューで答えていたのを思い出しました。

そして、こうした「区分け」は映画の中にも内在化されています。

例えば、劇中で愛のことを好きになった同級生の男子生徒が告白に際して、好きな理由を聞かれたときに「気が強いところ」と述べていました。

それに対して、愛は「それって女子にしか使わない言葉だよね。」と返答します。

ここにも、男性が女性を見る視線が垣間見えますよね。

女性というものは概して気弱で、消極的であるというステレオタイプを前提として、そうした平均値と比べて、あなたは積極的で、自我が強いと彼は言っているわけです。

こうした少年少女に対する「区分け」ないし、彼らをフレームに当てはめて言語化するような描写は作品の中にいくつか散りばめられています。

愛や美雪たちは高校3年生という設定ですが、大学受験に際して成績評価というものが為されてますよね。

これも1つの言語化であり、フレームに押し込めて捉える行為です。

なぜなら、成績が良くて、学校行事にも積極的に参加しているから「よくできた子」、そうではないから「ダメな子」といった枠に生徒たちを当てはめて、定量的に評価をする行為の側面を持っているからなんですね。

『ひらいて』においては、物語の序盤において「よくできた子」のフレームに収まっていた愛という人物が、後半になるにつれて「ダメな子」に転じていく様を描きます。

しかし、「よくできた子」から「ダメな子」という変化は極めて表層的な変化に過ぎず、そうしたフレームの外で彼女の中ではもっと大きくて複雑な変化が起きているのです。

こうした少年少女を抑圧する言語化されたフレームとそこから逸脱したところに存在する自己の間で苦しんでいるのが、愛であり、美雪であり、そしてたとえであると私は思います。

記事の冒頭にあげた、愛と美雪の性描写についてもそうです。

愛はいわゆる「女性を愛する女性」という言語化されたフレームに自分を当てはめて、美雪との性行為に及ぶわけですが、そこに当てはめることのできない自己が顔を覗かせ、そのジレンマが「舌が飛び出しそうになるような吐き気」を生み出しています。

では、愛以外のキャラクターについても見ていきます。

美雪について、私たちが受ける印象の大半は、彼女の書く手紙によるものではないでしょうか。

(C)綿矢りさ・新潮社/「ひらいて」製作委員会

そこに綴られている内容は、いわゆる甘ったるい「ラブレター」ではありません。

田中弥生氏が『文學界』2012年10月号に掲載された「日本語がひらく-綿矢りさ「ひらいて」を読む」の中で美雪の綴る手紙を次のように評しています。

同級生の恋人が書いたものとしてはあまりに慈愛に満ちていて,生き別れの母が遠く離れた息子に出した手紙

(「日本語がひらく-綿矢りさ「ひらいて」を読む」より引用)

この表現を読んで、原作を読んだり、映画を見たりしていた時に、彼女の手紙に感じた違和感が腑に落ちたような気がしています。

平安時代には男女が手紙とそこに綴られた和歌によって交流を深めていたと言われますが、そうした日本的な古めかしさを帯びた女性として美雪というキャラクターは描かれていました。

また、彼女が自分を男性であるたとえに委ねるような言動がいくつか劇中で描かれたことで、そうした人物像が補強されています。

自分は性行為に興味があるのに、たとえに気を遣ってそれを慎んでいること。たとえが東京に行くときに自分の大学進学を諦めてでもついていき、さらにたとえが他の女性を好きになってもそれを受け入れるという献身性。

こうしたステレオタイプ的な女性像の中に、美雪もまた当てはめられているわけですが、やはり彼女の自己もまたそこから逸脱する部分を持っています。

その最たるものが愛に求められた性行為に応じ、それどころかむしろ自分から求めてしまう内に秘めた欲求なのです。

こうしたジレンマは、同様にたとえも抱えていて、彼は「優秀な生徒であること」「東京の大学に行って成功すること」という記号的な「良い子」になることにこだわりを見せていました。

その根底にあるのは、父親から認められたい、ないし父親の元を離れたいという欲求です。

このように『ひらいて』のメインキャラクター3人は、それぞれの事情から言語化された枠組みの中の自己とそこから逸脱した自己の間を、意識的にあるいは無意識的に行き来し、そのジレンマに悩んでいます。

そんなカオスの中で、物語の後半にかけては、彼らの自己が「ひらいて」いく様を見て取ることができるのです。



少年少女が「ひらいて」いく自己

物語の後半になると、3人の少年少女をフレームに押し込めようとする外圧的な力とそこから飛び出そうとする彼らの内側からの力の衝突が緩やかに描かれます。

例えば、そのひとつが愛の大学進学を巡る問題です。

彼女はいわゆる「よくできた子」であり、推薦による大学合格は間違いないと担任教師から太鼓判を押されていたような生徒でした。

しかし、そうした「よくできた子」を演じていた本当の自己をたとえに見透かされたことによって、そのフレームから逸脱してしまいます。

代わりに彼女は「ダメな子」のフレームに当てはめて学校の生徒や教師から語られるようになり、彼女に近しい先生たちは何とかして彼女を「よくできた子」のフレームに引き戻そうと試みていました。

ただ、そうした表面的なフレームは、もはや彼女にとっては意味為さないものになっており、彼女はそこに当てはめられることから逃げ出します。

一方で、物語の公判には美雪とたとえの物語にも大きな進展がありました。

彼女の父が慶応義塾大学に合格し、東京に行こうとするたとえを、今の場所に押しとどめようとしたのです。

彼は「逃がさないからな。」とあからさまに彼を抑圧するような発言をし、さらには2人の少女に連れ添われるたとえに対して男性性のステレオタイプに基づく暴言を吐き捨てます。

こうして「よくできた子」というフレームに自分を当てはめさえすれば、この場所から抜け出すことができるという漠然としたたとえや美雪の思惑は崩れ、どこにも逃げられないような絶望感が彼らを包み込みました。

そんな絶望感と閉塞感に満ちた物語に風穴を開け、フレームの外への道を「ひらいた」のは、他でもない愛でしたね。

(C)綿矢りさ・新潮社/「ひらいて」製作委員会

彼女は、たとえを自分のもとに縛りつけようとする父親を殴り、2人を連れて自宅から飛び出します。

男性性ないし女性性を縛りつけ、定義づけ、抑圧するステレオタイプ。自分の人間性をこの世界に数多く存在するサンプルに当てはめて言語化しようとする「区分け」。

そうした見えないフレームの中に閉じ込められていた彼らが、愛という少女の一撃で確かに本当の自己を「ひらき」始めます。

 

この物語の着地点について

最後に『ひらいて』の物語の着地の仕方について自分なりに考えてみました。

映画でも原作でもそうなのですが、この物語の中でたとえと父親がその後どうなったのかやたとえと美雪の関係性がどう変化していくのかについての明確な「結果」は描かれません。

同時に、大学進学を逃した主人公の愛がどのような道を辿っていくのかについても、ぼかされたまま物語は収束していきます。

しかし、今作のラストシーンが「卒業式」であることを考えると、私はこの「ひらかれた」幕切れが本作にとって適切だったのだと思いました。

劇中で美雪が大学進学をすると、また「学生」という身分を数年間生きることになるという話をしていましたよね。

確かに高校を卒業すると、成績評価に基づく「よくできた子」「ダメな子」という軸からいったん解放され、同時に「女子高生」というフレームから解き放たれることとなります。

ただ、その先にあるのは、また新しいフレームに直面し、そこに巻き取られ、閉じ込められそうになる自己とそこに当てはまらない自己との葛藤なのだと思いました。

つまり、彼らの物語の先にあるのは、どこまでもそうした「相反するもののあわいにおけるジレンマ」なのであり、そこから絶えず「ひらいて」、自己を見出していくプロセスの連続なのです。

ラストシーンで愛は、美雪という書き手によって手紙の中で、その人物像や人となり、行動や感情を言語化されます。

そんな言葉に対して、愛はどんなフレームにも当てはまらない本当の自己を「ひらいて」応えました。

このラストは、思えば作品を総括するメタな演出でもあるのだと思います。

書かれる(言語化される)ということは、小説にキャラクターとして綴られることであり、フレームに閉じ込められるとは映画の画に収められることでもあるのです。

だからこそ、彼らのその後をそうした言葉やフレームから解放することこそが、本作の表現した真に「ひらく」ということなのではないでしょうか。

多くを語らない本作の着地点には、人によってはモヤモヤを抱いたかもしれません。

しかし、私たちがそれを読み、見ることができないからこそ、愛や美雪やたとえはどこまでも「自由」なのです。



おわりに

いかがだったでしょうか。

今回は映画『ひらいて』についての自分なりの考えを書かせていただきました。

ナガ
記事の冒頭にも書きましたが、原作のあの言語感覚をここまで映像で見せられるのか!という感慨深さがありました!

本作の監督を務めた首藤凜監督は『21世紀の女の子』中の短編や自身が脚本を務めた『欲しがり奈々ちゃんひとくち、ちょうだい』などを通じて、女性性の物語を描いてきたクリエイターです。

今作も言わば綿矢りささんの原作に裏打ちされた「少女」の物語の側面を強く帯びていたわけですが、そんな2人のクリエイターの化学反応を垣間見たような気がしますね。

また、改めてメインキャスト3人の素晴らしい演技には拍手を送りたいですし、特に別格の存在感だった山田杏奈さんがこれからどんな活躍をしていくのか、とても楽しみです。

今回も読んでくださった方、ありがとうございました。

 

関連記事